きみが死ぬ夢を見たから

 ――雨が降っていた。
 叩きつけるような豪雨と風に、視界が滲む。息を吸うたび、喉の奥に湿った空気が流れ込み、うまく呼吸ができない。
 川は茶色く濁り、流木や瓦礫を呑み込みながら荒れ狂っていた。うねる濁流の音が、胸の内側まで震わせる。
 橋の上を、志貴が歩いていく。そのすぐ隣を、もうひとりの『影』が並んでいた。

「志貴! 待て!」

 叫んだはずの声は、雨に引き裂かれ、ほとんど形にならない。
 必死に足を踏み出そうとした瞬間、身体が言うことをきかなくなった。足が地面に縫い留められたみたいに重い。
 焦りで胸が締めつけられ、指先が痺れる。

 ――頼む、止まれ。戻ってこい。

 喉の奥で言葉が絡まり、音にならない。
 橋の中央で、ゆっくりと志貴が振り返る。
 唇が動く。何かを伝えようとしているのに、雨音がすべてを掻き消してしまう。
 次の瞬間、志貴の指先が手すりに触れた。指が白くなるほど強く縁を掴み、手すりを乗り越える。

 ――やめろ……!

 影に導かれるように、志貴は足を浮かせる。
 一瞬、宙に留まった身体。そして、重力に引きずられるように、ゆっくりと落ちていく。
 濁流が、大口を開けて待っていた。

「志貴――!」

 叫びがようやく喉を破った瞬間、世界が弾けるように暗転した。





 息を呑んで、目を開ける。
 静まり返った部屋に、乱れた心音と荒い呼吸だけが響いていた。
 まだ耳の奥で、雨音が鳴っている――そんな気がする。
 瞬きもできないまま、圭は天井を見上げた。カーテン越しの朝日が、白く滲んでいる。
 ひさしぶりに志貴と話したあの日から、数日。圭は毎晩のように夢を見ていた。
 志貴が橋から身を投げ、あるいは影に引きずり込まれ、川に落ちる夢。
 その先は、いつも見えない。
 それでも――あの濁流に呑まれた瞬間、志貴は死んだのだと、毎回確信してしまう。
 ゆっくりと身体を起こす。背中までじっとりと汗ばんでいた。
 震える指先を握り込み、唇をわずかに動かす。

「……なんなんだよ」

 吐き出した息は、ひどく冷たかった。



 制服に着替えて階段を下りると、味噌汁の匂いがふわりと漂ってきた。

「圭? 起きたのかい」

 台所に立つ祖母が振り返る。小柄な背中に、少しだけ丸まった肩。湯気の向こうで目を細めた。

「おはよ。最近、ばあちゃんに起こされなくても、自分で起きれてるだろ」

 できるだけいつもの調子で言うと、祖母はじっと圭の顔を見た。

「あんた、顔色悪いよ。ちゃんと寝られたのかい?」

 一瞬、言葉に詰まりかけて、圭は肩をすくめる。

「テスト終わったし、ちょっと夜更かししてゲームしてたんだ。フィールド探索始めたら、止まんなくなっちゃって」

 軽く笑ってみせる。
 祖母は納得したような、していないような顔で「無理するんじゃないよ」とだけ言った。
 ダイニングの椅子に腰を下ろす。
 壁の一角だけ、わずかに色が違う。柱にも、目を凝らせば分かるほどの薄い線が残っている。
 ――あの日、水がここまで来たという印。いくら拭いても、完全には消えなかった。
 朝の光は穏やかで、台所からは湯気が立ちのぼっている。
 それでも胸の奥では、まだ濁った何かが静かに渦を巻いている気がした。

「いただきまーす」

 圭は箸を取り、何でもない顔で味噌汁をすする。

「そういえば、テストはどうだったんだい?」

 昨夜の残りもののおかずを手に、テーブルの向かいに腰を下ろしながら、祖母が尋ねる。

「まあまあ。赤点は地理だけ」
「それは、まあまあとは言わないねえ」

 祖母はくすりと笑い、大皿の煮物を圭の小皿に取り分けてくれた。一晩たって味の染みたそれは、圭の好物だ。

「そういえばね、この間、志貴くんに会ったのよ」

 煮物に伸ばした箸が、ほんのわずかに止まる。

「……へえ?」
「お米を買った帰りでさ。五キロって、あたしにはちょっと重くてね。そしたら後ろから声をかけてくれて、家まで運んでくれたんだよ」

 誇らしげな口ぶりに、圭は小さく息を吐く。

「重いもん買うときは、俺を呼べって言ってんのに」
「テスト期間中だったじゃない。あたしは荷物を持ってもらうより、あんたが満点を取ってくれるほうが嬉しいよ」
「あ……あ〜! ばあちゃんの煮物はやっぱ美味しいなぁ!」
「こら、話を逸らすんじゃないよ」

 わざとらしく怒った顔をつくる祖母に笑い返しながら、胸の奥がじわりと温かくなる。
 やっぱり志貴は優しい。
 ――なのに。

『……俺と関わらないほうがいい』

 あの日の声が、ふいに胸の奥をかすめる。
 箸を持つ指先に、わずかに力がこもった。

「それにしても、相変わらずイケメンだねえ、あの子は。芸能人かと思ったよ」
「……ばあちゃーん。ここにもイケメンの孫がいるけど?」
「またあんたはくだらないこと言って……。ほら、そろそろ出ないと遅刻するんじゃないのかい?」

 祖母に言われて時計を見ると、いつの間にか家を出る時間をとうに過ぎていた。

「やばっ」

 勢いよく立ち上がると、椅子の脚が床をこすって大きな音を立てる。皿を重ねて流しへ運び、鞄をひっつかむようにしてリビングを飛び出した。

「いってきます!」
「いってらっしゃい。走ると危ないよー!」

 祖母の声を背に、玄関を開ける。
 外は眩しい日差しに満ちていた。暑さはまだ強くないが、空気がわずかに湿り気を帯びている。通学路の脇には、いつもの軽トラが一台停まっていて、エンジン音を響かせていた。
 吹き抜けた風が、走り出す圭の背中を押す。
 いつもの通学路、白いガードレールのある角を曲がると——見慣れた背中があった。