ふいに、手の中のスマートフォンが震えた。見慣れない番号からの着信だ。
志貴はわずかに眉を寄せた。
さっき見た動画のコメントが脳裏を過ぎる。
そのまま放置することもできた。だが、数秒の振動が続いたあと、志貴は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あ、志貴か? 立石だ』
低く、聞き覚えのある声だった。志貴は知らず詰めていた息をつく。
「どうして俺の番号を……」
『おう。急に悪いな。前に圭から聞いたんだ』
あまり悪びれずに言って、少し声が遠くなる。
『今、伊織も一緒なんだ』
『もしもし、志貴くん』
落ち着いた声音。如月の声だった。
「どうしたんですか」
『いやそれが、最近圭に連絡しても全然返事がなくてな』
立石が言う。
「……圭が?」
以前の圭はほとんど即レスだった。ここ一年はチャットでやり取りすることもなくなっていたが……。
『既読もつかないから、心配になったんだ。大丈夫か、あいつ』
「……学校には来てます。寝不足みたいでしたけど」
『はは、そうか。どうせゲームでもしてるんだろ。無事ならいい』
立石は安堵したように笑った。その横から、如月が口を挟む。
『あなたは大丈夫なんですか?』
「……俺?」
意図が分からず、返事が遅れた。
『当たり前だろ。お前も影を見てるんだから』
低い声が、はっきりと告げる。
『それに……親父さんのことも、いろいろ大変だろ』
その言葉に、志貴の指先がわずかに強張った。スマートフォンを握る手に力が入る。
「……二人とも、やっぱり知ってるんですね」
視線を落とすと、テーブルの上に置いたままの新聞が目に入った。
『ええ。……娯楽の少ない町ですからね。嫌な話ですが、噂好きが多いんです』
如月が答えた。声音は変わらず穏やかだったが、どこか慎重さが滲んでいた。
志貴は何も言わない。視線を少しだけ窓の方へ向ける。
『よく言われてるだろ。もっと早く避難指示を出していればって』
立石が続ける。
『でもな、あの夜は、すでに避難情報は出てた。夜明けには、さらに引き上げられてる。判断がなかったわけじゃない』
「…………」
『そのうえで、あの増え方だ。深夜に一斉に動かしてたとして、本当に被害が減ってたかは……誰にも断言できない』
淡々とした口調だった。
言い聞かせるでもなく、断じるでもなく、ただ事実として置かれる。
『実際、私の父は、避難指示が最も高いレベルに引き上げられる前に外へ出て、亡くなりました』
如月が静かに言う。
『私は――私たちは、人災だとは思っていませんよ』
『……もし仮にそうだったとしても、お前の責任じゃない』
志貴は目を伏せる。返す言葉が、すぐには出てこなかった。
『志貴くん』
如月の声が、静かに続く。
『あなたは落ち着いていて、大人びて見えますが、まだ高校生なんです。……子どもが背負うようなことではありませんよ』
柔らかい口調だった。声を明るくして、立石が「そうそう」と同調する。
『高校生なんて、自分のことだけ考えてりゃいいんだよ。理不尽に対して、物分かりよくなる必要なんてない。納得いかなきゃ、普通に腹立てていいんだ』
『そうですよ。私が高校生のときなんて、腹が立つと、どうやったら相手が一番困るかを先に考えてましたから』
『……やめろ。これは真似しなくていいからな』
場違いな軽口が、張り詰めた空気を崩す。志貴は、微かに笑みを浮かべた。
『圭は、噂を知らないのか?』
立石が尋ねる。
「……はい」
『そうか……。あいつ、鈍そうだもんな』
苦笑混じりの声だった。
『あんまり抱え込むなよ。お前が話しにくいなら、俺から圭に話してもいいけど――』
「やめてください」
言葉が、反射のように飛び出す。自分でも驚くほど強い声だった。呼吸が、乱れる。
「……すみません」
声を落とす。
「でも……圭には、知られたくないんです」
すぐに返事は返ってこなかった。二人が言葉を選んでいるような、短い沈黙が挟まる。
『……分かった。無理はするなよ』
やがて、立石が低く答えた。
理由を問うことも、説得しようとすることもない。志貴はそっと肩の力を抜いた。
『何かあれば、いつでも連絡してください』
如月の声が、穏やかに続く。
志貴は息を整え、視線をテーブルへと移した。
「一つ、聞いてもいいですか?」
新聞を指先でなぞる。
「先日、如月さんから聞いた……影を見て、自殺したかもしれない人。その人について、名前や年齢など話せる範囲で構わないので教えてもらえませんか?」
『それは……』
如月の声が、わずかに揺れる。
「ご遺族に連絡を取ったりはしません。……ただ、本当にその人が影を見ていたのなら、なぜ三木さんは生き残って、その人は亡くなったのか――何が二人の結末を分けたのか、知りたいんです」
躊躇を押し切るように。それでも声は平静を保ったまま、志貴は言葉を重ねる。
受話口の向こうで、再び沈黙が落ちる。今度は、先ほどよりも長かった。
『……わかりました。では、社務所へ戻ったら、情報を整理して、また連絡します』
やがて、如月が静かに答えた。
『無理はしないでくださいね』
最後にそう付け加えられ、通話が切れる。耳元からスマートフォンを離すと、部屋の静けさが戻ってくる。
志貴はメッセージアプリを開き、圭とのチャット画面を表示させた。最後の日付は洪水から一ヶ月半後。志貴から『週末、道場に来ないか?』と誘う内容だった。このチャットの返信はない。
洪水のあと、圭は道場に来なくなった。連絡もなく、そのまま。
やがて、理由も聞けないまま、道場を辞めてしまった。
――聞こうと思えば、聞ける。
どうして来なくなったのか。どうして何も言わなかったのか。
志貴はしばらくチャット画面を見つめ、やがてアプリを閉じた。暗くなったディスプレイに、自分の顔がぼんやりと映り込む。
外では、まだ雨が降り続いていた。
志貴はわずかに眉を寄せた。
さっき見た動画のコメントが脳裏を過ぎる。
そのまま放置することもできた。だが、数秒の振動が続いたあと、志貴は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あ、志貴か? 立石だ』
低く、聞き覚えのある声だった。志貴は知らず詰めていた息をつく。
「どうして俺の番号を……」
『おう。急に悪いな。前に圭から聞いたんだ』
あまり悪びれずに言って、少し声が遠くなる。
『今、伊織も一緒なんだ』
『もしもし、志貴くん』
落ち着いた声音。如月の声だった。
「どうしたんですか」
『いやそれが、最近圭に連絡しても全然返事がなくてな』
立石が言う。
「……圭が?」
以前の圭はほとんど即レスだった。ここ一年はチャットでやり取りすることもなくなっていたが……。
『既読もつかないから、心配になったんだ。大丈夫か、あいつ』
「……学校には来てます。寝不足みたいでしたけど」
『はは、そうか。どうせゲームでもしてるんだろ。無事ならいい』
立石は安堵したように笑った。その横から、如月が口を挟む。
『あなたは大丈夫なんですか?』
「……俺?」
意図が分からず、返事が遅れた。
『当たり前だろ。お前も影を見てるんだから』
低い声が、はっきりと告げる。
『それに……親父さんのことも、いろいろ大変だろ』
その言葉に、志貴の指先がわずかに強張った。スマートフォンを握る手に力が入る。
「……二人とも、やっぱり知ってるんですね」
視線を落とすと、テーブルの上に置いたままの新聞が目に入った。
『ええ。……娯楽の少ない町ですからね。嫌な話ですが、噂好きが多いんです』
如月が答えた。声音は変わらず穏やかだったが、どこか慎重さが滲んでいた。
志貴は何も言わない。視線を少しだけ窓の方へ向ける。
『よく言われてるだろ。もっと早く避難指示を出していればって』
立石が続ける。
『でもな、あの夜は、すでに避難情報は出てた。夜明けには、さらに引き上げられてる。判断がなかったわけじゃない』
「…………」
『そのうえで、あの増え方だ。深夜に一斉に動かしてたとして、本当に被害が減ってたかは……誰にも断言できない』
淡々とした口調だった。
言い聞かせるでもなく、断じるでもなく、ただ事実として置かれる。
『実際、私の父は、避難指示が最も高いレベルに引き上げられる前に外へ出て、亡くなりました』
如月が静かに言う。
『私は――私たちは、人災だとは思っていませんよ』
『……もし仮にそうだったとしても、お前の責任じゃない』
志貴は目を伏せる。返す言葉が、すぐには出てこなかった。
『志貴くん』
如月の声が、静かに続く。
『あなたは落ち着いていて、大人びて見えますが、まだ高校生なんです。……子どもが背負うようなことではありませんよ』
柔らかい口調だった。声を明るくして、立石が「そうそう」と同調する。
『高校生なんて、自分のことだけ考えてりゃいいんだよ。理不尽に対して、物分かりよくなる必要なんてない。納得いかなきゃ、普通に腹立てていいんだ』
『そうですよ。私が高校生のときなんて、腹が立つと、どうやったら相手が一番困るかを先に考えてましたから』
『……やめろ。これは真似しなくていいからな』
場違いな軽口が、張り詰めた空気を崩す。志貴は、微かに笑みを浮かべた。
『圭は、噂を知らないのか?』
立石が尋ねる。
「……はい」
『そうか……。あいつ、鈍そうだもんな』
苦笑混じりの声だった。
『あんまり抱え込むなよ。お前が話しにくいなら、俺から圭に話してもいいけど――』
「やめてください」
言葉が、反射のように飛び出す。自分でも驚くほど強い声だった。呼吸が、乱れる。
「……すみません」
声を落とす。
「でも……圭には、知られたくないんです」
すぐに返事は返ってこなかった。二人が言葉を選んでいるような、短い沈黙が挟まる。
『……分かった。無理はするなよ』
やがて、立石が低く答えた。
理由を問うことも、説得しようとすることもない。志貴はそっと肩の力を抜いた。
『何かあれば、いつでも連絡してください』
如月の声が、穏やかに続く。
志貴は息を整え、視線をテーブルへと移した。
「一つ、聞いてもいいですか?」
新聞を指先でなぞる。
「先日、如月さんから聞いた……影を見て、自殺したかもしれない人。その人について、名前や年齢など話せる範囲で構わないので教えてもらえませんか?」
『それは……』
如月の声が、わずかに揺れる。
「ご遺族に連絡を取ったりはしません。……ただ、本当にその人が影を見ていたのなら、なぜ三木さんは生き残って、その人は亡くなったのか――何が二人の結末を分けたのか、知りたいんです」
躊躇を押し切るように。それでも声は平静を保ったまま、志貴は言葉を重ねる。
受話口の向こうで、再び沈黙が落ちる。今度は、先ほどよりも長かった。
『……わかりました。では、社務所へ戻ったら、情報を整理して、また連絡します』
やがて、如月が静かに答えた。
『無理はしないでくださいね』
最後にそう付け加えられ、通話が切れる。耳元からスマートフォンを離すと、部屋の静けさが戻ってくる。
志貴はメッセージアプリを開き、圭とのチャット画面を表示させた。最後の日付は洪水から一ヶ月半後。志貴から『週末、道場に来ないか?』と誘う内容だった。このチャットの返信はない。
洪水のあと、圭は道場に来なくなった。連絡もなく、そのまま。
やがて、理由も聞けないまま、道場を辞めてしまった。
――聞こうと思えば、聞ける。
どうして来なくなったのか。どうして何も言わなかったのか。
志貴はしばらくチャット画面を見つめ、やがてアプリを閉じた。暗くなったディスプレイに、自分の顔がぼんやりと映り込む。
外では、まだ雨が降り続いていた。
