きみが死ぬ夢を見たから

 昼休みの教室は、落ち着かない空気に満ちていた。低い机を寄せて話す声や、椅子を引く音があちこちで重なっている。
 志貴は教室の隅で、本を読んでいた。

「志貴くんのおうちって、おかあさんいないんだって」

 すぐ近くで、声がした。
 ページを捲ろうとした手が止まる。

「そうなの? なんで?」
「ビョウキで死んじゃったんだって」
「へーそうなんだ」

 短い沈黙が流れる。

「なんか、かわいそうだね」







 放課後の廊下には、まだざわめきの名残が残っていた。窓の外は白く煙り、細かな雨が降り続いている。ここ数日、まともに晴れた日はない。
 曲がり角を抜けたところで、不意に声が飛んでくる。

「お、志貴!」

 顔を上げる。隣のクラスの教室から圭が出てきた。

「ちょうどよかった。あのさ」

 いつもより少しだけ大きな声で、笑っている。
 志貴は足を止め、目を伏せた。周囲の空気が、わずかに張りつく。通りかかった生徒が、ちらりとこちらを見る。教室の前にいた数人も、会話を止めて視線を寄越していた。
 ほんの一瞬。だが、確かに静かになる。
 圭は気づいていない。

「影のことなんだけど――」
「場所を変える」

 短く言って、志貴は踵を返した。

「は?」
「ここで話すな」

 圭は一拍遅れて後を追う。

「なんだよ急に。思春期か〜?」

 背後で、軽い笑い声が上がる。志貴は答えなかった。
 廊下を抜け、階段を上がる。人気の少ない階へ出て、図書室に入った。
 冷房の効いた空気が、肌に触れる。室内は静かで、人影もまばらだ。
 窓際の目立たない席に腰を下ろす。圭も向かいにどさっと座った。

「でさ」

 圭が身を乗り出す。

「さっきの続きだけど……影って目あると思う?」

 志貴は一瞬、間を置いた。

「……どういう意味だ」
「いや、あいつさ、俺たちのこと『見て』追ってきてたじゃん」
「視覚で認識しているとは限らない」
「え、じゃあなに。音?」
「足音や振動、あるいは――」
「嗅覚?」
「……」

 圭は顔をしかめる。

「やだなそれ。犬じゃん。影なのに嗅いでくるの無理なんだけど」
「お前の想像は極端すぎる」
「じゃあ、志貴はどうやって追ってきてると思うんだよ」

 拗ねたように圭が口を尖らせる。志貴はわずかに視線を落とした。

「条件だ」
「は?」
「俺たちは、あれに『狙われている』。それは間違いない」

 圭の表情がわずかに強張る。志貴はそれを見ながら、続けた。

「無作為に襲っているわけじゃない。であれば、何らかの条件を満たした相手に反応していると考えるのが自然だ」
「条件って、何なんだよ」
「……それはまだ分からない。だが、狙われる対象には何か共通点があるはずだ」
「共通点か……」

 圭は小さく呟き、視線を落とす。

「それに、現れ方も一定じゃない」

 志貴は、記憶を辿るように少しだけ間を置いた。

「現れてすぐに消えたこともあった。かと思えば、そのまま追ってきたこともある。……同じものでも、出方が違う」
「それも、条件のせいってことか?」
「可能性はある」

 志貴は静かに頷いた。

「今の状況は、『取り憑かれている』と考えるのが一番近いだろうな」
「……なるほどなあ」

 圭は頷いたあと、ぱっと顔を上げた。

「じゃあさ」

 再び身を乗り出し、少し声を潜める。

「なんか特別な力のあるやつが狙われてるって可能性は?」
「は?」
「おい志貴。お前さ――」

 にやっと笑う。

「実は能力者だったりしないか?」
「能力者……?」
「ほら、超・記憶能力とか」
「……ただ記憶力がいいだけだ」
「お前〜、それ他のやつに言うなよ! 嫌味だぞ!」

 志貴は小さく息をついた。

「……今日はやけにテンション高いな」
「え……そうか? いつも通りだろ」

 そう言う圭の顔を見て、志貴はわずかに眉をひそめた。
 目の下に落ちた影は、今日だけのものではない。ここしばらく、ずっと続いている。
 以前聞いたときは、ゲームをしていたからだと軽く流された。だが、それだけとは思えなかった。

「もしかして、まだ見てるのか? ……俺が死ぬ夢」

 圭の指先がピクリと動く。

「寝れてないんだろ」
「やー……違う違う。夢のせいじゃないって」

 笑って手を振る。その仕草は軽いが、どこか噛み合っていない。
 圭は視線を逸らし、窓の外へ目を向けた。

「……ずっと、雨だから」

 軽い調子のまま言う。その言葉が妙に引っかかった。
 圭の顔を見つめる。問い直すこともできたが、何も言わずに立ち上がった。

「今日はもう帰ろう。寝たほうがいい」
「大丈夫だって」
「いいから、言うことを聞け」

 有無を言わせない口調で言うと、鞄を肩に掛ける。圭は肩をすくませて、仕方なさそうに席を立った。






「じゃあ、また明日な」

 別れ道に立った圭が、笑顔で手を振る。軽く手を上げて応えると、志貴はひとりで歩き出した。
 傘に落ちる雨音が、一定のリズムで響く。
 ――視線を感じる。
 だが、志貴は顔を上げない。足も止めない。
 道端で立ち話をしていた老人たちの声が、ふと途切れる。

「……あれだろ」
「町長んとこの」

 ひそめた声が、背中に張りつく。

「でもさ、あの洪水のとき――」
「テレビじゃ言わないけどな」

 雨音に紛れても、はっきり聞こえた。
 志貴はそのまま歩き続ける。聞こえないふりをする。
 ――もう慣れている。
 視線も、声も。それを受け流すことも。
 家の前に立つ。白い塀に、赤いスプレーで文字が書かれていた。
 ――人殺し。
 志貴は立ち止まり、ほんの一瞬、目を向ける。それから何事もなかったように視線を外し、玄関の扉を開けた。
 中は静かだった。靴箱の前に、父の靴はない。
 ここ最近、ずっとそうだ。
 濡れた靴を脱ぎ、居間へ向かう。テーブルの上に新聞が置かれていた。
 ――『豪雨災害から一年』
 大きな見出し。
 泥に覆われた町の写真。崩れた堤防。避難所の様子。
 新聞を裏返し、志貴は鞄からスマートフォンを取り出した。
 指先を滑らせ、画面をタップすると、動画が再生される。

『この洪水、実は人災だったって、知ってましたか』

 AI音声特有の、抑揚のない声。
 画面の中で、派手なテロップが踊った。

『町長の判断ミスで、避難指示が遅れた!?』
『本当は夜のうちに出せたとの証言も』
『謝らない町長! 開き直り会見!?」

 過去のニュース映像が切り貼りされ、断片的に流れていく。
 濁流。泣き叫ぶ声。深く頭を下げる父の姿。

『責任を取った人は、ひとりもいません』

 無機質なナレーションが、静まり返った居間に響く。
 コメント欄は顔も名前もわからない人たちの言葉で溢れていた。

《やっぱりな》
《これ地元でも言われてるよ》
《消される前に保存した》
《人殺しじゃん》

 志貴は画面を見つめる。
 あの日のことは覚えている。前日の夜から異様な雨が続いていたが、予報では明け方には弱まるはずだった。
 ――だが、夜明けにかけて状況は一変した。水位は短時間で危険域に達し、避難情報は最も高い警戒レベルへと引き上げられた。
 けれど、その判断が届くより早く、下流の一部では水が溢れ始めていた。やがて上流と下流の二ヶ所で、ほとんど間を置かずに堤防が決壊。
 町の中央を流れる川は一気に氾濫し、多くの家が浸水した。逃げ遅れ、家ごと流された人もいた。
 ――それが事実だ。