きみが死ぬ夢を見たから

 道場を出ると、辺りは夕焼け色に染まっていた。空気はまだ、昼間の熱を残している。

「あっつ……シャワー浴びて〜」

 首元をぱたぱたと仰ぎながら、門を出る。背後で志貴が鍵を閉める音がした。

「で、どうする? コンビニかラーメン」

 振り返って尋ねる。

「俺はいい」
「え〜、腹減ってないのか?」
「減ってない」

 志貴が答えた瞬間。ぐう、と腹の鳴る音が響いた。音の出どころは自分の腹ではない。

「志貴……」
「俺じゃない」
「いや、さすがにそれは無理あるだろ」

 志貴は何も言わず歩き出す。

「何でだよ〜。一緒にラーメン大食いチャレンジした仲じゃん」
「俺はしてない。お前が食べきれなかったから手伝ってやっただけだ」
「お前なら一人でもチャレンジできるって」
「しない」
「まあまあ、そう言わず」

 笑いながら、圭は志貴の肩に腕を回した。

「暑い。くっつくな」
「食ったら離れる」
「先に離れろ」

 軽口を交わしながら、住宅街の細い道を並んで歩く。街灯はまだついておらず、足元が少し暗い。
 しばらく歩いていると、ふと足の裏の感触が気になった。
 さっきまで踏んでいた畳とは違う、硬いアスファルトの感触。それなのに、踏み込みの位置ばかり意識がいく。
 ――足元、見ろ。
 あの声が、またよみがえる。圭は鞄を持つ手に力を込めた。
 そっと隣の志貴を盗み見る。
 志貴は僅かに目を細めて、夕日を眺めている。光で輪郭がぼやけ、なんだか志貴が消えてしまいそうに見えた。
 志貴が影に連れ去られるあの夢が、いつか現実になるんじゃないか。
 気がつくと、少し前を歩く志貴の腕を掴んでいた。

「……どうした」
「いや、なんでも――」

 ふいに、水音がした。
 圭は言葉を切る。
 数歩先。夕日に照らされた地面の色が、わずかに違う。
 暗い。
 ただの影にしては、不自然に濃い。

「……圭?」

 志貴の声が、少しだけ低くなる。圭は足を止め、目を細める。
 それは、ゆっくりと形を変えていた。
 水がにじむみたいに、アスファルトの上を這っている。
 ――来た。
 喉の奥が、ひやりと冷える。

「……影だ」

 こぼれた声は、思ったより静かだった。
 もう一度、水音がする。濡れた何かが地面を踏むような、粘ついた響き。
 次の瞬間、黒いものがこちらへ伸びてきた。
 二人は一斉に走り出す。

「浸水範囲の外に出る!」

 志貴が短く言う。

「分かってる!」

 圭は頷く余裕もなく、志貴の隣を走った。
 アスファルトを蹴る音が、夕暮れの住宅街に響く。肩にかけていた鞄が跳ね、脇腹に何度もぶつかった。
 背後から、音はしない。それが逆に怖かった。
 足音も、呼吸も、何もない。けれど、振り返らなくても分かる。あれは、確かに追ってきている。
 住宅街の角を曲がると、小さな公園が見えた。
 ブランコのそばで、小学生くらいの子どもたちが何人か遊んでいる。じゃんけんの声と、笑い声が聞こえた。

「え、なにあれ!」

 一人が声を上げる。
 圭は一瞬、そちらを見た。
 子どもが、圭たちの背後を指さしている。隣にいた子も振り向き、目を丸くした。

「黒いやつ!」
「なにあれ、すげー!」

 けれど、立ち止まっている余裕はなかった。

「圭、前!」
「分かってる!」

 公園の前を駆け抜ける。買い物袋を提げた女性が、驚いたように身を引いた。ビニール袋ががさりと音を立てる。

「ちょっと、危ないわよ!」
「すみません!」

 反射的に謝りながら、圭はさらに足を速める。背後で女性が息を呑んだ。

「……今の、何?」

 そんな声が聞こえた。
 もしかして、影は他の人にも見えているのか?
 でも、それならどうして――。

「圭、ぼんやりするな! もうすぐ外だ!」

 志貴の言葉に、はっと我に返る。

「外って、どこまで!?」
「この先の高架下を越えたあたりだ!」
「記憶力どうなってんだよ! ちょっと分けろ!」
「今そんなこと言ってる場合か!」

 信号のない細い交差点に飛び出す。夕方の光が、道路の白線を赤く染めていた。車は来ていない。志貴が先に渡り、圭も続く。
 その瞬間、背後の気配が変わった。
 圭は足を止めかけ、振り返る。
 黒い影は、高架下で止まっていた。見えない壁に阻まれたみたいに、そこでぴたりと動きを止めている。――前と同じだ。
 地面に張りついた黒が、じわじわと揺れた。水たまりの表面が風に震えるように、輪郭だけが不自然に波打っている。

「……止まった」

 圭は息を切らしながら呟いた。
 影はしばらくそこに留まっていたが、やがて形を保てなくなったように崩れていく。
 黒い輪郭が薄くなり、夕方の道路に溶ける。数秒後には、何も残っていなかった。赤く染まったアスファルトだけがそこにある。

「はぁ〜……逃げ切った……」

 圭は膝に手をつき、大きく息を吐いた。
 肺が熱い。喉が乾く。額から流れた汗が、顎の先で落ちた。
 隣で、志貴も息を整えている。

「お前、浸水範囲暗記してるのか?」
「大体は」

 志貴が頷く。恐ろしい男だ。
 圭はもう一度、影が止まった場所を見る。
 たった数メートル向こう。
 ただの道路だ。目に見える境界なんて、どこにもない。
 けれど影は、確かにそこを越えられなかった。

「……ほんとに、外に出たら消えるんだな」
「ああ」

 圭は乱れた呼吸のまま、ふっと笑った。

「影対策、意味なかったな」

 志貴がこちらを見る。

「何の話だ」
「柔道。掴んで投げ飛ばす前に、全力疾走じゃん」

 言いながら、自分でも笑えてきた。

「結局、必要だったの走力だったな。俺たち、陸上部に弟子入りした方がよかったんじゃない?」

 志貴は呆れたように息を吐く。

「まず逃げ切れたことを喜べ」
「喜んでるよ。めちゃくちゃ喜んでる。今ならラーメン大盛り食える」
「それはいつもだろ」
「いつもより喜びの大盛り」
「意味が分からない……」

 くだらないやり取りをしているうちに、呼吸が戻ってきた。

「……なあ」

 圭は深く息を吸い、口を開く。
「さっきの、他の人にも見えてたよな」

 ブランコのそばの子どもたち。
 買い物袋を提げた女性。

「ああ。少なくとも、反応はあった」
「じゃあ、なんで今まで聞き込みしてても、影を見たやつに会えなかったんだ?」

 志貴は目を細める。

「俺たちの前にしか、現れないからじゃないか」
「……え」

 顔を上げる。
 志貴は影が消えた高架下を見ていた。

「見える人間が限られているわけじゃない。けど、現れる相手は決まっている」

 一拍置いて、続ける。

「あれは、偶然そこに現れたわけじゃない。明らかに、俺たちを追っていた」

 圭の背筋に、汗とは違う冷たさが走る。

「……俺たちを?」
「ああ」

 志貴は頷く。

「逃げている途中、すれ違った人は何人もいた。けど、影はそっちには行かなかった」

 言われて、さっきの光景を思い出す。確かに影は、誰にも向かわなかった。
 ただ、こちらを追ってきていた。

「……じゃあ、やっぱり」

 影は志貴に憑いているのか。
 続く言葉は、口に出せなかった。
 遠くで、子どもたちの声がする。何事もなかったみたいに、笑い声が夕暮れの町に戻っていた。
 圭はもう一度、影が消えた場所を見る。
 そこにはもう何もない。
 ただの道路だ。夕方の光が薄れ、アスファルトが暗く見えるだけ。
 それなのに、まだ何かがこちらを見ている気がした。





「おかえり、圭」

 玄関のドアを開けると、やわらかな祖母の声とカレーのスパイスの香りが圭を迎えた。

「……ただいま! 今日、カレー?」
「そうだよ。もうできるから、手洗っておいで」
「はーい」

 祖母に答えて、圭はそのまま廊下を進む。
 居間の隅に置かれた仏壇が視界の端に入ったが、圭はそちらを見ないようにして、洗面所へ向かった。
 手を洗い、ついでに汗をかいた顔も洗う。タオルに額を押しつけて、深く息をついた。

「そうだ、圭」

 エプロンで手を拭きながら、祖母が洗面所に現れる。

「今月末、お母さんのところへ行くけど……来れそうかい?」

 心臓が嫌な音を立てた。
 タオルを顔に当てたまま、身じろぎもできない。答えなければ。そう思うのに、喉の奥が詰まったように声が出ない。
 祖母は圭の背にそっと手を添えた。

「考えといてくれたらいいから。……夕飯にしよう」

 それだけ言って、洗面所を出ていく。
 圭はゆっくりとタオルを離し、窓の外を見た。
 夕焼けは、もうほとんど色を失っていた。