きみが死ぬ夢を見たから

 ところどころ黒ずんだ竹垣の向こうに、低い屋根の家が見える。門の前に立つと、どこか懐かしい匂いがした。土と、乾いた木の匂い。

「……変わってないな」

 思わず漏らすと、志貴が小さく頷く。

「ああ」

 趣のある棟門の扉は、少し力を込めると軋んだ音を立てて開いた。庭はそれほど広くはないが、きれいに手入れされている。端には古い物置と、使い込まれた竹箒が立てかけてあった。その奥に、平屋の建物――道場が見える。

「師範は?」
「家。道場は勝手に使っていいって言われてるから」

 志貴はポケットから鍵を取り出し、玄関の戸を開けた。誰もいない道場は、しんと静まり返っている。
 一年前までは、常に門下生たちの笑い声や試合の声で満ちていた。あの声が、まだ耳の奥に残っている気がする。
 ――本当は、断ろうと思っていた。
 志貴に道場へ誘われたとき、行かないつもりだった。
 ここには、思い出が多すぎるから。

「圭?」
「……なんでもない」

 圭は靴を脱ぎ、中へ足を踏み入れた。締め切られていた空間は熱がこもり、息が詰まりそうだった。

「圭、こっちだ」

 真っ直ぐ柔道場へ向かおうとした圭を、志貴が呼び止める。手を掛けているのは、更衣室の戸だった。

「俺、柔道着ないから、このままでいいよ」
「いいから」

 促されるまま歩み寄る。引き戸を開けると、こもった空気がわずかに動いた。
 並んだロッカーは見慣れた配置のまま、時間だけが止まっている。
 圭は、自分のロッカーの前で足を止めた。手をかけるのに、ほんの一瞬ためらう。
 ――もう、ないはずだ。
 母には、処分していいと伝えていた。自分も、もう戻ることはないと思っていた。
 それでも、指は自然と鍵に触れていた。軽くひねると、キィ、と音を立てて扉が開く。

「……あ」

 中にあったのは、畳んだままの柔道着だった。見覚えのある白。少しだけ黄ばんだ襟。
 置いたときのまま、そこにあった。

「……なんで」
「師範が『また圭がやりたくなるかもしれないから、そのままにしておけ』って」

 志貴が何でもないことのように言った。
 圭は柔道着を見つめたまま、目を離せなかった。喉の奥が、少しだけ詰まる。

「……まあ俺、師範に期待されてたからな」

 笑うように言ったが、声は軽くならなかった。

「嫌なら捨ててもいい」
「いや……」

 圭は首を振り、ロッカーから柔道着を取り出す。
 布の感触が、指先にやけに馴染んだ。

「……いいよ。せっかくだし使わせてもらう」

 そう言って、更衣室の隅へと歩いた。
 着替えながら、体が勝手に動く。帯の結び方も、何も忘れていなかった。
 最後に、ぎゅっと結び目を締めた。
 胸の奥に、かすかな重みが残る。
 着替え終えて外に出ると、志貴はすでに道場の中央に立って準備運動を始めていた。
 圭は一度だけ、畳の上を見渡す。
 道場は閉めたと聞いていたが、床はきちんと拭かれていて、埃の気配はない。壁には古い掛け軸と、色あせた賞状がいくつも並んでいた。
 ――久しぶりだ。
 道場をやめたのは、たった一年前のことなのに、ずいぶん遠く感じた。
 畳の縁に靴下のつま先が触れる。一瞬躊躇してから、そっと足を踏み入れた。畳がわずかに沈む。その感触だけで、身体が勝手に思い出す。
 夕方の稽古。汗の匂い。足音。畳を打つ音。
 ――そして、三人で並んだ帰り道。
 懐かしい、というよりも――思い出してしまう、という方が近かった。




「そろそろ始めるか」
 準備運動を終えた志貴が振り返る。
「『影』対策だっけ」

 頭も切れるし冷静なのに、志貴は変なところで脳筋だ。
 柔道の試合でも、圭には「無理に攻めるな」と相手の傾向を踏まえて戦略を立てさせるのに、自分は力技で倒しがちだ。

「そもそも、影って掴めんの?」
「前に足を掴まれたって言ってただろ。向こうが触れるなら、こっちからも触れるんじゃないか」
「じゃあ次襲われたら、掴んで投げ飛ばす?」

 ぽーんっと志貴に投げ飛ばされる影を想像すると、何だか笑えた。

「……何か変か?」
「いや、なんでもない」

 笑いながら、圭は志貴と距離を取る。
 構えた瞬間、空気が変わった。
 さっきまでの軽さが引いて、静かな緊張だけが残る。畳のきしむ音すら、大きく聞こえた。

「……いくぞ」
「ああ」

 同時に踏み込む。
 掴んだ袖の感触。引く力。押す力。
 ――軽い。
 圭は一瞬そう思った。
 志貴の身体に、無駄な力はない。重心が低く、芯だけが通っている。こちらの動きが、そのまま返ってくる。

「お前、ちゃんとやってるだろ」
「たまにな」
「たまにでこれかよ」

 軽口を叩きながら、圭は足を入れる。だが、ほんのわずかに遅い。
 志貴の体が、するりと外れる。掴んだはずの袖が、気づけば逆に取られていた。

「……っ」

 視界が大きく傾いた。
 ――浮いた。
 瞬間、身体が反応する。身体を捻って畳に手をつく。背中から落ちるのだけは、避けた。

「一本取れたと思ったけど……反応早いな」

 志貴が静かに言った。

「くそ〜、余裕かよ」

 息を吐きながら、圭はそのまま寝転ぶ。天井が見えた。
 木の梁。薄い染み。変わらない景色。
 ぼんやりと見ていると、不意に記憶が重なる。
 ――同じ天井が、少しだけ違って見えた。

「ほら、起きろ」

 低い声が落ちる。視界に手が差し出される。
 圭は、その手を取らずに見つめた。
 日に焼けた大きな手だった。節が太くて、少し荒れている。指先に、薄い傷があった。
 ――違う。
 瞬きをひとつ。
 そこにあるのは志貴の手だった。日焼けとは無縁な綺麗な肌。長く無駄のない形をした指。

「……どうした」
「いや、なんでも」

 その手を掴み、引き上げられる。
 立ち上がると、志貴がわずかに眉をひそめた。

「上の空だな」
「……別に。ちょっと腹減っただけ」
「何かコンビニで買ってくるか?」
「志貴の奢り?」
「調子に乗るな」

 笑いながらも、足の裏の感触が妙に気になった。畳の硬さ。踏み込みの位置。重心。
 ――足元、見ろ。
 声がよみがえる。圭は足を止めた。

「……もう一回」

 自分から言った。志貴が頷く。
 再び組み合う。
 今度は、先に仕掛けた。踏み込む。崩す。引く。
 ――いける。
 そう思った瞬間だった。志貴の体が、半歩だけずれる。
 その動きに、やけに見覚えがあった。
 角度。タイミング。重心の逃がし方。
 ――それ、読まれてるぞ。
 耳元で、声が聞こえた気がした。思わず足が止まる。

「……っ」

 志貴の体が入り、世界がひっくり返る。受け身が少し遅れた。背中に重い衝撃が走る。

「……大丈夫か」

 上から声が降ってくる。

「……へーき」

 息を吐きながら、圭は横を向いた。畳の目がやけにくっきり見える。
 仰向けに転がったまま動かずにいると、ふと影が落ちた。目を遣ると、志貴がそばに腰を下ろしている。

「動きは悪くない」

 志貴が言った。

「ただ、踏み込みが浅い」
「……昔も言われたな、それ」

 思わず口から溢れた。志貴は答えない。ただ一度だけ、小さく頷いた。
 風が窓から入り、畳の表面を撫でていく。薄暗い室内に、夕方の光が細く差し込んでいた。

「……なあ」

 ぽつりと口を開く。

「壮兄にさ、よくここで怒られたよな」

 言ったあとで、後悔した。志貴の動きがわずかに止まる。

「……そうだな」
「警察官なのに、受け身下手とかダサすぎるって言ってたら、めちゃくちゃ投げられてさ」

 圭は笑う。笑いながら、目を閉じた。

「……あいつ、マジで負けず嫌いだったよな」

 声が、少しだけ揺れる。

「……ああ」

 志貴の声も、わずかに低かった。
 そのまま、時間だけが流れる。
 やがて圭は息をついて身体を起こした。

「影対策、全然ダメだな。そろそろ帰るか」

 柔道着の乱れを直して、立ち上がる。

「な、コンビニかラーメン行こう」