結局、ファミレスの食事代は立石がまとめて払ってくれた。
「俺は自分で払うので」
志貴は辞退しようとしたが、立石は伝票をひらりと振って笑った。
「年上がいるときは素直に奢られとけ」
「ご馳走様でーす。社長かっこいー」
「ほら、こいつを見習え。財布すら出してないぞ」
「……圭はもう少し、遠慮を覚えたほうがいい」
ため息をつきながら、志貴は財布のチャックを閉じる。
そのやり取りの横で、如月は涼しい顔のまま、パフェの最後の一口を口に運んでいた。
店を出た瞬間、むっとした空気が肌にまとわりついた。冷房で冷えた体が、一気に現実へ引き戻される。
街灯に照らされた道路の向こうを、まばらに車が流れていた。
「では、私たちはこれで」
如月が軽く会釈する。
「何かあったときは、いつでも連絡してください」
「うん。今日はありがとう」
圭が手を振ると、立石も片手を上げた。
「気をつけて帰れよ」
そうして二人と別れ、圭は志貴と帰路についた。 人気のない道を歩きながら、さっきの話が頭の中で何度もよみがえる。
家の跡地で見たという『おかしなもの』。そして、それが影だったかもしれないという話。
直接話を聞きたくても、その人はもうこの世にいない。
お互いしばらく黙っていたが、先に口を開いたのは圭だった。
「なあ、これからどうする?」
志貴は足を止めて振り返る。街灯の明かりが、その輪郭を淡く照らした。
「そうだな……自殺した人の遺族に話を聞けたら一番だけど、難しいだろうな」
「……うん」
圭も足を止める。
夜風が吹く。けれど、肌に触れる空気はぬるいままだった。
「……圭の家、一階まで水が入ったんだろ」
ふと、薄闇に志貴の声が落ちる。その言葉に、はっと息をのんだ。
「一年前の洪水のとき」
思い出したくもない光景が、言葉に引きずられるようによみがえる。
玄関から流れ込んできた濁った水が、あっという間に床を覆っていった。畳に染み込んだ泥の匂いが、今もまだ鼻の奥に残っている気がする。
「あのとき夏休みだったし、しばらく全然会わなかったよな」
圭は笑うでもなく言った。
「葬式で、一回顔合わせたくらいで」
口に出した瞬間、喉の奥がひりついた。
――葬式。
その一語だけで、景色がかすかに歪む。汗をかいているのに、指先だけが冷たい。こめかみの奥がじくじくと痛み、胸のあたりがむかつく。ひどい船酔いでもしたような気分だ。
目を閉じて、浅く息をつく。
「――圭」
ふいに、志貴の声が落ちてきた。その声音の硬さに、圭はゆっくりと顔を上げる。
――ぺちゃ。
濡れた音がした。
道の先、街灯の影が落ちるアスファルトの上に、黒い染みのようなものがある。
最初は、ただの影だと思った。
だが――ゆっくりと、形が変わる。水が這うように、地面に張りついたまま、こちらへ伸びてきた。
「……あれ」
掠れた声が出る。
「ああ。――影だ」
圭は声も出せず、ただその黒いものを見つめた。
街灯の下なのに、そこだけ不自然に暗い。輪郭が揺れている。濡れた布のようにも、影の塊のようにも見えた。
音もなく、こちらへ近づいてくる。
「……っ」
息が詰まる。
次の瞬間、圭は反射的に手を伸ばしていた。志貴の腕を掴み、そのまま強く引く。
――離したらまずい。
理由なんて分からない。ただ、あれに触れさせてはいけないと、本能的に思った。
あの影は、志貴を連れていく。
そんな考えが、一瞬で頭を埋め尽くす。
圭は志貴の腕を掴んだまま、走り出した。
アスファルトを蹴る音。荒くなる呼吸。背後から追ってくる、這うような気配。
振り返らなくても分かる。あれは、ついてきている。
「圭、こっちだ!」
志貴が踏み出す方向を変える。
その動きに引っ張られるように、体をひねって角を曲がった。息を切らせながら志貴についていく。見慣れた住宅街を抜け、小さな交差点を渡る。
志貴は迷いなく走っていた。まるで、行き先が最初から分かっているみたいに。
「志貴、どこ――」
「もう少しだ!」
言葉を遮るように返ってくる。
さらに数十メートル先。
街路樹の並ぶ広い道へ飛び出したところで、志貴がようやく足を緩めた。
圭もふらつきながら止まる。肺が焼けるように熱い。
「は、っ……は……」
乱れた息のまま、恐る恐る後ろを振り返る。
黒い影は、少し離れた交差点の手前で止まっていた。
まるで見えない線に遮られたみたいに、それ以上進んでこない。
じり、と地面を這うように揺れたあと、影の輪郭が崩れる。
次の瞬間、夜の暗がりに溶けるように消えた。
圭はしばらく動けなかった。
「……消えた」
ようやくそれだけ言うと、志貴も振り返って影の消えたあたりを見た。
「……たぶん」
息を整えながら、志貴が言う。
「ここは、去年の浸水範囲の外だ」
圭は顔を上げた。
「え?」
「図書室で見た地図、覚えてるか」
志貴はまだ少し乱れた呼吸のまま続ける。
「この交差点の手前で、浸水域が切れてた」
圭は呆然とする。
つまり、志貴はそれを思い出して、ここまで自分を引っ張ってきたのだ。
圭はもう一度、影が消えた場所を見る。
交差点の向こう。そこだけが、まだひどく暗く見えた。
「……じゃあ、やっぱり」
喉がひどく乾く。
志貴は静かに頷いた。
「ああ。俺たちの考えは、たぶん間違ってない」
夜風が二人のあいだを抜けていく。
それでも、圭の背中には嫌な汗が残ったままだった。
「俺は自分で払うので」
志貴は辞退しようとしたが、立石は伝票をひらりと振って笑った。
「年上がいるときは素直に奢られとけ」
「ご馳走様でーす。社長かっこいー」
「ほら、こいつを見習え。財布すら出してないぞ」
「……圭はもう少し、遠慮を覚えたほうがいい」
ため息をつきながら、志貴は財布のチャックを閉じる。
そのやり取りの横で、如月は涼しい顔のまま、パフェの最後の一口を口に運んでいた。
店を出た瞬間、むっとした空気が肌にまとわりついた。冷房で冷えた体が、一気に現実へ引き戻される。
街灯に照らされた道路の向こうを、まばらに車が流れていた。
「では、私たちはこれで」
如月が軽く会釈する。
「何かあったときは、いつでも連絡してください」
「うん。今日はありがとう」
圭が手を振ると、立石も片手を上げた。
「気をつけて帰れよ」
そうして二人と別れ、圭は志貴と帰路についた。 人気のない道を歩きながら、さっきの話が頭の中で何度もよみがえる。
家の跡地で見たという『おかしなもの』。そして、それが影だったかもしれないという話。
直接話を聞きたくても、その人はもうこの世にいない。
お互いしばらく黙っていたが、先に口を開いたのは圭だった。
「なあ、これからどうする?」
志貴は足を止めて振り返る。街灯の明かりが、その輪郭を淡く照らした。
「そうだな……自殺した人の遺族に話を聞けたら一番だけど、難しいだろうな」
「……うん」
圭も足を止める。
夜風が吹く。けれど、肌に触れる空気はぬるいままだった。
「……圭の家、一階まで水が入ったんだろ」
ふと、薄闇に志貴の声が落ちる。その言葉に、はっと息をのんだ。
「一年前の洪水のとき」
思い出したくもない光景が、言葉に引きずられるようによみがえる。
玄関から流れ込んできた濁った水が、あっという間に床を覆っていった。畳に染み込んだ泥の匂いが、今もまだ鼻の奥に残っている気がする。
「あのとき夏休みだったし、しばらく全然会わなかったよな」
圭は笑うでもなく言った。
「葬式で、一回顔合わせたくらいで」
口に出した瞬間、喉の奥がひりついた。
――葬式。
その一語だけで、景色がかすかに歪む。汗をかいているのに、指先だけが冷たい。こめかみの奥がじくじくと痛み、胸のあたりがむかつく。ひどい船酔いでもしたような気分だ。
目を閉じて、浅く息をつく。
「――圭」
ふいに、志貴の声が落ちてきた。その声音の硬さに、圭はゆっくりと顔を上げる。
――ぺちゃ。
濡れた音がした。
道の先、街灯の影が落ちるアスファルトの上に、黒い染みのようなものがある。
最初は、ただの影だと思った。
だが――ゆっくりと、形が変わる。水が這うように、地面に張りついたまま、こちらへ伸びてきた。
「……あれ」
掠れた声が出る。
「ああ。――影だ」
圭は声も出せず、ただその黒いものを見つめた。
街灯の下なのに、そこだけ不自然に暗い。輪郭が揺れている。濡れた布のようにも、影の塊のようにも見えた。
音もなく、こちらへ近づいてくる。
「……っ」
息が詰まる。
次の瞬間、圭は反射的に手を伸ばしていた。志貴の腕を掴み、そのまま強く引く。
――離したらまずい。
理由なんて分からない。ただ、あれに触れさせてはいけないと、本能的に思った。
あの影は、志貴を連れていく。
そんな考えが、一瞬で頭を埋め尽くす。
圭は志貴の腕を掴んだまま、走り出した。
アスファルトを蹴る音。荒くなる呼吸。背後から追ってくる、這うような気配。
振り返らなくても分かる。あれは、ついてきている。
「圭、こっちだ!」
志貴が踏み出す方向を変える。
その動きに引っ張られるように、体をひねって角を曲がった。息を切らせながら志貴についていく。見慣れた住宅街を抜け、小さな交差点を渡る。
志貴は迷いなく走っていた。まるで、行き先が最初から分かっているみたいに。
「志貴、どこ――」
「もう少しだ!」
言葉を遮るように返ってくる。
さらに数十メートル先。
街路樹の並ぶ広い道へ飛び出したところで、志貴がようやく足を緩めた。
圭もふらつきながら止まる。肺が焼けるように熱い。
「は、っ……は……」
乱れた息のまま、恐る恐る後ろを振り返る。
黒い影は、少し離れた交差点の手前で止まっていた。
まるで見えない線に遮られたみたいに、それ以上進んでこない。
じり、と地面を這うように揺れたあと、影の輪郭が崩れる。
次の瞬間、夜の暗がりに溶けるように消えた。
圭はしばらく動けなかった。
「……消えた」
ようやくそれだけ言うと、志貴も振り返って影の消えたあたりを見た。
「……たぶん」
息を整えながら、志貴が言う。
「ここは、去年の浸水範囲の外だ」
圭は顔を上げた。
「え?」
「図書室で見た地図、覚えてるか」
志貴はまだ少し乱れた呼吸のまま続ける。
「この交差点の手前で、浸水域が切れてた」
圭は呆然とする。
つまり、志貴はそれを思い出して、ここまで自分を引っ張ってきたのだ。
圭はもう一度、影が消えた場所を見る。
交差点の向こう。そこだけが、まだひどく暗く見えた。
「……じゃあ、やっぱり」
喉がひどく乾く。
志貴は静かに頷いた。
「ああ。俺たちの考えは、たぶん間違ってない」
夜風が二人のあいだを抜けていく。
それでも、圭の背中には嫌な汗が残ったままだった。
