教室でペンケースを鞄にしまいながら、圭は首筋の汗を手の甲で拭った。窓は開いているのに、空気はじっとりと重い。
ぼんやり窓の外を見る。
グラウンドでは野球部が練習をしていた。湿った空気の向こうで、バットの乾いた音がときどき風に乗って聞こえてくる。
影。
あれは、一体何なのだろう。
三木から聞いた場所を、ここ数日かけて回ってみたが、影を見ることも、見たという人に会うこともなかった。
圭は小さく息を吐く。
三木と同じように、ただ影を見なくなっただけなのだろうか。
それならいい。
だが、そうは思えなかった。
今も毎晩見る――志貴が死ぬ夢。
夢には必ず影が現れる。目が覚めても、その光景はいつもはっきり頭に焼き付いていた。
夢を見るたびに、まだ終わっていないのだと思い知らされる。
圭は眉をひそめ、首を振った。
一人で考えたところでどうにもならない。
立ち上がり、鞄を肩にかけて教室を出る。廊下はすっかり静かになっていた。階段を降り、図書室の前まで来ると、圭は扉を開けた。
冷房が効いているのか、ひんやりとした空気が流れてくる。静まり返った室内には、ページをめくる音だけがかすかに響いていた。 まばらに人影があるだけで、ほとんどの席は空いている。
後ろ手に扉を閉め、図書室の奥へ歩いていく。
「……お」
窓際の席に、志貴がいた。椅子に座って本を読んでいる。
圭に気づくと、顔を上げた。
「来たか」
「お待たせー」
志貴の向かいの席にどさっと腰を下ろす。志貴は読んでいた本にしおりを挟んで、ページを閉じた。
「何読んでたんだ?」
表紙を覗き込みながら尋ねる。
「推理小説」
黒地の表紙に、灰色の文字でタイトルが浮かんでいる。暗い森の中にぽつんと古い屋敷が描かれた、不穏な雰囲気の装丁だった。
圭は本を指で軽くつつく。
「へえ。もう犯人わかった?」
「まだ序盤だ」
「じゃあ当てていい?」
「読んでもないのに?」
「だいたいわかるだろ。こういうのって、目立たないやつが犯人なんだよ」
志貴は少しだけ考えるように本の表紙を見た。
「今のところ登場人物は二人しかいない」
「じゃあ主人公じゃない方だな」
「被害者だ」
圭は一瞬黙り、すぐに言い返す。
「……じゃあ事故だ」
「推理を放棄するな」
志貴の鋭い突っ込みに、思わず少し笑う。
本好きの志貴に勧められて、圭もミステリー小説を何度か読んだことがあった。細かい内容はもう曖昧だが、結末だけは妙にはっきり覚えている。
「ミステリーってさ」
椅子の背にもたれ、軽く伸びをする。
「だいたい最後に『全部こいつのせいだった』ってなるじゃん」
「犯人だからな」
「でも現実って、そんな綺麗に原因一個にまとまるか?」
志貴が僅かに首を傾げる。圭は少し考えてから言った。
「んー……例えばさ、この前みたいに階段で転びかけたときだって」
指で机をとんとん叩く。
「雨で階段が濡れてたとか、俺がぼーっとしてたとか、靴底が滑りやすかったとか。いろんなことが重なって、ああなるわけじゃん」
「……まあな」
「でもミステリーだと『犯人が階段を濡らしていたからです』で終わるだろ」
圭は肩をすくめた。
「なんか、現実の方がもっとごちゃごちゃしてる気がする」
志貴は考えるように、少し視線を落とした。ややあって、口を開く。
「バタフライ効果って知ってるか」
「……あー、あれね。プールで泳ぐときの」
「そのバタフライじゃない」
小さく息をつき、志貴は続ける。
「カオス理論でよく挙げられる例えだ。ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起きる、という」
「遠すぎだろ」
「距離の問題じゃない」
志貴は淡々とした口調のまま言った。
「お前が階段で転びかけたときもそうだ。いろんな条件が重なって結果は決まる」
その言葉に、さっき自分で出した例を思い出す。濡れた階段、ぼんやりしていた自分、すり減った靴底。どれか一つでも違っていたら、たぶん転びかけたりはしなかった。
「最初の条件がほんの少し違うだけで、結果が大きく変わることがある。それを説明するための例えだ」
志貴の指先が、机の上に置かれた本の表紙をゆっくりとなぞる。
「ただ、人は一つの原因にまとめたがる。犯人はこいつだった、とか。これが原因だった、とか。……そういう形の方が安心するんだろうな」
「じゃあ『ブラジルの蝶』っていうのも、分かりやすくするための言い方?」
圭が首を傾げると、志貴は小さく頷いた。
「そうだな。本来はもっと複雑な話を、寓話みたいにしてる」
圭は「ふうん」と曖昧に頷いた。なんとなく分かったような気もするし、よく分からない気もする。
「由来としては、自然現象に対して気象学者のローレンツが――」
まずい。何か難しい話が始まりそうだ。
志貴が真面目な顔で説明を続けようとするのを見て、圭は慌てて口を挟む。
「んー、じゃあ今日俺が宿題忘れたのもバタフライ効果ってこと?」
志貴は一瞬だけ圭を見た。
「それはお前がやってないだけだ」
即答だった。思わず苦笑していると、志貴が本を鞄にしまう。
「そろそろ本題に入るか。……影のことを整理しよう」
ぼんやり窓の外を見る。
グラウンドでは野球部が練習をしていた。湿った空気の向こうで、バットの乾いた音がときどき風に乗って聞こえてくる。
影。
あれは、一体何なのだろう。
三木から聞いた場所を、ここ数日かけて回ってみたが、影を見ることも、見たという人に会うこともなかった。
圭は小さく息を吐く。
三木と同じように、ただ影を見なくなっただけなのだろうか。
それならいい。
だが、そうは思えなかった。
今も毎晩見る――志貴が死ぬ夢。
夢には必ず影が現れる。目が覚めても、その光景はいつもはっきり頭に焼き付いていた。
夢を見るたびに、まだ終わっていないのだと思い知らされる。
圭は眉をひそめ、首を振った。
一人で考えたところでどうにもならない。
立ち上がり、鞄を肩にかけて教室を出る。廊下はすっかり静かになっていた。階段を降り、図書室の前まで来ると、圭は扉を開けた。
冷房が効いているのか、ひんやりとした空気が流れてくる。静まり返った室内には、ページをめくる音だけがかすかに響いていた。 まばらに人影があるだけで、ほとんどの席は空いている。
後ろ手に扉を閉め、図書室の奥へ歩いていく。
「……お」
窓際の席に、志貴がいた。椅子に座って本を読んでいる。
圭に気づくと、顔を上げた。
「来たか」
「お待たせー」
志貴の向かいの席にどさっと腰を下ろす。志貴は読んでいた本にしおりを挟んで、ページを閉じた。
「何読んでたんだ?」
表紙を覗き込みながら尋ねる。
「推理小説」
黒地の表紙に、灰色の文字でタイトルが浮かんでいる。暗い森の中にぽつんと古い屋敷が描かれた、不穏な雰囲気の装丁だった。
圭は本を指で軽くつつく。
「へえ。もう犯人わかった?」
「まだ序盤だ」
「じゃあ当てていい?」
「読んでもないのに?」
「だいたいわかるだろ。こういうのって、目立たないやつが犯人なんだよ」
志貴は少しだけ考えるように本の表紙を見た。
「今のところ登場人物は二人しかいない」
「じゃあ主人公じゃない方だな」
「被害者だ」
圭は一瞬黙り、すぐに言い返す。
「……じゃあ事故だ」
「推理を放棄するな」
志貴の鋭い突っ込みに、思わず少し笑う。
本好きの志貴に勧められて、圭もミステリー小説を何度か読んだことがあった。細かい内容はもう曖昧だが、結末だけは妙にはっきり覚えている。
「ミステリーってさ」
椅子の背にもたれ、軽く伸びをする。
「だいたい最後に『全部こいつのせいだった』ってなるじゃん」
「犯人だからな」
「でも現実って、そんな綺麗に原因一個にまとまるか?」
志貴が僅かに首を傾げる。圭は少し考えてから言った。
「んー……例えばさ、この前みたいに階段で転びかけたときだって」
指で机をとんとん叩く。
「雨で階段が濡れてたとか、俺がぼーっとしてたとか、靴底が滑りやすかったとか。いろんなことが重なって、ああなるわけじゃん」
「……まあな」
「でもミステリーだと『犯人が階段を濡らしていたからです』で終わるだろ」
圭は肩をすくめた。
「なんか、現実の方がもっとごちゃごちゃしてる気がする」
志貴は考えるように、少し視線を落とした。ややあって、口を開く。
「バタフライ効果って知ってるか」
「……あー、あれね。プールで泳ぐときの」
「そのバタフライじゃない」
小さく息をつき、志貴は続ける。
「カオス理論でよく挙げられる例えだ。ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起きる、という」
「遠すぎだろ」
「距離の問題じゃない」
志貴は淡々とした口調のまま言った。
「お前が階段で転びかけたときもそうだ。いろんな条件が重なって結果は決まる」
その言葉に、さっき自分で出した例を思い出す。濡れた階段、ぼんやりしていた自分、すり減った靴底。どれか一つでも違っていたら、たぶん転びかけたりはしなかった。
「最初の条件がほんの少し違うだけで、結果が大きく変わることがある。それを説明するための例えだ」
志貴の指先が、机の上に置かれた本の表紙をゆっくりとなぞる。
「ただ、人は一つの原因にまとめたがる。犯人はこいつだった、とか。これが原因だった、とか。……そういう形の方が安心するんだろうな」
「じゃあ『ブラジルの蝶』っていうのも、分かりやすくするための言い方?」
圭が首を傾げると、志貴は小さく頷いた。
「そうだな。本来はもっと複雑な話を、寓話みたいにしてる」
圭は「ふうん」と曖昧に頷いた。なんとなく分かったような気もするし、よく分からない気もする。
「由来としては、自然現象に対して気象学者のローレンツが――」
まずい。何か難しい話が始まりそうだ。
志貴が真面目な顔で説明を続けようとするのを見て、圭は慌てて口を挟む。
「んー、じゃあ今日俺が宿題忘れたのもバタフライ効果ってこと?」
志貴は一瞬だけ圭を見た。
「それはお前がやってないだけだ」
即答だった。思わず苦笑していると、志貴が本を鞄にしまう。
「そろそろ本題に入るか。……影のことを整理しよう」
