おばあさんは手を振りながら去っていった。
そのあと、通りかかった女性や下校中の小学生たちにも声をかけてみたが、返ってきたのは似たような答えばかりだった。
遠ざかっていく黄色い傘の群れを見送り、圭は一人、空き地の前に立つ。
何も起きないし、何の気配も感じない。ただ、降りしきる雨が地面の水溜りを揺らしているだけだった。
圭はしばらく空き地を見つめていたが、やがて歩き出した。水溜りを踏むと、ぴしゃりと水が跳ねる。
学校では二度、影を見た。だが、それ以来、圭は影を見ていない。
あのときは、どちらも志貴がそばにいた。
夢のこともある。あの影は、志貴に憑いているとしか思えない。
なら、圭が一人でいる今、影が現れないのも筋が通る。
――けれど、志貴自身は影を見たことがないと言っていた。もし本当に志貴に憑いているなら、志貴が一人のときにも見えていいはずではないのか。
「あー、頭こんがらがってきた」
圭はがしがしと頭を掻いた。
空き地の奥には、斜面に沿って古いコンクリートの階段が続いている。住宅地と下の道をつなぐ近道らしく、ところどころに苔が浮き、雨で黒く濡れていた。
圭は考え込みながら、一段ずつ下りていく。
志貴には、あの影が見えないのだろうか。
本当はいつも志貴のそばにいて、ただ圭にだけ見えている――そんな可能性もある。
だけど、なぜ自分だけが。
霊感なんてないし、今まであんなものを見たことは一度もない。
『今思うと、きっと私の心が変だったんだと思う』
『あれは、私の後悔が見せた幻だったのかも』
三木の言葉が、ふいに脳裏によみがえった。
もし――あの影が、圭にしか見えていないのだとしたら。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、ふいに足首のあたりに、濡れた冷たいものが掠めた。
「うわっ!」
思わず声が出る。驚いて足を引いた拍子に、靴底が濡れた段で滑った。
体がぐらりと傾く。
――落ちる。
「圭!」
次の瞬間、腕を強く引かれた。
傾いた体が、ぐいと引き戻される。
気づいたときには、圭は階段の途中で尻餅をついていた。背中には、誰かの体の感触がある。
振り返ると、志貴が片手で手摺りを掴み、圭を支える形で座り込んでいた。
志貴は圭の顔を見ると、呆れたような、それでいてどこか安堵したような顔で息を吐く。
「何してるんだ」
「いや、なんか今……」
言いかけて、足元を見る。
階段脇の草むらから、一匹の猫が顔を出していた。小さな黒猫だ。じっとこちらを窺うように見ている。
「あー……」
圭は苦笑した。
さっき足に触れたのは、たぶんあいつだ。驚いて変な声まで出した自分が、急に恥ずかしくなる。
立ち上がると、志貴が落ちていた傘を拾い上げた。
「ありがとう。ごめん、濡れたよな」
「気にするな」
短い返事のあと、ふっと沈黙が落ちた。
圭と目が合うと、志貴は黙って視線を逸らす。少しだけ間を置き、そのまま踵を返そうとした。
「……じゃあ」
「待て待て待て! お前、そもそもなんでここにいるんだ?」
「……たまたまだ」
「そんなわけないだろ!」
圭は思わず声を上げた。
ここは家とは逆方向だし、ただの住宅街だ。
「もしかして、志貴も調べに来てたのか?」
影のこと。志貴は信じていないと思っていたのに。
「……違う」
「じゃあなんでここにいるんだよ」
圭が一段階段を上がって顔を近づけると、志貴の呼吸がわずかに詰まった。
「……近い」
ぐい、と額を手のひらで押し戻される。
圭はそれに抗うように、志貴の手のひらへ額を押しつけながら、じっとりと睨み上げた。
そのとき、足元で「にゃあ」と声がした。
見ると、さっきの黒猫がいつの間にか近くまで来ていた。濡れた石段をとことこと歩いてきて、圭の靴に体をすりつける。
「お、可愛い――」
圭がしゃがみ込もうとした瞬間、猫はするりと身をかわし、そのまま志貴の足元へ移動した。
「え、そっち?」
志貴の靴に体を擦りつけながら、猫がもう一度鳴く。志貴は一瞬戸惑ったように目を瞬かせ、それからそっと手を差し出した。
猫は逃げるどころか、指先に鼻を押しつける。
志貴はわずかに頬を緩め、しゃがみ込んで黒猫の背を撫でた。猫は気持ちよさそうに尻尾を立てる。
「俺の足、引っかけたくせに」
口を尖らせる圭をよそに、黒猫は知らん顔のまま志貴の手に鼻先を擦りつけた。ゴロゴロと小さく喉まで鳴らしている。
「……さっき転んだの、こいつか」
志貴が圭の方へ視線を戻した。
「たぶん」
圭は肩をすくめる。志貴はため息をつき、猫から手を離した。
「ぼんやりしてるからだ。危なっかしい」
「いや、ぼんやりはしてないけど」
「してただろ」
あっさり言い切られて、圭は口をつぐむ。
確かに、考え事はしていた。
「……いや待て! なんで知ってるんだ。見てたのか?」
「…………」
志貴は黙って立ち上がり、圭を見下ろした。
「それより、怪我してないか」
話を逸らされた。けれど、その声色はごまかすようなものではなく、本気で圭を気遣っている響きだった。
「してない。……大げさだな」
足元で黒猫がぐっと体を伸ばし、小さく背を丸めてから軽やかに走り去っていく。
二人はその後ろ姿をしばらく黙って見送った。
やがて、志貴がぽつりと口を開く。
「……一人で調べるつもりだった」
「……は?」
「お前を巻き込みたくなくて」
圭は目を瞬かせた。
「でもお前、影のこと信じてなかっただろ」
志貴はすぐには答えなかった。
雨が階段の手すりを細く伝い、ぽたりと落ちる。
「あの日――三木さんから話を聞いた帰り道、自転車屋の前で見たんだ」
「……何を」
志貴は小さく息を吸い、まっすぐ圭を見た。
「影だ」
「見たのか!? お前も!?」
思わず志貴の肩を掴む。志貴は圭の顔をまっすぐ見返し、静かに頷いた。
「あれは確かに、ただの影じゃなかった」
そのあと、通りかかった女性や下校中の小学生たちにも声をかけてみたが、返ってきたのは似たような答えばかりだった。
遠ざかっていく黄色い傘の群れを見送り、圭は一人、空き地の前に立つ。
何も起きないし、何の気配も感じない。ただ、降りしきる雨が地面の水溜りを揺らしているだけだった。
圭はしばらく空き地を見つめていたが、やがて歩き出した。水溜りを踏むと、ぴしゃりと水が跳ねる。
学校では二度、影を見た。だが、それ以来、圭は影を見ていない。
あのときは、どちらも志貴がそばにいた。
夢のこともある。あの影は、志貴に憑いているとしか思えない。
なら、圭が一人でいる今、影が現れないのも筋が通る。
――けれど、志貴自身は影を見たことがないと言っていた。もし本当に志貴に憑いているなら、志貴が一人のときにも見えていいはずではないのか。
「あー、頭こんがらがってきた」
圭はがしがしと頭を掻いた。
空き地の奥には、斜面に沿って古いコンクリートの階段が続いている。住宅地と下の道をつなぐ近道らしく、ところどころに苔が浮き、雨で黒く濡れていた。
圭は考え込みながら、一段ずつ下りていく。
志貴には、あの影が見えないのだろうか。
本当はいつも志貴のそばにいて、ただ圭にだけ見えている――そんな可能性もある。
だけど、なぜ自分だけが。
霊感なんてないし、今まであんなものを見たことは一度もない。
『今思うと、きっと私の心が変だったんだと思う』
『あれは、私の後悔が見せた幻だったのかも』
三木の言葉が、ふいに脳裏によみがえった。
もし――あの影が、圭にしか見えていないのだとしたら。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、ふいに足首のあたりに、濡れた冷たいものが掠めた。
「うわっ!」
思わず声が出る。驚いて足を引いた拍子に、靴底が濡れた段で滑った。
体がぐらりと傾く。
――落ちる。
「圭!」
次の瞬間、腕を強く引かれた。
傾いた体が、ぐいと引き戻される。
気づいたときには、圭は階段の途中で尻餅をついていた。背中には、誰かの体の感触がある。
振り返ると、志貴が片手で手摺りを掴み、圭を支える形で座り込んでいた。
志貴は圭の顔を見ると、呆れたような、それでいてどこか安堵したような顔で息を吐く。
「何してるんだ」
「いや、なんか今……」
言いかけて、足元を見る。
階段脇の草むらから、一匹の猫が顔を出していた。小さな黒猫だ。じっとこちらを窺うように見ている。
「あー……」
圭は苦笑した。
さっき足に触れたのは、たぶんあいつだ。驚いて変な声まで出した自分が、急に恥ずかしくなる。
立ち上がると、志貴が落ちていた傘を拾い上げた。
「ありがとう。ごめん、濡れたよな」
「気にするな」
短い返事のあと、ふっと沈黙が落ちた。
圭と目が合うと、志貴は黙って視線を逸らす。少しだけ間を置き、そのまま踵を返そうとした。
「……じゃあ」
「待て待て待て! お前、そもそもなんでここにいるんだ?」
「……たまたまだ」
「そんなわけないだろ!」
圭は思わず声を上げた。
ここは家とは逆方向だし、ただの住宅街だ。
「もしかして、志貴も調べに来てたのか?」
影のこと。志貴は信じていないと思っていたのに。
「……違う」
「じゃあなんでここにいるんだよ」
圭が一段階段を上がって顔を近づけると、志貴の呼吸がわずかに詰まった。
「……近い」
ぐい、と額を手のひらで押し戻される。
圭はそれに抗うように、志貴の手のひらへ額を押しつけながら、じっとりと睨み上げた。
そのとき、足元で「にゃあ」と声がした。
見ると、さっきの黒猫がいつの間にか近くまで来ていた。濡れた石段をとことこと歩いてきて、圭の靴に体をすりつける。
「お、可愛い――」
圭がしゃがみ込もうとした瞬間、猫はするりと身をかわし、そのまま志貴の足元へ移動した。
「え、そっち?」
志貴の靴に体を擦りつけながら、猫がもう一度鳴く。志貴は一瞬戸惑ったように目を瞬かせ、それからそっと手を差し出した。
猫は逃げるどころか、指先に鼻を押しつける。
志貴はわずかに頬を緩め、しゃがみ込んで黒猫の背を撫でた。猫は気持ちよさそうに尻尾を立てる。
「俺の足、引っかけたくせに」
口を尖らせる圭をよそに、黒猫は知らん顔のまま志貴の手に鼻先を擦りつけた。ゴロゴロと小さく喉まで鳴らしている。
「……さっき転んだの、こいつか」
志貴が圭の方へ視線を戻した。
「たぶん」
圭は肩をすくめる。志貴はため息をつき、猫から手を離した。
「ぼんやりしてるからだ。危なっかしい」
「いや、ぼんやりはしてないけど」
「してただろ」
あっさり言い切られて、圭は口をつぐむ。
確かに、考え事はしていた。
「……いや待て! なんで知ってるんだ。見てたのか?」
「…………」
志貴は黙って立ち上がり、圭を見下ろした。
「それより、怪我してないか」
話を逸らされた。けれど、その声色はごまかすようなものではなく、本気で圭を気遣っている響きだった。
「してない。……大げさだな」
足元で黒猫がぐっと体を伸ばし、小さく背を丸めてから軽やかに走り去っていく。
二人はその後ろ姿をしばらく黙って見送った。
やがて、志貴がぽつりと口を開く。
「……一人で調べるつもりだった」
「……は?」
「お前を巻き込みたくなくて」
圭は目を瞬かせた。
「でもお前、影のこと信じてなかっただろ」
志貴はすぐには答えなかった。
雨が階段の手すりを細く伝い、ぽたりと落ちる。
「あの日――三木さんから話を聞いた帰り道、自転車屋の前で見たんだ」
「……何を」
志貴は小さく息を吸い、まっすぐ圭を見た。
「影だ」
「見たのか!? お前も!?」
思わず志貴の肩を掴む。志貴は圭の顔をまっすぐ見返し、静かに頷いた。
「あれは確かに、ただの影じゃなかった」
