きみが死ぬ夢を見たから

 玄関を出ると、目の前の非常階段のドアを開け、逃げるように駆け降りた。

「圭」

 後ろから志貴の声が追ってくる。だが、圭は聞こえていないふりをした。足が止まらない。息が上がり、汗がこめかみを伝う。
 一階まで降りると、そのままマンションの外へ飛び出した。

「待て、圭」

 志貴の声が、また背中に飛ぶ。圭は振り向かない。足がわずかに速くなる。視線を落としたまま、ただ足元だけを見て走った。
 信号も、車も、目に入っていなかった。

「圭!」
「――っ!」

 強く腕を掴まれ、後ろへ引かれる。
 次の瞬間、クラクションが鳴り響き、目の前を車が走り抜けていった。風圧が頬を打つ。
 圭はその場に立ち尽くした。

「何してるんだ! 轢かれるところだったぞ!?」
「ご……めん」

 声が少し掠れた。

「怪我はないか?」
「……大丈夫」

 頷き、志貴から離れようとする。けれど、志貴は圭の腕を放さない。
 顔を上げると、志貴と目が合った。何か言いたげな顔で、心配そうに圭を見つめている。

「本当に……大丈夫だから。ごめん」

 圭は、自分の腕を掴む志貴の手を軽く叩いた。ぎこちなく笑ってみせると、志貴の手がようやく緩む。

「……ならいい」

 志貴は小さく息を吐き、圭の腕を放した。
 信号が青に変わる。志貴はそのまま黙って歩き出した。圭も、少し遅れて後を追う。
 志貴は何も聞かない。
 さっきのことも。
 病院のことも。
 圭は視線を落としたまま歩いた。
 胸の奥で、何かが渦を巻いている。落ち着こうとしても、うまく息ができない。
 まるで、あの日の濁流のようだった。
 濁った水が内側から押し寄せてくる。うねりながら広がり、足場を奪い、呑み込んでいく。
 圭は一度、瞼を閉じた。ゆっくり息を吐き、顔を上げる。
 見上げた空は、雲一つない。嫌味なほど青く澄んでいた。
 マンションの前の長い坂を下り、駅へ続く道に出る。やがて駅に着くと、二人は電車に乗った。
 帰りの車内でも、会話はほとんどなかった。
 圭は窓の外を見ていたし、志貴も特に話しかけてこない。
 沈黙は不思議と気まずくなかった。ただ――電車が揺れるたび、肩がわずかに触れ合う。その温もりが、胸の奥で渦巻くものを、かろうじて押しとどめてくれている気がした。


 最寄り駅に着く頃には、すっかり日が傾いていた。夕焼け色に染まった改札を抜けると、生ぬるい風が肌を撫でる。
 駅前の通りをしばらく歩くと、川沿いの道に出た。
 護岸のコンクリートはところどころ色が新しく、金属の柵にもまだ泥の跡が残っている。注意書きの看板も、どこか不自然なほど新しかった。
 圭は視線を外し――ふと足を止めた。
 道路を挟んだ向こう側に、更地がある。雑草がまばらに生えた、ぽっかりと空いた土地だった。

「……ここ」

 思わず口に出る。後ろで志貴の足音も止まった。

「自転車屋があったところだ」

 町で唯一の自転車屋だった。一年前の洪水で流され、今はもう何も残っていない。
 小学生の頃、ここで初めて自分の自転車を買ってもらった。兄と同じ、ギアのついた大きな自転車がいいと駄々をこね、店先でハンドルを握ったまま動かなかったことがある。
 困ったように笑う母の顔と、髪を撫でてくれた兄の大きな手のひらが、昨日のことのように蘇る。
 圭は更地を見つめたまま、しばらく視線を動かせなかった。
 何も残っていないはずの場所なのに、そこにあったものの気配だけが、まだ消えずに残っている気がする。

「…………」

 ふと、隣の気配が動かないことに気づく。
 志貴が、黙ったまま一点を見つめていた。
 その視線は更地ではなく――どこか、足元のあたりに落ちている。

「……志貴?」

 呼びかけると、志貴ははっとしたように顔を上げた。

「どうかしたのか?」
「……いや」

 志貴は短く答え、視線を逸らす。

「なんでもない」

 それ以上は何も言わず、歩き出した。圭も黙ってその背中を追う。砂利を踏む足音だけが、小さく続いた。少し汚れたスニーカーのつま先を、ぼんやりと見つめながら歩く。

「……圭」

 志貴の声に、はっと顔を上げた。
 気づけば、家の近くの曲がり角まで来ていた。

「あ……ごめん。ぼーっとしてた」

 誤魔化すように笑い、後頭部を掻く。

「えーっと……影を見た人の話は聞けたし。次はどうしよっか? 影を見たって場所、一か所ずつ当たっていく?」

 努めて明るい声で尋ねる。

「そのことなんだけど」

 志貴は少し言いづらそうに視線を逸らした。
 胸の奥が、わずかにざわつく。

「……何?」

 圭が問い返すと、志貴は小さく息を吸い、ボディバッグの紐を握りしめた。

「もう、いいんじゃないか?」
「え……」

 いいって、何が。
 圭は戸惑いながら、志貴の横顔を見つめる。

「さっき三木さんも言ってただろ。神主さんに相談したり、時間が経ったら見なくなったって。もしかしたら、圭が見たのも……幻みたいなものなのかもしれない」

 圭は言葉を失った。

「心配してくれたことには感謝してる。でも、俺は大丈夫だから」
「大丈夫じゃない」

 思わず、声が強くなる。
 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
 志貴が少し驚いたように圭を見る。

「志貴は見てないからそう言えるんだ。あれは——」

 言葉を探す。
 あのときの光景が、頭の奥で生々しく蘇る。

「……動いたんだ」

 小さく吐き出す。

「ただの影が、あんなふうに動くわけない」

 志貴は少し黙ってから、静かに口を開いた。

「圭が嘘をつくようなやつじゃないってことは知ってるし、本当は信じたいと思ってる」

 その言葉に、胸がわずかに痛む。
 信じたい、という言い方は、結局まだ信じていないということだ。

「……ごめん。それじゃあ」

 志貴は背を向け、そのまま歩き出した。

「志貴!」

 去っていく背中に向かって、思わず声を上げる。
 けれど、志貴は足を止めなかった。