圭は慌てて居住まいを正して頷いた。
「俺も学校で二回見かけてて。三木さんはどこで見かけたんだ?」
「私は引っ越す前、まだあの町に住んでた頃に何度か見たの。河川敷――自転車屋さんがあった辺り、分かる?」
「ああ……うん」
町で唯一の自転車屋だった。圭と志貴も、あそこで自転車を買った。無料で空気も入れてくれて、タイヤがパンクするたびに店長のおじさんに世話になった場所だ。
――洪水で流されてしまうまでは。
「あの辺りで何度か見たの。……あとは、母の家とその周辺でも」
「具体的に、どこかは覚えてますか?」
志貴が尋ねる。スマホの地図を開いて見せると、三木は少し身を乗り出し、画面を覗き込んだ。
「ええと……この辺り。あと、こっちの道でも一回見たかな」
指先で地図をなぞりながら、いくつか場所を示す。
「一度だけ、腕を引かれたこともあるよ」
思い出したように三木が言った。
「あのときは、本気で死ぬかもって思ったなぁ」
さらっと言ってのけるが、圭は思わず眉をひそめる。
「……影を見るようになったのは、いつからですか?」
志貴が静かに尋ねた。
三木がふっと目をそらす。
視線の先には、さっき目に入ったキッチンカウンターの写真立てがあった。写真には、五十代半ばくらいの、三木に目元がよく似た女性が笑顔で写っている。
「洪水のあと……母がいなくなって、家も町もめちゃくちゃになって」
三木は写真から目を離さないまま言った。
「その頃かな。影を見るようになったの。……声が聞こえたこともあった」
「声?」
圭が思わず聞き返す。
「うん。でも変なの。怖いはずなのに、どこか懐かしくて」
少し困ったように笑い、三木は圭たちへ視線を戻した。
「今思うと、きっと私の心が変だったんだと思う。母に会いたいとか、謝りたいとか、そういう気持ちがぐちゃぐちゃになってて」
テーブルの上で指先を組み直す。
「何ヶ月かして、いつの間にか影を見ることはなくなってた。……あれは、私の後悔が見せた幻だったのかもね」
「お線香、上げていってもいいですか?」
志貴が静かに言った。
「もちろんだよ。ありがとう」
三木は小さく頷いて立ち上がる。圭と志貴もソファから腰を上げ、三人でキッチンカウンターへ向かった。
志貴が線香に火をつけ、香炉にそっと立てる。
ほのかに甘い線香の香りが、ゆっくりと部屋に広がった。
「……謝れなかったんだ」
ひとりごとのように、三木が呟く。
「洪水の少し前に喧嘩して。私が意地張っちゃって、連絡も無視してて」
視線を落としたまま、三木は続けた。
「なんで電話に出なかったんだろうって、ずっと考えてた。ちゃんと話してたら、違ったのかなって」
少し間を置いてから、三木は小さく息をつく。
「……あの頃は、正直、消えちゃいたいなって思う日もあって」
言い終えて、はっとしたようにこちらを見る。
「ごめんね、こんな話。初対面なのに」
「いえ」
慌てて首を横に振る圭を見て、三木は小さく微笑んだ。視線を写真立てへ戻す。
「……迷惑かけたくなくて、平気なふりしてた」
香炉から立ちのぼる煙の細い線が、ゆっくりと天井へ伸びていく。
「でも、一人で抱えてると、だんだん息苦しくなるんだよね」
「…………」
志貴が目を伏せ、唇を引き結ぶ。
圭は何も言わず、立ちのぼる煙を目で追っていた。
「彼……今の夫なんだけど」
三木は少し照れたように笑う。
「そばにいるときは影を見なかったの。だから、できるだけ一緒にいてもらって」
懐かしむように目を細める。写真の中の人物へ向けるような、やわらかい表情だった。
「神主さんにも話を聞いてもらっているうちに、少しずつ気持ちが整理できて。気づいたら、影も見なくなってたの」
三木は肩の力を抜くように笑った。
話がひと段落すると、部屋の中に静かな時間が落ちる。線香の煙だけが、細い筋になって天井へと昇っていった。
「……長々とごめんね」
三木が少し気恥ずかしそうに笑い、指先で髪に触れた。
「いえ。お話ししてくださって、ありがとうございました」
志貴が静かに答え、圭もそれに合わせて小さく頭を下げる。
「そろそろ、お暇します」
「そうだな。お邪魔しました!」
二人が鞄を手に取った、そのとき。
廊下の奥で、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
低い男の声が廊下から聞こえた。
「あ、帰ってきた」
三木が振り返る。
間もなく、男がリビングに顔を出した。ラフなシャツにスラックス姿で、背中にはリュック。仕事帰りらしく、どこか疲れた表情をしている。
「お客さん?」
「うん。この間話した、神主さんの紹介の学生さん」
三木が言うと、男は「ああ」と軽く頷いた。
「どうも。麗奈の夫です」
「突然お邪魔してしまってすみません」
志貴が会釈する。
「いえいえ」
三木の夫はそう言ってから、ふと圭の顔を見た。
その視線が止まる。
「……あれ」
男は少し首をかしげた。
「君、もしかして——前に、病院に来なかった?」
心臓が大きく鳴った。
耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく響く。
「先月だっけ。おばあさんと一緒に、面会で……」
じわりと汗が滲む。
圭は視線を落とし、無意識に拳を握りしめた。
「ああ、俺、看護師なんだ。隣駅の——」
「人違いだと思います」
言葉が、少しだけ早く口から出た。
喉がひりつく。
三木も、その夫も、志貴も、戸惑ったように圭を見た。
「——失礼します」
圭は深く頭を下げ、足早に玄関へ向かう。
「え、あ、うん」
三木が戸惑ったように頷いた。志貴は軽く頭を下げ、圭の後を追う。
「お話、ありがとうございました」
「俺も学校で二回見かけてて。三木さんはどこで見かけたんだ?」
「私は引っ越す前、まだあの町に住んでた頃に何度か見たの。河川敷――自転車屋さんがあった辺り、分かる?」
「ああ……うん」
町で唯一の自転車屋だった。圭と志貴も、あそこで自転車を買った。無料で空気も入れてくれて、タイヤがパンクするたびに店長のおじさんに世話になった場所だ。
――洪水で流されてしまうまでは。
「あの辺りで何度か見たの。……あとは、母の家とその周辺でも」
「具体的に、どこかは覚えてますか?」
志貴が尋ねる。スマホの地図を開いて見せると、三木は少し身を乗り出し、画面を覗き込んだ。
「ええと……この辺り。あと、こっちの道でも一回見たかな」
指先で地図をなぞりながら、いくつか場所を示す。
「一度だけ、腕を引かれたこともあるよ」
思い出したように三木が言った。
「あのときは、本気で死ぬかもって思ったなぁ」
さらっと言ってのけるが、圭は思わず眉をひそめる。
「……影を見るようになったのは、いつからですか?」
志貴が静かに尋ねた。
三木がふっと目をそらす。
視線の先には、さっき目に入ったキッチンカウンターの写真立てがあった。写真には、五十代半ばくらいの、三木に目元がよく似た女性が笑顔で写っている。
「洪水のあと……母がいなくなって、家も町もめちゃくちゃになって」
三木は写真から目を離さないまま言った。
「その頃かな。影を見るようになったの。……声が聞こえたこともあった」
「声?」
圭が思わず聞き返す。
「うん。でも変なの。怖いはずなのに、どこか懐かしくて」
少し困ったように笑い、三木は圭たちへ視線を戻した。
「今思うと、きっと私の心が変だったんだと思う。母に会いたいとか、謝りたいとか、そういう気持ちがぐちゃぐちゃになってて」
テーブルの上で指先を組み直す。
「何ヶ月かして、いつの間にか影を見ることはなくなってた。……あれは、私の後悔が見せた幻だったのかもね」
「お線香、上げていってもいいですか?」
志貴が静かに言った。
「もちろんだよ。ありがとう」
三木は小さく頷いて立ち上がる。圭と志貴もソファから腰を上げ、三人でキッチンカウンターへ向かった。
志貴が線香に火をつけ、香炉にそっと立てる。
ほのかに甘い線香の香りが、ゆっくりと部屋に広がった。
「……謝れなかったんだ」
ひとりごとのように、三木が呟く。
「洪水の少し前に喧嘩して。私が意地張っちゃって、連絡も無視してて」
視線を落としたまま、三木は続けた。
「なんで電話に出なかったんだろうって、ずっと考えてた。ちゃんと話してたら、違ったのかなって」
少し間を置いてから、三木は小さく息をつく。
「……あの頃は、正直、消えちゃいたいなって思う日もあって」
言い終えて、はっとしたようにこちらを見る。
「ごめんね、こんな話。初対面なのに」
「いえ」
慌てて首を横に振る圭を見て、三木は小さく微笑んだ。視線を写真立てへ戻す。
「……迷惑かけたくなくて、平気なふりしてた」
香炉から立ちのぼる煙の細い線が、ゆっくりと天井へ伸びていく。
「でも、一人で抱えてると、だんだん息苦しくなるんだよね」
「…………」
志貴が目を伏せ、唇を引き結ぶ。
圭は何も言わず、立ちのぼる煙を目で追っていた。
「彼……今の夫なんだけど」
三木は少し照れたように笑う。
「そばにいるときは影を見なかったの。だから、できるだけ一緒にいてもらって」
懐かしむように目を細める。写真の中の人物へ向けるような、やわらかい表情だった。
「神主さんにも話を聞いてもらっているうちに、少しずつ気持ちが整理できて。気づいたら、影も見なくなってたの」
三木は肩の力を抜くように笑った。
話がひと段落すると、部屋の中に静かな時間が落ちる。線香の煙だけが、細い筋になって天井へと昇っていった。
「……長々とごめんね」
三木が少し気恥ずかしそうに笑い、指先で髪に触れた。
「いえ。お話ししてくださって、ありがとうございました」
志貴が静かに答え、圭もそれに合わせて小さく頭を下げる。
「そろそろ、お暇します」
「そうだな。お邪魔しました!」
二人が鞄を手に取った、そのとき。
廊下の奥で、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
低い男の声が廊下から聞こえた。
「あ、帰ってきた」
三木が振り返る。
間もなく、男がリビングに顔を出した。ラフなシャツにスラックス姿で、背中にはリュック。仕事帰りらしく、どこか疲れた表情をしている。
「お客さん?」
「うん。この間話した、神主さんの紹介の学生さん」
三木が言うと、男は「ああ」と軽く頷いた。
「どうも。麗奈の夫です」
「突然お邪魔してしまってすみません」
志貴が会釈する。
「いえいえ」
三木の夫はそう言ってから、ふと圭の顔を見た。
その視線が止まる。
「……あれ」
男は少し首をかしげた。
「君、もしかして——前に、病院に来なかった?」
心臓が大きく鳴った。
耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく響く。
「先月だっけ。おばあさんと一緒に、面会で……」
じわりと汗が滲む。
圭は視線を落とし、無意識に拳を握りしめた。
「ああ、俺、看護師なんだ。隣駅の——」
「人違いだと思います」
言葉が、少しだけ早く口から出た。
喉がひりつく。
三木も、その夫も、志貴も、戸惑ったように圭を見た。
「——失礼します」
圭は深く頭を下げ、足早に玄関へ向かう。
「え、あ、うん」
三木が戸惑ったように頷いた。志貴は軽く頭を下げ、圭の後を追う。
「お話、ありがとうございました」
