◇
天気のいい明るい時間帯。
時たま通過する車以外は人気のない寂しい場所に、私は一人で突っ立っていた。県道を挟んだ向かい側に見えている空き家を見つめながら、その視線を森の方に向ける。
……私はこの土地で死んで、あの森に捨てられて、そしてまたこの世に生まれてきた。
目を閉じて耳を澄ませた。鬱蒼と生い茂る森の奥に意識を集中させると、微かに聞こえてくる、泣き声。
「こんにちは」
ハッとして目を開ける。
慌てて振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。芸能界の俳優にいてもおかしくない整った顔が、私に向かって微笑む。
「驚かせてしまってすみません。ずっと突っ立っているので何かあったのかと、つい声をかけてしまいました」
「あ、ごめんなさい……ただ散歩をしていただけなんです」
不審者に見えたのだろうと、私は申し訳なく思うと同時に、目の前の男性に近づきたくないと感じてしまう。
「だったらいいんです。散歩の邪魔をしてすみませんでした。それじゃあ」
にこっと笑った男性はあっさり背中を向けて去っていく。私は男性の後ろ姿をじっと見つめながら、恐怖に近い負の感情を抱いた。
――ということが、昨日あった出来事だ。
スマホのアラームで目を覚ました私は、ベッドの上で上体を起こして伸びをする。そして自室の窓に近づいてカーテンを開けた。明るい光が入ってきてその眩しさに目を細めながら、昨日声をかけてきた男性のことを思い出す。
「あの人、何者なんだろ」
危険な人だと思った。それは犯罪を犯す危険性があるという意味ではなく、明らかにこの人は〝呪われている〟と感じた。それは空き家に関わる呪いとは別の呪いで、とても強力な力を持っているように感じた。
たまたま出会っただけで名前も知らない男性のことを無意味に心配していたその時、隣の家の玄関から一人の男子高校生が出て来るのが見えた。隣の一軒家に住む姫宮湊斗くんとは、彼が小学校低学年の頃からの付き合いだ。
「ミナちゃん」
窓を開け、慣れ親しんだあだ名で呼ぶと、私に気づいたミナちゃんが顔を上げる。真新しい制服に身を包んだ彼は、身長もぐんと伸びて、顔立ちも男の子から少年に変わった。まるで自分の弟の成長を見守る姉のような気持ちで、私は彼の顔を見つめて微笑む。
「おはよう」
「おはよう、あき姉」
ミナちゃんも笑みを返してくれた。私が彼を弟のように思っているのと同じく、彼も私を実の姉のように慕ってくれている。
「学校、いってらっしゃい」
「いってきます」
ミナちゃんはまだ眠たそうな顔をして歩いていく。その背中が見えなくなるまで見送っていると、一階から母親の声がした。
「安希ー、起きてるなら早く下りてきてご飯食べなさーい」
「はーい」
部屋を出て一階に下りながら、今日一日の大学のスケジュールを頭の中で整理する。
この平穏は日常を守るために、私は自身の抱えている問題から目を逸らし続けている。
私は、どうするべきなんだろう……。
◆
五月二十三日、金曜日。
教室に向かう廊下の途中で、仲のいいクラスメイト二人が歩いているのを見つけた俺は、背後から近づいて飛びつくように二人の肩に腕を回した。
「おっす! 今日も一日張り切っていこうぜ!」
「うおっ、びっくりした、耳元で大声出すなよ友咲」
「朝から元気だなぁ。昨日休んでたけどもう平気なのか?」
「おう、バッチリ治った! この通り元気いっぱい!」
「テンションうぜ〜」
ダチ二人といつものノリで笑い合って教室に向かう。
体調が良くなったのは嘘だ。変わらず倦怠感と食欲不振は続いていて、体力はじわじわと奪われていた。
しかし、これ以上周りの人に心配をかけたくない。
今朝も家族の前で明るく振る舞い、無理して朝食を胃に詰め込んだ。そのせいで気持ち悪くなって、学校に行く途中にある公園のトイレで吐き戻してしまった。この数日間で体重は五キロ近く落ちた。このままだと体が先にぶっ壊れてしまう。
早くなんとかしないとという焦りは募る。けどここから先は俺一人で行動するべきだ。
俺の周りで二人も死んでいる。怖い。だからもうこれ以上、この件に優雨を巻き込みたくなかった。
体調は良くなったと言って優雨を安心させよう。
家族も、友達も、嘘に気づいていない。
大丈夫、上手くやれる。
と思っていたのが今朝の俺だ。
今は昼休みの時間で、それも残すところ五分を切っている。俺は人気のない校舎の男子トイレにいて、ついさっきまで便器に向かって思いっきり吐いていた。昼休みに食べた弁当はもう胃の中に残っていない。
「あ゛〜、きっつ……」
弱音を吐きながら洗面台で口を濯ぎ、ついでに冷水を顔に浴びた。ふと視線を上げると、目の前の鏡には酷くやつれた顔が映っている。
「栄養とらねぇとマジでやばいな。サプリなら吸収できっかな……」
学校帰りに薬局で買おうと思いながらトイレから出ると、すぐ横の壁に背中をつけて腕を組んでいる優雨の姿があって、思わず「うわっ!」と叫んでしまった。
「びっくりしたぁ、なんでいるんだよ優雨」
「吐くほど体調が悪化しているのか?」
優雨は仏頂面で言った。
バレてる。ぎくりとした俺は、後頭部を右手で掻きながらぎこちなく笑う。
「いや、体調は良くなってる。けど胃の方がまだ回復してなくてさ、調子こいて食べたのが良くなかったなぁ」
「嘘つけ。そんな急に回復するかよ」
「いやマジだって。もう嘘みたいに治ったんだよ」
険しい顔をした優雨に睨まれた。その視線から逃げるように目をそらす。
「とにかくもう大丈夫だから。迷惑かけまくって本当にごめん。俺のことは気にしなくていいから、優雨は受験勉強に集中して、」
「友咲」
優雨の手が伸びてきて俺の右腕を掴んだ。
後頭部から離された腕を顔の横で固定されたまま、俺はびっくりして優雨を見つめる。優雨は低い声で言った。
「お前、それで俺を騙せると思ってんのか?」
「……あー」
俺は項垂れながら息を吐き、弱った子犬みたいな気持ちで優雨を見る。
「いや、だってさぁ、優雨……」
「諦めろ。俺が中途半端を嫌う男だってことはお前が一番よく知ってんだろ」
俺の腕から手を離した優雨は、なぜか満足気な顔をしていた。
「引き続き、呪いを解くための調査を続行するぞ」
「俺とお前の二人で?」
「俺とお前の二人でだ」
◆
五月二十四日、土曜日。
俺たちは再びバスに乗っていた。今日の目的地は空き家ではなく『喫茶いながみ』という喫茶店だ。そこは心が行きたがっていた店でもある。
昨日の放課後に優雨と話し合って、今日の予定を立てた。
空き家があるあの辺り一帯は、工場以外の建物がない。民家もないせいか出歩いている人もいないため、聞き込みをするのは困難だ。それに前回の件で空き家周辺のパトロールが強化されていることを考えると、警察に顔バレしている俺たちがあの辺をうろつくのは流石にまずい。
どうするか悩んだそのとき、建部社長の『この辺に唯一ある喫茶店』『店主のイナガミさん』という台詞を思い出し、検索すると『喫茶いながみ』がヒットした。口コミから十年前の2015年にオープンしたことと、稲上という男性店主がワンオペで経営をしているという情報を得た。のどかな田舎地域で十年間も続いているということは、足繁く通ってくれる地域住民や常連客が多いはず。そこで聞き込みをすれば複数人から情報を得られると俺たちは考えた。
期待を胸にバスを降りたあとは、パトカーの見回りに警戒しながら喫茶店を目指して歩き出す。
気持ちよく晴れた空の下。
空き家方面に向かう途中から県道を外れて、車一台が通れる幅の脇道に入っていく。更地のような土地の中をしばらく進んでいくと、その途中にまた脇道があり、そこには『喫茶いながみ』までの誘導看板が立っていた。脇道に入って緩やかな斜面をいくと、静かな土地に一軒だけぽつりと建つ建物が見えてくる。
白い外壁と煉瓦の屋根が特徴のレトロな喫茶店だ。お店前の花壇には色とりどりの花が綺麗に咲いている。建物の横には駐車スペースが確保されていて、そこには黒のバンが一台停まっていた。
時刻はちょうど十二時。これからランチタイムで賑わうとは思うけど、なんだか静かすぎる。
俺は正面の窓に近づいて中を覗いてみた。こじんまりとした落ち着ける雰囲気の店内には誰もいない。けど電気はついているし、クラシック音楽が流れているから営業はしているだろう。
「まだ誰もいねぇな」
「なら先に店主から話を訊いてみよう」
優雨は言いながら店の側面にある玄関に近づいていく。俺も後に続いた。優雨が扉を開けるとドアベルが鳴り、すぐ横のカウンター奥から白シャツにエプロン姿の長身男性が出てきた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「二名です」
優雨が答える。男性はインスタの写真にも載っていた眼鏡イケメンの人だ。生で見ると更にイケメン度が増して見える。
「お好きな席へどうぞ」
男性はにっこりと笑みを浮かべた。女性客なら今のでメロメロになると思う。
俺たちはカウンター横に設置されたテーブル席に向かい合って座った。男性が水のグラスを二つテーブルに置いていく。飲み物くらいしか胃が受け付けてくれないため、俺はドリンクメニューから紅茶をストレートで注文した。優雨はホットコーヒーを注文する。甘党だけどコーヒーは嫌いなわけじゃないと昔から言っていたのを思い出す。
「かしこまりました」
男性はカウンターの中に戻るとすぐにドリンクを作り始めた。
どのタイミングで話を切り出そうかと迷った俺は、こそっと優雨に話しかけようとして、その前に男性から「当店は初めてだよね」と砕けた口調で話しかけられた。「高校生?」と訊かれて、優雨が高校名を口にする。その流れで簡単な自己紹介をした。
「僕は水原優雨といいます」
「小瀬川友咲です」
「僕は店主の稲上栄治。もしかして君たちもインスタを見て来てくれたのかな?」
「あ、はい、そうです。ここって十年前にオープンされたんですよね」
「そうだよ。それまでは都内のホテルでシェフをしていたんだ」
ホテル名を訊いたら、俺でも耳にしたことがある有名な高級ホテルだった。
「お待たせいたしました」
出来上がったドリンクが丁寧にテーブルの上に置かれていく。最後に伝票が隅に置かれたタイミングで、優雨が口を開いた。
「実は僕たち、社会科の授業の関係でこの辺りの土地を調べているんですよ」
突然何を言い出すんだ、と俺は不思議に思って優雨を見た。稲上さんはテーブルのそばに立ったままきょとんとしている。
「気になる地域の土地を調べるというテーマなんで、同じ班の彼と一緒に現地調査に来ているんです。でもただ土地を調べるだけでは面白くないので、僕たちはオカルト関連の調査をテーマにしています。この土地にある奇妙な噂、心霊、怪奇現象など、地域住民から話を聞いて情報を集めているんです」
「へえ。面白そうだね」
稲上さんはどこか興味深そうに言った。優雨は困ったように眉尻を下げる。
「けど、この辺りは全く人が出歩いていないので困ってしまって……。そこで、人が集まりやすい喫茶店に行けば、情報を収集しやすくなるんじゃないかと考えたんです」
「なるほど。そういうことなら、僕の方で少し力になれるかもしれないよ」
稲上さんはにっこりと笑って言った。
「最近のオカルトブームに僕もハマっていてね、いろいろ調べたりしている最中なんだ。常連の男性から聞いた話だと、この近く、とは言ってもまぁまぁ離れてるけど。県道沿いに空き家があって、そこに幽霊が出る噂があるんだ。彼はその空き家の前を通った時に、中から赤ん坊の泣き声を聞いたことがあると言っていたよ」
俺と優雨は同時に反応し、俺は思わず身を乗り出した。
「そ、それって、庭木に囲まれた赤い屋根の家のことですよね」
「あ、知っているんだね。あの空き家の近くに生見土建という工事業の会社があるんだけど、社長の息子さんがそこで現場責任者をしているんだ。名前は生見茂さん。彼から二、三年前に聞いた話だよ。でも赤ん坊の泣き声に関する話は、他のお客さんからも聞いたことがあるんだ」
稲上さんは思い出すように視線を上に向ける。
「茂さんは、あの辺り一帯の土地が良くないって言ってたなぁ。工場はまだしも、家を建てるような場所じゃないって。生見土建の社長が茂さんの父親になるんだけど、あの場所に会社を建設する時もいろいろあったみたいだね。そこは詳しく聞いてないから分からないけど」
「あの辺り一帯は、不吉な土地ってことなんでしょうか」
優雨が言った。稲上さんは視線を俺たちに戻す。
「そうかもしれない。赤ん坊の泣き声に関して茂さんは、森が関係しているんじゃないかと言っていたよ」
「森?」
俺は首を傾げて呟いた。
「空き家のすぐ後ろに広がる森のことだよ。地域住民はあの森を〝泣ヶ森〟と呼んでるんだ。漢字は、涙を流して泣くの方だね。あの森が泣くと不吉なことが起こると、昔からの言い伝えがあるんだそうだ」
あの辺り一帯に民家がないのは、そうした悪影響を避けるためなんだろうか。
優雨が眉をひそめて口を開く。
「森から泣き声……ですか。その怪異現象が、赤ん坊の泣き声に似ているということなんですね」
「そっくりなんだよ。聞いた人はみんな口を揃えて、赤ん坊がおぎゃあおぎゃあと泣いている声と同じだって言うんだ」
実際に赤ん坊の泣き声を聞いている俺は、思い出して寒気を感じた。
「稲上さんは、森の泣き声を聞いたことってありますか?」
「僕は一度もないよ」
俺の質問に答えて、ふと思い出したように稲上さんは話す。
「たまに夫婦で来てくれるお客さまの話をするとね、ある夜に夫婦を乗せた車が泣ヶ森の近くを走行していた時に、妻は赤ん坊の泣き声を聞いた。けど夫は何も聞こえなかったと言うんだ。森から泣き声がしても、聞こえる人と聞こえない人に分かれるんだろうね」
霊感がある人とない人の違いなんだろうか。でも霊感なんて俺にはない。
「他にも、泣ヶ森には〝なきゐ様〟という、人ならざるものの存在が宿っているという話を聞いたことがあるよ」
なきゐ様――。また新しい情報だ。
「実際にあったかハッキリしないけど、昔はこの辺りの地域でも口減らしがあって、産まれてすぐの赤ん坊や必要ない子供を殺して、泣ヶ森に埋めていたそうなんだ」
口減らし。
その意味を何となく知っていた俺は、どうにも重苦しい気持ちになる。
「そんな可哀想な子供たちの魂が森に集まり、なきゐ様と呼ばれる人ならざるものの存在をつくりだした。森から聞こえてくる赤ん坊の泣き声は、犠牲になった子供たちの魂が何かを訴えかけているのかもしれないね」
稲上さんはそう言って、どこか薄暗い笑みを浮かべた。

