孕みの濁-ハラミノダク-


    ◆

 リビングに集まって朝食をとっていた家族に、今日は体調が悪いから学校を休みたいと伝えた。
 家族全員が出かけて行ったあと、私服に着替えて必要最低限の荷物だけ持って家を出る。そして小田急の駅構内で待ち合わせをしていた優雨と合流した。
 優雨の両親も共働きで、最近は二人とも朝早くに家を出ていた。優雨はいつも一人で朝食を済ませて学校に向かっているため、両親に学校をサボることがバレる心配はなかったようだ。


 電車からバスに乗車した俺たちは、後方の二人席に並んで座った。平日のバスは空いていて、俺たち以外の乗客はお年寄りが目立つ。

「前回は顔だけが窓の外に浮かんでいたのに、今回は室内にその女がいたと」

「そう。んでもって姿がはっきり見えたんだ。夜中に和服姿の女が真顔でベッド脇に座ってるの想像してみろよ。ビビるよな?」

「まぁビビるな」

 通路側に座っている優雨は神妙な面持ちになった。

「で。その女はまたハラミマシタって言ってきたんだろ」

「おう」

「何が目的なんだろうな」

「幽霊の目的なんてわかんねぇよ。あとさ、のうがわさんって言葉も気になるよな」

「林田さんと心ちゃんも口にしていた言葉か」

「たぶん苗字な。あ、もしかしたら女の幽霊の苗字だったりして」

「次その女が現れた時に名前を訊いてみたらどうだ」

「質問に答えてくれる親切な幽霊だといいけどな」

 残念ながらその可能性は低いと思う。

「十三年前の動画が気になるところだが、ユーチューブにアップされてたった二ヶ月で削除されて、他の動画投稿サイトにアップもされていないとなると、視聴するのは望み薄か」

「俺も一応探したけど駄目だった。SNSで情報提供を呼びかけてみるか? 五千回視聴ならまぁまぁ観てる人いるし、もしかしたら投稿者本人から連絡がくるかもしれないぜ」

「やってみればいいんじゃないか。上手く拡散されるといいが。俺はLINE以外のSNSはやってねぇから力になれねぇぞ」

 確かにたくさんの人にリツイートしてもらわないと意味がない。フォロワー数も少なくてバズった経験が一度もない俺からしてみるとその自信は全く無かった。まだ心の方が得意かもしれないが、この件に関してはもう妹を巻き込みたくない気持ちが強い。
 優雨が窓外に目を向けてぽつりと呟く。

「ついでだ。俺もその空き家を見ておくか」

「マジ? 近寄らない方がいいと思うけどなぁ」

「離れた場所から見るだけなら問題はないだろ」

 市街地を抜けると外の景色は田舎感が増す。高層ビルは姿を消して、広範囲に広がる森林や田畑の中に散在とした民家が建っているだけだ。

「友咲。到着するまで少しでも眠ったらどうだ?」

 目の下のクマが凄いぞ、と優雨に言われる。

「悪りぃ、そうさせてもらう」

 腹を中心に不調を訴える体を背もたれに沈めて目を閉じる。小さい頃から健康的な体が自慢だったのに、徐々に弱っていく体力がなんだか悲しかった。


    ◆

 停留所でバスを降りると、優雨は妹から貰ったチュッパチャプスの中からプリン味を選んで口に咥えた。そして両手をズボンのポケットに入れて俺を見る。

「とりあえず、空き家の方まで案内してくれ。その道中で人に会ったら声をかけてみよう」

「わかった」

 県道を右手に歩道を歩き出してすぐ、俺の後ろから優雨が言った。

「友咲、体調の方はどうなんだ?」

「んあ? あー、まぁ今んとこ平気」

 そうか、と呟いたっきり優雨は何も言わなくなる。その代わりに飴を噛む音が聞こえた。
 お互いに無言で歩いていると、前方に白い建物が見えてきた。広い敷地を有した工場だ。思い出して「あ」と声を上げると、後ろから優雨が「どうした」と訊いてくる。

「いや、前回来た時にさ、ここの敷地内に猫がいたんだよ」

 俺はフェンス越しに敷地内を覗いた。敷地の一角に積み上がった瓦礫の山。その近くで稼働している重機や、作業服を着た従業員の姿が見える。

「産業廃棄物処理場の会社か」

 優雨が建物の白い外壁に表示された『株式会社タケベ』という社名を見て呟いた。

「従業員の人たちに聞き込みしようぜ」

「駄目だ」

 俺の提案を優雨は即答で却下してきた。

「なんでだよ。あの空き家からも近い場所にある会社だし、誰か一人でも有力な情報を得られるかもしれねぇじゃん」

「仕事の邪魔なんかして相手の機嫌を損ねてみろ。学校に通報でもされたら俺の人生が終わる」

「優雨だけじゃなくて俺の人生にだって傷がつきますけどね。じゃあ昼休みの休憩中を狙ってみるのはどうだ?」

「まぁそれなら」

 優雨がちょっと迷う素振りを見せたその時、敷地の出入口の方から作業着姿の男性が歩道まで出てきた。五十代くらいのガタイのいい男性が、日焼けした筋肉質な腕の中に、あの時の猫を抱えている。

「ほら、危ねぇから別のとこ行ってこい」

 男性は俺たちに背中を向けると優しく猫を地面に下ろした。敷地内から追い出された猫は歩道の先へ向かって去っていく。
 猫を見送って戻ろうとした男性が、俺たちの存在に気づいて振り向いた。俺が慌てて「こんにちは」と言ったら、笑顔で挨拶を返してくれた。見た目とは違って気さくで優しそうな人に思える。

「さっきの猫って野良なんですか?」

「そうだよ。ここら辺は日当たりがいいから日向ぼっこをしに敷地に入って来るんだ。危ないから見つけたら追い出すようにはしてるが、あまり効果はないなぁ」

 男性は笑いながら肩をすくめた。あんな優しい追い出し方ならそうなるだろうなと思う。

「平日にこんなところにいるってことは、君らは大学生か?」

「あっ、ハイそうです、大学生です」

 俺はちょっと焦りつつ嘘をついた。その時、すぐ横の道路を一台のパトカーが後ろから走り抜けていく。
 遠ざかるパトカーを優雨と一緒に見つめていると、男性がやれやれ感を出しながら言った。

「最近この辺りを警察がパトロールしているんだよ。この先にある空き家に肝試しか何かで侵入した若者が騒ぎを起こしたせいだな。怪我人も出たって話だ」

 思わずぎくっとした俺の隣から「それは迷惑ですね」と優雨がしれっと答える。

「君たちもさっきのパトカーに声をかけられるかもしれないぞ。気をつけるんだな」

「はい、気をつけます」

 優雨は笑みを浮かべて返事をしたあと、自然な流れで質問をする。

「肝試しってことは、その空き家には心霊的な噂でもあるんでしょうか?」

「あるいは呪われてるとか」

 俺もすかさずのっかった。男性は困った顔で言った。

「そんな噂は聞いたことねぇなぁ。空き家に侵入する目的なんて、肝試しか窃盗くらいかなと思っただけだよ」

「職場で、その空き家について詳しい方はいませんか?」

「心霊的なことでかい?」

「その他にも、空き家に関する情報ならなんでも構いません」

「う〜ん、俺が知ってる限りでは詳しそうな奴はいねぇなぁ。つーかこの辺りの地域に住んでいる従業員は、俺も含めて一人もいないんだよ。最近あった騒ぎがなければ、あそこに空き家があることすら忘れていたくらいだしな」

 男性は怪訝な顔をして「君たちは空き家に用があるのか?」と言った。最近問題を起こした若者たちと目的が一緒だと思われているのかもしれない。

「いいえ違います。ちょっと気になっただけです」

 優雨は否定をしてさらに続ける。

「実は僕たち、人探しをしているんです。この辺りにのうがわという苗字の方がいる、もしくは誰かから聞いたことはありませんか?」

 優雨はさらっと『のうがわさん』の件に話題を変えた。男性は首を傾げて腕を組む。

「会ったことも聞いたこともないなぁ。俺の会社の従業員にもいない苗字だねぇ」

「え? 俺の会社ってことは……」

 俺が思わず反応すると、男性は作業着の胸元につけられた企業ロゴを指差して、満面の笑顔を浮かべた。

「俺がここの会社の代表取締役、建部(たけべ)だよ」

 まさかの社長さんだった。

「人探しってそりゃ大変だな。もう警察に相談はしたのか?」

「事件性などはありませんので大丈夫です」

 と、優雨は返した。そこで建部社長は腕時計を確認すると「そろそろ仕事に戻らねぇとな」と呟いた。忙しい社長さんの仕事の邪魔はできない。お礼を言って頭を下げた優雨に合わせて俺も頭を下げる。
 建部社長は「いやいいんだよ。それじゃあね」と軽く手を振りながら敷地内に戻っていく。

「あ、そういやぁ」

 が、建部社長は去りかけた足を止めて言った。

「あの空き家、来年の春には取り壊されるって聞いたなぁ」

 俺と優雨は驚いた顔を見合わせる。

「それって誰から聞いたんですか?」

「この辺りに唯一ある喫茶店だよ。そこの店主のイナガミさんが、お客さんと話していたのを、たまたま小耳に挟んだだけなんだ」



 その会話を最後に建部社長と別れた俺たちは、再び空き家に向かって歩き出す。優雨は二本目の飴を口に咥えると眉をひそめて言った。

「さっき横を通過したパトカーに目をつけられていたら厄介だな」

「マジ? 俺は警察に顔バレしてるし……今日は一旦やめにしとく?」

 最悪俺はいいけど、優雨が警察にお世話になるような事態は避けたかった。そんな俺の思いに気付いたのか、優雨が軽く睨んでくる。

「ここまで来て帰れるかよ。問題の空き家はこの先なんだろ。行くぞ」

「あ、うん」

 道路を渡って反対側の歩道を歩いていくと、前方に問題の空き家が見えてきた。といっても庭木にぐるりと囲まれているためほぼ屋根しか見えていない。

「……?」

 鬱蒼とした森を右手に歩いていた俺は、ふと何かの視線を感じてそっちを見た。奥深い森の中に佇む人影。薄暗いそこにぼんやりと見えたのは、小学生くらいの女の子だった。おかっぱ頭に古い着物を着ている。女の子は何をしているわけでもなく、無表情に、ただじっと俺たちのことを見つめていた。背筋がひやりとする。

「ゆ、優雨!」

「なんだよ?」

 目の前を歩いていた優雨の肩を掴んだ。足を止めて鬱陶しげに振り向いた優雨に、俺は森の方を指差して言う。

「あそこに女の子が――……あれ?」

 森の中に視線を向けると、女の子の姿は消えていた。優雨は俺が指差す先を見て眉をひそめる。

「誰もいないぞ」

「あー……悪りぃ、木か何かを見間違えたみたいだ」

 笑って謝る俺に優雨はやれやれと肩をすくめて歩き出す。俺は気のせいだと無理矢理納得させて優雨の背中を追った。
 空き家から二メートルほど離れた距離で俺と優雨は立ち止まる。庭木で目隠しされた状態の空き家を見て、優雨が言った。

「凄いな、建物が全く見えないじゃないか」

「だろ。俺も最初見た時はびっくりした」

 俺は二度目になる空き家を見つめて、ふいに思ったことを口にする。

「取り壊されて、それで呪いが解けたりしねぇかな」

「だったら万々歳だが、それまでにお前の体力が持つのかよ」

 いや無理です、とは口にしないでおいた。
 その時、背後から誰かが近づいてくる足音が聞こえて、俺たちは同時に振り返った。一人の女性が歩いてくる姿が見える。シャツにズボンというラフな服装と肩にかけたトートバッグ。四十代くらいだろうか。女性は病的なまでに痩せていた。艶が失われた長い髪はボサボサだし、骸骨のような顔を真っ直ぐこちらに向けて歩いてくるその姿は、失礼だけど怖い。この辺りの住民なら話を聞きたいところだが、流石に躊躇してしまう。

「こんにちはぁ」

 目の前で立ち止まった女性に挨拶されて、俺たちは戸惑いを浮かべる。女性はニコニコ笑っているが、その顔に生気が感じられない。女性は何故かじぃっと俺を見つめて口を開く。

「のうがわさん、いますか?」

「え?」

「私は夢を見て、ここに導かれて来たんです。あなたたちも、夢を見たんですか?」

 恐怖を感じた俺は縋るように優雨を見る。俺の視線に気づいているのかいないのか、優雨は剣呑に目を細めて女性を見ていた。
 俺たちが何も言わないでいると、女性は俺の顔を見つめて嬉しそうに言葉を放つ。

「あなたは無事に、孕めたようですね」

 ゾッとした。

「はらめたって、なにを……」

「赤ちゃんです」

「……!」

「私も赤ちゃんを孕みに来ました。のうがわさんがどこにいるのか、分かりますか?」

「あ、あの、」

「中にいますか? 私もすぐお会いできますか?」

「ちょっと、」

「あなたは会えたのでしょう? 居場所を教えてください」

 俺の声を遮りながら女性はゆっくりと近づいてくる。体が緊張して固まってしまっている俺の前に、背中を向けた優雨が進み出てきた。女性から俺を守るように立ち塞がると、小声で囁く。

「友咲、逃げるぞ。走れるか?」

「あ、あぁ」

 俺は小さく返事をした、その時。

「君たち、ここで何をしているんだ」

 俺たちは驚いて同時に振り返った。空き家の前の道路脇に一台のパトカーが停まっていて、運転席から若い男性警察官が降りてくる。

「ねぇ、のうがわさんは、どこですか?」

 女性が言う。
 今はそれどころじゃない、と焦りつつ女性の方に視線を戻すと、女性は不気味なほどの笑顔で空き家の方を見ていた。

「やっぱりあの中にいますよね。はやく会いにいかなくちゃ」

 女性は俺たちの横を通り過ぎて空き家に近づいていく。それを見た警察官が「ちょっと待ちなさい。ここは立ち入り禁止ですよ」と慌てて止めに入った。

「どうして? 私は、ちゃんとここに呼ばれて来たんですよ」

 目の前に急に立ち塞がった警察官を見て、女性は不思議そうに小首をかしげる。

「のうがわさんに呼ばれて来たんです。赤ちゃんを孕みに来たんです」

「な、何を言っているんですか、あなたは」

 警察官は困惑している。俺と優雨はどうすることもできず二人の様子を見ていた。

「のうがわさんに会わなきゃ、はやく会わなきゃ」

「のうがわさん? ちょ、ちょっと待ちなさい、中には入れないんですって」

 急に焦り出した女性は警察官の体を押し除けようとする。そんな女性の両肩を掴んで押し留めながら警察官は言った。

「落ち着いてください。この家は空き家で、誰も住んでいませんよ」

「いるの、いるはずなのよ、のうがわさんがいるの!」

「この家にのうがわという人はいません!」

 瞬間、女性はぴたりと動きを止めた。

「いない……?」

 呆然としたように呟く。

「では私は、孕めないのですか……?」

「な、何を言っているんですか? あの、大丈夫です?」

「でも私、のうがわさんに選ばれたんです。夢を見たんです。だから会いに来たんです。会えないのなら、どうすればいいのですか? 赤ちゃん、赤ちゃんがほしいのに……それが無理なら、私、これから先、何を希望にして生きていけばいいの」

 女性は膝から崩れ落ちて顔を両手で覆い泣き出した。警察官は困った顔をして女性に言う。

「とにかく落ち着いてください。警察署で保護しますから、そこで話を聞かせてください」

 署に連絡を入れるためか、警察官はパトカーの方へと急ぎ足で戻っていく。
 放置状態の俺と優雨は顔を見合わせた。「今のうちに逃げるか?」「そうしよう」と会話したその時。

「もう、疲れました」

 泣き止んだ女性がぽつりと呟いた。
 俺と優雨は女性に目を向ける。ゆらりと立ち上がった女性は、魂が抜けたような顔を俺たちに向けた。

「生きることに疲れました。赤ちゃんを授かれるなら生きる理由ができたのに。でもそれができないなら生きてる意味がないので……」

 女性は言いながら肩にかけたトートバッグに片手を入れる。
 俺の頭の中に嫌な想像が駆け巡った。
 女性は何かを握った手を抜いて――


「死にます」


 トートバッグから取り出した果物ナイフで、自身の喉を掻っ切った。
 ブシュッ、と嫌な音がして、視界に鮮血が飛び散る。喉元がぱっくりと裂けて、そこから真っ赤な血が吹き出すのを目にした。

 目の前で起こった出来事に、俺と優雨は言葉を失って凍りつく。女性は悲鳴を上げることもなく、そのまま後ろに向かってばったりと倒れて動かなくなった。
 呆然と突っ立っている俺の耳には、突然の事態に切迫した声で署に連絡を入れている警察官の声が響いていた。


    ◆

 いつのまにか夜になっていた。
 あのあとどうなったのか正直記憶が曖昧だ。俺は自室のベッドに仰向けになったまま明るい天井を見つめている。優雨はベッド脇の床に腰を下ろし、俺に背中を向けた状態でベッドに寄りかかっていた。

「……優雨」

 自分でも驚くほど弱々しい声で名前を呼ぶと、優雨は飴の棒を咥えたまま振り向いた。慣れ親しんだ顔が俺を見る。

「友咲、大丈夫か?」

「……なんか頭が上手く働かねぇし、まだちょっとぼんやりしてる」

「放心状態だったからな、お前」

 徐々に記憶が戻ってくる。あのあと現場に救急車と数台のパトカーが来て、血塗れの女性は病院に搬送されていった。俺たちはパトカーに乗せられ、あの現場にいた警察官から事情聴取を受けた。どうしてここに居たのか、あの女性とは知り合いかなど質問された記憶はあるけど、俺は気が動転していて答えられず、そんな俺の代わりに質問に応じてくれたのは優雨だった。警察に顔バレしている俺がいたから上手く誤魔化すのも大変だっただろう。

 なんとか解放されて帰宅した後も、警察から連絡を受けた親に学校をサボっていたことがバレてめちゃくちゃ叱られた。けれどそれ以上にメンタルへの影響を心配された。目の前で人が死のうとした場面を息子が目撃してしまったとなると不安になるだろう。俺は「余計な心配かけさせてごめん」としか言えなかった。

 体調も悪くて自室のベッドでずっと横になっていたら、十九時過ぎに優雨がやってきた。勝手知ったる俺の部屋に上がり込んだ優雨は、いつもと変わらない態度で接してくる。俺に付き合ったせいで優雨も親から叱られただろうし、最悪警察から学校に連絡がいくかもしれないのに、それに関しては何も言わず、こうしてそばにいてくれている。その優しさが凄く嬉しかった。

「あの女性、搬送された病院で死亡したぞ」

「え……」

「パトカーの中で聞いただろ」

「覚えてねぇ……」

 やれやれという風に肩をすくめた優雨は、ショックを受けている俺に後頭部を向けて話す。

「あの現場にいた警察官から、亡くなった女性について少し話が聞けた。名古屋市在住。四十代で独身。一年前に精神的理由で仕事を辞めて無職だったそうだ」

 ガリガリと飴を噛む音が聞こえる。

「警察には、あの女性とは初対面だと話した。実際そうだしな。学校をサボってあそこにいた件は、まぁ、適当にそれっぽいこと言って誤魔化しておいたぞ」

「受験勉強のストレスで現実逃避したくて適当に知らない土地をうろうろしていた、とか?」

 察しがいいな、と言って軽く笑った優雨は続ける。

「警察から、空き家に関する情報も聞けた」

「マジ? さすが優雨」

「ストレスは早く解消してぇんだよ。つっても、警察側も詳しい情報は全く得てなかったがな」

「やる気があるのかないのか」

「警察の仕事の優先順位では、後回しにされる件なんだろ」

 優雨は軽くため息をつく。

「あの家の所有者は行方不明。借家として管理していた管理会社は倒産していて経営者の行方も分かっていない。そんな状態で空き家は放置されていたけど、林田さんやお前以外にも不法侵入する奴らのトラブルが前々から問題になっていた。で、正当な手続きを踏み、ようやく来年の春に取り壊すことが決定したそうだ」

「現時点で警察も俺らと同レベルで情報不足か」

 俺は首だけ横を向いて優雨の後頭部を見た。髪質が硬い俺とは違い、優雨はさらさらした綺麗な黒髪をしている。
 ふと脳裏に、亡くなった女性の姿が浮かんだ。髪も傷み、ガリガリに痩せて、見るからに病んでいた。

「……あの女性、のうがわさんに会いたそうだったよな」

 俺がぽつりと呟くと、優雨は振り向かず相槌を打つ。

「『私も赤ちゃんを孕みに来た』って言ってたし、俺には『無事に孕めた』って……」

 私は夢を見てここに導かれて来たんです―― とも言っていた。

「はらみました……か」

 優雨がぽつりと呟く。

「この台詞は、お腹に子供を宿したという意味で合っているんだろうな」

「じゃあ、優雨が言っていたことはあながち間違いじゃねぇのかも」

「? 何か言ったか俺」

 優雨は振り向くと眉根を寄せて俺を見る。俺は特に何の感情も込めずに言った。

「子供を孕む呪いだよ」

「友咲。バカでアホなお前でも知ってると思うが、男は子供を孕めねぇぞ」

「知ってるっつの。てか優雨が最初に言ったんだからな! ……まぁ、だからさ、あれだよ。呪いだって。呪いならなんでもアリなことが起こるんだよ」

 あっそう、と優雨はしけた顔で返す。

「呪いがなんでもアリだとしても、人間の体を作り変えることなんてできるかよ」

「のうがわさんなら、それが可能にできんのかも。亡くなった女性も、のうがわさんを頼ってわざわざ名古屋から来て、子供を孕もうとしたんだろ?」

 優雨は険しい顔つきになると、視線を落として黙り込んでしまった。
 俺も口を閉じる。体は相変わらず腹を中心に不調を訴え続けていた。ふと、お寺で除霊をしてもらった時のことを思い出す。俺はあの時、口から黒い液体を吐いた。
 俺の腹から出てきた、黒く濁った液体――。
 相模住職は、これが体に悪影響を及ぼしていた原因だと教えてくれた。確かに吐いたらスッキリしたし、俺の腹の中によくないものが溜まっていたのは確かなんだろう。
 俺は無意識のうちに腹に右手を当てていた。当たり前だけどそこは大きく膨らんでいないし、中で何かが動く気配もない。
 ため息をつく。学校をサボって現地に行ったのに、あの騒ぎのせいで何も調べられなかったのが残念だった。
 そんなことを思いながら、すぐ横で優雨がスマホを弄っている姿をちらっと見る。何か調べているみたいだったから声をかけた。
 
「なんか調べてんの?」

「ストリートビューを見ているだけだ。あの空き家の周辺に何があるのかくらいはコレで分かるだろ」

 優雨はスマホから顔を上げずに言った。

「停留所から空き家までの途中に建部社長の会社があって、空き家を通り過ぎた先にも工事業の会社があるな。歩道脇に看板が建っている」

 優雨は体の向きをベッド側に変えると、シーツの上で頬杖をつく。そして寝転んだままの俺に、もう片方の手で持っているスマホの画面を見せてきた。
 グーグルマップのストリートビュー画面には、歩道脇に年季の入った縦長の看板が映っていた。『有限会社生見土建』と書いてある。

「あの辺はもともと、工場とかを建設しやすい土地なのかもしれない」

「まぁそういう場所の近くに家を建てて住みたいとか思う人はあんまりいねぇよな。重機の音とかうるさそうだし。てか築何十年くらい経ってんだろ、あの空き家」

 優雨は頬杖をついたままスマホの画面を自身の方に向けて無言で操作すると、しばらくして言った。

「1970年代には、空き家が建っている場所に建造物が確認できる」

「なんでそんなことが分かるんだよ?」

「地理院地図で調べた」

「何だそれ」

「住所を入力すれば、その土地の古地図や空中写真を閲覧できる」

「へぇ、そんな便利なものがあるんだな。知らなかった」

「学校の授業でも活用されたことがあるんだが?」

「俺が地理とか歴史の授業に興味ないの知ってんだろ」

「楽観的な性格もいきすぎるとかえってマイナスだな」

 へへへ、と軽く笑う俺を見て、優雨はハァとため息をついた。そのあとに「まぁ俺もこのサービスの詳しい使い方はわからないけど」と呟く。

「1960年代の空中写真だと、空き家が建っていた場所は完全に森の一部だな」

 見せて、と俺が言うと優雨はスマホの画面を向けてくれた。白黒の画質が悪い空中写真だ。画面いっぱいに表示された古い写真はほぼ森か山を示す黒い塊ばかりで、建造物は全く写っていない。唯一、森の中を突き抜けるように一本の道路が伸びているのは確認できた。「空き家が建つのはこの辺りだ」と、優雨が指先でその箇所を示してくれる。1970年代には存在する空き家も、1960年代の地図には写っておらず、そこは森の一部だった。

 俺は空き家が建つあの辺り一帯の風景を思い出してみる。道路沿いにぽつりとある空き家のすぐ後ろは森だった。
 森の中にいた女の子のことを思い出した。あの子は何だったんだろう。少し目を離した隙に消えていたし、何より古い時代の姿をした子供だった。

「2000年代の写真と比べても、あの辺りはさほど変わり映えがないな」

 俺が別のことを考えている間に、優雨は年代が一番新しい空中写真を古い地図の上に重ねて表示させた。白黒からカラー写真になった地図上には赤い屋根の空き家が小さく写っている。
 空き家の後ろに広がる、ひとかたまりになった森。それを見て、ふと気になった。

「なんか、変な形した森だな」

「変? どの森だよ」

「ここ」

 俺は気になる森全体を、スマホから少し浮かせた人差し指でくるくると示した。そのまま指先を使って森の形状をなぞってみる。

 〝何か〟の形に見える気がした。
 でもそれはひどく漠然としている。
 何かが気になる。
 でもその〝何か〟がはっきりしない。

 だからとりあえず「変な形してね?」と言ったら、優雨は顔をしかめた。

「自然の森や山はほとんど変な形してんだろ」

「いやまぁ、そうなんだけど」

「そんなことより、次はどうするかを考えねぇとな。また現地に行くにしても、あの辺りのパトロールは強化されているだろうし、」

 話の途中で優雨のスマホが着信音を鳴らした。誰からか確認した優雨は苦虫を噛み潰したような顔になる。

「親父からだ。帰らねぇと」

「え、泊まってかねぇの?」

「許可出てねぇからな」

「優雨の親も、めっちゃ怒ってたよな?」

「まぁ叱られたが、それ以上に心配されたな。お前の方もそうだろ」

 優雨はズボンの尻ポケットにスマホを突っ込んで立ち上がった。そのまますぐ出ていくかと思ったけど、その場に突っ立ったまま俺を見下ろした優雨は顔を曇らせている。

「優雨、どうした?」

 きょとんとする俺から優雨は目をそらした。

「……いや。また何か起こったらすぐに知らせろよ」

「うわぁ、優雨が優しいとなんかくすぐったい」

「うるせぇな。ここまで関わったからには何としても原因を突き止めてぇんだよ」

 ドアの方へ向かう優雨の背中に、俺は静かに声をかける。

「優雨。……ごめんな」

 ドアノブを掴んだ優雨は一瞬動きを止めたが、振り向かずに「おやすみ」とだけ返して部屋から出ていった。
 一人になった部屋で無言のまま天井を見つめる。本当は「ありがとう」と優雨に伝えたかったのに、感謝以上に申し訳ない気持ちが大きかった。まだまだ迷惑をかけてしまうことを思うと気持ちが重くなる。

 一階に下りた優雨が、まだリビングにいた心と会話を交わしている声が聞こえてきた。眉間に皺を寄せて目を閉じる。
 消えない不安感は、ずっと胸の中で渦巻いていた。