孕みの濁-ハラミノダク-


    ◆

「ねぇ兄貴、ちょっと今から付き合ってほしいとこあるんだけど」


 五月十日、土曜日の午前十一時ごろ。
 快適な陽気。あたたかい日差しが差すリビングのソファに寝転んでスマホを弄っていると、二階から下りて来た妹の小瀬川心(こせがわこころ)が、わざとらしくニコニコ笑って近寄ってきた。
 俺――小瀬川友咲(こせがわゆさき)は、スマホから視線を外して心を見る。
 今日の心は中学二年生のくせにちょっと化粧をしていて、服装も原宿に行く時のおしゃれなワンピース姿だった。ボブヘアも毛先のハネ一つなく綺麗に整えられている。

「悪りぃけど暇じゃねぇから無理」

 嫌な予感がして即断った。が、心は引かない。

「暇そうにしてるじゃん。受験勉強もしてないし」

「午後からやる予定なんだよ」

「あーハイハイ。ちょっとこれ見て」

 最初から拒否権はないとばかりに心は自身のスマホを渡してくる。俺はため息をついて上体を起こしながら渋々とスマホを受け取った。
 インスタのアプリが開いていて、レトロ喫茶店っぽい外観の一軒家と、店内の写真が複数枚投稿されている。

「『喫茶いながみ』って喫茶店。今からここに行きたいの」

 俺は気怠げになりつつ、公式アカウントからの写真を横にスワイプして眺める。

「去年の『カフェライター佐藤・2024年激推しレトロ喫茶』って記事で紹介されてたんだよ」

「カフェライター佐藤って誰だよ」

「ここの店主手作りスイーツが美味しいって評判高いんだってさ」

「甘いものそんな好きじゃねぇしなぁ」

 俺は何でもかんでも辛くして食べたくなるくらいの激辛好きだ。

「店内もおしゃれで素敵でしょ。インスタ映えする写真が絶対に撮れるよ」

 インスタ映えの写真を撮るのが趣味の妹は、最近はレトロ喫茶巡りがマイブームのようだ。

「兄貴お昼ご飯まだでしょ。ね、一緒にここ行こうよ。兄貴はナポリタンにタバスコでもかけて食べればいいじゃん」

「都内か?」

「神奈川だよ。でも町田からそんな遠くないし」

 俺たちの生まれは東京都町田市だ。小田急町田駅から徒歩約二十分の距離にある一軒家に両親と四人で住んでいる。

「小田急で片道約二十分。駅から徒歩だと遠いからバスに乗らなきゃ。だいたい三十分くらいかな」

「バスに乗り換えなきゃならないのかよ」

「だから兄貴について来てほしいんだってば。初めて行く土地だし、私がめちゃくちゃ方向音痴なの知ってるでしょ」

「俺も方向音痴だけどな」

 めんどくせぇと思いながら他の写真を見ていると、一人の男性の写真に目が留まった。若い眼鏡イケメンが、カウンター越しにコーヒーを淹れながら微笑んでいる。

「かっこいい人だな。俳優みてぇ」

「でしょでしょ! 兄貴もそう思うよね!」

 何気なく口にしたセリフに、心が興奮気味に前のめりになった。

「店主の稲上栄治(いながみえいじ)さん。イケメンだよね!」

 両手で赤らんだ頬を押さえてきゃあきゃあ騒ぐ心に、俺は若干引き気味な視線を送る。

「お前、こっちが目的なんじゃねぇの?」

「えっ、や、やだなぁ。そんなわけないじゃん!」

「嘘つけ」

「あのね、兄貴も知ってると思うけど、私にはずーっと片思いしてる初恋の相手がいるんだよ。他の男性に惹かれるわけないじゃん」

 おしゃれな格好して化粧までしてると説得力がまるでない。

「その初恋の相手も眼鏡してるよな。お前ってやっぱ眼鏡フェチなのか?」

 俺の脳裏に、幼馴染み兼同級生の姿が浮かぶ。

「フェチとか言わないでよ兄貴キモ」

 地面を這う虫を見るような顔をされた。
 俺はやれやれとしながらスマホを心に返す。

「まぁもともと外食しようかと思ってたし、付き合ってやるよ」

「やったあ。兄貴ありがと〜」

 心は笑顔でぴょんっと一回跳ね上がって喜んだ。ついさっきキモとか言ってきたのにもうコレだ。そんな妹を甘やかしているのはどこのどいつだ? 俺か。

「んじゃ着替えてくるわ」

 ソファから降りて、ふぁっとあくびをしながらリビングを出ていく俺の背中に、妹のきつい口調が飛ぶ。

「十分で支度してね。あと、そのボサボサの髪の毛もちゃんとして。服装もだよ。聞いてる?」

「へいへい」


    ◆

 ということがあって今現在、俺と心はバスに揺られている。
 比較的空いている車内の後方二列席に座って、俺は窓の外をぼーっと眺めていた。隣の心は下を向いたままずっとスマホを弄っている。
 バスは駅前の市街地を抜けて、今は森林に囲まれた県道を走行していた。

「心、今のうちにちゃんと喫茶店への行き方調べとけよ」

「大丈夫だって。地図アプリ使えば迷わないし」

 いやアプリ使っても迷うだろお前……とは口にしないでおく。


 降りる停留所のアナウンスが流れると心が降車ボタンを押した。減速したバスは県道沿いにぽつりと建つ停留所で停まる。そこで下車したのは俺たちだけだ。
 何もない寂しい場所だった。
 市の中心部なら道路沿いに建物がずらりと並んでいるが、ざっと見渡してもこの辺りは森と更地しかなく、今のところ俺たち以外出歩いている人の姿もない。

「こっちだよ、兄貴」

 スマホのマップを見ながら心が歩き出し、俺はその後ろをついていく。俺たちが歩いている歩道の左側は更地で、右側は県道だ。県道を挟んで向かい側には鬱蒼とした森が広がっている。

「今日はいい天気だなぁ」

 まさにお出かけ日和、と空を見上げて声に出しても、目の前を行く心からは何の反応も返ってこない。「ちょっと今は話しかけないで」というオーラが背中から出ていた。

 迷わないよう真剣に地図アプリと向き合っている妹には悪いが、ここで一つプチ問題が発生している。
 俺の斜めがけバッグに入れてあるスマホの充電は残り3%しかない。バスに乗車している時に少しでも充電しておこうと思ってから、通学用のリュックにモバイルバッテリーを入れたままだったのを思い出した。

 残り3%のスマホはもしもの時のために取っておくとして、目的地の喫茶店までの道のりは心のスマホだけが頼りになる。
 しかし妹の方向音痴は厄介だ。今の時代はアプリのおかげで知らない土地でも簡単に目的地に辿りつける便利な世の中になっているのに、それでも心は道に迷う。俺の方向音痴は心に比べたらマシな方だ。

 そんなことを思いながら歩いていると、ニャーと猫の鳴き声が聞こえてきた。
 立ち止まって左側に目を向けると、そこには広い敷地を有した工場があった。ショベルカーなどの重機が何台も置かれた敷地内には、シンプルな形の建物が建っている。その白い外壁には『株式会社タケベ 産業廃棄物処理場』の社名が表示されていた。
 静まり返った敷地内を、一匹のキジトラ猫が不機嫌そうな顔つきで歩いている。野良か分からないが、いい肉付きの体型をしていた。

「見ろよ心、猫がいる――あれ?」

 猫好きな妹に教えてあげようと声をかけたが、すぐ目の前を歩いていたはずの心の背中が忽然と消えていることに気づく。
 はぐれたか? とキョロキョロすると、車道を渡った向かい側の歩道を心が歩いている姿を発見してひとまず安心した。

「ひとりで勝手に渡るなよなぁ」

 ちょっと文句を言いつつすぐに後を追いかける。横断歩道を見つける時間が惜しいので、車が来ていないのを確認してから目の前の車道を渡った。
 そして急いで心を追いかける。その小さな背中に向かって名前を呼ぶが、なぜか心は振り返らない。
 よく見ると、心の両手は体の横に下ろされていて、スマホを見ていないことが分かった。地図アプリも見ずにどこに向かってるんだ? 

 心の前方にはなにやら建物があった。
 その建物は県道沿いにぽつりと一軒だけ建っている。少し奇妙に感じたのは、その建物の周りが何本もの木でぐるりと囲まれていることだ。放置されて伸び放題になった木と一緒に雑草まで生えて、建物の外観はほぼ見えない状態になっている。二階建てだろう建物の二階部分の白い外壁と赤い屋根だけが、木の枝の隙間からかろうじて見えていた。
 その建物の前にたどり着いた心が、生い茂った草木を掻き分けるようにして敷地の中へと入っていくのを見てぎょっとする。

「あの馬鹿っ」

 不法侵入をしている妹を止めなきゃならない。
 少し遅れて建物の前まで来た俺は、一度立ち止まって目の前に立ちはだかる木々を見上げた。
 何だか近寄ってはならないような威圧的雰囲気を感じてしまって躊躇してしまう。けど早く心を連れ戻さなきゃならない。
 心が入っていった場所から俺も同じように敷地内へと入っていく。すると狭い庭に出た。そして目の前に白い外壁と色褪せた赤い屋根の一軒家が現れる。

 これは誰がどう見ても、空き家だ。

 薄暗い空間に佇む空き家を目の前にして、俺は思わず息を呑む。
 築何十年も経ってそうな昭和の造りだ。縁側の大きな木製の硝子戸には薄汚れたカーテンがされていて中の様子を見ることはできない。二階の窓も雨戸がきっちりと閉められている。窓ガラスはどこも割れておらず、荒れ放題の庭に比べたら建物の方が比較的きれいな状態に保たれていた。

 俺は庭の方に視線を巡らせる。空き家を囲む高く伸び上がった庭木のせいで、狭い箱の中に閉じ込められたような閉塞感があった。この庭木には、目の前を通過する車から室内を見られないようにするためのプライバシー保護的な役割があったのだろうか。でもここまで酷い状態になると日当たりが悪くて最悪だ。空き家の裏手は鬱蒼とした森であるため、余計に日光が入らずジメジメとした嫌な空気に満ちていた。

「心は?」

 庭に心の姿はない。
 再び空き家に視線を戻してから、まさか中に入ってしまったのかと嫌な予感がした。正面玄関は俺から見て左側にある。近づいてみると、曇りガラスの玄関扉は引き戸で、そこに僅かな隙間ができていることに気づいた。

「鍵、かかってないのかよ……」

 俺はげんなりしてため息をこぼす。ここから心が入ってしまった可能性があるなら中を確認するしかないだろう。それにしても、心は一体どうしてしまったんだろうか。妹の不可解な行動が理解できない。

「おじゃましま〜す……」

 一応声をかけてガラガラと引き戸を開けると、中はカビ臭さと湿気やホコリが溜まった嫌な空気に満ちていた。
 入ってすぐ右斜め前には二階へと続く階段があった。真っ正面には薄暗い廊下が伸びていて、そこに積もったホコリには靴跡がついている。心の靴跡にしてはちょっとサイズが大きいような気がした。靴跡は廊下のずっと奥まで続いており、俺は一瞬迷ったけど靴のまま上がり込んで廊下を歩く。床はギシギシ軋んだ音を響かせた。

「あいつ怖がりのくせによく一人で入って行けたな」

 そんなことを思いながら靴跡を辿っていく。
 突き当たりまで来たところで、すぐ目の前にあるドアを開けて中を確認してみた。脱衣所と古い造りの風呂場だ。すぐ隣のドアも開けてみると、そこは洋式のトイレだった。どちらも廃墟みたいに荒らされた形跡は全くない。

 トイレのドアを閉めてから左奥に続く廊下に目を向けると、その先にもドアが二つほど確認できた。まず手前にあった曇りガラスの引き戸を開けると、そこはダイニングキッチンだった。風呂場やトイレ同様に家具や日用品などは一つも残されていない。

 靴跡は廊下の一番奥にあるドアまで続いていた。心はあの中の部屋にいるんだろうか。確認するため奥へ向かって歩く、その時だった。



 ぉぎゃァ……



「え?」

 微かな泣き声を耳にして、ぴたっと足が止まった。
 しばらくその場でじっとしたまま耳を澄ますが、家の中は静寂に包まれている。
 ……気のせい、だろうか。
 こんなところでは絶対に聞こえてこない、赤ん坊の泣き声のように思えた。
 いや、きっと野生動物の鳴き声だ。この空き家の裏手にあった森から聞こえたんだろうと無理矢理自分を納得させて廊下を進み、残りのドアを開ける。

 中は二間続きの和室になっていた。
 この部屋だけより一層薄暗く、そして不気味な雰囲気が漂っていてさすがの俺も少し怖気付く。けどここに心がいる可能性が高い。怖がる自分に喝を入れて中に入った。
 そして何もない空間をぐるりと見回して隣の和室に視線が向いたその時、ぎょっとして息が止まった。

「……!」

 襖が開いた状態だった隣の和室。
 そこに、人が倒れている。
 心じゃない。男性だ。
 上下黒のスポーツウェアを着た男性が、うつ伏せの状態で倒れていた。

 う、嘘だろ!? 死んでるのか?

「だっ、大丈夫ですか!?」

 気が動転しかけながらも急いで倒れている男性へと近寄ってその顔を覗き込む。二十代くらいの若者で、派手な色に染めた髪やピアスからチャラそうな印象を受けた。廊下の靴跡はこの人のものだったのか。

「大丈夫ですか、しっかりして下さい!」

 肩に触れてゆすっても、ぐったりしたまま目を覚ます気配がない。口元に手をかざすと微かな息遣いがあり、よかった生きてる……と、ひとまずホッとした。
 警察、いや、その前に救急車だ。
 慌ててバッグからスマホを取り出して、残り3%のスマホを祈るように握りしめながら救急車を呼ぶ。

「救急です。空き家に男性が倒れてるんです。はい、はい、えっ、住所? えっとどこだここ……」

 はっきりした住所がわからないため、とりあえずさっき降りた停留所と空き家の特徴などを伝えた。その次に男性の症状を訊かれて、俺は改めて男性の方に目を向ける。

「えっと、意識はないです。でも呼吸はあります。見た感じ、血が出るような怪我はしてないっぽいんですけど」

 その時、ゴトンッ、と上から大きな物音が鳴り響いた。驚いて天井を見上げると、二階からくぐもった妹の声が聞こえてくる。

「心……?」

 思わず名前を呟いてから、スマホが無音になっていることに気づく。見ると画面が真っ暗で充電が切れていた。

「あぁくそっ」

 とりあえず救急車は呼べた。
 次いで妹の元へ行くべく俺は急いで玄関先に戻って二階に上がる階段を見上げた。薄暗い奥から微かに妹の声が聞こえてくる。

「心!」

 名前を呼びながら一気に駆け上がる。
 階段を上がると目の前は壁で、すぐ横のドアが開いていた。中を見ると、がらんとした薄暗い洋室のフローリングの中央に、心が横を向いてへたり込んでいた。

「心!」

 中に入って心のすぐ横でしゃがみ込む。

「おい、心! しっかりしろ!」

「……」

 心は前方を見つめたまま俺の呼びかけに全く反応を示さない。目は虚ろで、放心状態といった様子だ。

「――さん、……のう、――さん……」

「はぁ? なんだって?」

 ぶつぶつ何かを呟いている。何を言っているのか聞き取ろうと、俺は心の口元に片耳を寄せた。

「のうがわさん、いませんか……のうがわさん、いないですか……」

「のうがわさん?」

 妹はぶつぶつ同じことを繰り返している。
 ひやりと背筋が冷たくなった。明らかに様子がおかしい妹を正気に戻そうと、両肩を強く掴んで俺の方に体の向きを変えさせる。

「心、目を覚ませ! 俺だよ、分かるか!?」

 ぶつぶつ呟いていた声がぴたっと止み、心の虚ろな目が一瞬だけ俺の顔を映し出す。

「のうがわさん」

 初めて聞く妹の冷たい声にぞっとした。
 心は俺から視線をそらすと、ゆっくりと横を向いた。俺もつられるように同じ方向へ顔を向ける。
 心が見つめる先にはカーテンも何もない窓があった。表側の窓ではなく裏側の窓だ。
 薄汚れた窓ガラスの向こうは真っ暗だった。家の裏手は森だったからおかしくはないが、それでも不自然なほどに暗い……いや、真っ黒だ。窓ガラス一面が黒い。

 そこから強い視線を感じた。
 見られている。
 じぃっと見つめられている。
 窓ガラスを染める黒い〝何か〟。
 俺は答えに気づいてしまった。

 あれは、目だ。
 巨大な、目玉だ。

 片目が窓ガラスいっぱいに映っている。その巨大な目玉を持つ〝何か〟は、外からこの部屋の中を覗き込んでいた。

「っ、」

 俺は出かかった悲鳴を飲み込んだ。目を逸らせずに固まってしまったその時、黒い目玉が肌色の中に隠されるのを見た。
 肉感のある肌色が黒い目玉を上下から開閉する。
 まばたきをしたんだと気づいた。
 巨大な目玉はまばたきをしたあと、またじぃっと俺たちを見つめ続ける。
 異様だ。
 こんなの現実じゃない。
 俺は恐怖にがたがたと体を震わせた。

「のうがわさん」

 俺の耳に妹の声が届く。
 しかし妹の方を見れない。首が動かせない。まるで金縛りにかかったように、巨大な目玉から視線がそらせなかった。


 ぉぎゃァ


 一階で聞いた、あの泣き声がする。


 ぉぎゃァ

 ぉぎゃァ


 赤ん坊の泣き声。
 一人、二人、三人と、どんどん重なって響き渡る。


 おぎゃあっ

 おぎゃあっ

 おぎゃあっ



「はらみにきました」

 そう妹が呟いたのを聞いた瞬間、この部屋に、俺と妹以外の気配を感じた。
 その気配はすぐそばにあった。

「……!」

 反射的に心の方を見た俺は、声にならない悲鳴を上げる。
 心のすぐ背後に、黒い影がゆらゆらと蠢いていた。
 それは人の形をしていて、なんとなく女性に見える。
 心はずっと窓の方を見つめていた。変わらず目は虚ろだが、口元には微かな笑みを浮かべている。

 得体の知れない黒い影から細い両腕が伸びたかと思うと、その手がゆらゆらと揺れながら心に向かっていくのを見た。
 やめろ! と言葉にならない声で叫ぶ。
 妹を守らなきゃ――その強い思いが俺の体を動かした。

 心を庇うため上から覆い被さると、俺の背中に両手がひたりと触れるのが分かった。
 そのまま、ずぶり、と体内に沈み込む。
 味わったことのない圧迫感に息が止まった。
 ずぶり、ずぶりと沈む。
 どんどん奥に入ってくる。
 息が、腹の中が、苦しい。

 視界が黒く濁って、そのまま――



 意識が、ブツッと途切れた。




 意識が浮上して最初に感じたのは、全身が水の中に沈んでいるかのような怠さだった。泣きそうな顔をした心が、俺の顔を覗き込んでいる。

「心……」

 俺が名前を呼ぶと、心は安堵の笑みを浮かべた。

「兄貴、大丈夫?」

「あぁ、なんとかな……」

 弱々しくも返事をした俺は、誰かの車の後部座席に心と並んで座っていることに気づいた。

「これ、誰の車だ?」

「パトカーだよ」

「パトカー!?」

「兄貴、救急車呼んだんでしょ。そしたら警察まで来ちゃって、私さっきまで事情聴取受けてたんだよね」

「さっきって……俺、どれくらい気絶してた?」

「三十分くらいかな」

 心は困ったように眉尻を下げて言った。

「気がついたら知らない家の中だし、兄貴は私の上で気を失って倒れてるし。何が起きたのか分からなくてパニックだったところに救急隊員の人が入って来てさ、とにかく大変だったよ」

「お前、なんも覚えてねぇの?」

「? うん」

「どっから」

「えーと、地図アプリを見ながら歩き出してすぐかなぁ。全く記憶がなくて、気がついたらあの家の二階にいたんだよね」

「マジか……。二階で自分が何を言ってたかも思い出せねぇの?」

「うん。私なにか言ってたの?」

 心は不思議そうに小首を傾げる。この様子だと、あの家の中で何か見たり聞いたりしたことも覚えてはいないだろう。
 俺は眉をひそめて、フロントガラスに視線を向ける。空き家を囲む庭木の前に二人組の警察官が立っていて何か話をしている様子が見えた。

「警察って最悪じゃねぇか……俺たち不法侵入で捕まるんじゃねぇの」

 そうなったら非常にまずい。大学受験に響く可能性だってある。

「それなら心配ないよ。私が上手い具合に誤魔化したから」

「なんて言ったんだ?」

「空き家の前を通りかかったら中から悲鳴と物音がして、念の為に確認しに行ったら人が倒れてたから通報したって言ったよ。それなら仕方ないかって警察の人も言ってたし、大丈夫だよきっと。兄貴が発見した男性はさっき救急車で搬送されたけど、命に関わるような怪我じゃないって聞いてる」

「そっか……」

 とりあえずほっとする。

「心、お前は怪我とかしてねぇか?」

「うん、大丈夫。兄貴も警察から何か訊かれるだろうから、私の話に合わせておいてね。あーぁ、このまま解放されるのが遅くなったら喫茶店の営業時間過ぎちゃうよ」

 心はがっかりした顔で背もたれに深く沈み込んだ。
 あーぁ、はこっちのセリフだ。親には連絡がいくだろうし、学校にまで連絡がいったら最悪すぎる。

「兄貴、あの家で何があったの?」

 そんな心配をしていた俺に、心が不安げな視線を向けてくる。

「私、勝手に人助けしたみたいに警察に話しちゃったけど、もしかして、倒れてた男性と何かトラブルが起きて相手を怪我させちゃったとかじゃないよね?」

「いや、人助けで合ってるから問題ねぇよ」

 俺がそういうと、心は「なぁんだ良かった」と安心した。

「兄貴は大丈夫? どっか怪我とかしてるんじゃないの?」

「心配無用。どこも怪我してねぇよ」

 俺は軽く笑ったあと、空き家の二階部分を見て眉をひそめる。
 二階の部屋で体験した怪奇現象を思い出して背筋が震えた。悪い夢だったと思ってさっさと忘れたいし、とにかく今は早くこの場を去りたい気持ちでいっぱいだった。