推しは私の患者です!?

茅田さんに薬局新聞を作るように言われてから早くも3ヶ月が経とうとしている。季節も気付けは冬から春になり、そろそろ初夏を感じる日差しも増えてきた。その間、もちろんfocusの活動はなく、ファンクラブの活動はもちろんのこと、募集も停止して、辺りは真っ暗闇に包まれたままの状態が続いていた。
 ファンの中には、focusの帰りは待つものの、いつまでかわからない活動休止期間は他のバンドのライブに行ったり、推しを作ったりと、新しく前を向いている人たちも大勢いたけど、私はよそ見をする気にもなれないでいた。だって、Kyo君は私の患者だから、彼の苦悩は他のファンよりも私が一番にわかっているはず。
 けれど、実際は初めてお薬を配達しに行った日から、何も状況は変わっていなかった。初めて配達した翌月には、余白に『お手紙でも、どのような形でも、ご相談があれば相談に乗ります』というメッセージを書いた薬局新聞をお薬の入った袋に入れて配達したけれど、何の音沙汰もなし。まぁ、そんな急に関係が築けるわけもないので、当たり前だけど。
 それでも、受け取ってくれる時に毎回「ありがとう」は言ってくれるし、その時の声もまだ掠れてはいるけれど、少し棘というかザラザラ感が取れた気がしてきていた。少しずつでも復調に向かっているのかも知れない。そう思うと、何だか嬉しくなってきていた。
 
 そんなある日、私は今日も第3号の薬局新聞を抱えて、Kyo君の家に向かっている。この前まで満開だと思っていた桜の花は、すっかり花びらを落として、青々とした緑の葉を讃えている。
 ちなみに、何とかかんとか書いている薬局新聞だが、外来のお客さんの反応は意外にもいい。初めての第1号は漢方の飲み方を記した。食後でもいいから1日3回飲むことが大切だとか、2種類混ぜてお湯でとかして飲んでもいいとか、そういったあたりをイラストを交えて(ちなみにイラストは富岡さんが書いてくれた。)書いてみた。内容は薄〜くだ。みんなが手に取った時に読みやすく、かつ、へ〜と思ってくれる内容を1つ以上は入れる感じで。
 次の第2号は睡眠の質と、睡眠時間について。昼間に眠気を感じてなかったら、大丈夫だけど、昼間に強い眠気を感じてるなら、どれだけ寝たつもりでも睡眠不足!睡眠時無呼吸症候群の可能性もあるから、病院へ行ってね。睡眠のリズムを整えるには、朝日を浴びる・寝る前にスマホを見ないなど、簡単だと思われることを少しだけ記載した。もちろん、これもイラスト多めだ。
 本当は第2号には喉の乾燥対策について書こうかと思っていた。花粉症の時期は喉がイガイガしやすいし、空気もまだまだ乾燥している時期だからだ。でも、その前の月にKyo君にレクサプロという抗うつ剤が処方された。やはり、喉の異常も精神的なものが原因だと思われたので、まず生活リズムを整えてほしいという願いから、睡眠について書くことにした。
 精神的にしんどくなると、夜寝れなかったり、寝れないから朝起きれなかったりとか、色々なことで悪循環になってしまう。そして、気づけば眠剤や精神薬などの薬の量が増えていく傾向にあるけれど、できるならその悪循環には陥らないで欲しい。そんな願いを、第2号に載せたのだった。
 そして次の第3号のネタはKyo君だけじゃなく、一般的に受けしやすさを狙って、生活習慣病を予防する生活についてだ。
 初めはKyo君のことを思って、何とかコミュニケーションを取りたい。伝えたいことを、きっちり伝えたいと思って始めた新聞だったけど、今は他の患者さんとのコミュニケーションツールとして少しずつ浸透してきている。待ち時間の間に手に取れるところに置いておくと、読んでくれていて、投薬時に質問してくれることもあるのだ。会話のとっかかりが難しかった患者さんから話しかけたり、質問してもらえると、それがきっかけで仲良くなれたりするので、こちらとしても助かっている。まぁ、なんだかんだで苦労した甲斐があったかな。と、Kyo君以外の人の結果には満足しているし、そんな成果もあってか、最近の私は新聞を書くことを少し楽しみにしていた。会話の中から、患者さんが困っていそうなことを聞き出して集めることもしているし、新聞に載せるためにいろんなことも調べている。最後は結局自分のためになっているなんて。何だか、茅田さんにしてやられた気がする。

 爽やかな風の中を10分ほど自転車を漕ぐと、お馴染みになってきたKyo君のマンションが見えてくる。
 駐輪所に自転車を停めて、お薬を持つと、今日こそは何か話せるといいなぁと思いながらマンションに入ってエレベーターに乗る。ガタンと揺れる古い感じのこのエレベーターにだけはなかなか慣れない。少し緊張して身を固くしていると、再びガタンと大きく揺れて5階に止まった。ゆっくりとエレベーターのドアが開く。完全にドアが開いて、私が一歩踏み出すのと、 Kyo君の住む508号室から何人かが「じゃぁな」「無理すんなよ。」と声をかけながらガヤガヤと出てくるのが一緒だった。出てくる人が目に入った瞬間に、focusファンの私にはその人たちが誰だかわかってしまう。focusのメンバーだ。ドラムの景君に、ベースのTowa,ギターのミケちゃんだ。ワォ!と胸がドキドキし出すけど、もちろん、白衣をきている私はこんな姿で、「ファンです!」なんて声をかけれるわけでもなく、みんなが通り過ぎやすいように、横に身を寄せるしかできない。
 それにしても、みんなでお見舞いに来てるなんて、仲のいいバンドだなぁなんて、ほっこりしていると、ドアが完全に閉まったのを確認してからみんながくるりと向きを変えてエレベーターに向かって歩き出す。
「にしても、復帰まではまだまだかかりそうだねぇ…」(ミケ)
「よくわかんねー。オレ達と話してる時は普通なのに、急に歌が歌えないとか。」(Towa)
「さて、いつまで待つかだねぇ。」(ミケ)
「あいつがこんなことにならなかったら、メジャーデビューの話消えなかったのにって思うと、正直戻ってきても上手くやっていく自信ないけど」(景)
 ああ、やっぱりメジャーの話は来てたんだ。そんな気はしてたけど、それがKyo君のせいでなくなったとなれば、Kyo君はかなり落ち込んだだろう。そして、Kyo君のことを恨みに思ってしまうメンバーの気持ちもわからないではない。でも、こんなところで、崩壊しないでほしい。何とか、みんなで乗り切ってほしい。
「正直、直る見込みがわかんないっていうのが、僕的には一番しんどいかなぁ〜。」(ミケ)
「ソロでやるほど売れてねぇしな。」(Towa)
「んじゃ、やっぱあの話のるか?」(景)
「ボーカルかえる話?でも、流石に今すぐじゃないと思うよ?」(ミケ)
「かとって1年も待てねぇ。このまま活動休止してたらオレらのことなんてすぐ忘れられるでしょ。そうゆー世界だし。」(景)
「難しいねぇ…」(ミケ)
「ま、ボーカルが変わったら、もう新しいバンドになるってことだから、今のファンはいなくなる可能性はあるよなー。」(Towa)
「また一からかよ。俺らの年齢も微妙だっつーの。」(景)
 冗談か本気かわからない軽口を景くんが言って、みんなが乾いた笑いを発したところでエレベーターのドアが開き、乗り込もうとする。
 私は一番はKyo君のファンだけど、でもfocusとして歌うKyo君が好きだし、楽しそうに歌うKyo君を、楽しそうに演奏しながら支える楽器隊の皆んなが好きだった。今一番休みたくない時に休んでるfocusにとって、この3ヶ月はとてつもなく長いのかも知れない。ゴールも見えないことが余計不安にさせたりしているのかも知れない。でも、そんな簡単にボーカルを変えるなんて言ってほしくないし、何より今苦しんでるKyo君を支えてほしいのに…。
「待ってください!」
 気づけば私は大きな声で叫んでいた。
 驚いたミケ君がエレベーターの「開ける」ボタンを押して、閉じかけたドアを開けてくれる。もしかしたら、エレベーターに乗りたくて声をかけたと思われたのかも知れない。でも、違う。そんなんじゃない。ファンの気持ちを、私の気持ちをわかってほしい。
「Kyo君は今頑張って声を治そうとしてます!声が出なくなる原因知ってますか!?精神的なものが原因だったりするんですよ!?だから、みんな追い詰めないでいてあげて!もっと待ってあげて!私たちファンだって、1年でも2年でも待つから!focusはfocusのままでいてほしいの!」
 私の心からの叫びにミケ君が「開ける」ボタンを押したまま固まっている。景君は、叫ぶ私のことを見てこいつヤバいとでも思ったんだろうか、ミケ君に「早く閉めろ」と言って「閉まる」ボタンを押した。
 スルスルとドアが閉まってみんなの姿が階下へと吸い込まれていった。
 もう、どうして…
 言葉にできない悲しさと悔しさが渦巻いている。さっきまではあんなに晴天だったのに、気づけばあっという間に空は黒い雲で覆われていて、今にも土砂降りになりそうになっている。
 はぁ…
 気持ちの整理がうまくつかないけれど、今は仕事中だ。切り替えてお薬を渡さなければ。
 ノロノロと508号室の前まで動いて、インターフォンを押そうと指を伸ばすと、押すより先にドアが開いた。
 誰もいないと思って出てきたのに目の前に私がいたせいか、Kyo君が目を見開いて驚いている。
「あ、お薬をお届けに…」
 そう言い終わらないうちに、Kyo君は私の腕をグッと引っ張ってドアの中に引き入れた。
 私の背中でドアがバタリと閉まる音がする。
 あ、初めて家の中に入れてくれた…。そう冷静に思う一方で、なんでこんなことになったのか、全くわからず、薬剤師として用意していた言葉も何も出てこない。
 けれど、Kyo君はそんな私を無視して、ズカズカ部屋に戻っていくと、ティッシュの箱を持って戻ってきて、私に差し出した。
「ティッシュ…?」
「涙、拭いて。」
 Kyo君に言われて、そこで初めて気がついた。自分が涙を流していたことに。これは、自転車に乗っている時の風が目に沁みるなって思ってたからだ。今泣いたわけじゃないって自分に言い訳をしながら、「ありがとうございます…」とティッシュを1枚とってチョンチョンと涙を拭く。
 けれど、一度拭くとダムが決壊したように次から次へと涙が出てきた止まらない。
「あれ…おかしいな…花粉症かな…目が痛くて…」
 言い訳しながら、涙を拭いていると、Kyo君が甘い声をかけてくれる。
「中、入って座ったら。」
「あ、薬を届けに来ただけなんで大丈夫です。」
「いや、そこでずっと泣かれるの迷惑だから、一旦中入って座って。」
「はい…。」
 私は流されるまま、家の中に入った。バタリと後ろでドアが閉まる音がする。
 玄関で立ち尽くしていると、
「いいから、中入って」と、腕を引っ張られる。
 私は慌てて靴(と言ってもいつも薬局で履いている白いウサギさんサンダル)を脱いで、手を引かれるままに歩いていく。
 短い廊下の先のドアを開けると、そこには簡易キッチンとカウンターがあり、その奥にテレビに向かい合うようにしてテーブルとソファーが置いてあった。テーブルの上にコップとかが散乱しているのは、今までメンバーが来ていたからかもしれない。
 シンプルだけど、無駄がない洗練された部屋。ここぞとばかりに、ファン根性丸出して、部屋の中をつぶさに見てしまう。そのおかげか、涙は気づいたら引っ込んでいた。ベランダに続く窓の横の、部屋の隅にはギターが立てかけられてあって、あまりイメージがなかったけど、Kyo君もギターを弾くのかと思わせられた。
「立ってないで座ってくれる?」
「えっと、本当にご迷惑をかけてすみません。」
 ソファーに座る前に、慌てて謝りながらペコリと腰を曲げるけど、Kyo君からは何の返事もない。顔を上げて様子を伺うと、キッチンカウンターの向こうで、何やらゴソゴソとしているのがわかる。
 えっと…
 困りながら、結局はソファーに腰を下ろした。
 特に話すこともなく、手持ち無沙汰のまま、周りをキョロキョロ見ていると、コップを持ってKyo君がこちらにやってきた。
「何キョロキョロ見てんの?」
 私の前にコップを置くと、自分はソファーにない場所で直接カーペットの上に座った。
 私の目の前に置かれたコップには温かそうなホットココアが入っていた。
「あ…色々すいません。」
 部屋を伺っていたことがバレて恥ずかしいのと、泣き顔を見られて恥ずかしいのと、ココアを入れてもらってありがたい…いや、感謝感激すぎるのとでもう、いろいろ頭の中がパンクして、「すいません」の言葉以外出てこない。
 私は、なぜこんなことに?ココアを入れてもらえたのはありがたいけど、私はドウシテココニキタノ…
 フリーズした頭で必死に考えて、そもそも仕事でここに来たことを思い出す。
 そうだ!何より今は仕事中なんだから、きちんと仕事をしないと!
「声…だいぶ良くなったんですね。」
「ん?ああ、とりあえず話す分には。でも、やっぱり歌えない。」
「そんな…!」
 Kyo君が何よりも大切にしてる歌が歌えないなんて…!
 私はショックで目を見張った。けれど、ここ数ヶ月その声と喉とに付き合ってきたせいか、Kyo君は対して悲しそうでもない。
「で?お前、なんで泣いてたの?」
「え?」
「あいつらに何か言われた?」
「あいつらって?」
「メンバーの奴ら。会ったんじゃねぇの?」
「会いましたけど…」
 Kyo君の言葉の意味を掴みかねて戸惑ってしまう。確かに、メンバーには会ったけど、だからといって何なんだ。Kyo君にとっては、私は一薬剤師のはず… 。ってか、メンバーに会いましたって、答えたけど、普通の人って茅田さんや富岡さんみたいにKyo君がfocusのメンバーってわかってないよね?わかってたとしても、focusの他のメンバーまでわかるほどの人って多くないよね?なのに、普通にバンドありきの話が展開してるってどうゆうこと?もしかして超自信過剰?全員が俺のこと知ってる的な?Kyo君ってそこまで自信過剰な人に見えなかったんだけどなぁ…やっぱり、面の顔と裏の顔って違うもんなんだなぁ…。
 ついつい、遠い顔で物思いに耽っていると、
「お前、何か勘違いしてね?」
 Kyo君が疑いの眼差しで見てくる。
「もしかして、お前気づいてないの?」
「気づくって何をですか?声の調子が悪いんだなって事はわかってましたよ。お薬がそんな感じですもんね。」
「ちげーよ。はぁ…お前、俺らのファンだろ?」
「そうですけど………」
 そう答えてからたっぷり20秒ほど。次に発した私の言葉は、絶叫だった。
「えええええ〜〜〜!私のこと知ってるんですか!?」
 あまりにことに、肩で息をしてしまう。ゼェハァ…やばい、どうゆうことだ。ちょっと待って、本当に今日はどうゆうことだ。待って、待って、本当に待って。ついていけない。
 Kyo君は目を丸くしたまま、ポカンと口を開けて私のことを見ている。
 あ、やばい。
 とりあえず、落ち着くために、ゴクリとココアを飲む。
 アチチチ
 勢いよく飲んだが、意外に熱かったため舌を少し火傷してしまった。
 私は平静を装って、まず居住まいを正した。
「えっと…失礼しました。私のこと、ご存知で?」
「ああ…」
 急に態度が変わった私に、調子を崩したのか、少し掠れた声で返事をしてくれる。Kyo君は、エヘンと喉の調子を整えてから、言葉を続ける。
「流石に、名前は知らなかったけど。昔は結構最前にいてくれてただろ。」
「えっと…覚えててくれてたんですか?ってか、ステージから見えてるもんなんですか?」
「結構見えてるし、昔は一人一人のことよく見てた。だから、毎回来てくれる子は覚えてたり…お前の場合、その分け目のところのホクロがすごい印象的で。顔覚えてなくても、そのホクロが見えたらあ、またいるなってわかったし。」
「ほくろ…」
 私は、おでこと髪の生え際あたりにちょうどポツンとホクロがある。そのホクロを起点にして、前髪を左右に分けているから、上から見る形の人には結構面白がられる。でもまさか、Kyo君までもそんな見分け方をしてくれてたなんて。
「ま、最近は箱もでかいし、整番も当たらないのかセンターあんまいないよな、お前。」
「えっと…ちょっと色々聞きたいことがあるんですが…」
「何?」
「いつから、私のことをお気づきで?」
「初めて、薬局行った時から。」
「そんな初めから!?どうやって!?」
「だから、そのホクロで見分けたって。薬もらう時に見えたの。そんなところにホクロのあるやつ、他にいなくない?まぁ、名前覚えていってファンクラブで一応存在は確認したけど。」
 そこまでしてくれてたんだ…ファン冥利に尽きるなぁと思いながらも、ホクロで認識されているのが、ありがたいのか悲しいのか…ま、有象無象になるよりはいいんだけどね。でも、できれば顔で覚えてもらいたかった…でも、取り立てて美人でもない私の顔を覚えるのは無理か。ファンって言ったって数百人は絶対にいるもんね。ここは、ホクロ様!ありがとうございます!としておこう。
「それは…ありがとうございます…じゃぁ、わかってて私のかかりつけになってくれたんですか?」
「かかりつけ…?ああ、まぁ…そんなところかな。」
 なぜか急に、歯切れが悪くなるけど、詳しく話気はなさそうだ。何にせよ、私のことを知っていてくれただけでもファン心理としては感激なのに、知った上でかかりつけに指名してくれるとは!ありがとう、神様!初めてかかりつけ薬剤師制度があって良かったと思いました!
 私が、天に感謝を捧げていると、Kyo君は小さくため息をついてから言った。
「わかったかよ。だから、メンバーのやつらが、なんか言ってるの聞いて、それで泣いたのかと思っただけ。」
「泣いてなんか…」
 私の抗議を無視して、Kyo君は話し続ける。
「どうせ、focus解散とか何とか言ってたんじゃねぇ〜の。」
「!?」
 まさにその通りだけど、それはKyo君も納得の話だったのか。もし知らなかったとしたら、迂闊にメンバー間の絆にヒビが入るようなことは言えない。
 私が押し黙っていると、その通りだと勝手に判断したのか、Kyo君は私の答えを待たずして話をついだ。
「歌えない俺なんか辞めさせて、違うボーカル入れるとかだろ?事務所からのゴリ押しもあるかもしれねぇーけど、あいつらの考えてることはわかるぜ。」
 Kyo君は、そう言うとタバコを手に取り火をつけた。息を吸うと、ただこの先端がジジジと赤く燃えて、そのあとふぅと口から紫煙が吐き出される。
「あいつらが今日来たのも、いつになったら復帰できるかっていう確認だったしな。」
「そうなんですね…でも、今の声なら、復帰できるんじゃ…」
「だから、歌ねぇって…」
 イライラするでもなく、乱暴な口調になるでもなく、ただ事実を淡々と述べるように、「歌えないものは歌えない。」と繰り返した。あとはゆっくりと、タバコを吸っては煙を吐き出す動作を繰り返すだけ。
 その様子があまりにも悲しかった。あんなに高く飛べていたはずの鳥が、翼を折られ、もう二度と飛ぶことを諦めてしまったかのようだった。
「どこが?どうして歌えないんですか?」
 Kyo君がじっと私を見てくる。私に伝えてもいいのか悩んでいるのかもしれない。
 十分に時間が経った後、Kyo君は自分が吐き出す煙を追うように、視線を天井の方に彷徨わせると、ゆっくり何かを確認するように話し始めた。
「医者に言わせれば、精神的なもんらしい。今までずっと順調だった。focusを結成してから瞬く間にファンも増えてったし、今の事務所からも声をかけてもらったし、まぁ少し伸び悩んだ時期もあったけど、俺は無敵だって思えるぐらいにはなってた。数ヶ月前には、新曲とそのタイアップのアニメと、同時にメジャーデビューまで決まってた。これから先も、もっともっといける。もっと高く飛べるって思ってたはずなのに、気づいたら人前で声が出なくなってた。初めは風邪だなって思ってたし、病院でもそう言う診断だった。けど、1週間経っても治らないし、ラジオなんかでは、出てた声すら出なくなった。結局原因は心因性。メジャーデビューとかの精神的負担が重なったんじゃないかって。」
「…そんなにしんどかったですか?」
 私たちファンはメジャーデビューと聞いたら単純にすごい!って喜ぶだけ。でも、Kyo君は裏で抱えきれないほどのプレッシャーに押し潰させそうになって、もがいていたんだ。でも、その葛藤や辛さを微塵も見せずに、ブログだって配信だって、いつだって笑顔で楽しそうに振る舞ってくれていた。
 無理させていたのは、私たちファンだったのかもしれない。
「正直、プレッシャーなんて全く自覚はなかった。もっと高く、もっと高く。それしか考えてなかった。俺は神にだってなれるって気でいた。でも、神になるにはもっと音を正確に、のびのびした声で…自分の歌を聴いて反省点を出せば出すほど、逆に声は出なくなっていった。上手くいかないことに焦って、もがけばもがくほど上手くいかずにまた焦る。それの繰り返しだったから、心因性って言われたときは、何となく納得できた気はした。でも、やっぱ思うように、声が出ないってのは結構しんどい。ボーカルじゃない俺は何なんだってなったら、今度は外に出るのが怖くなった。歩くやつ全員があいつは何者だって目で見てるんじゃないかって思えて。」
「そんなに…?」
「そうなってくると、外も出歩けないし、知らない人の前で声も出ない。メンバーの前では出るのにな。だから、お前にも薬持ってきてくれたのに、そっけなくてもうしわけなかった。正直嫌われたかなって思わなくもなかったけど、でも、お前が変わらずにファンでいてくれたから…そのことに安心できるようになった。一人だけでも変わらずにいてくれるファンがいるって心強かった。だから、今はお前の前なら声が出てるんだと思う。…ありがとう。」
 Kyo君が軽く頭を下げてくれる。
「いや、そんな…!」
 私は顔の前で手をブンブン振って、「違います、違います。」と訴える。本当に私は何もしていない。正直、毎月Kyo君の自宅に薬を配達できることを喜んでいただけだ。それに、今はお礼を言われるよりも、薬剤師としてではなく、focusの古参のファンとしてこれだけははっきり伝えておかなければいけないことがある。
「あの、薬剤師としてじゃなくて、focusの古参ファンとしてお伝えしますね。私たち少なくとも古参のファンはKyo君のパフォーマンスが少しぐらいダメでもファンを辞めたりしません!私たちが好きなのはもちろん、音楽だし、歌だし、その声だけど、それ以上にfocus全員の舞台上での笑顔が大好きなんです。楽しいことをやってる時の、あの会場の空気全体が好きなんです。だから、Kyo君も楽しんで。そして、私達ファンを信じてください!」
「楽しむ…?」
 Kyo君は短くなったタバコを灰皿に押し付けると、新しい1本に火をつけて、考えながら煙をゆっくり吐き出す。
「あの、失礼なこと言ってすみません!今日は仕事中なんで、これで帰ります!」
 思いの丈をぶつけてしまったことに、薬剤師としての仕事も何かもを忘れて言ってしまったことに、急に恥ずかしくなって、そそくさと玄関の方に移動する。
「ちょ…待って!」
 突然動いた私に驚いたKyo君は、引き留めの言葉を言いながら引き出しを開けると白いビニール袋を片手に追いかけてきた。
 サンダルを履いて、玄関の扉を開けようとしていると、
「これ、残ってる薬。」
 ちょっと呆れ顔のKyo君が、そのビニール袋を渡してくれた。
「あ、ありがとうございます!受け取らせていただきます!また次回ドクターにお伝えして、処方調整してもらいますね!それでは、失礼しました!」
 私は軽く一例すると、「あっちょっと…待って…」そう聞こえたような気がしたけど、それは無視して扉を閉めた。
 扉が閉まる寸前、諦めたような口調で「楽しむねぇ…」と小さく聞こえた気がした。

 恥ずかしくて火照る体と頬を、自転車で切る風に当てて、冷やしていく。
 なんか、今日はあれやこれやと恥ずかしいことをしてしまった。どうも、自分の抑えがきかず、冷静でいられなくなることが今日は多くて恥ずかしくなる。
 単なるfocusのファンなのに、なんであんな大きな口を叩いちゃったんだろう…メンバーにしても誰だよお前ってなっただろうし、Kyo君なんてあんなに精神的にしんどくなってる人なのに、わかった口を聴いて…はぁ、一体何やってんだろ…
 行きはあんなに軽かったはずの自転車が、今はもう一漕ぎが重すぎて前に進んだ気がしない。それでも、精一杯力強く漕いでいると、とうとう空からポツポツと降り出し、あっという間にザァザァと土砂降りになってしまった。
 ひどい雨の中、何とか薬局にたどり着くと、冨岡さんと茅田さんがびっくりする。
「雨が急に降り出したから、大丈夫かと思ったけど、えらくびしょ濡れじゃない!」
 急いでバックヤードに引っ込んだかと思うと、綺麗なタオルを持って戻ってきてくれて、私に1枚手渡してくれたかと思うと、もう1枚で肩や髪を拭いてくれる。少しぐらい拭いたって追いつかないほどずぶ濡れで、服も髪も全身が絞れそうなほどだ。
 私たちが体を拭いていると、冨岡さんが薬歴を書く手を止めて聞いてくる。
「今日思ったより遅なかった?なんかあったんかなって心配しとってん。」
「あ…あの、残薬を預かりました…」
 いくら薬剤師仲間といえど、今日あった出来事のうちの大半は言えない。薬剤師としての仕事ではなく、一個人としての出来事がほとんどだからだ。
「へぇ。ちょっとは話せたん?すごいやん。やっぱいつも応援してる感じやった?」
 私が公私を分けようとしているのに、冨岡さんは公私をごちゃ混ぜにしようと色々突っ込んでくる。
「声はだいぶ良くなってる気がしましたけど…」
 私が少し返答に困っていることに気づいたのか、茅田さんが大きな声で話を変えてくる。
茅田さんは空気を読むのが上手で、こちらが困っているとすぐ助けてくれるし、人が嫌がりそうなことは無理に入って来ない。今回も、その性格に助けてもらった。
「流石にこの濡れ方は風邪をひいちゃうわ。一旦帰って着替えてくる?夜のパートさんが来るまでは私達二人で大丈夫だし、夜だって何とかなるわよ。そのまま帰ったまま戻ってこなくてもいいわよ。報告書だって、すぐ書く必要はないんだしね?」
 話が変わったことにをありがたく感じると共に、服だって流石にこのままでは寒い。かといって濡れる予定なんてなかったので、着替えは持ってきてない。絶対に風邪を引くから、一旦帰りたいのは確かだ。
「申し訳ないですけど、一旦帰らせていただいて大丈夫ですか…?」
「大丈夫よ。戻ってくるの?」
「…そのつもりですけど。」
「ええで、戻ってこんでも。忙しそうやったら、私残るし。」
 今はからかっている場合ではないと気づいたのか、冨岡さんも帰るように促してくれる。
「それは申し訳ない…」
「どうせ、残業で結構オーバーしてるんでしょ?早帰りで時間調整しても大丈夫。冨岡さんに残ってもらわなくても、多分大丈夫だし。」
「…なんかすい見ません…」
「それより、明日から風邪で休まれる方が困っちゃうわ。今日は、ゆっくりしてね?」
 茅田さんと冨岡さんの優しさに押されて、その日はそのまま帰宅することになった。