あの日から、私は空いた時間を使って咽喉頭異常感症について調べるけれど、やはりはっきりとした治療法はないようだ。主な原因として考えられるのは、ストレスによる自律神経の失調。バンドのボーカルなんて、私が考える以上にストレスも多いだろう。生活だって不規則なはずだ。よくTowaがXに上げてるけど、飲み会だって多そうだし、そのせいか夜も遅い。レコーディングだって、深夜を跨いで、明け方になることもあると言っている。そんな生活をしてたんじゃ、そりゃダメになるよね。
かかりつけ薬剤師として、お薬を渡す以外にできることといえば、生活指導しかない。けれど、関係を築く前にあれをした方がいい、これをした方がいいと言われると、患者さんとしては鬱陶しいだろうから、まずは関係を築いていかなくては。次に来てもらった時は、どのような会話から状態を聞き出すのがいいだろうか?声が出せないなら、うなづくか首を振るだけで答えられるいわゆるクローズドな質問がいいのだろうか。
そんな事を考えながら、日々を過ごしていると、薬局の電話が鳴った。
事務さんが取って、すぐに管理の茅田さんに変わる。
「…はい、お家にお薬をお持ちする感じですか?ご住所は?あ、こちらにかかられたことある患者さんですね。わかりました。それは、これからもずっとですかね?医療在宅でいいんですか?ああ…はい、はい、では、FAXお待ちしてますね。」
メモを取りながら電話対応としていた茅田さんは、電話をおくと、私の方を向いた。
「木下さん!」
「はい、何かありましたか?」
「木下さんに取っては朗報かも知れないけど…この前かかりつけをとってくれた、森下さん、お薬の配達をお願いしたいって。」
「え?あの、森下さんですか?この前までめっちゃ元気そうだったじゃないですか。」
「情報提供書はこの後処方箋と一緒にFAXくれるみたいだけど、どうも外に出るのが苦手みたいで…もしできるなら、配達して欲しいって。この前お渡ししたかかりつけ薬剤師の紙に、お薬の配達についても書いてあったでしょう?どうやらそれを見たいで、この配達制度を利用するにはどうすればいいかって問い合わせがあったみたい。」
「苦手っって…」
ついこの前まで人前に立つ仕事をしていたわけだし、苦手も何もないだろうと思ってしまう。一体Kyo君に何が起こっているのだろうか。Kyo君の家に配達に行ける喜びよりも、何か良くないものに囚われて抜け出せないでいるKyo君のことがとても心配になった。
そうこうしているうちに、FAXがウィーンとなる音と共に、用紙が何枚か吐き出される。
「来ましたよ〜。」
事務の岡田さんが、機械から吐き出された紙を持ってきて、茅田さんに手渡す。茅田さんは、ざっと目を通すと、私にその用紙の束を渡してきた。
渡された用紙の内容を私もざっと確認していると、茅田さんが話を続けてくる。
「そこに書いている通り、一応の診断は、適応障害とそれに伴う咽喉頭異常感症ということらしいんだけど、具体的には、どうも慣れない人の前だと声が掠れて出なくなったりするらしいの。なので、今までの受診も携帯のメモ機能を使って会話したり、代理の方を立てたりしてたみたいよ。木下さんの前の話だと、職業がボーカルってことだから、精神的にもだいぶ参ってきているのか、最近は外出も恐怖が先立つみたいで、それでお薬を配達して欲しいって。医師からの指示もあるし、医療在宅で対応するわ。」
「Kyo君がそんなことに…」
咽喉頭異常感症という病気について調べていた時に、この病気自体が精神的なものからくる場合が多いとあったから、ある程度は覚悟していたけど、 医師の診断を聞くと、重みが増してくる。
「それでね、かかりつけでもあるから、木下さんに来て欲しいって先方もおっしゃっているようだし、木下さんに行ってもらおうと思うんだけど、大丈夫?」
「あ、はい。」
それはもう、喜んで!と、下心では言えない。見えない壁にぶつかっているKyo君を薬剤師として、助けてあげたいと素直に思えた。
「場所は、自転車で行ける範囲だし、自転車で行ってもらって大丈夫?」
「もちろんです。」
「お話自体が難しいようだから、とりあえず配達前に確認の電話とかはいらないそうよ。この処方箋分の薬は、明日の午後13時頃に届けてくれれば在宅してるはずだって。もし、いなかったら、ドアにかけておいてくれればいいからって。」
「わかりました。」
「…大丈夫だと思うけど、公私混同しちゃダメよ。」
最後に、イタズラっぽくいうと、茅田さんはニヤリと笑った。
「もちろんです!」
答えた声は、思いの外強くキツい言い方になってしまった。茅田さんも、驚いてちょっと目を見開いている。
いや、今のが茅田さんとしては冗談だったんだとは思う。なんだったら、ちょっとぐらいは公私混同してもいいんじゃない?という密かなサジェスチョンのつもりだったかもしれない。けれど、私は今あるKyo君の辛さや苦悩が痛いほどわかるつもりでいるから、自分の気持ちなんて優先できない。一ファンとしてではなく、きちんと薬剤師として、Kyo君に接したいと思った。
翌日、12時50分ぐらいに薬局を出た私は、冷たい風を切りながら、必死で自転車を漕いでいた。身分を証明するため、普段は白衣のまま配達に行くけれど、流石に冬場の自転車で白衣は凍えてしまう。なので今日は白衣は置いて、コートを着る。身分だけは示せるように、首からネームホルダーを下げるのは忘れずに。
自転車が進むごとに、吹き付ける風に煽られて、ネームホルダーがパタパタとはためいている。
結局今回出ていた薬は、この前出ていたスルピリドと白虎加人参湯に、半夏厚朴湯が加えられた形だった。加えられた漢方の半夏厚朴湯は喉の支えなどを訴える精神的に不安定な患者さんに処方されやすい。ということは、喉の違和感や掠れ声に加えて、精神症状が顕著に出てきたのかも知れない。まぁ、精神症状が強くなければ、配達なんてことにならなかったかも知れないけど…
お薬を配達に行ったからといって、現在の状況を根掘り葉掘り聞けるわけでもないし、ましてや声が出にくいのなら話してくれないだろう。となれば、簡単にうなづくだけで答えれる質問を何個かするのがいい。
まずは、前回のお薬をきちんと処方通りに飲めてるか聞くことが大切だ。あとは、効果を実感しているのかどうかも聞きたい。あ〜漢方は苦手な人が多いのに、今回から2種類になってしまってるが、これもきちんと飲めるのかとかを含めて確認した方がいいな。
頭でいろんなことをシュミレーションしながらも、景色はどんどん後ろに流れていく。あっという間に目印となるところまで来ることができた。ここからは間違えないように、一度自転車を降りると、スマホのナビを確認する。
ナビを片手にもち、自転車を押しながら指示通りに進むと、学生でも住んでそうな感じのこじんまりしたマンションが見える。
あ、これか。
ちょっと予想外でびっくりしてしまう。インディーズとはいえ芸能人だし、もっと大きくて立派なマンションを想像していたから、こじんまりしてて驚い。さらに、オートロックじゃないことを知って2度目の驚きだ。オートロックがないなんて、これはちょっと不用心なんでは?と心配になるが、男の子ならこんなものなんだろうか。でも、もしストーカー並みの熱烈なファンにこの家が見つかったら、好き放題されちゃうよと心配になる。ま、完全なる余計なお世話だけど。
薄暗いエントランスに入り、部屋番号は508であることを確認してから、奥にあったエレベーターに乗り込む。ガタンと音がして、ひどくゆっくり5階まで上昇していく。
5階に着いてエレベーターを降りると、エレベーターのドアに向かい合うようにしてドアが8つ並んでいる。エレベーターのどうやらこの階には501から508までの8部屋があるようだ。私は、部屋番号を確認しながら、歩いていくと、エレベーターからは一番遠いけれど、もっとも非常階段に近い角部屋が508号室だった。
部屋の前に立って、この後のことをイメージしてみる。
インターフォンを鳴らす。
ドアが開く。
今回の薬では漢方が増えていることを言う。
前回は漢方飲めたか聞く。
飲めてなかったら、何かアドバイス。飲めてたら、全体的に効果はどうかを聞く。
次回受診予定も聞いて、お届け日時の目安を伝える。
よし、大丈夫。これでいこう。
インターフォンを押す前に、まず大きく一呼吸。
スゥーハァー
いざ!
私は恐る恐る指をボタンに近づけると、エイヤ!と押した。
ピンポ~ン
間延びした音が部屋の中から聞こえてくる。
1秒・2秒・3秒…10秒…20秒…
ん?全くもって何の返答も変化もない。
不在…?このままドアノブにお薬を引っ掛けて帰ったほうがいいのか?けれど、もう一度だけインターフォーんを押した方がいいか…
もう一度インターフォンのボタンに指を近づけて行った時、ガチャリといきなり玄関のドアが開いた。
「わ!」
目の前にいるのは、帽子もかぶってない、マスクもしていない森下響也さんで、メイクばっちしのKyo君に比べたら、タレ目が強調されている。それでも、この顔はまさしくKyo君です。
寝癖のついた髪に、スエット姿。今まで寝てたからドアを開けるのが遅かったのかもしれない。それに、部屋の中からは結構なタバコの匂い。
Kyo君ってタバコの話なんて一切しなかったから、勝手に吸わないと思ってたけど、吸うんだ…。それも、結構なヘビースモーカーだそ。タバコはあまり喉にも肺にも良くないんだけどなぁ。
ファンの私が素のKyo君を見れた嬉びより先に、薬剤師の私が色々と分析する。
黙っている私に、Kyo君は訝しげな顔をする。
分析して黙ってる場合じゃなかった!
慌てて持っていた袋を軽く持ち上げて、首にかけていた名前ホルダーも見えるように掲げながら、話だす。」
「あの、スマイル薬局の薬剤師の木下です。お薬…」
「ああ、ありがと。」
話の途中で、Kyo君は私の手から袋の入った薬を取ると、普段の甘い声とは違って、ザラザラした小さな声でお礼を言う。
バタン
そして、私の話を聞かずに、ドアがバタリと閉められた。
「…お持ちしました…」
私以外誰もいない廊下で、ドアに向かって続きを話すけど、もちろん返事をしてくれる人はいない。
ええ〜!
今まで、私がシュミレーションしてたことって何なのよ!?
一言も会話になってないんですけど!?
これで、薬歴書けって無理があるんですけど!?
何もかもが期待してたのと違う!普段のライブや配信の時のKyo君なら、こうゆう対応かなとか色々想像してたのに、ぜ〜んぜん違うんですけど〜!
どうすることもできない私は、そのままモヤモヤした気持ちを抱えて薬局に帰ることになった。
薬局では、私の帰りを今か今かと待ち構えていた人がいた。推しの家に行って何があったか聞きたくてしょうがない富岡さんだ。
私が身も心も凍えながら薬局の中に入ると、「どうやったん!?」と一番に声をかけてくれる。
「どうもこうもないですよ〜聞いてくださいよぉ〜。」
思わず泣きモードで愚痴に入ると、「まぁ、ここに座りや」と、富岡さんが占領するパソコンに近くに椅子を持ってきてくれる。結局私は、今日あったKyo君のそっけない対応の顛末を話し、「こんなんじゃ、薬歴すら書けませんよ。報告書なんてもってのほか!」と結んだ。
「ま〜でも、そんな感じの患者さん、外来でもおるやん?」
「いますけど、薬配達してるんだし、もっとなんかあったと思いません?」
「でも、声出ぇへんのにありがとうは言うてくれたんやろ?よかったやん。」
「それはそうなんですけど!」
「何なん?普段のイメージとちゃうって拗ねてんの?」
「違いますって!なんていうか…普段配達に行くお年寄りって、結構な割合でみんな色々喋ってくれるじゃないですか。だからこっちも色々聞きやすいし、関係も築きやすいっていうか…でも、今の感じで話も聞いてくれなきゃ、関係なんて絶対に築けないですよ…。」
「関係築く必要ないやん。向こうが望んでんのは、配達してくれる人やろ?」
「やっぱりそうなんですかね…なんか、悲しい…もっと関係を築いていきたい…これって、ファンだからですか!?私って、公私混同してますかね!?」
泣きそうになりながら縋りつく私に、富岡さんがタジタジになっている。
その時、休憩から茅田さんが戻ってきた。
「おかえり、木下さん。お次休憩どうぞ…ってどうしたの?」
「なんか、森下さんにお薬配達に行った時に、話してる途中でドア閉められてしもたみたいで。こんな調子じゃ関係築かれへんって泣いてるんです。」
「泣いてません…」
「もうほとんど泣いてるやんか。茅田さん、なんかいいアドバイスとかないです?」
匙を投げた富岡さんが、茅田さんにバトンを渡す。
「関係ねぇ…」
「私…自分では、公私混同してるつもりじゃないんですよ。」
「そうなの?じゃぁ、どんな関係を築きたいの?」
「…力になりたいんです。せっかく薬剤師だし、私の持ってる知識でサポートしたいっていうか。歌えるように戻してあげたいっていうか…」
「それは、半分ぐらい私が混ざってるように見えるなぁ…」
富岡さんが小さな声で呟く。やっぱり、私の動機は不純だろうか。薬剤師として、一人の患者さんに肩入れしてるだけで、ダメなことをしようとしてるんだろうか…。
茅田さんはチラッと富岡さんをみると、自分も椅子を持ってきて、それぞれの顔が見渡せるように座った。
「そもそも、うつ病とか気持ちが不安定な患者さんと会話しながら関係を築くって難しいの。私も以前、部屋から一歩も出れない患者さんの家に配達にいったことがあるけど、そもそも置き配ばかりで、話なんてできないしね。その患者さんを担当してた時は、それこそどう関係を築いていこう。どう状態を聞き出そうかと言うことに悩んだものよ。でね、結局その時は忙しさにかまけてできなかったんだけど、こちらが伝えたいことを紙にして入れるっていうのはどうかなって思ってたの。」
「それって、手紙ですか?」
「そうね…手紙でもいいのかもしれないけど、私が思ってたのは手紙とは違うかな。ほら、手紙って重いでしょ?元気ですか?薬飲めてますか?返事ください。とかって書いちゃうと、向こうの負担にしかならないから。それだと関係を築く前に破綻しちゃう。手紙ではなく、こちらの想いが伝わるものにしたい。」
「手紙じゃなくてですか?」
「ちょっと話は変わるけど、みんなは薬剤師として、患者さんに何を伝えたい?」
「伝えたい?」
「う〜ん。改めて考えたら難しいなぁ…」
「そうですね…」
「あ、でも薬をちゃんと飲めるように支援したいなっていつも思ってるで。」
「ちゃんと?」
「そうそう、漢方は食前、食間で飲み忘れるやん?そんなん誰でも忘れると思うねん。でも、そしたら食後でも飲まんよりはマシやでって伝えたいし、子供とかやったら、何に混ぜたらお薬を美味しく飲めるよとかも教えてあげたい。」
「あ〜なるほど…そうゆう意味では、私も同じかも知れないです。薬のちゃんとした飲み方とか、あ、あとは正しい生活習慣とか。」
「そうよね、大抵の薬剤師って、同じことを思ってると思うの。じゃぁ、いっそのこと薬局新聞を作って、患者さんに渡してコミュニケーションを計ったらどうかなって言うのが、私の考え。」
「薬局新聞!?」
「そうそう。メインターゲットは森下さんでもいいんだけど、それだと流石に時間も何もかもが勿体無いでしょう?だから、この薬局に新聞を置いて、患者さんに目を通してもらうのもいいのかなって思って。」
「そりゃぁ、グッドアイデアのような、面倒なような…」
「そうなのよ。実際面倒だし、時間はかかるし、印刷費用だってかかるのに、今の診療報酬じゃ1円にもならないわよね。だから、私も諦めてた。でも、薬局新聞を作って、その余白に『お薬のこと、体調のこと何でも相談乗りますよ。』って、書くだけでコミュニケーションになるだろうし、こちらが伝えたい大切なことも伝わりやすくなると思うの。患者さんの状態をアセスメントするだけが薬剤師の仕事じゃないしね。」
「まぁ、言われたらそうやけど、新聞の内容についてのいいイメージがわかへんわ。」
言うは易しだけど、新聞と言ったって、パッとイメージが浮かんでこない。
富岡さんも首を捻っている。
茅田さんは立ち上がると、書類を挟んでいるファイルから数枚紙を引き抜いて持ってきた。
「作るのは簡単じゃないだろうけど、イメージはこんな感じよ。」
その用紙は、在宅専門のクリニックである笑来クリニックさんが毎月出している『笑うかどには福来る新聞』だった。新聞といっても、病気のこととか小難しいことを書いているのではなく、そのタイトルが表すようにちょっと笑えるネタが豊富な新聞だ。例えば、医院長の家で買ってらっしゃる犬の寝癖が酷かったです。とその犬の写真が載ってたり、昨日、メガネがないないと探しているスタッフがいて、よく見たら頭の上に眼鏡が乗ってました…みたいな内容が大半で、少しだけお知らせの形で休診日が載っていたり、インフルエンザの流行期です。マスクや手洗いうがいをしっかりしましょうと注意喚起があったりする程度だ。おそらく、この新聞は、クリニックに親しみを持ってもらうことを優先しているのかも知れない。そして、お年寄りの方でも見やすいように、文字は大きく、少なめ。ほとんどが写真だ。
「なるほど…イメージはだいたい湧きましたけど…自分が作るところが想像できません」
「そうねぇ、無理のないペースで1〜2ヶ月に1回でいいと思うけど、森下さんをメインターゲットにするなら、だいたい月に1回のペースでの配達になるから、次の配達の時に新しい新聞を入れれるぐらいが、一番いいかなとは思うけど。」
「そもそも、読んでくれますかね…」
「それは、わからないわ。でも、やらなきゃ何も始まらないでしょ。」
「それは…まぁ…」
「ダメもとでやってみるってのはありよ。」
茅田さんに無理やり押し切られる形で、にわかに新聞作りが現実味を帯びてきた。この状況、正直断りにくい。けれど、Kyo君との関係作りに困っていたのは確かだし、何もしなきゃ始まらないのも確かだ。Kyo君の為になることをすれば、他の患者さんにも役立つなんて、願ったり叶ったりかも知れない。
「皆さん、相談に乗ってくれます?」」
「もちろんよ。」
「うちにできることなら、何でもいってや。」
みんなの力強い返事を受けて、結局私は薬局新聞を作ることになったんだった。
かかりつけ薬剤師として、お薬を渡す以外にできることといえば、生活指導しかない。けれど、関係を築く前にあれをした方がいい、これをした方がいいと言われると、患者さんとしては鬱陶しいだろうから、まずは関係を築いていかなくては。次に来てもらった時は、どのような会話から状態を聞き出すのがいいだろうか?声が出せないなら、うなづくか首を振るだけで答えられるいわゆるクローズドな質問がいいのだろうか。
そんな事を考えながら、日々を過ごしていると、薬局の電話が鳴った。
事務さんが取って、すぐに管理の茅田さんに変わる。
「…はい、お家にお薬をお持ちする感じですか?ご住所は?あ、こちらにかかられたことある患者さんですね。わかりました。それは、これからもずっとですかね?医療在宅でいいんですか?ああ…はい、はい、では、FAXお待ちしてますね。」
メモを取りながら電話対応としていた茅田さんは、電話をおくと、私の方を向いた。
「木下さん!」
「はい、何かありましたか?」
「木下さんに取っては朗報かも知れないけど…この前かかりつけをとってくれた、森下さん、お薬の配達をお願いしたいって。」
「え?あの、森下さんですか?この前までめっちゃ元気そうだったじゃないですか。」
「情報提供書はこの後処方箋と一緒にFAXくれるみたいだけど、どうも外に出るのが苦手みたいで…もしできるなら、配達して欲しいって。この前お渡ししたかかりつけ薬剤師の紙に、お薬の配達についても書いてあったでしょう?どうやらそれを見たいで、この配達制度を利用するにはどうすればいいかって問い合わせがあったみたい。」
「苦手っって…」
ついこの前まで人前に立つ仕事をしていたわけだし、苦手も何もないだろうと思ってしまう。一体Kyo君に何が起こっているのだろうか。Kyo君の家に配達に行ける喜びよりも、何か良くないものに囚われて抜け出せないでいるKyo君のことがとても心配になった。
そうこうしているうちに、FAXがウィーンとなる音と共に、用紙が何枚か吐き出される。
「来ましたよ〜。」
事務の岡田さんが、機械から吐き出された紙を持ってきて、茅田さんに手渡す。茅田さんは、ざっと目を通すと、私にその用紙の束を渡してきた。
渡された用紙の内容を私もざっと確認していると、茅田さんが話を続けてくる。
「そこに書いている通り、一応の診断は、適応障害とそれに伴う咽喉頭異常感症ということらしいんだけど、具体的には、どうも慣れない人の前だと声が掠れて出なくなったりするらしいの。なので、今までの受診も携帯のメモ機能を使って会話したり、代理の方を立てたりしてたみたいよ。木下さんの前の話だと、職業がボーカルってことだから、精神的にもだいぶ参ってきているのか、最近は外出も恐怖が先立つみたいで、それでお薬を配達して欲しいって。医師からの指示もあるし、医療在宅で対応するわ。」
「Kyo君がそんなことに…」
咽喉頭異常感症という病気について調べていた時に、この病気自体が精神的なものからくる場合が多いとあったから、ある程度は覚悟していたけど、 医師の診断を聞くと、重みが増してくる。
「それでね、かかりつけでもあるから、木下さんに来て欲しいって先方もおっしゃっているようだし、木下さんに行ってもらおうと思うんだけど、大丈夫?」
「あ、はい。」
それはもう、喜んで!と、下心では言えない。見えない壁にぶつかっているKyo君を薬剤師として、助けてあげたいと素直に思えた。
「場所は、自転車で行ける範囲だし、自転車で行ってもらって大丈夫?」
「もちろんです。」
「お話自体が難しいようだから、とりあえず配達前に確認の電話とかはいらないそうよ。この処方箋分の薬は、明日の午後13時頃に届けてくれれば在宅してるはずだって。もし、いなかったら、ドアにかけておいてくれればいいからって。」
「わかりました。」
「…大丈夫だと思うけど、公私混同しちゃダメよ。」
最後に、イタズラっぽくいうと、茅田さんはニヤリと笑った。
「もちろんです!」
答えた声は、思いの外強くキツい言い方になってしまった。茅田さんも、驚いてちょっと目を見開いている。
いや、今のが茅田さんとしては冗談だったんだとは思う。なんだったら、ちょっとぐらいは公私混同してもいいんじゃない?という密かなサジェスチョンのつもりだったかもしれない。けれど、私は今あるKyo君の辛さや苦悩が痛いほどわかるつもりでいるから、自分の気持ちなんて優先できない。一ファンとしてではなく、きちんと薬剤師として、Kyo君に接したいと思った。
翌日、12時50分ぐらいに薬局を出た私は、冷たい風を切りながら、必死で自転車を漕いでいた。身分を証明するため、普段は白衣のまま配達に行くけれど、流石に冬場の自転車で白衣は凍えてしまう。なので今日は白衣は置いて、コートを着る。身分だけは示せるように、首からネームホルダーを下げるのは忘れずに。
自転車が進むごとに、吹き付ける風に煽られて、ネームホルダーがパタパタとはためいている。
結局今回出ていた薬は、この前出ていたスルピリドと白虎加人参湯に、半夏厚朴湯が加えられた形だった。加えられた漢方の半夏厚朴湯は喉の支えなどを訴える精神的に不安定な患者さんに処方されやすい。ということは、喉の違和感や掠れ声に加えて、精神症状が顕著に出てきたのかも知れない。まぁ、精神症状が強くなければ、配達なんてことにならなかったかも知れないけど…
お薬を配達に行ったからといって、現在の状況を根掘り葉掘り聞けるわけでもないし、ましてや声が出にくいのなら話してくれないだろう。となれば、簡単にうなづくだけで答えれる質問を何個かするのがいい。
まずは、前回のお薬をきちんと処方通りに飲めてるか聞くことが大切だ。あとは、効果を実感しているのかどうかも聞きたい。あ〜漢方は苦手な人が多いのに、今回から2種類になってしまってるが、これもきちんと飲めるのかとかを含めて確認した方がいいな。
頭でいろんなことをシュミレーションしながらも、景色はどんどん後ろに流れていく。あっという間に目印となるところまで来ることができた。ここからは間違えないように、一度自転車を降りると、スマホのナビを確認する。
ナビを片手にもち、自転車を押しながら指示通りに進むと、学生でも住んでそうな感じのこじんまりしたマンションが見える。
あ、これか。
ちょっと予想外でびっくりしてしまう。インディーズとはいえ芸能人だし、もっと大きくて立派なマンションを想像していたから、こじんまりしてて驚い。さらに、オートロックじゃないことを知って2度目の驚きだ。オートロックがないなんて、これはちょっと不用心なんでは?と心配になるが、男の子ならこんなものなんだろうか。でも、もしストーカー並みの熱烈なファンにこの家が見つかったら、好き放題されちゃうよと心配になる。ま、完全なる余計なお世話だけど。
薄暗いエントランスに入り、部屋番号は508であることを確認してから、奥にあったエレベーターに乗り込む。ガタンと音がして、ひどくゆっくり5階まで上昇していく。
5階に着いてエレベーターを降りると、エレベーターのドアに向かい合うようにしてドアが8つ並んでいる。エレベーターのどうやらこの階には501から508までの8部屋があるようだ。私は、部屋番号を確認しながら、歩いていくと、エレベーターからは一番遠いけれど、もっとも非常階段に近い角部屋が508号室だった。
部屋の前に立って、この後のことをイメージしてみる。
インターフォンを鳴らす。
ドアが開く。
今回の薬では漢方が増えていることを言う。
前回は漢方飲めたか聞く。
飲めてなかったら、何かアドバイス。飲めてたら、全体的に効果はどうかを聞く。
次回受診予定も聞いて、お届け日時の目安を伝える。
よし、大丈夫。これでいこう。
インターフォンを押す前に、まず大きく一呼吸。
スゥーハァー
いざ!
私は恐る恐る指をボタンに近づけると、エイヤ!と押した。
ピンポ~ン
間延びした音が部屋の中から聞こえてくる。
1秒・2秒・3秒…10秒…20秒…
ん?全くもって何の返答も変化もない。
不在…?このままドアノブにお薬を引っ掛けて帰ったほうがいいのか?けれど、もう一度だけインターフォーんを押した方がいいか…
もう一度インターフォンのボタンに指を近づけて行った時、ガチャリといきなり玄関のドアが開いた。
「わ!」
目の前にいるのは、帽子もかぶってない、マスクもしていない森下響也さんで、メイクばっちしのKyo君に比べたら、タレ目が強調されている。それでも、この顔はまさしくKyo君です。
寝癖のついた髪に、スエット姿。今まで寝てたからドアを開けるのが遅かったのかもしれない。それに、部屋の中からは結構なタバコの匂い。
Kyo君ってタバコの話なんて一切しなかったから、勝手に吸わないと思ってたけど、吸うんだ…。それも、結構なヘビースモーカーだそ。タバコはあまり喉にも肺にも良くないんだけどなぁ。
ファンの私が素のKyo君を見れた嬉びより先に、薬剤師の私が色々と分析する。
黙っている私に、Kyo君は訝しげな顔をする。
分析して黙ってる場合じゃなかった!
慌てて持っていた袋を軽く持ち上げて、首にかけていた名前ホルダーも見えるように掲げながら、話だす。」
「あの、スマイル薬局の薬剤師の木下です。お薬…」
「ああ、ありがと。」
話の途中で、Kyo君は私の手から袋の入った薬を取ると、普段の甘い声とは違って、ザラザラした小さな声でお礼を言う。
バタン
そして、私の話を聞かずに、ドアがバタリと閉められた。
「…お持ちしました…」
私以外誰もいない廊下で、ドアに向かって続きを話すけど、もちろん返事をしてくれる人はいない。
ええ〜!
今まで、私がシュミレーションしてたことって何なのよ!?
一言も会話になってないんですけど!?
これで、薬歴書けって無理があるんですけど!?
何もかもが期待してたのと違う!普段のライブや配信の時のKyo君なら、こうゆう対応かなとか色々想像してたのに、ぜ〜んぜん違うんですけど〜!
どうすることもできない私は、そのままモヤモヤした気持ちを抱えて薬局に帰ることになった。
薬局では、私の帰りを今か今かと待ち構えていた人がいた。推しの家に行って何があったか聞きたくてしょうがない富岡さんだ。
私が身も心も凍えながら薬局の中に入ると、「どうやったん!?」と一番に声をかけてくれる。
「どうもこうもないですよ〜聞いてくださいよぉ〜。」
思わず泣きモードで愚痴に入ると、「まぁ、ここに座りや」と、富岡さんが占領するパソコンに近くに椅子を持ってきてくれる。結局私は、今日あったKyo君のそっけない対応の顛末を話し、「こんなんじゃ、薬歴すら書けませんよ。報告書なんてもってのほか!」と結んだ。
「ま〜でも、そんな感じの患者さん、外来でもおるやん?」
「いますけど、薬配達してるんだし、もっとなんかあったと思いません?」
「でも、声出ぇへんのにありがとうは言うてくれたんやろ?よかったやん。」
「それはそうなんですけど!」
「何なん?普段のイメージとちゃうって拗ねてんの?」
「違いますって!なんていうか…普段配達に行くお年寄りって、結構な割合でみんな色々喋ってくれるじゃないですか。だからこっちも色々聞きやすいし、関係も築きやすいっていうか…でも、今の感じで話も聞いてくれなきゃ、関係なんて絶対に築けないですよ…。」
「関係築く必要ないやん。向こうが望んでんのは、配達してくれる人やろ?」
「やっぱりそうなんですかね…なんか、悲しい…もっと関係を築いていきたい…これって、ファンだからですか!?私って、公私混同してますかね!?」
泣きそうになりながら縋りつく私に、富岡さんがタジタジになっている。
その時、休憩から茅田さんが戻ってきた。
「おかえり、木下さん。お次休憩どうぞ…ってどうしたの?」
「なんか、森下さんにお薬配達に行った時に、話してる途中でドア閉められてしもたみたいで。こんな調子じゃ関係築かれへんって泣いてるんです。」
「泣いてません…」
「もうほとんど泣いてるやんか。茅田さん、なんかいいアドバイスとかないです?」
匙を投げた富岡さんが、茅田さんにバトンを渡す。
「関係ねぇ…」
「私…自分では、公私混同してるつもりじゃないんですよ。」
「そうなの?じゃぁ、どんな関係を築きたいの?」
「…力になりたいんです。せっかく薬剤師だし、私の持ってる知識でサポートしたいっていうか。歌えるように戻してあげたいっていうか…」
「それは、半分ぐらい私が混ざってるように見えるなぁ…」
富岡さんが小さな声で呟く。やっぱり、私の動機は不純だろうか。薬剤師として、一人の患者さんに肩入れしてるだけで、ダメなことをしようとしてるんだろうか…。
茅田さんはチラッと富岡さんをみると、自分も椅子を持ってきて、それぞれの顔が見渡せるように座った。
「そもそも、うつ病とか気持ちが不安定な患者さんと会話しながら関係を築くって難しいの。私も以前、部屋から一歩も出れない患者さんの家に配達にいったことがあるけど、そもそも置き配ばかりで、話なんてできないしね。その患者さんを担当してた時は、それこそどう関係を築いていこう。どう状態を聞き出そうかと言うことに悩んだものよ。でね、結局その時は忙しさにかまけてできなかったんだけど、こちらが伝えたいことを紙にして入れるっていうのはどうかなって思ってたの。」
「それって、手紙ですか?」
「そうね…手紙でもいいのかもしれないけど、私が思ってたのは手紙とは違うかな。ほら、手紙って重いでしょ?元気ですか?薬飲めてますか?返事ください。とかって書いちゃうと、向こうの負担にしかならないから。それだと関係を築く前に破綻しちゃう。手紙ではなく、こちらの想いが伝わるものにしたい。」
「手紙じゃなくてですか?」
「ちょっと話は変わるけど、みんなは薬剤師として、患者さんに何を伝えたい?」
「伝えたい?」
「う〜ん。改めて考えたら難しいなぁ…」
「そうですね…」
「あ、でも薬をちゃんと飲めるように支援したいなっていつも思ってるで。」
「ちゃんと?」
「そうそう、漢方は食前、食間で飲み忘れるやん?そんなん誰でも忘れると思うねん。でも、そしたら食後でも飲まんよりはマシやでって伝えたいし、子供とかやったら、何に混ぜたらお薬を美味しく飲めるよとかも教えてあげたい。」
「あ〜なるほど…そうゆう意味では、私も同じかも知れないです。薬のちゃんとした飲み方とか、あ、あとは正しい生活習慣とか。」
「そうよね、大抵の薬剤師って、同じことを思ってると思うの。じゃぁ、いっそのこと薬局新聞を作って、患者さんに渡してコミュニケーションを計ったらどうかなって言うのが、私の考え。」
「薬局新聞!?」
「そうそう。メインターゲットは森下さんでもいいんだけど、それだと流石に時間も何もかもが勿体無いでしょう?だから、この薬局に新聞を置いて、患者さんに目を通してもらうのもいいのかなって思って。」
「そりゃぁ、グッドアイデアのような、面倒なような…」
「そうなのよ。実際面倒だし、時間はかかるし、印刷費用だってかかるのに、今の診療報酬じゃ1円にもならないわよね。だから、私も諦めてた。でも、薬局新聞を作って、その余白に『お薬のこと、体調のこと何でも相談乗りますよ。』って、書くだけでコミュニケーションになるだろうし、こちらが伝えたい大切なことも伝わりやすくなると思うの。患者さんの状態をアセスメントするだけが薬剤師の仕事じゃないしね。」
「まぁ、言われたらそうやけど、新聞の内容についてのいいイメージがわかへんわ。」
言うは易しだけど、新聞と言ったって、パッとイメージが浮かんでこない。
富岡さんも首を捻っている。
茅田さんは立ち上がると、書類を挟んでいるファイルから数枚紙を引き抜いて持ってきた。
「作るのは簡単じゃないだろうけど、イメージはこんな感じよ。」
その用紙は、在宅専門のクリニックである笑来クリニックさんが毎月出している『笑うかどには福来る新聞』だった。新聞といっても、病気のこととか小難しいことを書いているのではなく、そのタイトルが表すようにちょっと笑えるネタが豊富な新聞だ。例えば、医院長の家で買ってらっしゃる犬の寝癖が酷かったです。とその犬の写真が載ってたり、昨日、メガネがないないと探しているスタッフがいて、よく見たら頭の上に眼鏡が乗ってました…みたいな内容が大半で、少しだけお知らせの形で休診日が載っていたり、インフルエンザの流行期です。マスクや手洗いうがいをしっかりしましょうと注意喚起があったりする程度だ。おそらく、この新聞は、クリニックに親しみを持ってもらうことを優先しているのかも知れない。そして、お年寄りの方でも見やすいように、文字は大きく、少なめ。ほとんどが写真だ。
「なるほど…イメージはだいたい湧きましたけど…自分が作るところが想像できません」
「そうねぇ、無理のないペースで1〜2ヶ月に1回でいいと思うけど、森下さんをメインターゲットにするなら、だいたい月に1回のペースでの配達になるから、次の配達の時に新しい新聞を入れれるぐらいが、一番いいかなとは思うけど。」
「そもそも、読んでくれますかね…」
「それは、わからないわ。でも、やらなきゃ何も始まらないでしょ。」
「それは…まぁ…」
「ダメもとでやってみるってのはありよ。」
茅田さんに無理やり押し切られる形で、にわかに新聞作りが現実味を帯びてきた。この状況、正直断りにくい。けれど、Kyo君との関係作りに困っていたのは確かだし、何もしなきゃ始まらないのも確かだ。Kyo君の為になることをすれば、他の患者さんにも役立つなんて、願ったり叶ったりかも知れない。
「皆さん、相談に乗ってくれます?」」
「もちろんよ。」
「うちにできることなら、何でもいってや。」
みんなの力強い返事を受けて、結局私は薬局新聞を作ることになったんだった。

