――そんで、おまけに、なんでぬいぐるみの手足まで動かせんねんって話よなぁ。
京都に出発する前のできごとを思い返しつつ、入室に成功したネットカフェの一席で、スマホに充電コードを繋げる。
狭いけど一応個室で、敷き詰められたマットの上で足を伸ばして寝ることが可能なタイプ。世の中、いろんなものがあるんだな、と。田舎者丸出しで感心する。
フラットシートに足を伸ばし、ようやく人心地がついたところで、俺は爽生に笑顔を向けた。
「とりあえず、なんとかなってよかったなぁ」
「なんとかなったけど」
パソコンのモニター付近をちょこんと陣取っていた黒猫が、やれやれと肩をすくめる。
「龍はほんまにもっとるよな。はじめてのひとり旅やのに、出発地点で新幹線が止まるとか。そないない確率やで」
「なぁ。こっちはそこまで雨降ってへんのにな。静岡のへんがめっちゃ雨やねんて」
「……いや、そういうことやないねんけど」
「そういう?」
「…………まぁ、ええわ」
ただの古びた黒猫のぬいぐるみのはずなのに。呆れきったふうに溜息を吐く爽生の姿が、めちゃくちゃ容易に目に浮かぶ。
いや、でも、なにが「まぁ、ええわ」やねん。一拍遅れてもやりとしたものの、俺はもう一度爽生に話しかけた。
「なんか飲む? ドリンクバーあるんやって」
「あのな、龍」
「ん?」
「ぬいぐるみはなんも飲まんし、食べへんねんで。紗衣ちゃんみたいなこと言わんでや」
「…………知っとるわ」
ほんまに、ああ言えばこう言うすぎるやろ。爽生にじとりとした視線を送り、俺は立ち上がった。
「ほな、俺だけなんか取ってくるわ」
「迷子にならんとってや」
「ならんわ」
本当に、こいつは俺をなんだと思っているのか。ぶつくさと言い返して、個室を出る。
ほんまになんやねん、と内心でぼやきつつ、ネットカフェの薄暗い廊下をひとりで進む。ちなみに、紗衣ちゃんというのは、俺の六つ下の妹のことだ。
今は小学四年生だけど、爽生とよく遊んでいたのは、もう少し小さかったころの話になる。だから、たぶん、爽生の中では、ぬいぐるみ相手におままごとをするイメージで止まっているのだろう。
でもなぁ、爽生。もやもやとしたまま、俺は心の中で呼びかけた。
……もし、俺が、なんで東京行くんか知ったら、大泣きしたと思うで、あいつ。
なにせ、妹は爽生によく懐いていた。爽生が引っ越した翌日も、ぐじぐじと泣いていたくらいに。
はぁと小さく溜息を吐いて、コップに炭酸飲料を入れる。ドリンクバーの機械からコップを取ろうとしたところで、俺は「あれ」と呟いた。
壁際に四、五才くらいの女の子がぽつんと立っている。周囲に保護者の姿はない。というか、俺以外に人がいない。
「…………」
こういうんって、俺が声かけてもええんかな。悩んだものの、よし、と覚悟を決めて、女の子に近寄る。
「どうしたん? 部屋、わからんようなった?」
誓って、俺は迷子にはならないけど。迷う気持ちはよくわかる。人当たりだけは良いと褒められる笑顔を向けると、女の子はきょとんとした顔をした。
「あ、えっと、部屋の番号とか覚えとる? わかったら、連れてくけど……」
「お兄ちゃん」
精いっぱいの優しい声を出した俺に、女の子が口を開く。こんなことを小さい子に言うのはなんだけど、なんだか妙に感情の薄い声だった。
「うちのこと、視えるん?」
「え……」
意味がわからず、女の子の黒い瞳を凝視する。
「視えるって、そら、視えるけど」
答えながら、もしかして、かくれんぼでもしていたのかな、と想像する。それとも、なにかのごっこ遊びだろうか。
「なぁ、お父さんか」
お母さんは、と問いかけようとした声が途切れる。女の子の違和感に気がついたからだ。
髪の毛をふたつに括った彼女は、冬に着るあたたかそうなスウェットを身に纏っている。
「お父さん、おらんねん」
淡々と響くそれに、俺は固まった。なにか言ったほうがいいとわかるのに、言葉がうまく出てこない。
「お母さんも、おらんねん」
薄暗い空間だから、なのだろうか。光りのない黒い瞳で、女の子は笑った。小さな手のひらが俺のほうに伸びてくる。
「お兄ちゃんは、一緒におってくれる?」
あ、これ、あかん。
意味不明の状況なのに、そんな言葉が頭に浮かんだ。背筋にぞわりと冷たいものも走る。
どうしようと思った瞬間、聞きなじんだ声が耳元で響いた。
「あかんよ」
同時に、ふわりとした冷たい空気に包まれたことを知覚する。自分の腹に回った白い腕で、俺はすぐうしろに爽生がいると知った。はっとして首をうしろに回す。
「爽生」
俺の呼びかけには反応せず、爽生は女の子に向かって繰り返した。
「これはあかん」
柔らかい、でも、言い聞かせる調子の強い声。なにもかもわからないまま女の子に視線を戻し――、俺はぱちくりと目を見開いた。
「あれ? え? おらんくなった?」
さっきまでいたはずの女の子が、跡形もなく消え去っている。混乱して、俺は再び爽生を振り返った。
「さ、爽生。今のって」
「迷子にならんとってやって言うたのに。龍が遅いで、わざわざ迎えにきてしもたやん」
「いや、迎えにって」
っていうか、なんで、黒猫と人型と自由自在に行き来しとんねん。そのままでおれるなら、おれよ。最初からずっと。
言いたいことがありすぎて、逆に言葉が出てこない。中途半端に絶句した俺をちらりと見ると、爽生は不思議そうに首を傾げた。
「戻らんの? こういうとこ、外で喋っとると嫌がられるで」
「え」
「まぁ、個室でもそうやけど。龍、声デカいんやで気ぃつけや」
こっちの困惑に、絶対に気がついているくせに。飄々とした態度を崩さない爽生に、だんだん腹が立ってきた。
……ほんまになんやんねん、こいつは。
昨日から、もう、ずっと。言えるはずのない悶々を、それでもどうにか俺は呑み込んだ。
「戻るよ」
どうせ、これもひとりごとだと言われるんだろうな、と思いながら、呟くように言い返す。
「というか、べつに迷子とかなっとらんし」
「はい、はい。龍は迷子とちゃうもんな」
付け加えた言い訳を一蹴され、閉口する。やけくそでジュースを手に取って、俺は歩き出した。
最後にもう一度ドリンクバーを振り返る。やっぱりと言うべきか、女の子はもうどこにもいなかった。
……なんやったんやろ、ほんま。
すっきりしない気分のまま元の部屋に戻って、鍵をかける。はぁと疲れた溜息を吐き出したところで、俺はぽかんと口を開いた。
制服姿の爽生がぱっと消えて、代わりにまた猫のマスコットが歩いている。たまらず、俺は突っ込んだ。
「って、なんでまたそっちに戻んねん!」
「いや、ほんま、その声怒られるで」
見た目だけはかわいい黒猫が、呆れた声を出す。
パソコンの横にちょこんと座った黒猫に、もう一回文句を言おうとしたのだが。バンと薄い壁を叩かれ、俺は沈黙した。ちらりと揺れた壁を見る。
「やで、うるさい言うたやろ」
「…………はい」
心底呆れたという反応に、しおしおと頷いて座り込む。
俺の声がデカかったのは大変申し訳ないと思うし、反省もするけど。それはそうとして、怖すぎるやろ。都会。
ひどく疲れた気分で、持ち帰った飲み物に口をつける。でも、なんだかあんまり味がしなかった。
淹れ方を間違えたのだろうか。首をひねりつつ、俺は爽生に小声で話しかけた。
「というか、なんで、猫なん? 入らんでもええんやったら、入らんかったらええやん」
「ぬいぐるみと喋っとっても変人確定やけど、隣に誰もおらんのにそっち見ながら喋っとたら、ガチモンの変人やで」
「なんやの、それ」
意味不明な理論に、小さく笑う。てっきり、そうでないと動けないとかなんとか、そういう理由があるのかと思っていた。
……あいかわらずやなぁ、なんか。
あいかわらず、ちょっと繊細すぎるんじゃないかと言いたくなるくらい、周囲に気を配っている。
ひさしぶりに実感した爽生らしさに、俺は軽口を返した。
「べつにええやん、周りにどう思われても。俺と爽生のことなんやで」
「まぁ、……龍はそうやろな」
「なんやねん、俺はって」
笑ったものの、爽生はなにも言わなかった。「爽生?」と呼びかける。少しの間を置いて、返事があった。話題は微妙に変わっていたけれど。
「というか、やめや、さっきみたいなん」
「え?」
「さっきの女の子」
首を傾げた俺に、黒猫はちょっと嫌そうな顔をした。
「どうせ、お節介して話しかけたんやろ」
「お節介って。やって、迷子やと思ってんもん。周りに誰もおらんかったし」
「迷子は迷子かもしらんけど。でも、たぶん、幽霊ってやつやで、あれ」
「…………やんなぁ」
それ以外にないよなぁという気分で、肩を落とす。最初は本当にふつうの迷子だと思ったのだ、とか。
そもそもだけど、あの女の子が消えたのは、爽生がなにかしたからなのか、とか。
言いたいことも、聞きたいこともいっぱいあったけど。やっぱりうまく言葉にならなくて、俺はちらりと爽生の様子を窺った。ぬいぐるみの、なにを考えているのかわからない顔。
こんなんやったら、誰になにをどう思われてもええから、爽生でおってくれたらええのに。ぼんやり考えていると、爽生が再び口を開いた。
「あんまり優しいすると、引っ張られるよ」
「引っ張られる……」
「自分を視える人がおったら、うれしいなるやろ。それで、喋りかけてもろたら、もっと。それで、もっと一緒におりたぁなる」
あたりまえの事実を告げるように、爽生は続ける。
「そういうもんなんやない? 生きとる人間も、死んどる人間も」
「…………」
「まぁ、たぶんやけどな。ぜんぶ」
神妙な顔で黙り込んだ俺が哀れになったのか、茶化すように爽生は言い添えた。
――お兄ちゃんは、一緒におってくれる?
指し伸ばされた、小さな手。あんな小さな手の持ち主が死んでしまっていると想像すると、かわいそうだな、とは思う。でも。
……なんか、ほんまにようわからんな、ぜんぶ。
飲み物に口をつけて、俺は爽生に問いかけた。
「いろいろ疑問なんやけど」
「うん」
「とりあえず、俺って視える人やったんかな」
「いや、知らんけど」
呆れたように言った爽生が軽く肩をすくめる。
「でも、龍、俺のことも視えとるやん。視える人なんちゃう?」
「まぁ、……うん」
そう言われると、そうなのかもしれない。爽生を幽霊と同一視することは、ものすごく抵抗があるけれど。
ぎこちなく頷いた俺の反応を爽生が笑う。
「やで、これからはもっといっぱい出てくるかもしらんで」
「ええ……、なんでよ」
「なんでって、さっきも言うたやん。言いたいことがあったり、してほしいことあったりするんやったら、視える人のほうに出るほうが効率ええやろ」
効率。なんでもないことのように言ってのけた爽生を見つめ、俺はぽつりと呼びかけた。
「爽生は」
「ん?」
「効率ええから、俺の前に現れたん?」
せめて、爽生の表情がわかるときに聞いたらよかったかな、と悔やんだけれど、いまさらだ。
だって、爽生のぜんぶを知っているなんて、もう絶対、自信満々に言い切ることはできない。
「さぁ、どうやったかな」
内心でガチガチに緊張していた俺と裏腹の、あっさりした声だった。
「よう覚えとらんわ」
「……覚えとらんか」
「うん」
「そっか。それやったら、しゃあないよな」
苦笑まじりに、逃げ道を残す言い方を選ぶ。
俺と爽生のどっちに対する逃げ道だったのかは、わからなかったけれど。
微妙な沈黙に耐えきれず、ちびりとドリンクを飲む。氷が溶けて薄くなったのか、ますます味が不明瞭になっていた。
やっぱり、淹れ方を間違えたのかもしれない。コップを見つめていると、しかたないと言わんばかりの声が、俺を促した。
「はよ寝や。龍、結局、昨日もあんまり寝とらんやろ」
「うん」
おかんみたいなこと言いいよるなぁという突っ込みは呑み込んで、充電コードに差しっぱなしだったスマホに手を伸ばす。まだ夜の十時だ。
……でも、せやな。漫画読む気にもならんし。明日もはよ起きるし、寝てもええんかな。
自分に言い聞かせ、俺は借りてあったブランケットを広げた。卓上の電気を消して寝転がる。でも、あまり眠くはならなかった。
「なぁ」
小声で、爽生に呼びかける。
「爽生」
早々に寝ついたのか(今の爽生に寝るという概念があるのかどうかはわからないけど)、返事はなかった。
会話を諦めて、七時にアラームをセットする。できるだけ早く東京に行きたかったからだ。
――というか、東京行ってどうするん?
いまさら、なにを、と言いたげだった爽生の声。頭の中で響いた問いかけに、だって、と内心で反論する。
だって、顔を見たかった。今の俺に行く資格があるのかどうかはわからなかったけど、それでも。
生きているんだって。幽霊みたいにここにいても、俺以外に見えなくても。死んでいるわけじゃないんだって、安心したかった。
そんなことを考えたままうつらうつらとしたせいか、俺は、その夜、東京にいる爽生の夢を見た。
高校に入学する直前で引っ越して、新しい環境にどうにか馴染もうとがんばっていた、爽生の夢。
京都に出発する前のできごとを思い返しつつ、入室に成功したネットカフェの一席で、スマホに充電コードを繋げる。
狭いけど一応個室で、敷き詰められたマットの上で足を伸ばして寝ることが可能なタイプ。世の中、いろんなものがあるんだな、と。田舎者丸出しで感心する。
フラットシートに足を伸ばし、ようやく人心地がついたところで、俺は爽生に笑顔を向けた。
「とりあえず、なんとかなってよかったなぁ」
「なんとかなったけど」
パソコンのモニター付近をちょこんと陣取っていた黒猫が、やれやれと肩をすくめる。
「龍はほんまにもっとるよな。はじめてのひとり旅やのに、出発地点で新幹線が止まるとか。そないない確率やで」
「なぁ。こっちはそこまで雨降ってへんのにな。静岡のへんがめっちゃ雨やねんて」
「……いや、そういうことやないねんけど」
「そういう?」
「…………まぁ、ええわ」
ただの古びた黒猫のぬいぐるみのはずなのに。呆れきったふうに溜息を吐く爽生の姿が、めちゃくちゃ容易に目に浮かぶ。
いや、でも、なにが「まぁ、ええわ」やねん。一拍遅れてもやりとしたものの、俺はもう一度爽生に話しかけた。
「なんか飲む? ドリンクバーあるんやって」
「あのな、龍」
「ん?」
「ぬいぐるみはなんも飲まんし、食べへんねんで。紗衣ちゃんみたいなこと言わんでや」
「…………知っとるわ」
ほんまに、ああ言えばこう言うすぎるやろ。爽生にじとりとした視線を送り、俺は立ち上がった。
「ほな、俺だけなんか取ってくるわ」
「迷子にならんとってや」
「ならんわ」
本当に、こいつは俺をなんだと思っているのか。ぶつくさと言い返して、個室を出る。
ほんまになんやねん、と内心でぼやきつつ、ネットカフェの薄暗い廊下をひとりで進む。ちなみに、紗衣ちゃんというのは、俺の六つ下の妹のことだ。
今は小学四年生だけど、爽生とよく遊んでいたのは、もう少し小さかったころの話になる。だから、たぶん、爽生の中では、ぬいぐるみ相手におままごとをするイメージで止まっているのだろう。
でもなぁ、爽生。もやもやとしたまま、俺は心の中で呼びかけた。
……もし、俺が、なんで東京行くんか知ったら、大泣きしたと思うで、あいつ。
なにせ、妹は爽生によく懐いていた。爽生が引っ越した翌日も、ぐじぐじと泣いていたくらいに。
はぁと小さく溜息を吐いて、コップに炭酸飲料を入れる。ドリンクバーの機械からコップを取ろうとしたところで、俺は「あれ」と呟いた。
壁際に四、五才くらいの女の子がぽつんと立っている。周囲に保護者の姿はない。というか、俺以外に人がいない。
「…………」
こういうんって、俺が声かけてもええんかな。悩んだものの、よし、と覚悟を決めて、女の子に近寄る。
「どうしたん? 部屋、わからんようなった?」
誓って、俺は迷子にはならないけど。迷う気持ちはよくわかる。人当たりだけは良いと褒められる笑顔を向けると、女の子はきょとんとした顔をした。
「あ、えっと、部屋の番号とか覚えとる? わかったら、連れてくけど……」
「お兄ちゃん」
精いっぱいの優しい声を出した俺に、女の子が口を開く。こんなことを小さい子に言うのはなんだけど、なんだか妙に感情の薄い声だった。
「うちのこと、視えるん?」
「え……」
意味がわからず、女の子の黒い瞳を凝視する。
「視えるって、そら、視えるけど」
答えながら、もしかして、かくれんぼでもしていたのかな、と想像する。それとも、なにかのごっこ遊びだろうか。
「なぁ、お父さんか」
お母さんは、と問いかけようとした声が途切れる。女の子の違和感に気がついたからだ。
髪の毛をふたつに括った彼女は、冬に着るあたたかそうなスウェットを身に纏っている。
「お父さん、おらんねん」
淡々と響くそれに、俺は固まった。なにか言ったほうがいいとわかるのに、言葉がうまく出てこない。
「お母さんも、おらんねん」
薄暗い空間だから、なのだろうか。光りのない黒い瞳で、女の子は笑った。小さな手のひらが俺のほうに伸びてくる。
「お兄ちゃんは、一緒におってくれる?」
あ、これ、あかん。
意味不明の状況なのに、そんな言葉が頭に浮かんだ。背筋にぞわりと冷たいものも走る。
どうしようと思った瞬間、聞きなじんだ声が耳元で響いた。
「あかんよ」
同時に、ふわりとした冷たい空気に包まれたことを知覚する。自分の腹に回った白い腕で、俺はすぐうしろに爽生がいると知った。はっとして首をうしろに回す。
「爽生」
俺の呼びかけには反応せず、爽生は女の子に向かって繰り返した。
「これはあかん」
柔らかい、でも、言い聞かせる調子の強い声。なにもかもわからないまま女の子に視線を戻し――、俺はぱちくりと目を見開いた。
「あれ? え? おらんくなった?」
さっきまでいたはずの女の子が、跡形もなく消え去っている。混乱して、俺は再び爽生を振り返った。
「さ、爽生。今のって」
「迷子にならんとってやって言うたのに。龍が遅いで、わざわざ迎えにきてしもたやん」
「いや、迎えにって」
っていうか、なんで、黒猫と人型と自由自在に行き来しとんねん。そのままでおれるなら、おれよ。最初からずっと。
言いたいことがありすぎて、逆に言葉が出てこない。中途半端に絶句した俺をちらりと見ると、爽生は不思議そうに首を傾げた。
「戻らんの? こういうとこ、外で喋っとると嫌がられるで」
「え」
「まぁ、個室でもそうやけど。龍、声デカいんやで気ぃつけや」
こっちの困惑に、絶対に気がついているくせに。飄々とした態度を崩さない爽生に、だんだん腹が立ってきた。
……ほんまになんやんねん、こいつは。
昨日から、もう、ずっと。言えるはずのない悶々を、それでもどうにか俺は呑み込んだ。
「戻るよ」
どうせ、これもひとりごとだと言われるんだろうな、と思いながら、呟くように言い返す。
「というか、べつに迷子とかなっとらんし」
「はい、はい。龍は迷子とちゃうもんな」
付け加えた言い訳を一蹴され、閉口する。やけくそでジュースを手に取って、俺は歩き出した。
最後にもう一度ドリンクバーを振り返る。やっぱりと言うべきか、女の子はもうどこにもいなかった。
……なんやったんやろ、ほんま。
すっきりしない気分のまま元の部屋に戻って、鍵をかける。はぁと疲れた溜息を吐き出したところで、俺はぽかんと口を開いた。
制服姿の爽生がぱっと消えて、代わりにまた猫のマスコットが歩いている。たまらず、俺は突っ込んだ。
「って、なんでまたそっちに戻んねん!」
「いや、ほんま、その声怒られるで」
見た目だけはかわいい黒猫が、呆れた声を出す。
パソコンの横にちょこんと座った黒猫に、もう一回文句を言おうとしたのだが。バンと薄い壁を叩かれ、俺は沈黙した。ちらりと揺れた壁を見る。
「やで、うるさい言うたやろ」
「…………はい」
心底呆れたという反応に、しおしおと頷いて座り込む。
俺の声がデカかったのは大変申し訳ないと思うし、反省もするけど。それはそうとして、怖すぎるやろ。都会。
ひどく疲れた気分で、持ち帰った飲み物に口をつける。でも、なんだかあんまり味がしなかった。
淹れ方を間違えたのだろうか。首をひねりつつ、俺は爽生に小声で話しかけた。
「というか、なんで、猫なん? 入らんでもええんやったら、入らんかったらええやん」
「ぬいぐるみと喋っとっても変人確定やけど、隣に誰もおらんのにそっち見ながら喋っとたら、ガチモンの変人やで」
「なんやの、それ」
意味不明な理論に、小さく笑う。てっきり、そうでないと動けないとかなんとか、そういう理由があるのかと思っていた。
……あいかわらずやなぁ、なんか。
あいかわらず、ちょっと繊細すぎるんじゃないかと言いたくなるくらい、周囲に気を配っている。
ひさしぶりに実感した爽生らしさに、俺は軽口を返した。
「べつにええやん、周りにどう思われても。俺と爽生のことなんやで」
「まぁ、……龍はそうやろな」
「なんやねん、俺はって」
笑ったものの、爽生はなにも言わなかった。「爽生?」と呼びかける。少しの間を置いて、返事があった。話題は微妙に変わっていたけれど。
「というか、やめや、さっきみたいなん」
「え?」
「さっきの女の子」
首を傾げた俺に、黒猫はちょっと嫌そうな顔をした。
「どうせ、お節介して話しかけたんやろ」
「お節介って。やって、迷子やと思ってんもん。周りに誰もおらんかったし」
「迷子は迷子かもしらんけど。でも、たぶん、幽霊ってやつやで、あれ」
「…………やんなぁ」
それ以外にないよなぁという気分で、肩を落とす。最初は本当にふつうの迷子だと思ったのだ、とか。
そもそもだけど、あの女の子が消えたのは、爽生がなにかしたからなのか、とか。
言いたいことも、聞きたいこともいっぱいあったけど。やっぱりうまく言葉にならなくて、俺はちらりと爽生の様子を窺った。ぬいぐるみの、なにを考えているのかわからない顔。
こんなんやったら、誰になにをどう思われてもええから、爽生でおってくれたらええのに。ぼんやり考えていると、爽生が再び口を開いた。
「あんまり優しいすると、引っ張られるよ」
「引っ張られる……」
「自分を視える人がおったら、うれしいなるやろ。それで、喋りかけてもろたら、もっと。それで、もっと一緒におりたぁなる」
あたりまえの事実を告げるように、爽生は続ける。
「そういうもんなんやない? 生きとる人間も、死んどる人間も」
「…………」
「まぁ、たぶんやけどな。ぜんぶ」
神妙な顔で黙り込んだ俺が哀れになったのか、茶化すように爽生は言い添えた。
――お兄ちゃんは、一緒におってくれる?
指し伸ばされた、小さな手。あんな小さな手の持ち主が死んでしまっていると想像すると、かわいそうだな、とは思う。でも。
……なんか、ほんまにようわからんな、ぜんぶ。
飲み物に口をつけて、俺は爽生に問いかけた。
「いろいろ疑問なんやけど」
「うん」
「とりあえず、俺って視える人やったんかな」
「いや、知らんけど」
呆れたように言った爽生が軽く肩をすくめる。
「でも、龍、俺のことも視えとるやん。視える人なんちゃう?」
「まぁ、……うん」
そう言われると、そうなのかもしれない。爽生を幽霊と同一視することは、ものすごく抵抗があるけれど。
ぎこちなく頷いた俺の反応を爽生が笑う。
「やで、これからはもっといっぱい出てくるかもしらんで」
「ええ……、なんでよ」
「なんでって、さっきも言うたやん。言いたいことがあったり、してほしいことあったりするんやったら、視える人のほうに出るほうが効率ええやろ」
効率。なんでもないことのように言ってのけた爽生を見つめ、俺はぽつりと呼びかけた。
「爽生は」
「ん?」
「効率ええから、俺の前に現れたん?」
せめて、爽生の表情がわかるときに聞いたらよかったかな、と悔やんだけれど、いまさらだ。
だって、爽生のぜんぶを知っているなんて、もう絶対、自信満々に言い切ることはできない。
「さぁ、どうやったかな」
内心でガチガチに緊張していた俺と裏腹の、あっさりした声だった。
「よう覚えとらんわ」
「……覚えとらんか」
「うん」
「そっか。それやったら、しゃあないよな」
苦笑まじりに、逃げ道を残す言い方を選ぶ。
俺と爽生のどっちに対する逃げ道だったのかは、わからなかったけれど。
微妙な沈黙に耐えきれず、ちびりとドリンクを飲む。氷が溶けて薄くなったのか、ますます味が不明瞭になっていた。
やっぱり、淹れ方を間違えたのかもしれない。コップを見つめていると、しかたないと言わんばかりの声が、俺を促した。
「はよ寝や。龍、結局、昨日もあんまり寝とらんやろ」
「うん」
おかんみたいなこと言いいよるなぁという突っ込みは呑み込んで、充電コードに差しっぱなしだったスマホに手を伸ばす。まだ夜の十時だ。
……でも、せやな。漫画読む気にもならんし。明日もはよ起きるし、寝てもええんかな。
自分に言い聞かせ、俺は借りてあったブランケットを広げた。卓上の電気を消して寝転がる。でも、あまり眠くはならなかった。
「なぁ」
小声で、爽生に呼びかける。
「爽生」
早々に寝ついたのか(今の爽生に寝るという概念があるのかどうかはわからないけど)、返事はなかった。
会話を諦めて、七時にアラームをセットする。できるだけ早く東京に行きたかったからだ。
――というか、東京行ってどうするん?
いまさら、なにを、と言いたげだった爽生の声。頭の中で響いた問いかけに、だって、と内心で反論する。
だって、顔を見たかった。今の俺に行く資格があるのかどうかはわからなかったけど、それでも。
生きているんだって。幽霊みたいにここにいても、俺以外に見えなくても。死んでいるわけじゃないんだって、安心したかった。
そんなことを考えたままうつらうつらとしたせいか、俺は、その夜、東京にいる爽生の夢を見た。
高校に入学する直前で引っ越して、新しい環境にどうにか馴染もうとがんばっていた、爽生の夢。



