今ごろは魔王を倒しているはずだった

 明日の朝にまた来るとおばちゃんに約束して、俺はおばちゃんを見送った。泊まるところの心配をさせてしまったけど、さすがの俺もこの状況でおばちゃんに甘えるつもりはない。
 というか、ひとりでも案外なんとかなるんやなって、わかったし。
 ……まぁ、ぜんぶ、爽生がおったからかもしらんけど。
 病院の夜間入口のそばの花壇ブロックに腰をかけ、俺は「なぁ」と上空を見上げた。
 はたから見たら、虚空に向かってひとりごとを言っているやばいやつなんだろうけど。でも、俺にとっては、べつにそこまでどうでもいいことだ。
 爽生にとっては、気になることだったのだろうけれど。
「いつから見とったん? 俺のこと」
「……べつに、ずっと隠し見しとったわけやないよ」
 俺の目の前にふわりと降り立った爽生は、どこかバツの悪そうな顔をしていた。
「龍がこの病院に来たあたりやと思うんやけど。またふわっと目が覚めた感じがしてん」
 気がついたら上空から見下ろしていたと明かした爽生に、くしゃりと顔をゆがめる。
「なんやねん、それ。目ぇ覚めるんやったら、本体のほうで目ぇ覚めぇや」
「ほんまやな」
 俺の発言に怒るでも呆れるでもなく、爽生は苦笑をこぼした。
「あんなに心配しとるとは思わんかったしな」
「爽生」
「あと、龍も。絶対いらんこと言う思うてたから、ちょっと意外やったわ」
 呼びかけの意図を完全に無視して、爽生がくすくすと笑う。やけに楽しそうなそれに、俺は軽く肩をすくめた。
「言わんよ」
 東京までのふたり旅で、それまで俺が気がつこうとしなかった爽生の家の事情を少し知ってしまったからだ。でも。
「俺が勝手なこと言うたら、あとで爽生が困るやろ」
「……まぁ、そうやな」
「やろ?」
 微妙そうに頷いた爽生に笑いかける。
「それに、言うも、言わんも、タイミングも、ぜんぶ。爽生が決めたらええと思うし」
「どうしたん、龍」
「どうもせんけど」
 本心のつもりだったのに、なんだかやけに訝しげな顔をされてしまった。苦笑まじりに頭を振る。
「ちなみに、気ぃ使っとるわけやないよ、これ」
「……うん」
 まぁ、龍やもんな、と思っていること請け合いの爽生の相槌に、俺は笑った。
「爽生のことはなんでもわかっとると思い込んで突っ走るんは、あんまりようなかったんやなって思っただけ」
「へぇ」
 それもやっぱり不審げな声だった。
 そうだったなぁ、と懐かしい気持ちになる。誰にでも優しくて、もめごとが嫌いで、なにを言われてもなんでもないという顔をしているのが爽生だったけど。
 俺の前では、けっこう表情が豊かだったのだ。俺は、それがうれしくて、自慢だった。
「まぁ、なんや。俺もちょっとは大人になったんやろ」
 勇者だなんだと胸を張ることができるのは、自分の言動を正しいと思い込むことができる子どもの特権だ。
 十人いれば十通りの考え方があって、そのすべてが正解でも不正解でもないということを、成長するにつれ知っていく。
 ――でも、まぁ。そうやな。
 半分夜に透けた爽生に、俺は笑顔を向けた。
「それでも、結局、俺は爽生が大事なんやけどな」
「……うん」
「もうちょっと、ちゃんと言動で示せるように努力はするわ」
 たぶん、だけど。いつでも爽生に会えるところにいたら、以前どおりでも構わないのかもしれない。
 顔を合わせることができたら、小さな齟齬はきっとなくなる。
 でも、そうじゃないのなら、そうじゃない付き合い方をしないといけない。これからも、俺たちが俺たちのままでいることができるようにするために。
 俺をじっと見下ろしていた爽生が、ふっとほほえむ。
「あのな、龍。今日の昼間のこと、ごめんな。言いすぎたわ」
「え……」
 突然の謝罪に、俺は目を瞬かせた。今日の昼間がなにを指しているのかは、当然とわかる。
 目の前になければ気にしないと言ったことだ。
 でも、それと似たことを、爽生は歩道橋でも言っていて。だから、言うつもりがなかっただけで本心だとわかっていた。
 それなのに、爽生は穏やかに笑う。
「俺のこれ、ほんまに龍のせいとちゃうでな。これだけ離れたとこにおって、昔と同じなんてできるわけないやろ」
「……うん」
 そうなのかもしれない。でも、そうじゃない。
「連絡が減ったんも、ぜんぶ。しゃあないんやって思っとったし。龍に悪気がないんもわかっとったし」
「うん」
「でもな」
 喋り始めたときと同じ静かな声で、爽生は打ち明けた。
「寂しかってん」
「うん」
「忙しいんかな、とか、悪気はないんやろな、とか。俺は龍を知っとるから、想像するんは簡単やけど。……簡単なつもりやったけど、でも」
 求めているときに、求めているものが返ってこないことはつらい、と。言われている気がした。
 でも、それは、あたりまえのことだ。
 それで、そのあたりまえをしなかったのは、俺だ。
 爽生の言ったとおり、目の前にある「今」を楽しんで、爽生からの連絡はとりとめのないものだと――たいしたものではないと下に見ていた。
「……ごめんな」
 小さな声で、呟くように告げる。
 寂しい思いをさせて、ごめん。大事にできなくて、ごめん。目の前のことばかりを優先して、ごめん。そのことに、気づきもしていなくて、ごめん。
 爽生に伝えたい「ごめん」はいくらでもあった。でも。
「爽生がおらんと、俺もあかんねん」
 その言葉に、爽生は軽く目を瞠った。また適当なことを、と。その場しのぎの感情で、と思っているのかもしれない。
 そういう部分もまったくないとは、きっと言えない。でも、爽生にどうか知ってほしかった。
「その、べつに」
「……うん」
「べつに、というか、そばにおってくれんでも、それはよくて」
 そう、東京にいても、爽生が楽しく過ごしてくれているのなら、俺はたぶんかまわなかった。
「でも、爽生がおらんのはあかんねん。わかる?」
 言い切って、問いかける。自分の声がみっともなく震えている気がした。ほんの少しの間を挟んで、爽生が小さく笑う。
「わかるよ」
「……うん」
 爽生の返事に、俺は心底ほっとした。伝わっているとわかったからだ。名古屋の夜と同じ、生ぬるい夜風が吹き抜けていく。
 どこにおっても暑いもんは暑いよな。そんなことを考えていると、爽生がぽつりと俺を呼んだ。
「龍」
「ん?」
「俺もな。あたりまえって龍は言うと思うんやけど、案外大事にされてたんやなぁって思ったわ」
「いや、あたりまえやろ」
 俺、あんなおしゃれしてへんおばちゃん、はじめて見たで、とは言わなかったけど。その代わりに、俺は力強く繰り返した。
「あたりまえやで」
「うん」
「でも」
 静かにほほえむ爽生を見上げ、言葉を選ぶ。
「爽生はそう思われへんかったから、しんどかったんよな」
 俺の言葉に、爽生は少し驚いたみたいだった。その表情は、少し前に見たおばちゃんのそれとよく似ていて。
 違う人間であることはあたりまえだけど、でも、親子であることもあたりまえなんだよな、と思う。
「また話聞かせてや。通話でも、メッセージでも、なんでもええで」
「うん」
「ちょっと時間かかるときもあるかもしらんけど。でも、絶対に無視はせんよ」
「うん」
 同じ相槌を繰り返した爽生がふっとほほえんだ。どこか満足そうに。
「それやったら、まぁ、ええわ」
 その言葉とほとんど同時に、爽生の身体が透明になっていく。でも、なぜだか不思議と怖くはなかった。
 戻ったのだ、と。本能のようなところで悟ったからかもしれない。
「…………」
 ぐるりと視線を回して、病院を見上げる。もちろん、爽生の病室がどこなのかは知らないのだけれど。
 ……あたりまえに目ぇ覚めて、おばちゃんとおじちゃんと話せたらええよな。
 俺はそのあとで十分だ。一区切りがついた気分になったのか、なんだかどっと疲れてしまった。
 花壇のブロックに手をついて、上半身を伸ばす。そこで、俺はまた新しいお客さんが来ていることに気がついた。
 少し離れたところから、俺のほうを見つめている女の子。ネットカフェで会ったときから変わらないふたつ括りに、冬着のスウェット。
 でも、浜松の施設を出たときに見た禍々しさのようなものは、すとんと抜け落ちている気がした。
 爽生は、幽霊は生きている人間以上に感情に左右されると言っていた。
 それが本当なら、きっと、今は感情が凪いでいて、それで――たぶん、これが本当のこの子なんだろう。
「来る?」
 小さく笑いかけると、女の子ははじめて会ったときと違い、おずおずと近付いてきた。そして、俺の隣にちょこんと腰をかける。
 ……ずるい、かぁ。
 この子が言っていた台詞を思い出し、俺は「なぁ」と喋りかけた。膝を見つめていた女の子の黒い瞳が俺のほうに動く。
「もしかしてやねんけど、爽生のことが羨ましかったん?」
 ちょっといじわるな質問だっただろうか。
 でも、たぶん、そうだったんじゃないかな、と俺は思った。
 自分と同じように――正確に言うと爽生は生きているので、この子と同じではないのだけれど――誰にも視えない存在のはずなのに。隣に視える人間がいて、コミュケーションを取っている。
 爽生の言うとおり、この子が寂しかったのだとしたら、十分すぎる理由だと思った。小さな女の子が「うちも」と思ってしまったとして、無理はない。
 逡巡するような沈黙を挟んで、女の子の小さな頭がこくんと縦に触れる。でも、それだけで、今日の昼間のような嫌な感じはしなかった。
「そうかぁ」
 しみじみとした調子で言い、俺はくしゃりと笑った。
「まぁ、あいつ、ええやつやからな」
 それは、もう本当に。
 じっと俺を見ていた女の子の視線が、また膝に落ちる。なんだかそれが妹が小さかったころの、落ち込んでいるポーズにそっくりで。
 自分が一緒に行くことができないとわかっていても、かわいそうにな、と思ってしまった。
 あるべき小さな子どものあたたかな体温が、彼女のいる側からまったく感じることができないことも。
 ……そら、まぁ、ずるいし、寂しいわな。
 どんな理由で、この子が死んでしまったのかはわからないけど。
 女の子から意識を外し、俺はスマホを取り出した。べつに、この子を撮って確認するつもりはない。
 いいかげんにそろそろ親に連絡を入れないとなぁと思ったというだけだ。あと、充電大丈夫かな、と気になったというか。
「なぁ」
「ん?」
 唐突に響いた女の子の声に、俺はもう一度女の子を見た。
「どうしたん?」
「それ、写真撮れるんやろ」
「え? ああ、うん、撮れるけど」
 スマホのことと察して、頷く。首を傾げると、女の子がぽつりと要望を口にした。
「一緒に撮りたい」
 その言葉に、俺は、ナミさんが言っていたことを思い出した。
 自分たちだけじゃないほかの誰かにも自分たちのことを覚えていてほしい。ナミさんがそう言った理由は、なんとなくだけど、わかる。
 誰かが覚えてくれているうちは、残るからだ。証のようなものが。だから、俺は頷いた。
「ええよ」
 にこりと笑って、スマホを自撮りモードにする。暗いからちょっと映りは悪いかもしれないけど。それでも、この一瞬を残すことはきっとできるはずだ。
「はい。ほら、撮るで」
 妹と一緒に撮るときのように、できる限り自然に声をかける。
「はい、これでいい?」
 撮り終わった写真を見せると、女の子は「うん」と頷いた。写真に写っている女の子の周りに妙なものは写っていない。
 まぁ、そうやろうなぁ、と予想していたものの、かたちになった事実に、俺は改めてほっとした。
 満足そうに写真を見つめている女の子に、話しかける。
「俺な。たぶん、この数日のこと忘れへんと思う」
 その言葉に、女の子は俺を見上げて首を傾げた。
「それは、爽生がおったからやけど、でも、きみのことも忘れへんようにする」
 できるだけ、正直に。俺なりに誠実に伝えたつもりだ。なにもできないのに手だけを差し伸べることは、きっと誠実ではない。
 長く感じる沈黙のあと、女の子は口を開いた。
「まい」
「ん? ああ、まいちゃん言うんか」
 俺の確認に、女の子は小さく笑って頷いた。頭を撫でることもできないことは、どうしたってかわいそうに思うけど。
 でも、できないものはできないのだ。俺は、俺ができることをしよう。自分に言い聞かせるように内心で呟き、俺はにこりと笑った。
「わかった。教えてくれてありがとうな」
 にこっと小さな顔が笑い、女の子はすっと姿を消した。成仏したのか、あるいは、また姿を消しただけなのか。わからなかったけれど、でも、よかったな、と思った。
 ふぅと息を吐いた瞬間、手に持っていたスマホの通知が光る。送信者は、さっきIDを交換したばかりの爽生のおばちゃん。
 目に入った通知に、俺はぱっとメッセージアプリを起動した。
『爽生、意識戻りました』
 確認した一文に、「よかった……」と俺は深々と息を吐いた。
 きっとそうだと思っていても、確証はなかったから。でも、本当によかった。文面をじっと見つめていると、またスマホが振動した。着信。相手は――。
「うわ、やば!」
 小さく叫んで、俺は通話ボタンをタップした。
「あの~~、本当にすみません……、ええと、いや、本当に申し訳ない。ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました……。いや、うん、そうですね。心配ですね」
 言うまでもなく、相手は母さんである。着いたら連絡するんが常識やろと半ギレしている声に、俺はへこへこと頭を下げた。
 通話じゃないから、母さんには見えてないんだけど。完全に俺の気持ちの問題である。
「うん、はい。無事、病院に着きましてぇ。ええ、夜の時間なんで、ふつうに会えなかったんですけどぉ、はい、非常識で、……非常識です」
 たぶんだけど、この数日の俺のふたり旅と爽生の一件で、母さんもいっぱいいっぱいだったんだろうな。
 爽生の無事がわかってほっとして、つまり、気持ちに余裕があったので。俺はそう悟ることができた。
 母さんの小言に「はい、はい」と頷き、母さんの声がクールダウンしたところで、俺は伝えた。
 母さんにとっての安心材料のひとつを。
「まぁ、でも、うん。大丈夫みたい」
 その言葉に、ほんのわずかな沈黙が流れ。「よかった」と震える声が通話先から響いた。
「よかったなぁ、龍」
「うん」
「ほんまによかった」
「……うん」
 なぁ、爽生。おまえ、けっこうほんまにいろんなところで愛されてたんやと思うで。こういう言い方は、くさいのかもしれないけど、でも、本当に。
 俺はもう一度、うん、と頷いて、夜の空を見上げた。
「明日の朝、お見舞いに行って、それで帰るわ」