俺の最初の記憶は爽生かもしれないと言ったけど、それは、つまり、爽生と俺が仲良くなった理由がないということだ。
俺たちのどちらかが興味を持って近付いたわけではなく、近くにいたからなんとなく仲良くなった。
もちろん、物心がついてからも一緒だったのは馬が合ったから、という理由もあったと思う。
ただ、俺たちが通っていた小規模校は同級生は二十人もいなくて。だから、選択肢が少なかったことも事実だった。仲良くならざるを得ない、みたいな。
でも、――でも。
高校生になって、街中にある大きな高校に通うようになって、俺の世界はぐんと広がった。
はじめて爽生と共通じゃない友達もできた。楽しかった。それも本当だ。
でも、俺は、やっぱり、一番は爽生がいい。どうしたって、爽生がいい。それで、爽生にとっての一番でもありたいと思っている。
今、この瞬間になっても。
母さんに教えてもらった病院にたどり着いたときには、もう夜になっていた。
はぁと小さく息を吐いて、きょろりと周囲を見渡す。
住所を知らせるメッセージのあとに届いたもう一通で、爽生のおばちゃんが迎えに来てくれると言っていたからだ。
まぁ、直接のお見舞いは今日は難しいという一文も添えてあったのだけど。それでも、爽生の現状を一番知っているだろう人に会えることは、うれしかった。
メッセージの指示に従って、病院の夜間入口を探して敷地内に入る。その先で見つけた姿に、俺は「おばちゃん」と駆け寄った。
はっとして顔で、おばちゃんが顔を上げる。
「龍くん」
「あ……」
地元でよく見たおばちゃんとはぜんぜん違う疲れ切った雰囲気に、俺はドキリとした。慌てて謝罪の言葉を告げる。
「ごめん、急にこんな時間に。会われへんってわかっとるのに」
「ええんよ、ええんよ。来てくれてありがとうね」
そう言って、おばちゃんは疲れた顔でほほえんだ。
いつも、ちょっとびっくりするくらい隙のない恰好をしていた人が、こんなふうになっている。その事実に、俺はまたドキリと恐ろしくなった。
それだけ大変な事態なのだと容易に想像がついたからだ。黒猫を触る代わりに、ぎゅっと自分の指を握りしめ、おばちゃんに問いかける。
「おばちゃん。その、爽生は……」
でも、大丈夫なのか、とはなぜか聞くことができなくて。中途半端に口ごもる。その俺に、おばちゃんは溜息のような吐息をこぼした。
「あのな、龍ちゃん。あの子、実は、そこまで怪我はたいしたことないんよ」
「え……、そうやったん?」
「うん。高いところから落ちたんは事実なんやけど。たまたま植え込みがあったらしくて、大きな問題はないんやって」
「そうなんや……」
よかった、と俺は心底ほっとした声で呟いた。でも、その直後に、「あれ」と不思議になる。
「じゃあ、もう意識も戻ってるん?」
「まだなんよ。大きな問題はほんまにないらしいんやけど」
そう言って、おばちゃんは言葉を切った。大きな問題はないと言ったのに、おばちゃんの表情は暗い。
再び心臓がバクバクと鳴り始めたことを、俺は自覚した。それでも、どうにか。必死に黙って続きを待っていると、思いつめた声が「せやで」と打ち明ける。
「もしかしたら、あの子、戻ってきたくないんと違うやろかって」
「おばちゃん」
とっさに、俺は呼びかけた。でも、俺よりずっと年上の、大人の、今、意識が戻らない爽生のお母さんを慰める言葉なんてわからなくて。
結局、口ごもってしまったのだけど。おばちゃんは、そのまま話を続けた。
もしかしたら、だけど。誰でもいいから、心の不安を吐き出したかったのかもしれない。
「私、仕事ばっかりで、向こうにおるときも、あの子のことはおばあちゃんに任せっきりやったから」
「……うん」
「あの子が救急車で運ばれたって聞いたときも、なんも理由がわからんで。母親失格やね」
あるいは、責められたかったのだろうか。多分に自嘲の混ざった調子に、俺はなんとも言えない気持ちになった。
だって、目の前にいるおばちゃんを見ていれば、後悔していることも、心配していることも、すごくすごくよくわかる。
でも、同時に、おばちゃんが俺に打ち明けた理由も少しわかる気がした。
……だって、俺も、ナミさんにいろいろ話したん、叱られたかったからかもしれんもん。
おまえのせいやって。母さんも、爽生のおばちゃんも絶対に言わないとわかっているから、そうじゃない第三者に。
おばちゃんに「そんなことないよ」と告げる代わりに、俺は告白をした。
「おばちゃん、俺もめっちゃ後悔しとるねん」
「え……?」
「入学した高校で友達ができて、テストやなんやって忙しいて。……いや、これ、ぜんぶ言い訳やねんけど」
何度説明しても、我ながら本当に最悪だなぁと思うし、爽生の「目の前で起きたことしか気にしない」と糾弾したくなる気持ちもわかる。
だけど、それが俺だった。そのことを認めないといけない。おばちゃんから視線を外さず、俺は言い募った。
「それで、そんなふうにしとるうちに、爽生からの連絡、『いつでも返事できるし、あとでええか』ってなっとった」
爽生だったら大丈夫だという甘えもあったし、明日でも、明後日でも、爽生は変わらずいると思っていたから。
でも、今ならわかる。
「寂しかったんやと思う、爽生」
おばちゃんに向かって、はっきりと俺は言った。爽生は生まれ育った場所に愛着があったわけじゃないと思う。
でも、少なくとも、ばあちゃんや俺に対する愛着はあったはずだ。
目を瞠ったおばちゃんの表情が居た堪れなくて、俺はふっと笑った。まったくうまく笑えていなかったかもしれないけど。
「あいつ、おばあちゃん子やったから」
……だって、「ばあちゃんに会いたい」やったもんなぁ。
ばあちゃんがもっと元気やったらよかったのに。そんな他人任せなことを考えていると、おばちゃんが口を開いた。
「龍ちゃんのせいやない」
かすかに震えた声で、おばちゃんが繰り返す。
「龍ちゃんのせいやないよ」
うん、とも、違う、とも言わずにいると、おばちゃんは「私もな」と切り出した。先ほどよりかは、幾分落ち着いた口調で。
「あんな田舎におるより、東京に出てきたほうが爽生のためや、思うててん」
「爽生のため?」
「そう。高校のうちからこっちに出てきたら、選択肢が広がるやろ? 龍ちゃんにこんなこと言うんはあれかもしれんけど」
苦笑まじりに言い足し、おばちゃんはこう続けた。
「それに、あの子、龍ちゃんとおばあちゃんのことは好きやったみたいやけど、私と同じであんまり田舎に合わん感じがしとったから。せやで」
「ええよ」
今にも泣き出しそうなおばちゃんの顔を見つめ、首を振る。
「それも、わかるで」
本心で、俺は言った。俺自身、たった今思っていたことだ。爽生はあの土地に愛着があったわけじゃないんだろうな、と、そう。
俺が――、俺たちが育った場所は、田舎だ。めちゃくちゃな田舎ではないかもしれないけど、ふつうにけっこうな田舎。
公立高校は市内に二つしかなくて、地元から通うことのできる大学はひとつもない。だから、都会に出たい人は、どんどんいなくなる。
そういう田舎。その田舎に、爽生のおばちゃんは、たぶん合っていなかった。それで、おばちゃんが言うとおり、爽生も、たぶん、そう。
俺は爽生が好きだったけど、爽生と一緒にいるのがなによりも楽しかったけど。爽生はばあちゃんがいなかったら、都会で生活をしたほうが楽だったんじゃないのかな、と思うことがあった。
心を許した身近な人間以外と深くかかわることは嫌で。
いつも笑っているけれど、誰かに内側に踏み込まれることも、誰かの内側に踏み込むことも嫌で。
田舎特有の噂話にもよく辟易としていた。
それも、俺の知る爽生の一面だった。
だから、――だから、俺も、言い訳だけど、離れて寂しいけど、すごく寂しいけど。爽生は案外と東京で楽しくやっているんじゃないのかな、と想像していた。
「でも、もっと気にかけてあげんとあかんかったんよね」
「……うん」
「しっかりしとるように見えるけど、あの子はまだ高校一年生になったばっかりで、誰も知り合いのおらんところに引っ越して」
俺はもう一度、うん、と頷いた。
「高校の入学の時期やったから、みんな同じスタートですぐに友達もできる、あんな田舎のことなんてすぐに遠なる、そう思てたけど」
あんな田舎という表現がいかにも俺の知るおばちゃんらしくて、ちょっと笑う。その俺を見て、おばちゃんもそっと目元を笑ませた。
爽生と少し似ているそれで。
「私が、ここがすごく楽やったから。でも、あの子と私は見た目は似とっても、違う人間やもんね」
「うん」
せやね、と俺は同意を示した。
「もっとあの子のことを考えたらなあかんかったんやね」
本当にそうだったのだと思う。おばちゃんもだけど、もちろん、俺も。でも、きっと、まだ大丈夫だ。
浜松を出たときとはぜんぜん違う心持ちで、俺は思った。まだ、間に合うことはできる。
うん、と小さく頷いて、ちらりと上を見上げる。おばちゃんに不審がられないように、そっと。
そこには、制服姿の爽生が、なんとも言えない困った顔で浮かんでいた。
俺たちのどちらかが興味を持って近付いたわけではなく、近くにいたからなんとなく仲良くなった。
もちろん、物心がついてからも一緒だったのは馬が合ったから、という理由もあったと思う。
ただ、俺たちが通っていた小規模校は同級生は二十人もいなくて。だから、選択肢が少なかったことも事実だった。仲良くならざるを得ない、みたいな。
でも、――でも。
高校生になって、街中にある大きな高校に通うようになって、俺の世界はぐんと広がった。
はじめて爽生と共通じゃない友達もできた。楽しかった。それも本当だ。
でも、俺は、やっぱり、一番は爽生がいい。どうしたって、爽生がいい。それで、爽生にとっての一番でもありたいと思っている。
今、この瞬間になっても。
母さんに教えてもらった病院にたどり着いたときには、もう夜になっていた。
はぁと小さく息を吐いて、きょろりと周囲を見渡す。
住所を知らせるメッセージのあとに届いたもう一通で、爽生のおばちゃんが迎えに来てくれると言っていたからだ。
まぁ、直接のお見舞いは今日は難しいという一文も添えてあったのだけど。それでも、爽生の現状を一番知っているだろう人に会えることは、うれしかった。
メッセージの指示に従って、病院の夜間入口を探して敷地内に入る。その先で見つけた姿に、俺は「おばちゃん」と駆け寄った。
はっとして顔で、おばちゃんが顔を上げる。
「龍くん」
「あ……」
地元でよく見たおばちゃんとはぜんぜん違う疲れ切った雰囲気に、俺はドキリとした。慌てて謝罪の言葉を告げる。
「ごめん、急にこんな時間に。会われへんってわかっとるのに」
「ええんよ、ええんよ。来てくれてありがとうね」
そう言って、おばちゃんは疲れた顔でほほえんだ。
いつも、ちょっとびっくりするくらい隙のない恰好をしていた人が、こんなふうになっている。その事実に、俺はまたドキリと恐ろしくなった。
それだけ大変な事態なのだと容易に想像がついたからだ。黒猫を触る代わりに、ぎゅっと自分の指を握りしめ、おばちゃんに問いかける。
「おばちゃん。その、爽生は……」
でも、大丈夫なのか、とはなぜか聞くことができなくて。中途半端に口ごもる。その俺に、おばちゃんは溜息のような吐息をこぼした。
「あのな、龍ちゃん。あの子、実は、そこまで怪我はたいしたことないんよ」
「え……、そうやったん?」
「うん。高いところから落ちたんは事実なんやけど。たまたま植え込みがあったらしくて、大きな問題はないんやって」
「そうなんや……」
よかった、と俺は心底ほっとした声で呟いた。でも、その直後に、「あれ」と不思議になる。
「じゃあ、もう意識も戻ってるん?」
「まだなんよ。大きな問題はほんまにないらしいんやけど」
そう言って、おばちゃんは言葉を切った。大きな問題はないと言ったのに、おばちゃんの表情は暗い。
再び心臓がバクバクと鳴り始めたことを、俺は自覚した。それでも、どうにか。必死に黙って続きを待っていると、思いつめた声が「せやで」と打ち明ける。
「もしかしたら、あの子、戻ってきたくないんと違うやろかって」
「おばちゃん」
とっさに、俺は呼びかけた。でも、俺よりずっと年上の、大人の、今、意識が戻らない爽生のお母さんを慰める言葉なんてわからなくて。
結局、口ごもってしまったのだけど。おばちゃんは、そのまま話を続けた。
もしかしたら、だけど。誰でもいいから、心の不安を吐き出したかったのかもしれない。
「私、仕事ばっかりで、向こうにおるときも、あの子のことはおばあちゃんに任せっきりやったから」
「……うん」
「あの子が救急車で運ばれたって聞いたときも、なんも理由がわからんで。母親失格やね」
あるいは、責められたかったのだろうか。多分に自嘲の混ざった調子に、俺はなんとも言えない気持ちになった。
だって、目の前にいるおばちゃんを見ていれば、後悔していることも、心配していることも、すごくすごくよくわかる。
でも、同時に、おばちゃんが俺に打ち明けた理由も少しわかる気がした。
……だって、俺も、ナミさんにいろいろ話したん、叱られたかったからかもしれんもん。
おまえのせいやって。母さんも、爽生のおばちゃんも絶対に言わないとわかっているから、そうじゃない第三者に。
おばちゃんに「そんなことないよ」と告げる代わりに、俺は告白をした。
「おばちゃん、俺もめっちゃ後悔しとるねん」
「え……?」
「入学した高校で友達ができて、テストやなんやって忙しいて。……いや、これ、ぜんぶ言い訳やねんけど」
何度説明しても、我ながら本当に最悪だなぁと思うし、爽生の「目の前で起きたことしか気にしない」と糾弾したくなる気持ちもわかる。
だけど、それが俺だった。そのことを認めないといけない。おばちゃんから視線を外さず、俺は言い募った。
「それで、そんなふうにしとるうちに、爽生からの連絡、『いつでも返事できるし、あとでええか』ってなっとった」
爽生だったら大丈夫だという甘えもあったし、明日でも、明後日でも、爽生は変わらずいると思っていたから。
でも、今ならわかる。
「寂しかったんやと思う、爽生」
おばちゃんに向かって、はっきりと俺は言った。爽生は生まれ育った場所に愛着があったわけじゃないと思う。
でも、少なくとも、ばあちゃんや俺に対する愛着はあったはずだ。
目を瞠ったおばちゃんの表情が居た堪れなくて、俺はふっと笑った。まったくうまく笑えていなかったかもしれないけど。
「あいつ、おばあちゃん子やったから」
……だって、「ばあちゃんに会いたい」やったもんなぁ。
ばあちゃんがもっと元気やったらよかったのに。そんな他人任せなことを考えていると、おばちゃんが口を開いた。
「龍ちゃんのせいやない」
かすかに震えた声で、おばちゃんが繰り返す。
「龍ちゃんのせいやないよ」
うん、とも、違う、とも言わずにいると、おばちゃんは「私もな」と切り出した。先ほどよりかは、幾分落ち着いた口調で。
「あんな田舎におるより、東京に出てきたほうが爽生のためや、思うててん」
「爽生のため?」
「そう。高校のうちからこっちに出てきたら、選択肢が広がるやろ? 龍ちゃんにこんなこと言うんはあれかもしれんけど」
苦笑まじりに言い足し、おばちゃんはこう続けた。
「それに、あの子、龍ちゃんとおばあちゃんのことは好きやったみたいやけど、私と同じであんまり田舎に合わん感じがしとったから。せやで」
「ええよ」
今にも泣き出しそうなおばちゃんの顔を見つめ、首を振る。
「それも、わかるで」
本心で、俺は言った。俺自身、たった今思っていたことだ。爽生はあの土地に愛着があったわけじゃないんだろうな、と、そう。
俺が――、俺たちが育った場所は、田舎だ。めちゃくちゃな田舎ではないかもしれないけど、ふつうにけっこうな田舎。
公立高校は市内に二つしかなくて、地元から通うことのできる大学はひとつもない。だから、都会に出たい人は、どんどんいなくなる。
そういう田舎。その田舎に、爽生のおばちゃんは、たぶん合っていなかった。それで、おばちゃんが言うとおり、爽生も、たぶん、そう。
俺は爽生が好きだったけど、爽生と一緒にいるのがなによりも楽しかったけど。爽生はばあちゃんがいなかったら、都会で生活をしたほうが楽だったんじゃないのかな、と思うことがあった。
心を許した身近な人間以外と深くかかわることは嫌で。
いつも笑っているけれど、誰かに内側に踏み込まれることも、誰かの内側に踏み込むことも嫌で。
田舎特有の噂話にもよく辟易としていた。
それも、俺の知る爽生の一面だった。
だから、――だから、俺も、言い訳だけど、離れて寂しいけど、すごく寂しいけど。爽生は案外と東京で楽しくやっているんじゃないのかな、と想像していた。
「でも、もっと気にかけてあげんとあかんかったんよね」
「……うん」
「しっかりしとるように見えるけど、あの子はまだ高校一年生になったばっかりで、誰も知り合いのおらんところに引っ越して」
俺はもう一度、うん、と頷いた。
「高校の入学の時期やったから、みんな同じスタートですぐに友達もできる、あんな田舎のことなんてすぐに遠なる、そう思てたけど」
あんな田舎という表現がいかにも俺の知るおばちゃんらしくて、ちょっと笑う。その俺を見て、おばちゃんもそっと目元を笑ませた。
爽生と少し似ているそれで。
「私が、ここがすごく楽やったから。でも、あの子と私は見た目は似とっても、違う人間やもんね」
「うん」
せやね、と俺は同意を示した。
「もっとあの子のことを考えたらなあかんかったんやね」
本当にそうだったのだと思う。おばちゃんもだけど、もちろん、俺も。でも、きっと、まだ大丈夫だ。
浜松を出たときとはぜんぜん違う心持ちで、俺は思った。まだ、間に合うことはできる。
うん、と小さく頷いて、ちらりと上を見上げる。おばちゃんに不審がられないように、そっと。
そこには、制服姿の爽生が、なんとも言えない困った顔で浮かんでいた。



