たどり着いた地下道を数メートル進んだところで、俺は立ち止まった。そうして、呟くように問いかける。
「なぁ、なんやったん。さっきの」
車の通行の多い道路の下にある歩行者用の道だけど、時間帯のせいか、俺たち以外に人はいなかった。
入口から見える空はすっかり暗くなっていて、雨音も激しくなっている。その雨音にかき消されそうな声で爽生は応えた。
「わからん」
「わからんて」
「わからんことばっか増えてくねん」
どこか投げやりなそれに、焦れすぎて苛立ちが混ざっていた気持ちがすとんと冷静になる。
黒猫は、声と合致しない澄ました顔で付け足した。雷がどこかに落ちる音がした。
「なんでコンビニの前におったんかも、ほんまにわからへん」
「爽生……」
「やって、死んだあとに――いや、まぁ、正確に言うと、俺は死んでへんみたいやけど、こんなことになるなんて思わんかったもん」
どう言えばいいのかわからず黙り込んだ俺の反応を、爽生が笑う。いとも軽い調子だった。
「いや、だって、よう考えてみいよ。ふつう、黒猫に入れるとか思わんやろ。それで、その黒猫が動くとか」
「……それは、まぁ、俺も驚いたけど」
「よなぁ」
さらりとした笑い声を聞きながら、二の腕を擦る。雨が降って温度が下がったせいばかりではなく、寒い気がしたからだ。
……わからんって、なんか、逆にめっちゃ怖ぁないか?
今、爽生はここにいてくれるけれど。わからないままに、消えてしまう可能性もあるんじゃないだろうか。
覚えた不安にぞわりと怖くなっていると、爽生がぽつりと口を開いた。
「龍は、勇者やないんやろ?」
「え、……ああ、うん」
そういえば、歩道橋でそんなことを言ったような。思い出して首肯すると、爽生はまた少し笑った。
「それやったら、ほんまにあんまりよけいなことするんはやめときよ」
爽生は、俺ではなく、入口の向こう、雨が降る外を見つめている。俺の部屋にずっと置いてあっただけの黒猫のマスコット。
それがなんで動くのか、俺だってずっと不思議だった。
深く考えたら恐ろしくなりそうだったから。だから、あまり考えないようにして、逃げていた。
「……あのな」
悩んだものの、俺はひとつ吐き出した。
「爽生が知っとるかわからへんのやけど。あの子、爽生がおらんくなったとき、俺を爽生のとこまで案内してくれてん」
「…………」
「今、どういう状況なんか、俺にもさっぱりわからへんねんけど、どうにかならへんのかな」
「せやで、それがよけいなことや言うてんねん」
嫌そうに、爽生が溜息を吐く。
「というか、龍。さっき、スマホであの子見てたやん」
「あ、……うん。なんか、気になって。あかんかったかな」
「あかんくはないやろけど。龍はほんまに動物的よなぁ」
これは絶対に褒められてはないと思う。じとりとした視線を送ると、黒猫はひょいと器用に肩をすくめた。
「まぁ、動物的云々は置いとくけど。あの子の周りにも黒いもやみたいなんが見えたやろ?」
「……うん。でも、なんなんかな、あれ」
「マイナスの感情なんやないかな」
「マイナスの感情……」
いつかと同じように、おうむ返しに呟く。
ずるい、寂しい。そう言っていた女の子の声がよみがえり、俺は沈痛な顔になった。その俺と正反対の淡々とした声で、爽生は続ける。
「人間もそうやと思うけど、誰だっていろんな感情を持ってるやんか」
「うん」
「でも、ふつうやったら、嫌なことがあっても理性で押さえるやろ? ちょっと腹立ったからって殴ったりせぇへんし、いい大人が大泣きしたりせぇへん」
「……うん」
「そうやけど、幽霊みたいな存在は、そういう理性が薄いんやと思う。ダイレクトに本能で左右される。そんなに近寄ったら危ないやろ」
俺を爽生のところに連れて行ってくれたあの子と、さっき見たあの子を同じものだと思わないほうがいいという忠告なのだろうな、と思った。
人間の尺度で、人間の善意の解釈で、死んだものに関わるべきではない、と、そう。関わったら、どうなるのかわからない、と。
……なんなんやろなぁ。
外では雨が一段と強くなったようだった。雷鳴が光り、すぐに落ちる音がした。たぶん、すごく近い。
頭の中で、ぐるぐるといろいろな思考が回り続けている。俺はそっと澄ました顔の黒猫を窺った。
「爽生は」
慎重に、そっと問いかける。
「あのとき、なんか嫌なことあったん?」
あのとき。ナミさんの家に急遽泊めてもらうことになった日の翌朝。撮ってもらった写真に黒いもやがあったのは、そのときのことだ。
まぁ、見えていなかっただけで、それ以前からずっとあったのかもしれないけれど。
ほんの少しの間を挟み、黒猫が口を開く。
「どうやろな」
あ、なんか誤魔化したな。爽生の言い方で、俺は判断した。
なにを誤魔化したのかまではわからなくても、そのくらいのことはわかるつもりでいる。今も、まだ。
それで、こういうときは。よけいな口を挟まず、爽生が自分の意思で喋り始めるまで待つべきだ、ということも。
その思いで黙っていると、爽生は小さく溜息を吐いた。
「でも、べつに、あるやろ。なんや、いろいろ。そのときの気分で、『もうええわ』って思うことは」
「『もうええわ』?」
「もうええわ、というか、……まぁ。でも、龍もあるんと違うん? 『嫌やな、こいつ。ほんまもう知らんわ』って思うこと」
嫌やな、こいつ。ほんまもう知らんわ。爽生の台詞を脳内で繰り返し、俺は首をひねった。
爽生の言うそれは、たぶん、俺を指しているんだろう。でも。
――ないなぁ、俺。爽生にそういうこと思ったこと。
もちろん、爽生が、俺にそう思わせるような言動を取らなかったから、が理由だったのかもしれないけれど。
小さく笑うと、黒猫が軽く眉を上げた。
「なんやねん、急に笑って」
「いや、なんやろ」
拗ねたようにも見えるそれに、笑いを押し殺しながら打ち明ける。
「そら、『もう知らんわ』って思うことくらいはあるんやろうけど。一日寝たら忘れるいうか。『もうええわ』とまでは思わんな、と思って」
「…………」
「なんか、そんな感じやわ、俺。爽生に対しては。――うわ、また雷落ちたな」
しかも、随分と音が近い。これは、もう、止むまでは足止めだな。
スマホを取り出して雨雲レーダーを確認しようとしたところで、俺は「なに?」と爽生に声をかけた。
「どしたん、変な顔して」
「変な顔て。……いや、なんや。龍やなぁ思うて」
「はぁ? そら、俺やよ」
「いや、それはそうなんやけど」
先ほどまでの呆れた空気を一掃する調子で、爽生は笑っている。
突然の変化に、俺はきょとんと黒猫を凝視してしまった。
「そうなんよな。シリアスも続かへんし、注意しても右から左やし。ほんまに喉元過ぎたらやねんけど」
「いや、ごめんて」
「でも、龍は裏表がないんよな。あほやな、というか、もうちょっと言葉選べへんのかい、と思うことはいくらでもあるけど」
くすくすと笑ったまま、爽生が続ける。
「笑っとるけど、ほんまはなに考えとんのやろ、みたいな裏を読まんですむで。俺、龍のそういうとこが、たぶん、すごい楽やった」
「爽生……」
「あとは、そうやな。いまさらやねんけど。龍が俺の絶対の味方やって思うことができたんも、すごい幸せなことやったんやろなぁ」
妙に穏やかな空気に、ざわりと嫌な感じがした。その俺の変化に、気づかなかったのだろうか。爽生は満足したふうに「うん」と頷いた。
「そうやな。せやで、俺、コンビニの前におったんかもしらん。まぁ、やっぱり、理屈は謎やねんけど」
夏休みが始まる前日。爽生のいない高校で仲良くなった友達と、一学期の打ち上げをした帰り道。
暗い田舎の一本道を自転車で走っていたときに、爽生を見かけて。こんなことになっているなんて夢にも思わないまま、喜んで声をかけた。自分の不義理もなにもかも棚に上げて。
爽生、と。黒猫に呼びかけようとした瞬間、ふっと笑う気配がした。
「この子もそうなんかなぁ」
「え――、おわっ!」
爽生の視線を追うように見渡し、ぎょっとして小さく叫ぶ。反対側の壁際にあの女の子が座り込んでいたからだ。
「ぜ、ぜんぜん気づかんかった……」
「龍やなぁ」
あっさりとした物言いに、あの瞬間ほど悪いものではないのだと悟る。でも、なんとなく気になって。俺は手に持っていたスマホを女の子に向けた。
カメラを起動して撮らないままスマホ越しに女の子を見る。
――やっぱり、もう今は大丈夫……なんかな?
女の子の周りに、嫌な感じのもやはない。確認を終え、俺はスマホをポケットに戻した。ちらりと肩に乗る黒猫に目を向ける。
「この子もそうってどういうことなん?」
こそりとした質問に、黒猫はおかしそうに笑った。
「どういうこと、いうか。ほら、小さい子は善人かどうかわかる言うやん?」
それは、俺が善人だから、俺を追いかけて着いてきたというなのだろうか。俺は「うーん」と首をひねった。
「いや、べつに、俺、善人ではないと思うけど」
「まぁ、でも、悪人でもないやろ」
さらりと受け流した黒猫が、ぴょんと肩から飛び降りる。次に目の前に現れたのは、制服姿の爽生だった。
ほんまに自由自在やなぁと半ば感心しているうちに、爽生が女の子に近づいていく。
「でもなぁ、ごめんな。俺らはなんもしたられへんねん」
女の子の視線と合わせるように、爽生はしゃがみ込んだ。その爽生のすぐうしろで、俺も立ち止まる。
女の子はじっと爽生を見ているようだった。
「どれだけ寂しい言うても、かわいそうやなぁと思えても、一緒に死んだられへん」
女の子に言い聞かせる調子だったけど、俺に対しても言っている気がした。
……でも、まぁ、そうよな。
どうにかしてやりたい、と。俺は簡単に言ったけど、女の子に「寂しい」から、「大事にしてほしい」から、一緒に死んでほしいと請われても、俺は叶えることはできない。
これは、たしかに、目の前のことばかりで、それ以外はなにも考えていないと糾弾されても、否定できないな。
ひっそり自嘲したタイミングで、俺は「ん?」と首を傾げた。女の子の小さな指が俺をさしていたからだ。
「これ?」
俺がなにか尋ねるより早く、爽生が笑う。
「これはあかん」
「爽……」
「さっきも言うたやろ。これはあかんよって」
俺の呼びかけにも応えないまま。爽生は女の子を言い含めるように続け、――ふっと笑った。
「まぁ、べつに、俺のもんでもなんでもないんやけどな」
思わず、爽生の横顔を見つめる。でも、やっぱり、爽生は俺を見ることはなかった。ただただ女の子と対話をしている。
「でも、俺の大事やねん。一番か、二番くらいの」
その言葉に、女の子が納得したのか、どうかは知らない。でも、女の子はじっと爽生を見つめると、ゆっくりと消えていった。
あの男の子みたいに消えた、というよりは、この場から姿を消した、という雰囲気だったけれど。
「爽生」
躊躇いを呑み込んで声をかけると、爽生は立ち上がった。いつもどおりの顔で俺に笑う。
「とりあえず、どっか行ったわ」
「とりあえずって……」
「まぁ、しゃあない。俺は霊能者でもなんでもないんやし。それに、俺の優先順位は、けっこう昔からはっきり決まってんねん」
さらりとほほえみ、爽生は肩をすくめた。
「ばあちゃんと龍。次点で、うちの親と龍のおばちゃんたちやな」
「爽生」
「帰ろか」
「え……」
「ばあちゃんより先に死ぬわけにはいかんしなぁ」
驚いた声を出した俺に、爽生がまたくすくすと笑う。
ばあちゃんより先に死ぬわけにはいかない。爽生の台詞に、じわじわとした安堵が湧き、俺は呟くように言った。
「そ、それはそうやろ」
「なぁ。ほんまそうやわ」
ぎこちない俺の突っ込みと正反対の声で笑い、爽生はするりと姿を消す。でも、それも一瞬のことだった。
動き出した黒猫が、ぴょんと俺の肩に飛び乗る。定位置だとでもいうみたいに。
ようやくゲリラ豪雨が過ぎ去ったのか、地下道の入口からは光が差し込んでいた。
「って、なんでまた黒猫やねん」
ほっとした気分を誤魔化すようにもう一度突っ込めば、「ええやろ、べつに」と爽生が笑う。
「龍の肩に乗って歩くんも、けっこう楽しかったで、俺」
「まぁ、俺も楽しなかったわけやないけど」
照れ隠し半分、本音半分で俺は応じた。
「でも、次はふつうにふたりで――爽生?」
歩き始めようとしていた足がぴたりと立ち止まる。肩から人形が落ちたからだ。ただの人形みたいに、黒猫は動かない。
俺は慌てて黒猫を拾い上げた。
「爽生!?」
でも、どんなに叫んでも、黒猫は動かなかった。
「……嘘やろ」
なにに対しての「嘘」なのかもわからないまま、呟く。
一瞬呆然としたものの、俺は走り出した。
早く、早く。
早く、東京に行かないと。
「なぁ、なんやったん。さっきの」
車の通行の多い道路の下にある歩行者用の道だけど、時間帯のせいか、俺たち以外に人はいなかった。
入口から見える空はすっかり暗くなっていて、雨音も激しくなっている。その雨音にかき消されそうな声で爽生は応えた。
「わからん」
「わからんて」
「わからんことばっか増えてくねん」
どこか投げやりなそれに、焦れすぎて苛立ちが混ざっていた気持ちがすとんと冷静になる。
黒猫は、声と合致しない澄ました顔で付け足した。雷がどこかに落ちる音がした。
「なんでコンビニの前におったんかも、ほんまにわからへん」
「爽生……」
「やって、死んだあとに――いや、まぁ、正確に言うと、俺は死んでへんみたいやけど、こんなことになるなんて思わんかったもん」
どう言えばいいのかわからず黙り込んだ俺の反応を、爽生が笑う。いとも軽い調子だった。
「いや、だって、よう考えてみいよ。ふつう、黒猫に入れるとか思わんやろ。それで、その黒猫が動くとか」
「……それは、まぁ、俺も驚いたけど」
「よなぁ」
さらりとした笑い声を聞きながら、二の腕を擦る。雨が降って温度が下がったせいばかりではなく、寒い気がしたからだ。
……わからんって、なんか、逆にめっちゃ怖ぁないか?
今、爽生はここにいてくれるけれど。わからないままに、消えてしまう可能性もあるんじゃないだろうか。
覚えた不安にぞわりと怖くなっていると、爽生がぽつりと口を開いた。
「龍は、勇者やないんやろ?」
「え、……ああ、うん」
そういえば、歩道橋でそんなことを言ったような。思い出して首肯すると、爽生はまた少し笑った。
「それやったら、ほんまにあんまりよけいなことするんはやめときよ」
爽生は、俺ではなく、入口の向こう、雨が降る外を見つめている。俺の部屋にずっと置いてあっただけの黒猫のマスコット。
それがなんで動くのか、俺だってずっと不思議だった。
深く考えたら恐ろしくなりそうだったから。だから、あまり考えないようにして、逃げていた。
「……あのな」
悩んだものの、俺はひとつ吐き出した。
「爽生が知っとるかわからへんのやけど。あの子、爽生がおらんくなったとき、俺を爽生のとこまで案内してくれてん」
「…………」
「今、どういう状況なんか、俺にもさっぱりわからへんねんけど、どうにかならへんのかな」
「せやで、それがよけいなことや言うてんねん」
嫌そうに、爽生が溜息を吐く。
「というか、龍。さっき、スマホであの子見てたやん」
「あ、……うん。なんか、気になって。あかんかったかな」
「あかんくはないやろけど。龍はほんまに動物的よなぁ」
これは絶対に褒められてはないと思う。じとりとした視線を送ると、黒猫はひょいと器用に肩をすくめた。
「まぁ、動物的云々は置いとくけど。あの子の周りにも黒いもやみたいなんが見えたやろ?」
「……うん。でも、なんなんかな、あれ」
「マイナスの感情なんやないかな」
「マイナスの感情……」
いつかと同じように、おうむ返しに呟く。
ずるい、寂しい。そう言っていた女の子の声がよみがえり、俺は沈痛な顔になった。その俺と正反対の淡々とした声で、爽生は続ける。
「人間もそうやと思うけど、誰だっていろんな感情を持ってるやんか」
「うん」
「でも、ふつうやったら、嫌なことがあっても理性で押さえるやろ? ちょっと腹立ったからって殴ったりせぇへんし、いい大人が大泣きしたりせぇへん」
「……うん」
「そうやけど、幽霊みたいな存在は、そういう理性が薄いんやと思う。ダイレクトに本能で左右される。そんなに近寄ったら危ないやろ」
俺を爽生のところに連れて行ってくれたあの子と、さっき見たあの子を同じものだと思わないほうがいいという忠告なのだろうな、と思った。
人間の尺度で、人間の善意の解釈で、死んだものに関わるべきではない、と、そう。関わったら、どうなるのかわからない、と。
……なんなんやろなぁ。
外では雨が一段と強くなったようだった。雷鳴が光り、すぐに落ちる音がした。たぶん、すごく近い。
頭の中で、ぐるぐるといろいろな思考が回り続けている。俺はそっと澄ました顔の黒猫を窺った。
「爽生は」
慎重に、そっと問いかける。
「あのとき、なんか嫌なことあったん?」
あのとき。ナミさんの家に急遽泊めてもらうことになった日の翌朝。撮ってもらった写真に黒いもやがあったのは、そのときのことだ。
まぁ、見えていなかっただけで、それ以前からずっとあったのかもしれないけれど。
ほんの少しの間を挟み、黒猫が口を開く。
「どうやろな」
あ、なんか誤魔化したな。爽生の言い方で、俺は判断した。
なにを誤魔化したのかまではわからなくても、そのくらいのことはわかるつもりでいる。今も、まだ。
それで、こういうときは。よけいな口を挟まず、爽生が自分の意思で喋り始めるまで待つべきだ、ということも。
その思いで黙っていると、爽生は小さく溜息を吐いた。
「でも、べつに、あるやろ。なんや、いろいろ。そのときの気分で、『もうええわ』って思うことは」
「『もうええわ』?」
「もうええわ、というか、……まぁ。でも、龍もあるんと違うん? 『嫌やな、こいつ。ほんまもう知らんわ』って思うこと」
嫌やな、こいつ。ほんまもう知らんわ。爽生の台詞を脳内で繰り返し、俺は首をひねった。
爽生の言うそれは、たぶん、俺を指しているんだろう。でも。
――ないなぁ、俺。爽生にそういうこと思ったこと。
もちろん、爽生が、俺にそう思わせるような言動を取らなかったから、が理由だったのかもしれないけれど。
小さく笑うと、黒猫が軽く眉を上げた。
「なんやねん、急に笑って」
「いや、なんやろ」
拗ねたようにも見えるそれに、笑いを押し殺しながら打ち明ける。
「そら、『もう知らんわ』って思うことくらいはあるんやろうけど。一日寝たら忘れるいうか。『もうええわ』とまでは思わんな、と思って」
「…………」
「なんか、そんな感じやわ、俺。爽生に対しては。――うわ、また雷落ちたな」
しかも、随分と音が近い。これは、もう、止むまでは足止めだな。
スマホを取り出して雨雲レーダーを確認しようとしたところで、俺は「なに?」と爽生に声をかけた。
「どしたん、変な顔して」
「変な顔て。……いや、なんや。龍やなぁ思うて」
「はぁ? そら、俺やよ」
「いや、それはそうなんやけど」
先ほどまでの呆れた空気を一掃する調子で、爽生は笑っている。
突然の変化に、俺はきょとんと黒猫を凝視してしまった。
「そうなんよな。シリアスも続かへんし、注意しても右から左やし。ほんまに喉元過ぎたらやねんけど」
「いや、ごめんて」
「でも、龍は裏表がないんよな。あほやな、というか、もうちょっと言葉選べへんのかい、と思うことはいくらでもあるけど」
くすくすと笑ったまま、爽生が続ける。
「笑っとるけど、ほんまはなに考えとんのやろ、みたいな裏を読まんですむで。俺、龍のそういうとこが、たぶん、すごい楽やった」
「爽生……」
「あとは、そうやな。いまさらやねんけど。龍が俺の絶対の味方やって思うことができたんも、すごい幸せなことやったんやろなぁ」
妙に穏やかな空気に、ざわりと嫌な感じがした。その俺の変化に、気づかなかったのだろうか。爽生は満足したふうに「うん」と頷いた。
「そうやな。せやで、俺、コンビニの前におったんかもしらん。まぁ、やっぱり、理屈は謎やねんけど」
夏休みが始まる前日。爽生のいない高校で仲良くなった友達と、一学期の打ち上げをした帰り道。
暗い田舎の一本道を自転車で走っていたときに、爽生を見かけて。こんなことになっているなんて夢にも思わないまま、喜んで声をかけた。自分の不義理もなにもかも棚に上げて。
爽生、と。黒猫に呼びかけようとした瞬間、ふっと笑う気配がした。
「この子もそうなんかなぁ」
「え――、おわっ!」
爽生の視線を追うように見渡し、ぎょっとして小さく叫ぶ。反対側の壁際にあの女の子が座り込んでいたからだ。
「ぜ、ぜんぜん気づかんかった……」
「龍やなぁ」
あっさりとした物言いに、あの瞬間ほど悪いものではないのだと悟る。でも、なんとなく気になって。俺は手に持っていたスマホを女の子に向けた。
カメラを起動して撮らないままスマホ越しに女の子を見る。
――やっぱり、もう今は大丈夫……なんかな?
女の子の周りに、嫌な感じのもやはない。確認を終え、俺はスマホをポケットに戻した。ちらりと肩に乗る黒猫に目を向ける。
「この子もそうってどういうことなん?」
こそりとした質問に、黒猫はおかしそうに笑った。
「どういうこと、いうか。ほら、小さい子は善人かどうかわかる言うやん?」
それは、俺が善人だから、俺を追いかけて着いてきたというなのだろうか。俺は「うーん」と首をひねった。
「いや、べつに、俺、善人ではないと思うけど」
「まぁ、でも、悪人でもないやろ」
さらりと受け流した黒猫が、ぴょんと肩から飛び降りる。次に目の前に現れたのは、制服姿の爽生だった。
ほんまに自由自在やなぁと半ば感心しているうちに、爽生が女の子に近づいていく。
「でもなぁ、ごめんな。俺らはなんもしたられへんねん」
女の子の視線と合わせるように、爽生はしゃがみ込んだ。その爽生のすぐうしろで、俺も立ち止まる。
女の子はじっと爽生を見ているようだった。
「どれだけ寂しい言うても、かわいそうやなぁと思えても、一緒に死んだられへん」
女の子に言い聞かせる調子だったけど、俺に対しても言っている気がした。
……でも、まぁ、そうよな。
どうにかしてやりたい、と。俺は簡単に言ったけど、女の子に「寂しい」から、「大事にしてほしい」から、一緒に死んでほしいと請われても、俺は叶えることはできない。
これは、たしかに、目の前のことばかりで、それ以外はなにも考えていないと糾弾されても、否定できないな。
ひっそり自嘲したタイミングで、俺は「ん?」と首を傾げた。女の子の小さな指が俺をさしていたからだ。
「これ?」
俺がなにか尋ねるより早く、爽生が笑う。
「これはあかん」
「爽……」
「さっきも言うたやろ。これはあかんよって」
俺の呼びかけにも応えないまま。爽生は女の子を言い含めるように続け、――ふっと笑った。
「まぁ、べつに、俺のもんでもなんでもないんやけどな」
思わず、爽生の横顔を見つめる。でも、やっぱり、爽生は俺を見ることはなかった。ただただ女の子と対話をしている。
「でも、俺の大事やねん。一番か、二番くらいの」
その言葉に、女の子が納得したのか、どうかは知らない。でも、女の子はじっと爽生を見つめると、ゆっくりと消えていった。
あの男の子みたいに消えた、というよりは、この場から姿を消した、という雰囲気だったけれど。
「爽生」
躊躇いを呑み込んで声をかけると、爽生は立ち上がった。いつもどおりの顔で俺に笑う。
「とりあえず、どっか行ったわ」
「とりあえずって……」
「まぁ、しゃあない。俺は霊能者でもなんでもないんやし。それに、俺の優先順位は、けっこう昔からはっきり決まってんねん」
さらりとほほえみ、爽生は肩をすくめた。
「ばあちゃんと龍。次点で、うちの親と龍のおばちゃんたちやな」
「爽生」
「帰ろか」
「え……」
「ばあちゃんより先に死ぬわけにはいかんしなぁ」
驚いた声を出した俺に、爽生がまたくすくすと笑う。
ばあちゃんより先に死ぬわけにはいかない。爽生の台詞に、じわじわとした安堵が湧き、俺は呟くように言った。
「そ、それはそうやろ」
「なぁ。ほんまそうやわ」
ぎこちない俺の突っ込みと正反対の声で笑い、爽生はするりと姿を消す。でも、それも一瞬のことだった。
動き出した黒猫が、ぴょんと俺の肩に飛び乗る。定位置だとでもいうみたいに。
ようやくゲリラ豪雨が過ぎ去ったのか、地下道の入口からは光が差し込んでいた。
「って、なんでまた黒猫やねん」
ほっとした気分を誤魔化すようにもう一度突っ込めば、「ええやろ、べつに」と爽生が笑う。
「龍の肩に乗って歩くんも、けっこう楽しかったで、俺」
「まぁ、俺も楽しなかったわけやないけど」
照れ隠し半分、本音半分で俺は応じた。
「でも、次はふつうにふたりで――爽生?」
歩き始めようとしていた足がぴたりと立ち止まる。肩から人形が落ちたからだ。ただの人形みたいに、黒猫は動かない。
俺は慌てて黒猫を拾い上げた。
「爽生!?」
でも、どんなに叫んでも、黒猫は動かなかった。
「……嘘やろ」
なにに対しての「嘘」なのかもわからないまま、呟く。
一瞬呆然としたものの、俺は走り出した。
早く、早く。
早く、東京に行かないと。



