今ごろは魔王を倒しているはずだった

「なーにが『絶対』やねん」
 老人ホームを出た瞬間、黙りこくっていた黒猫が口を開く。なんというか、めちゃくちゃ拗ねた言い方だった。
「龍の言葉は軽いねん、基本」
「悪かったってや」
 ぶつぶつとしたそれに軽く謝り、バス停を目指して大通りに向かう。太陽はまだまだ高くて、数メートル先で蜃気楼が揺れていた。
「なぁ、爽生」
 日陰を選んで歩きながら、爽生に問いかける。
「ばあちゃん、どうしたん。いや、……その、どうしたんっていうんもあれやねんけど」
「ああ」
 聞き方を失敗したかな、と思ったものの、爽生の態度はあっさりしていた。
「春先に家の前で転んでんて。怪我自体はそこまで酷うなかったんやけど、入院で一気に認知症進んでん」
「そうやったんや……」
「うん。それで。ひとり暮らしはもう無理やってなって、父さんと父さんの兄弟で話し合って、こうなった」
 ばあちゃんが施設に入ったという話を母さんに聞いたとき、俺はなにを考えていたんだろう。
 こんなに大ごとだと思わなかったから、爽生に確認のひとつもしなかったのだろうか。
 ……薄情やなぁ、ほんま。
 目の前のことにしか必死にならないとした爽生の弁がよくわかる。小さく頷くことで返事とした俺に、爽生は淡々と説明を続ける。
「おじさんの家がこの近くや言うたやろ。まぁ、近い言うても、車で小一時間はかかる言うてはったけど」
「そうなんや」
 それ以外に言いようがなく、俺は同じ相槌を打った。ほんの少しの間を置いて、爽生が口を開く。
「父さんは、地元に残っとったらよかったって言うてたけど、母さんは、東京に出たあとでラッキーやったって言うてた」
「え」
 爽生のおばちゃんの笑顔が脳裏を過り、俺は驚いた声を出した。
 爽生のおばちゃんは、うちの地元ではちょっと珍しい都会の人で、爽生とよく似たきれいで、おしゃれな人だった。
 仕事に精を出すタイプの人でもあったから――これも、うちの地元ではちょっと珍しいことだ――、大きくなってからは会う回数は減ったけど。それでも、顔を合わせるといつもにこにこしていて、優しくて。
「まぁ、たまたま母さんが通話しとるの、聞いただけなんやけど」
 絶句した俺と裏腹のさらりとした態度で爽生が笑う。
「あっちに残っとったら介護で人生ぱーになるとこやったって。ばあちゃんに面倒いっぱい見てもうたはずやのにな」
「…………」
「でも、なんも言えんで。なんか、俺」
 はは、と軽い調子で、爽生は再度笑った。肩に乗る黒猫から視線を外し、俺は再びうつむいた。
「ごめん」
「いや、なんで龍が謝るんよ」
 絞り出した謝罪を、爽生が三度笑う。俺はもう一度声を振り絞った。
「爽生の話、聞いたらんかったで」
 そうだ。本当だったら、何度もチャンスはあったはずなのに。
「なんで、俺、爽生にもっとラインせんかったんやろう……」
「いや、知らんわ。楽しかったんやろ」
 俺の後悔を、爽生は少し呆れたふうに笑い飛ばした。
 歩道橋で「目の前に自分がいなくなったから、優先順位が下がった」のだと言い切ったのと、同じ温度。
 ――ずっと仲良うしたってな。
 さっき聞いたばかりのばあちゃんの声が、耳の奥にずっと残っている。ふぅと息を吐いて、俺は立ち止まった。
「爽生」
 ばあちゃんの言うとおり、わからないことがあって当然だとしたら。いっぱい話を聞いて、話をすべきだとわかるのに。名前を呼ぶこと以外、なにもできなかった。
 爽生が困っていたことも、悲しんでいたこともなにも知らなくて。知ろうともしないまま、地元で楽しんでいた自分が恥ずかしい。腹が立つ。
「龍」
 聞き馴染んだ、しかたないという呼び方だった。
「爽生」
 震える声で名前を繰り返した俺に、「あのな」と爽生が言う。
「べつに、龍は悪うないよ」
「でも」
「俺があかんかってん。俺が龍がおらんとあかんかった」
「……え?」
 予想外の告白に、俺は黒猫を凝視した。
「でも、それだけ。龍のせいやないよ。ばあちゃんのとこ連れてきてくれてありがとうな」
「爽生」
「会えてよかったわ。あいかわらずお節介やなぁとは思ったけど、まぁ、でも、笑っとるばあちゃん見て、安心したし」
 本心とわかる柔らかい雰囲気で、爽生は笑っている。目を逸らすことも、なにかを言うこともできずにいると、爽生は口火を切った。
「さっきも言うたけど、べつに龍は俺がおらんでも楽しかったやろ」
「爽生」
 馬鹿のひとつ覚えみたいに、俺は名前を繰り返した。その俺に、とどめのように爽生が告げる。恨み言のかけらもにじんでいないことが、逆にきつかった。
「やで、これからも、楽しんだらええよ」
「……できるわけないやろ」
 自分が、ずっと。高校に入ってから爽生との連絡を怠けていたことをすべて棚上げにして、俺は言った。
「寂しいよ、爽生がおらんかったら」
 歩道橋では口にできなかった、幼すぎる本心。爽生がいてくれなかったら、俺は寂しい。
 今度黙り込んだのは爽生のほうだった。なんだか、もう、本当になにを言えばいいのかわからなくて。俺はそのままを吐き出した。
「これ、ぬい活やないし」
「え?」
「あと、ぜんぶ黒歴史なんかやないし」
 いや、まぁ、黒歴史だと言ったのは俺なんだけど、そういうことじゃなくて。困惑した爽生の声を無視して、俺は言い切った。
「ぜんぶ、ぜんぶ覚えとるし。爽生のことはぜんぶ」
 俺の人生は、生まれたときからほとんどずっと爽生が隣にいた。
 でも、これから先、ずっと隣にいることが不可能になっても、爽生のことを忘れるなんて、できるわけがない。
 喉がヒリヒリとして、泣いていないのに、泣いているみたいだった。肩ではぁと息をする。
 何度目かの沈黙が流れ、黒猫のマスコットがぴょこんと肩から飛び降りた。
「爽……」
 呼びかけが途切れる。目の前に制服姿の爽生が現れたからだ。今日、浜松の駅に降り立ってすぐのときのように。
「なぁ、爽生」
 蜃気楼に揺れる制服に、俺は一歩詰め寄った。
「歩道橋で俺に言うたやん。どうでもよくなったって」
「うん」
 小さく爽生は頷いた。あの町で、俺の隣にいたときと同じような態度で「言うたなぁ」と肩をすくめる。
 違うのは、制服の輪郭が風景に少し透けているということだけ。その爽生をまっすぐ見つめ、俺は言い募った。
「でも、ほんまにぜんぶどうでもよかったんやったら、俺が死にかけても焦らんでええし、昨日の男の子も助けんでもよかったし」
 ばあちゃんに会いに、浜松で降りんでもよかったし、とはさすがに言わなかったけれど。俺は問いかけた。
 京都のネットカフェで聞いて以来、二度目のことを。
「そもそもやけど、なんで、俺の前に出てきてくれたん?」
 ちっとも涼しくない風が、俺たちのあいだを吹き抜けていく。
 じりじりとした暑さの中でも汗のひとつも掻かない涼しい顔から、すっと笑みが消える。
「そうやなぁ」
 考えるような声も、静かだった。
「なんか、あの龍、見たら、えらいみっともなかったで。あんまり言いたぁなかったんやけど」
「え?」
「いや、ほら、落ちかけたやろ。歩道橋で。カード取ろうとして」
「え、……あ、うん。まぁ」
「あれと同じようなことしてん、俺」
「は?」
 知らず、声がデカくなる。その俺の反応に、爽生は少し笑った。
「東京で。学校の帰りにぼーっと歩道橋歩いとって、人とぶつかりかけて」
 本当に、なんでもないただの世間話のように、爽生は言う。
「なん、それ」
 自分でも、自分の声が震えたことがわかった。でも、取り繕うことはできなくて。俺はそのまま続きを口にした。
「それで落ちたん?」
「龍と一緒にせんでよ。スマホ落としそうになっただけで、それもちゃんと拾ったしな。落ちてへん」
 あっさりと否定した爽生が「ただなぁ」と苦笑する。
「なんか、こう、ふっと下見たら、吸い込まれたんよな」
「吸い込まれたって……」
 ぎこちなく繰り返したものの、爽生は今度はなにも否定しなかった。汗ばんだ指先をぎゅっと握り、縋るように確認する。
「そうや。爽生、駅で言うたよな。女の子見たら引っ張られるって。そういことやんな? なんかおったんやろ、歩道橋に」
 頼むから、そうだと言ってほしかった。
 なにかに引っ張られただけで、爽生の意思で飛んだわけじゃない。その言葉を引きずり出そうとする俺の魂胆を、爽生はさらりと否定した。
「そういうんやないよ。まぁ、これも歩道橋で言うたとおりで、積極的に死ぬつもりはなかったんやけど」
「…………」
「でも、俺、ずっとどっかで死んでもええって思ってたんやと思う」
「……爽生」
「やって、俺、あ、落ちるって思うたときも、べつになんも思わんかったもん」
 なんでもない、それだけのことだと主張するように、爽生が笑う。その顔を、俺は半ば呆然と見つめた。
 なんで、なんで、と。意味のない言葉ばかりが頭の中を流れていく。
 けれど、同じ心で、高校でいじめられて自殺未遂をしたというよりも、ずっと納得できると思ってしまっていた。
「それやのに、気がついたら龍の声がした」
 ぽつりとした声に、はっとして足元に落としていた視線を持ち上げる。
「なんでやったんやろう」
 爽生が首を傾げる。本当に、なんでなのかわからないみたいな言い方だった。
 それが、俺の前に出てきてくれた、爽生の答え。
 じわりと視界がにじみそうになって、乱雑に手の甲で拭う。
「爽生」
 今、目の前にいる爽生に向かって、俺は呼びかけた。
「来てくれて、ありがとう」
 ばあちゃんのところに行く前。歩道橋で、ああ、俺は、爽生の話をぜんぜん聞いてなかったんだな、と気がついたとき。
 ばあちゃんに会って、爽生の未練がなくなって、あの男の子みたいに消えてしまってもしかたないと言い聞かせようとしていた。
 俺には止めることができなかったのだから、しかたがない、と。そう。でも、無理だ。
「爽生」
「うん? なによ、今度は」
「……爽生」
 困ったようにほほえむ爽生の顔が、今にも消えてしまいそうで。気がつけば、俺は訴えていた。
「死なんで」
 こぼれ落ちた言葉に、爽生の瞳が揺らぐ。
 俺自身も、はっとした。俺に言う資格のない言葉だと思っていたからだ。でも、一度音になった感情を止めることはできなくて。俺は吐き出した。
「爽生が死んだら、俺、一生立ち直れん」
「……一生は嘘やろ」
 取ってつけたような苦笑いで応じ、爽生が視線を外す。
「すぐに慣れるよ、この数ヶ月もせやったやろ」
「わからん、でも、ずっと寂しいよ」
 言いながら、やっぱり、これが俺の掛け値なしの本音なのだと知った。
 爽生が隣にいなくても、俺は生きていけるかもしれない。でも、爽生がこの世界のどこからも消えてしまったら、俺は無理だ。
「だから、死なんで」
 そう言い縋った瞬間。ぶわりとした突風が吹いた。夕立の前触れのように、空がぐっと暗くなる。
「あ……」
 ゲリラ豪雨だろうか。ぱっと空を仰ぎ――、俺は固まった。