今ごろは魔王を倒しているはずだった

「というか、ばあちゃん、浜松の施設やったんやな」
 地図アプリで施設の場所を検索しながら、俺はできるだけいつもの調子で喋りかけた。
「うん」
 俺の肩からスマホを眺めていた黒猫が首肯する。
 念のために説明する必要もないと思うが、爽生だ。
 まぁ、歩くんも不便やしな、という一言で黒猫に戻ったのである。仕組みもなにもかも意味不明だが、そういうものだと思うしかない。
 だって、実際、黒猫に入って喋って動いてるんだし。
「おじさん……父さんの弟の家がこの近くやねん」
 その爽生が、さらりと説明をする。
「ばあちゃんが入ってすぐのときに一回、父さんと来たで、俺」
「あ、そうなんや……」
「せやで、近くまで行ったら、たぶんわかるで。案内したるわ」
「そら、頼りにしてますわ」
 えらそうな調子に、俺は軽く笑った。黒猫の丸い頭を指先でちょんとつつく。
「ほな、まぁ、行こか。こっからバスで行くねんて」
 爽生のばあちゃんが入居する老人ホームは、バスを二本乗り継いだ先にあるらしい。
 もう、これは、今日中に東京に着かなくてもしかたがない。割り切って、俺は爽生と一緒にバス停に向かった。


「あ、来館者名簿。そういうのに記入しないと、なんですね?」
 小一時間かけて到着した老人ホームの受付で、俺は困惑気味に尋ね返した。
「はい、みなさんにお願いしていますので、よろしくお願いします」
「あ、……はい」
 早く書けという職員さんの圧に負け、ペンを握る。来館者の名前と住所。電話番号。
 ……これ、俺の書いてええんかな?
 悩んでいると、耳元で声が響いた。
「名前。俺の書いて」
 俺にだけ聞こえる、爽生の声。小さく頷いて、爽生の名前を記入する。
 そのまま、爽生の声に誘導されるかたちで、俺は爽生の携帯番号と、東京の住所を来館者の名簿に書き記した。
「これでよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます。あら、東京から? ひとりで?」
「あ、……えっと、はい。夏休みなので」
 家出かなにかだと疑われたらどうしよう。焦ったものの、俺は愛想笑いを返した。
 ちなみにだけど、爽生はこういう詮索をすごく嫌がるタイプだったりする。内心はどうあれそつなく笑って返すので、聞いた相手が気づくことはないんだけど。
 ほんまに、そういうとこ、田舎で生きづらいタイプよな。本人には言えないことを内心で呟いて、へらりと言い足した。
「ひさしぶりにばあちゃんに会いたくなって。すみません、急に」
「そうなの」
 俺の顔をじーっと見ていた職員さんが、にこりとほほえむ。
「東京からお孫さんが来られたら、姫川さんも喜ばれますね」
「えっと、……はい」
 疑念が晴れたらしい事実にほっとして、俺はもう一度笑みを浮かべた。でも、もしかすると、複雑な感情がにじんでいたかもしれない。
「面会は三十分まででお願いします。それと、次に来られるときは事前のご連絡もお願いしますね」
「あ、はい」
 すみません、と頭を下げて、俺は歩き始めた。
 もちろん、場所なんてわからないので肩の上の爽生頼みだ。爽生の頭をちょんとつついて、小声で話しかける。
「三十分って、けっこう短いなぁ」
「そういうもんらしいで。前もそうやったし。――あ、次の角、右な」
「はい、はい」
 軽い調子で請け負って、指示のとおりに廊下を曲がる。
 老人ホームに来たのははじめてだけど、雰囲気も明るいし、きれいな病院みたいな感じだった。
 ひっそりきょきょろ見渡していると、爽生が「ここ」と再び指示を出した。その部屋の前で立ち止まる。
 ドアの横の「姫川」のプレートを見て、俺は心の中でひとりごちた。
 ……ばあちゃん、か。
 最後に喋ったのはいつだっただろう、と。ドアの前で薄情なことを考える。
 爽生たちが引っ越しをする日、俺はばあちゃんと一緒に見送った。「寂しいなるなぁ」と笑い合って、それで。
 ……たしか、高校に入学してすぐくらいのころ、朝行くときにばったり会うて、制服褒めてくれたことがあったよな。
 もう高校生かぁ、大きいなったなぁ、とばあちゃんは目を細めていた。でも、そのあとの記憶がない。
「龍?」
「あ、ごめん」
 不思議そうな呼びかけに、慌てて笑顔をつくる。
「いや、なんて言おうかなぁ思うて、ちょっと考えとった。やって、ばあちゃんびっくりするやろ。急に俺が浜松に来たら」
「ふぅん」
 誤魔化した俺の本心に気づているのか、いないのか。爽生はよくわからない声を出した。
「まぁ、なんでもええけど。ばあちゃん、ひとり部屋やで。あんまり気にせんと喋ってくれて大丈夫やで。あと急に龍が来ても、べつにびっくりせんと思うし」
「そうなんや」
 ほんまかいな、と思ったものの、とりあえず頷く。
 ……むしろ、『どうやって来たん、ひとりでか?』ってめっちゃ聞かれる気がするけど。
 昔からの爽生のばあちゃんのイメージ。優しくて、でも、しっかり筋を通す真面目な人。そのばあちゃんに、爽生はすごく懐いていた。
 ノックをする拳をつくったまま、横目で爽生を見る。
「あの、爽生」
「ん?」
「バスでも言うたけど、なんか喋りたいことあったら言うてや。俺、通訳するで」
「通訳て」
 おかしそうに笑った爽生が、「ええよ」と頭を振った。
「俺もさっきも言うたけど。ばあちゃんの顔見れたらそれでええし。龍が適当に喋ったってや。ほら、早う入ろ」
 部屋の前に突っ立っとったら変に思われるで、とせっつかれ、ノックをする。
「ばあちゃん、ひさしぶり」
 爽生のおばあちゃんの家に入り浸っていたころと同じ調子で、俺は部屋の扉を引いた。
 本当に爽生は喋らなくていいのかな、という気持ちはあるけど。爽生の意思を尊重しようと決めて、部屋に入る。
「俺、龍。お見舞いに来てんけど――」
 記憶にあるおばあちゃんの家は昔ながらの日本家屋だったけど、施設の部屋はきれいだけどこじんまりとしていた。
 置いてある家具は箪笥と窓際のベッドだけ。ベッドに座って本を読んでいるおばあちゃんは、俺の声に気づかなかったみたいだった。
 ベッドのほうに近づいて、もう一度呼びかける。
「ばあちゃん」
「あら、爽ちゃん」
「え」
 俺のほうを向いたばあちゃんから飛び出した名前に、俺は目を見開いた。でも、ばあちゃんは、変わらずにこにこと笑っている。
「大きいなったねぇ」
「え、……ちょ、ちょっと待って」
 ばあちゃんに断って、俺は肩に乗る黒猫に話しかけた。
「ちょ、ちょ、爽生。通訳いらんってこういうことやったん?」
「はぁ?」
「いや、ぜんぜん、俺、知らんかってんけど。ばあちゃん、視える人やったんやな……」
 だって、つまり、そういうことだろう。感心した声を出した俺に、爽生は「ちゃうよ」とほんの少し呆れたように苦笑した。
「ちょっとぼけてんねん、それだけ」
「え……」
 爽生の返事に、もう一度絶句する。
 俺の記憶にあるばあちゃんは、まだまだ元気なイメージだったからだ。
 それは、まぁ、俺たちが小学校の低学年だったころに比べたら、動きはゆっくりになっていたかもしれないけれど。
 おずおずと爽生に問いかける。
「そうやったん? その、いつから……」
「あとで説明したるで、とりあえず、今は龍が相手したってや。ばあちゃん、喜ぶで」
 そう言った爽生の視線は、俺ではなくばあちゃんのほうを向いていた。
 ばあちゃんも、ずっとにこにこと俺たち――正確に言うと、ひとりで喋っている俺を、だろうけど――を見ていて。その顔は、小さかった俺たちが遊ぶ様子を見守っているときと、まったく同じだった。
 うん、と爽生に頷いて、ばあちゃんのベッドに近づく。
「ひさしぶり、ばあちゃん」
 入ったときにもした挨拶を繰り返し、俺はベッドの近くの椅子に腰を下ろした。
「元気しとった?」
「ありがとうね。爽ちゃんも元気にしとった?」
「……うん、しとったよ」
 にこりと笑いかけると、ばあちゃんの目じりに優しい皺が増える。
「爽ちゃんはひとりで来たん? 疲れたやろう、大丈夫?」
「あ、……いや、えっと、あの、龍と」
「まぁ、龍ちゃんと。あいかわらず仲良しなんやね。安心やわ」
 にこにことしたばあちゃんの笑顔に、チクリと罪悪感が疼いた。
 だが、さすがに、懺悔をすべきタイミングでないことはわかっている。はは、と曖昧に笑うと、なぜかばあちゃんは片眉を上げた。
 やんちゃだった俺がなにかやらかしたときの、説教をする前触れ。
 ……あれ、もしかして、なんか変なスイッチ押したかな、俺。
 反射でドキリとした俺に、ばあちゃんは予想と大差のないことを口にした。
「ふたりで今日はなにしてたん? またどっかよそさまのお庭に入り込んでたんと違うやろね」
「いや、入ってへん。入ってへんよ」
「それやったらええけど。ふたりで仲良う、迷わんとここまで来れた?」
 ばあちゃんの中の俺たちは、いったい何才なんだろう。
 高校生の爽生を見ているのかな、と思っていたけれど、今の話ぶりは、小学生の俺たちに対するものとよく似ている。
 だって、探検と評してご近所を遊び回っていたのは、十年近く前の話だ。
 あのころは、ばあちゃんはめっちゃ元気やったよな。懐かしく思い返しながら、「うん」と頷いて。俺はばあちゃんに話し始めた。
 この数日の――仲良くやってきたとは言い難く、迷わなかったとも口が裂けても言えない、でも、すごく大切な旅路のことを。