――でも、なぁ、爽生。
ひとりで走りながら、心の中で呼びかける。
俺、べつに、趣味が人助けやなんてことはないし、勇者になりたかったわけでもないんやで。
爽生だから助けたかっただけで。爽生がよくても、爽生が誰かに悪意を向けられることが許せなかっただけで。
昔も、今も。爽生が思っているような、困っている人がいたら誰でも助ける博愛精神を持つ人間じゃない。
嫌いな相手もいたし、苦手な相手もいた。
困っている姿を見かねて声をかけたはいいものの、手伝いながら「面倒やなぁ」と思っていたこともいくらでもある。
昨日だって、そうだ。
よかったなぁ、と。ほほえましそうに笑った爽生の隣で、俺はこれ以上の面倒ごとが発生しなくて「よかった」と安堵していた。
はぁ、と熱い息を吐いて、前をふわふわと進む女の子の背中を見上げる。
住宅街らしきところを抜け、女の子は交通量の多い大通りに向かっているようだった。
爽生はどこに行ったんだろう。
再び不安が膨れたタイミングで、駅で目撃した光景が脳裏を過った。思いつめた横顔と、ひらりと視界の端を舞って消えた制服のスカート。
彼女が飛び降りる現実に間に合ったわけでもなければ、昨日の男の子にしたように、関わることも選ばなかったくせに。
俺はそういう人間だと知っている。でも、だけど、――爽生だけは諦めることができなかった。
女の子の動きがぴたりと止まる。膝に手をついて、俺は肩で息を吐いた。そうして、ゆっくりと周囲を見渡す。
「……爽生」
ようやく見つけた姿に、俺はあえぐように呟いた。その俺をちらりと見て、女の子がぷつりと消える。
……なんや。あんなところにおったんやな。
もうひとつ深呼吸をして、俺は歩き出した。
途切れなく車が行き交う道路の上。歩道橋の階段を上る。姿が半分ほど景色に溶けているせいか、学生服を着た爽生は今にも消えそうに見えた。
震えそうになる声帯を叱咤し、呼びかける。小さいころから、何度も、何度も。数えきれないくらい呼んだ名前を。
「爽生」
爽生はなにも言わなかった。俺ではなく、じっと道路を見下ろしている。でも、さらに逃げることもしない。
それが爽生の答えだと信じて、俺は足を進めた。爽生の近くに寄り、少し錆びた手すりに手を置く。
「歩道橋から落ちたん?」
言葉にした瞬間、自分でもわからない部分が鈍く痛んだ気がした。爽生の視線が俺のほうを向く。
「べつに、飛び降りるつもりは、そこまでなかったんやけどな」
穏やかないつもどおりの爽生の声だった。でも、それが逆に怖い。それでも、俺はどうにか質問を続けた。
「じゃあ、なんで」
「そやなぁ」
小さく口にして、爽生が道路に視線を戻す。夏の風が吹いたのに、爽生の髪は揺れなかった。
「飛び降りよう思って歩いとったわけやないし、死にたいと思ったわけでも、たぶんないし」
「だから、なんで」
「うーん、そうやなぁ」
「……じゃあ、学校でいじめられとったん?」
飄々とした調子に、ぐっとこぶしを握りしめる。
爽生とコンビニで再会したとき、爽生は随分と昔の話を持ち出した。小学五年生だった爽生が、男子にからかわれていたときの話。
それで、「助けてくれたやん」と当時は絶対に言わなかった表現を持ち出した。
あの夜の俺はなにも気づかなかったけれど。あれは爽生のSOSだったのではないだろうか。
「ううん、べつに。そんなことはないよ」
決死だった問いかけを、爽生はあっさり否定した。
「そういう勘違いで、変な迷惑かけたなぁないで言うけど。そういうんやないよ、ほんまに。……まぁ、馴染んではおらんかったやろうけど」
「じゃあ、なんで?」
「そうやなぁ」
のんきとも取れる相槌を、爽生が繰り返す。本当に、まったく意味がわからなくて、俺は一歩詰め寄った。
「爽生!」
名前を呼んで、腕を掴もうとしたところで愕然とする。自分の手が爽生の身体を突き抜けたからだ。
そうか。そうだったと改めて思い知って。改めてぞっとした。ここにいる爽生は、半分幽霊みたいなものなのだ。
爽生の身体は東京の病院で生死をさ迷っている。
自分の手のひらを凝視していると、爽生がふっと苦笑する気配がした。
「龍はほんま、目の前のことしか見てへんなぁ」
「……爽生」
ぱっと顔を上げる。目が合った爽生は少し困ったふうにほほえんでいた。その表情と同じトーンで「べつにええねんけどな」と言う。
「龍はそういう生き物なんやし。それで、俺とは違ういうだけなんやで」
「爽生」
縋るような呼びかけに、爽生は軽く笑った。
「なんかな、どうでもよくなってん、いろいろ」
「なんやねん、いろいろって」
爽生が、なんの未練もないというように、そんなことを言うから。とうとう声が震えてしまった。
ぎゅっと指先を握り込んで糾弾する。
「こっちがどれだけ心配したと思ってんねん」
「心配?」
「するに決まってるやろ。おまえが落ちたって聞いてから、俺がずっと……」
「ずっとって、それまでぜんぜん連絡寄こさんかったのに?」
呆れたふうに爽生が首を傾げる。指摘の鋭さに、俺は口をつぐんだ。逃げるように視線が、手すりの上で握りしめたままのこぶしに移る。
高校に入ってからの俺が、爽生とあまり連絡を取っていなかったことは事実だ。
「それは……」
「俺が目の前におらんから、優先順位が下がって、忘れたんやろ? それやったら、べつに、俺が生きとっても、死んどってもなんも変わらんのと違う?」
「……違う」
「違わんやろ。今、龍が必死なんは、俺がここにおるからやんか」
それだけだと、爽生が静かに繰り返す。小さな声で「違う」ともう一度呟いた俺に、爽生はゆるく首を振った。
「忘れるよ、すぐに。それでまた俺がおらんのが、龍のあたりまえになる」
「爽生」
「ほら、あの人も言うてたやん。懐かしいただの記憶やって。朋くんはずっと覚えとったのにな」
「爽生」
「そういうもんなんやろ、ぜんぶ」
俺の呼びかけなんて聞こえないみたいに、爽生が「だから」と笑う。
「もう帰りや。おばちゃんには『やっぱり会うん怖なった』言うたら、それで済むやろ」
――東京に行くんが、怖いんやったら。
慮るようだった母さんの声が、頭に浮かんだ。
太陽は変わらずじりじり暑くて、ティーシャツがべっとりと肌に張り付いている。それなのに、俺を見る爽生の表情は涼やかで。ずっと、変わらないままで。
……怖ないわけ、ないやろ。
心の中で俺は答えた。そうだ。怖くないわけがない。
コンビニで爽生に会って。母さんに爽生の意識がないと聞いて。あのときから、俺はずっと怖い。怖いから、深く考えないようにしていたけれど。
沈黙した俺に、爽生が諭すように告げる。
「おばちゃんも、紗英ちゃんも、おじちゃんも、龍の友達も、みんな待っとるよ」
「嫌や」
たまらなくなって、俺は頭を振った。
「嫌や、絶対、帰らん」
「龍」
「絶対、爽生と東京まで行く」
爽生と東京に一緒に行っても、なにも変わらないのかもしれないということも、本当はわかっていた。
でも、俺は絶対に行って、爽生と向き合わないといけない。
「ほんまにしゃあないな」
俺の頑なさに呆れたように、爽生が苦笑いを浮かべる。勝手なことをする俺を許容してくれる、いつもの調子。
反射的にほっと力を抜いた俺に、爽生が「なぁ」と呼びかける。
「龍。新幹線で様子変やったん、写真見たからやろ」
「あ……、いや」
「どうするん? もし、俺が龍のよう知っとる爽生やなくて、悪霊とかやったら」
誤魔化そうとした笑顔が固まったことを、俺は自覚した。
新幹線の中で見た、ナミさんが送ってくれた一枚の写真。
のんきに笑う俺の肩に乗っていた黒猫のマスコット。その周囲に黒いもやのようなものがまとわりついていた。
ドクンドクンと心臓が鳴っている。
「悪霊って……」
「まぁ、魔王でもええねんけど」
どうにか笑おうとした俺を、爽生はあっさり切り捨てた。
「その場合、やっぱり、龍が勇者になるんかな」
爽生は穏やかに笑っている。
小さいころからずっとそばにあった――ほかの人は「なにを考えているのかよくわからない」と評すこともある、でも、俺はわかっているつもりだった笑顔で。
自分の表情を隠すように、俺はうつむいた。
眼下を通る道路は、何台もの車が行き交っている。車の音がうるさい。
……痛くなかったんかな。
怖くなかったのだろうか。そのとき近くにいることすらできなかった爽生を想像しようとして――、俺は顔を上げた。
誤魔化すこともやめて、まっすぐに爽生を見る。
「俺……」
想像なんて、できるわけがない。だって、俺は、その瞬間の爽生のことを、その瞬間に至るまでの爽生のことを、なにも知らないのだから。
知ることを選ばなかったのだから。
「俺、勇者やなんか、ないよ」
掠れそうになる声で、俺ははっきりと否定した。
「俺、昔から、爽生やから助けたかっただけやもん。せやから、爽生がおってくれるんやったら、それでええよ。どんな爽生でも。それがいい」
「…………」
「それやのに」
表情の変わらない爽生を見つめたまま、必死に続きを振り絞る。
「そのはずやったのに、そばにおらんでごめんな」
物理的にそばにいることはできなくても、もっと連絡することも、気にかけることもできたはずなのに。俺はなにもしなかった。
「ごめん」
最後にもう一度謝って、小さく息を吐く。そうしてから、俺は「それに」と声のトーンを上げた。
「爽生が悪霊なわけないやん。だって、昨日も俺と違って、男の子にめちゃくちゃ優しかったし」
言いながら、ごそごそとポケットからカードを取り出す。ナミさんから貰ったものだ。
「ほら、これ。ナミさんがくれてん。俺らがおらんかったら戻るはずのないものやったから、持っとってほしいって」
黙ったままの爽生に、説明を続ける。これも、俺の勝手だけど。それでも、爽生がしたことで救われた人たちがいることを知ってほしかった。
……十年も前のことやから、「懐かしい記憶」かもしらんけど。それでも、ナミさんも、忘れてたわけやないと思うし。
あの男の子は、間違いなく爽生のおかげで救われたのだろうし。
「これも縁やって言うてた。それで、できたら覚えとってほしいって。俺も覚えとこうと思う――って、あ」
突風に煽られ、爽生によく見えるよう片手でかざしていたカードが指を離れた。ひらりと空を舞う。
反射でぱっとカードを掴んだ瞬間、俺は自分の上体が手すりを越えようとしていることに気がついた。
あ、やば。そうわかったときには、すべてがスローモーションみたいになっていた。
「龍!」
ぎょっと焦った声を出した爽生が、手を伸ばした。ごく自然に掴もうとした指がすり抜け、愕然と見開かれた瞳と目が合う。
――あかん。
これは絶対に、落ちたらあかん。覚えた一念で、俺はがっと手すりを掴んだ。必死で堪えた体勢を整え、手すりに両手を置いた状態で眼下を見下ろす。
「あっぶな~……」
さっきまでとは違う意味でバクバク鳴り響いている心臓を押さえ、俺はしゃがみ込んだ。
カードが無事に手元にあることを確認し、爽生に視線を向ける。
「爽生?」
「なにが、『あっぶな~』やねん!」
俺のほうに手を伸ばした状態で固まっていた爽生が、怒鳴った自分に驚いた顔をした。
黙ったまま見つめ返した俺の反応に、爽生がぎこちなく手を下ろす。そうして、いつもを取り繕った調子で口を開いた。
「龍、おまえ、こんなとこで死んだら、ほんま」
「……爽生もやで」
珍しく本気で焦って、怒っているらしい爽生の顔を見上げ、俺は言った。
「死んだら、終わりやで。ぜんぶ」
俺に言う資格なんてないんじゃないかと思っていたこと。でも、あたりまえのこと。
同時に、なんでこんなことを言っているんだろうと思う。
それで、なんで、俺は爽生が歩道橋にいたとき、本気で焦って、怒って、手を伸ばすことができる場所にいなかったのだろう。
そのときだったら、掴むことは叶ったはずなのに。
爽生の視線が、ふいと俺から逸れていく。
あ、これは、バツが悪い顔やな、とすぐにわかった。そんなことはわかるのになぁ、と。どうしようもない自嘲がこぼれる。
再び黙り込んだ爽生を見つめ、俺は静かに呼びかけた。
「爽生は、なんかしたいことあるん?」
それは、爽生と再会してから、たぶん、はじめて。口にした言葉だった。
俺の願いの押し付けじゃない、爽生の希望を問うもの。
爽生の瞳が、ゆっくりと俺のほうに動く。答えをじっと待っていると、爽生がひとりごとに似た調子で呟いた。
「そうやな」
飄々としたそれじゃない、迷子のような声だった。
「ばあちゃんに会いたい」
「ばあちゃん?」
「うん。ばあちゃん、今、浜松の施設におんねん。だから」
「なんや」
なんだか、泣きそうな気分で笑う。
「それで、浜松で降りたん?」
俺の確認に、爽生は一拍置いて頷いた。
……そんなん、もっと早う言うてくれたらよかったのに。
責めそうになった言葉を、俺は後悔と一緒に呑み込んだ。違う。俺が言えるだけの相手になっていなかっただけだ。
「うん」
だから、今できる精いっぱいで、首肯する。
「一緒に会いに行こ。ふたりで」
おばあちゃんに会いに行くことが、爽生の最後の未練だったとしても。未練がなくなった爽生が、あの男の子と同じように消えてしまったとしても。
爽生の願いを叶えたかった。
……最初から、ずっと。爽生だけの勇者でおれたらよかったのになぁ。
そうだったら、こんなことにはなっていなかったのだろうか。
「な?」
笑いかけた俺の顔を見て、爽生が「うん」と頷く。
その表情は、やっぱり、どこか迷子の子どもみたいで、触って安心を与えることができたらよかったのに、と思った。
大昔、手を繋いでもなんの違和感もなかった子どもだったころ。ふたりでぎゅっと手を握って冒険をしていれば、なにも怖くなかったみたいに。
爽生とふたりだったら、なんでもできると俺は思っていた。
今はわからないけど、爽生も同じ気持ちだったことは、あるんじゃないかな、と思う。
だって、そうじゃなかったら、あの夜、きっと、爽生はコンビニの前になんていなかった。
ひとりで走りながら、心の中で呼びかける。
俺、べつに、趣味が人助けやなんてことはないし、勇者になりたかったわけでもないんやで。
爽生だから助けたかっただけで。爽生がよくても、爽生が誰かに悪意を向けられることが許せなかっただけで。
昔も、今も。爽生が思っているような、困っている人がいたら誰でも助ける博愛精神を持つ人間じゃない。
嫌いな相手もいたし、苦手な相手もいた。
困っている姿を見かねて声をかけたはいいものの、手伝いながら「面倒やなぁ」と思っていたこともいくらでもある。
昨日だって、そうだ。
よかったなぁ、と。ほほえましそうに笑った爽生の隣で、俺はこれ以上の面倒ごとが発生しなくて「よかった」と安堵していた。
はぁ、と熱い息を吐いて、前をふわふわと進む女の子の背中を見上げる。
住宅街らしきところを抜け、女の子は交通量の多い大通りに向かっているようだった。
爽生はどこに行ったんだろう。
再び不安が膨れたタイミングで、駅で目撃した光景が脳裏を過った。思いつめた横顔と、ひらりと視界の端を舞って消えた制服のスカート。
彼女が飛び降りる現実に間に合ったわけでもなければ、昨日の男の子にしたように、関わることも選ばなかったくせに。
俺はそういう人間だと知っている。でも、だけど、――爽生だけは諦めることができなかった。
女の子の動きがぴたりと止まる。膝に手をついて、俺は肩で息を吐いた。そうして、ゆっくりと周囲を見渡す。
「……爽生」
ようやく見つけた姿に、俺はあえぐように呟いた。その俺をちらりと見て、女の子がぷつりと消える。
……なんや。あんなところにおったんやな。
もうひとつ深呼吸をして、俺は歩き出した。
途切れなく車が行き交う道路の上。歩道橋の階段を上る。姿が半分ほど景色に溶けているせいか、学生服を着た爽生は今にも消えそうに見えた。
震えそうになる声帯を叱咤し、呼びかける。小さいころから、何度も、何度も。数えきれないくらい呼んだ名前を。
「爽生」
爽生はなにも言わなかった。俺ではなく、じっと道路を見下ろしている。でも、さらに逃げることもしない。
それが爽生の答えだと信じて、俺は足を進めた。爽生の近くに寄り、少し錆びた手すりに手を置く。
「歩道橋から落ちたん?」
言葉にした瞬間、自分でもわからない部分が鈍く痛んだ気がした。爽生の視線が俺のほうを向く。
「べつに、飛び降りるつもりは、そこまでなかったんやけどな」
穏やかないつもどおりの爽生の声だった。でも、それが逆に怖い。それでも、俺はどうにか質問を続けた。
「じゃあ、なんで」
「そやなぁ」
小さく口にして、爽生が道路に視線を戻す。夏の風が吹いたのに、爽生の髪は揺れなかった。
「飛び降りよう思って歩いとったわけやないし、死にたいと思ったわけでも、たぶんないし」
「だから、なんで」
「うーん、そうやなぁ」
「……じゃあ、学校でいじめられとったん?」
飄々とした調子に、ぐっとこぶしを握りしめる。
爽生とコンビニで再会したとき、爽生は随分と昔の話を持ち出した。小学五年生だった爽生が、男子にからかわれていたときの話。
それで、「助けてくれたやん」と当時は絶対に言わなかった表現を持ち出した。
あの夜の俺はなにも気づかなかったけれど。あれは爽生のSOSだったのではないだろうか。
「ううん、べつに。そんなことはないよ」
決死だった問いかけを、爽生はあっさり否定した。
「そういう勘違いで、変な迷惑かけたなぁないで言うけど。そういうんやないよ、ほんまに。……まぁ、馴染んではおらんかったやろうけど」
「じゃあ、なんで?」
「そうやなぁ」
のんきとも取れる相槌を、爽生が繰り返す。本当に、まったく意味がわからなくて、俺は一歩詰め寄った。
「爽生!」
名前を呼んで、腕を掴もうとしたところで愕然とする。自分の手が爽生の身体を突き抜けたからだ。
そうか。そうだったと改めて思い知って。改めてぞっとした。ここにいる爽生は、半分幽霊みたいなものなのだ。
爽生の身体は東京の病院で生死をさ迷っている。
自分の手のひらを凝視していると、爽生がふっと苦笑する気配がした。
「龍はほんま、目の前のことしか見てへんなぁ」
「……爽生」
ぱっと顔を上げる。目が合った爽生は少し困ったふうにほほえんでいた。その表情と同じトーンで「べつにええねんけどな」と言う。
「龍はそういう生き物なんやし。それで、俺とは違ういうだけなんやで」
「爽生」
縋るような呼びかけに、爽生は軽く笑った。
「なんかな、どうでもよくなってん、いろいろ」
「なんやねん、いろいろって」
爽生が、なんの未練もないというように、そんなことを言うから。とうとう声が震えてしまった。
ぎゅっと指先を握り込んで糾弾する。
「こっちがどれだけ心配したと思ってんねん」
「心配?」
「するに決まってるやろ。おまえが落ちたって聞いてから、俺がずっと……」
「ずっとって、それまでぜんぜん連絡寄こさんかったのに?」
呆れたふうに爽生が首を傾げる。指摘の鋭さに、俺は口をつぐんだ。逃げるように視線が、手すりの上で握りしめたままのこぶしに移る。
高校に入ってからの俺が、爽生とあまり連絡を取っていなかったことは事実だ。
「それは……」
「俺が目の前におらんから、優先順位が下がって、忘れたんやろ? それやったら、べつに、俺が生きとっても、死んどってもなんも変わらんのと違う?」
「……違う」
「違わんやろ。今、龍が必死なんは、俺がここにおるからやんか」
それだけだと、爽生が静かに繰り返す。小さな声で「違う」ともう一度呟いた俺に、爽生はゆるく首を振った。
「忘れるよ、すぐに。それでまた俺がおらんのが、龍のあたりまえになる」
「爽生」
「ほら、あの人も言うてたやん。懐かしいただの記憶やって。朋くんはずっと覚えとったのにな」
「爽生」
「そういうもんなんやろ、ぜんぶ」
俺の呼びかけなんて聞こえないみたいに、爽生が「だから」と笑う。
「もう帰りや。おばちゃんには『やっぱり会うん怖なった』言うたら、それで済むやろ」
――東京に行くんが、怖いんやったら。
慮るようだった母さんの声が、頭に浮かんだ。
太陽は変わらずじりじり暑くて、ティーシャツがべっとりと肌に張り付いている。それなのに、俺を見る爽生の表情は涼やかで。ずっと、変わらないままで。
……怖ないわけ、ないやろ。
心の中で俺は答えた。そうだ。怖くないわけがない。
コンビニで爽生に会って。母さんに爽生の意識がないと聞いて。あのときから、俺はずっと怖い。怖いから、深く考えないようにしていたけれど。
沈黙した俺に、爽生が諭すように告げる。
「おばちゃんも、紗英ちゃんも、おじちゃんも、龍の友達も、みんな待っとるよ」
「嫌や」
たまらなくなって、俺は頭を振った。
「嫌や、絶対、帰らん」
「龍」
「絶対、爽生と東京まで行く」
爽生と東京に一緒に行っても、なにも変わらないのかもしれないということも、本当はわかっていた。
でも、俺は絶対に行って、爽生と向き合わないといけない。
「ほんまにしゃあないな」
俺の頑なさに呆れたように、爽生が苦笑いを浮かべる。勝手なことをする俺を許容してくれる、いつもの調子。
反射的にほっと力を抜いた俺に、爽生が「なぁ」と呼びかける。
「龍。新幹線で様子変やったん、写真見たからやろ」
「あ……、いや」
「どうするん? もし、俺が龍のよう知っとる爽生やなくて、悪霊とかやったら」
誤魔化そうとした笑顔が固まったことを、俺は自覚した。
新幹線の中で見た、ナミさんが送ってくれた一枚の写真。
のんきに笑う俺の肩に乗っていた黒猫のマスコット。その周囲に黒いもやのようなものがまとわりついていた。
ドクンドクンと心臓が鳴っている。
「悪霊って……」
「まぁ、魔王でもええねんけど」
どうにか笑おうとした俺を、爽生はあっさり切り捨てた。
「その場合、やっぱり、龍が勇者になるんかな」
爽生は穏やかに笑っている。
小さいころからずっとそばにあった――ほかの人は「なにを考えているのかよくわからない」と評すこともある、でも、俺はわかっているつもりだった笑顔で。
自分の表情を隠すように、俺はうつむいた。
眼下を通る道路は、何台もの車が行き交っている。車の音がうるさい。
……痛くなかったんかな。
怖くなかったのだろうか。そのとき近くにいることすらできなかった爽生を想像しようとして――、俺は顔を上げた。
誤魔化すこともやめて、まっすぐに爽生を見る。
「俺……」
想像なんて、できるわけがない。だって、俺は、その瞬間の爽生のことを、その瞬間に至るまでの爽生のことを、なにも知らないのだから。
知ることを選ばなかったのだから。
「俺、勇者やなんか、ないよ」
掠れそうになる声で、俺ははっきりと否定した。
「俺、昔から、爽生やから助けたかっただけやもん。せやから、爽生がおってくれるんやったら、それでええよ。どんな爽生でも。それがいい」
「…………」
「それやのに」
表情の変わらない爽生を見つめたまま、必死に続きを振り絞る。
「そのはずやったのに、そばにおらんでごめんな」
物理的にそばにいることはできなくても、もっと連絡することも、気にかけることもできたはずなのに。俺はなにもしなかった。
「ごめん」
最後にもう一度謝って、小さく息を吐く。そうしてから、俺は「それに」と声のトーンを上げた。
「爽生が悪霊なわけないやん。だって、昨日も俺と違って、男の子にめちゃくちゃ優しかったし」
言いながら、ごそごそとポケットからカードを取り出す。ナミさんから貰ったものだ。
「ほら、これ。ナミさんがくれてん。俺らがおらんかったら戻るはずのないものやったから、持っとってほしいって」
黙ったままの爽生に、説明を続ける。これも、俺の勝手だけど。それでも、爽生がしたことで救われた人たちがいることを知ってほしかった。
……十年も前のことやから、「懐かしい記憶」かもしらんけど。それでも、ナミさんも、忘れてたわけやないと思うし。
あの男の子は、間違いなく爽生のおかげで救われたのだろうし。
「これも縁やって言うてた。それで、できたら覚えとってほしいって。俺も覚えとこうと思う――って、あ」
突風に煽られ、爽生によく見えるよう片手でかざしていたカードが指を離れた。ひらりと空を舞う。
反射でぱっとカードを掴んだ瞬間、俺は自分の上体が手すりを越えようとしていることに気がついた。
あ、やば。そうわかったときには、すべてがスローモーションみたいになっていた。
「龍!」
ぎょっと焦った声を出した爽生が、手を伸ばした。ごく自然に掴もうとした指がすり抜け、愕然と見開かれた瞳と目が合う。
――あかん。
これは絶対に、落ちたらあかん。覚えた一念で、俺はがっと手すりを掴んだ。必死で堪えた体勢を整え、手すりに両手を置いた状態で眼下を見下ろす。
「あっぶな~……」
さっきまでとは違う意味でバクバク鳴り響いている心臓を押さえ、俺はしゃがみ込んだ。
カードが無事に手元にあることを確認し、爽生に視線を向ける。
「爽生?」
「なにが、『あっぶな~』やねん!」
俺のほうに手を伸ばした状態で固まっていた爽生が、怒鳴った自分に驚いた顔をした。
黙ったまま見つめ返した俺の反応に、爽生がぎこちなく手を下ろす。そうして、いつもを取り繕った調子で口を開いた。
「龍、おまえ、こんなとこで死んだら、ほんま」
「……爽生もやで」
珍しく本気で焦って、怒っているらしい爽生の顔を見上げ、俺は言った。
「死んだら、終わりやで。ぜんぶ」
俺に言う資格なんてないんじゃないかと思っていたこと。でも、あたりまえのこと。
同時に、なんでこんなことを言っているんだろうと思う。
それで、なんで、俺は爽生が歩道橋にいたとき、本気で焦って、怒って、手を伸ばすことができる場所にいなかったのだろう。
そのときだったら、掴むことは叶ったはずなのに。
爽生の視線が、ふいと俺から逸れていく。
あ、これは、バツが悪い顔やな、とすぐにわかった。そんなことはわかるのになぁ、と。どうしようもない自嘲がこぼれる。
再び黙り込んだ爽生を見つめ、俺は静かに呼びかけた。
「爽生は、なんかしたいことあるん?」
それは、爽生と再会してから、たぶん、はじめて。口にした言葉だった。
俺の願いの押し付けじゃない、爽生の希望を問うもの。
爽生の瞳が、ゆっくりと俺のほうに動く。答えをじっと待っていると、爽生がひとりごとに似た調子で呟いた。
「そうやな」
飄々としたそれじゃない、迷子のような声だった。
「ばあちゃんに会いたい」
「ばあちゃん?」
「うん。ばあちゃん、今、浜松の施設におんねん。だから」
「なんや」
なんだか、泣きそうな気分で笑う。
「それで、浜松で降りたん?」
俺の確認に、爽生は一拍置いて頷いた。
……そんなん、もっと早う言うてくれたらよかったのに。
責めそうになった言葉を、俺は後悔と一緒に呑み込んだ。違う。俺が言えるだけの相手になっていなかっただけだ。
「うん」
だから、今できる精いっぱいで、首肯する。
「一緒に会いに行こ。ふたりで」
おばあちゃんに会いに行くことが、爽生の最後の未練だったとしても。未練がなくなった爽生が、あの男の子と同じように消えてしまったとしても。
爽生の願いを叶えたかった。
……最初から、ずっと。爽生だけの勇者でおれたらよかったのになぁ。
そうだったら、こんなことにはなっていなかったのだろうか。
「な?」
笑いかけた俺の顔を見て、爽生が「うん」と頷く。
その表情は、やっぱり、どこか迷子の子どもみたいで、触って安心を与えることができたらよかったのに、と思った。
大昔、手を繋いでもなんの違和感もなかった子どもだったころ。ふたりでぎゅっと手を握って冒険をしていれば、なにも怖くなかったみたいに。
爽生とふたりだったら、なんでもできると俺は思っていた。
今はわからないけど、爽生も同じ気持ちだったことは、あるんじゃないかな、と思う。
だって、そうじゃなかったら、あの夜、きっと、爽生はコンビニの前になんていなかった。



