季節はゆっくりと、だけど確実に秋から冬へと変わった。
文化祭の譲渡会の成功を受けて、あれ以来、放課後に定期的に譲渡会が行われている。
文化祭の時と違い、一般の人は入れない。生徒のみしか利用できないので、あの時と比べれば引き取られていく本の数は減ったけれど、新しい掘り出し物がないか、と開催される度に足を運んでくれる人たちのお陰で、図書室の本は少しずつ引取先が見つかっていった。
近隣の学校にも声をかけて、数百冊が引き取られた、と茨木が教えてくれたのは、冬休みに入ってからだ。
その日、俺は茨木と共に市内にある、小さめの図書館を巡っていた。一番大きな図書館は今もまだリニューアル工事中だ。
夏の図書館巡りでわかったのは、デカくて新しくてオシャレな図書館は、確かに魅力的だけど、学校図書室とはまた全く違う場所だということだった。
分館や、公民館の一角にある小さな図書館の方が、より身近だし、より図書室運営に似ていて、何か参考になることがないか、探しに行こう、と俺から誘った。
一つ目の図書館を見終えてから、昼飯を食うことにした。いつも通りのハンバーガー屋だ。
相変わらず、茨木は子ども向けのセットを頼んだ。俺も二セット目はそれにして、オマケの絵本は茨木に「どれがいい?」と聞く。
茨木は目を輝かせて、「いいの?」と言って、欲しいものを選んだ。
「一度に二冊ももらえて嬉しい」
ポテトを食べながら茨木が言う。
「これね、期間限定だからさ、うっかりして期間すぎちゃって、コンプが難しい時もあって。だから嬉しい」
「茨木、コンプとかそういうのするタイプなんだ?」
「本好きは大抵そうだと思う。僕の偏見だけど。同じ本でも表紙を変えたものが出たりすると、つい買っちゃう」
「あー、漫画本でもあるよな。実写になった時に表紙カバー変わるやつ」
ああいうのを集めたくなる気持ちは、俺にはあんまりわからないけれど、嬉しそうにオマケの本をパラパラ捲る茨木からは、もう「無愛想」で「無口」なイメージは消え去っていた。
(けどコイツ、普段は全然、昔と同じでツンとして愛想もないんだよなあ)
教室に居る時や、図書室で利用者の対応をしている時の茨木は、必要最低限しか話さないし、どちらかといえば素っ気ない。
茨木の態度が、俺の前でだけ緩むのだとしたら。
(……友情特権ってやつかもな)
つい口角が上がりそうになる。
「譲渡会のことなんだけどね」
「うん」
「大分少なくなったとは言え、まだまだ行き先未定の本があって。三学期中は、譲渡会の開催日を増やして対応しようってことになったんだけど……やっぱりどうしても、二千冊くらいはどうにもならない本が出てきそう」
茨木によれば、水川や北園以外の教師陣も、以前に勤めていた学校に問い合わせたり、教師仲間に声をかけたりしながら、本の譲渡先を探してくれているらしい。
「もう本当に、目一杯で引取先を探してる。僕も通ってた中学に連絡して、三十冊くらいは引き取ってもらえた。……だけど、限界が見えてきたなって思う」
茨木の言う「限界」がどういう意味なのかは、聞かなくてもわかった。
引取先が見つからない本を、学校のどこかに保管できるのならこんなに悩まない。つまり、廃棄するしかないのだ。
それを踏まえた上で思うのは、よくここまで行き先が見つかったな、ということだった。
約二万冊のうち、残り二千冊。実に九割はちゃんと人から人へと渡った。これは偏に、茨木を始めとする図書委員たちの努力の賜物だ。
一冊も無駄にはできない、という、茨木の気持ちに応えるように、みんなが必死になって同じ気持ちで動いた結果だろう。
それでも、残り一割は決断を迫られる可能性がある。
「今、どれくらい残ってんの?」
「3121冊。そこから千冊ほどは三学期の譲渡会とかで何とかなるんじゃないかって思ってる」
「あとちょっとなのにな。元の二万冊から考えたら大分行き先決まったと思うけど」
「うん。それはそうなんだよね。けど……秋野もわかると思うけど、本の二千冊って相当な量だからね……。二万冊の一割って考えたら少なく感じるけど」
溜息と共に茨木がジュースを飲んだ。
「二千冊って書架で考えたら八本くらいだからさ……」
改めて言われるとすごい数字だ。天井近くまである書架八本分は図書室全体から見れば一角に過ぎないけれど、例えば倉庫や教室にあると考えたら大分スペースを取ることになる。
「……すごく、悔しい」
茨木は小さな声でそう呟いた。
「縮小する方向に舵を切った時、それがどんなに現実的じゃないにしても、残せない全ての本に行き先を作りたいって思った。一冊も廃棄に回したくないって。……それが理想論だってことはわかってたけど、秋野、言ってくれたでしょ」
茨木が目線を上げて、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「最初の頃、足掻く前に諦めるなよって。諦めるのは足掻いてからでも遅くないって」
図書室の閉鎖を知り、それを淡々と受け入れているように見えた茨木に、無性に腹が立ったあの春の日。
茨木が何の抵抗もなく受け入れていると思ってしまって、自分勝手に詰め寄った時、茨木が口を真一文字に結んだのを見て、一番悔しいのは茨木なんだ、と気がついた。
足掻く前に諦めるな、と言った俺と茨木は、あの日からずっとこうして、居場所の在り方を模索してきた。
「……だから、絶対に頑張るぞって思った。絶対に全部の本の引取先を見つけるぞって。……だから、すごく悔しい」
茨木の声には本当に悔しい気持ちが滲んでいる。
ただし、それはあの日、何もできずに諦めていた悔しさとは、また別の色が混じっている気がした。
精一杯やった結果の悔しさの色には、ほんの少しプライドのようなものが感じられる。だから茨木は瞳を伏せたりせず、真っ直ぐ前を向いているのだと思う。
「俺も、中学の図書室に声かけてみるわ」
「本当?」
「翔太にも声かけさせる。他のダチにも頼んでみるよ」
俺たちにできることを、最後の最後までやるだけだ。
茨木は「ありがとう」と言ってから唇を緩めた。
三学期に入ると、三年生は自由登校になる。
学校から一学年分の生徒がほとんど居なくなるのは、去年も経験した。
その時は、「静かだなあ」とか「学校ってこんな広かったっけ?」とか、その程度のことしか思わなかったのに、今年は何だか少し物悲しい気持ちになる。
来年は自分が「居なくなる側」だから、その時のことを何となく想像してしまうからだ。
(進路か……)
子どもの頃は警察官に憧れていた。ただ単に、パトカーに乗ってみたかった。
中学に入る頃には、そんなことを考えることもなくなって、ぼんやりと「いつかは俺も店を継ぐのかな」と思うようになった。
食堂のことは嫌いじゃない。多分、寧ろ好きな方だ。
騒がしさに辟易することはあるけれど、商店街中の大人が俺のことを知っている。それは煩わしさとは別に、ある意味では安心感も与えてくれた。
どこに行っても「秋野さんとこの子」と認識されて、常連さんの中には赤ちゃんだった俺のオムツを替えたことがあるような人まで居る。
めちゃくちゃ恥ずかしいとは思うけれど、困った時はいつでもおいで、とみんなが言ってくれて、実際、親に怒られてメソメソ泣きながらその辺を歩いていたら、常連さんや近くの店の店主に捕まって、アイスやお菓子をくれたり、話を聞いてくれたりした。
都会の中の、小さな下町。その中で一生を終えることを、俺は悲観的には捉えていない。
(……けど、漠然とこのままでいいのかな、とは思うよな)
翔太は大学には行かないと公言していて、俺もそっち寄りだと思っている節がある。確かに大学に行きたいと思ったことは、今まで一度もない。
勉強は好きじゃないし、受験もしんどい。
いずれ店を継ぐのなら、調理師専門学校には通うべきか、と思うけれど、具体的に調べたことはなかった。
一月半ばの放課後、図書室に向かった。
室内はガランとしている。書架はほとんど空になっていて、残す予定の本はざっと見て三十ほどの書架に収まっているけれど、残りの書架はただそこにひっそりと佇むだけの存在だ。
カウンター奥の棚から、茨木が顔を出す。
「秋野」
「すげー減ったな」
改めて室内を見回して言った。
「来月からは一旦閉鎖するからね。残す本を少しずつ空き教室に移動させていかなきゃならないから。貸出自体も来週で一度ストップするから、今はご覧の通りって感じ」
図書室内には、利用者の姿がない。春の時と同じで、俺と茨木しか居ない図書室は、しんと静まり返っている。
「本、移動させんの、俺も手伝う」
「助かる。図書委員って女子ばっかりだから、体力仕事を無理にさせられないって思ってたんだ」
カウンターの一番近くの書架が目に入った。残す本が並んだ奥の書架とは別に区分けされている。
「ここの本は?」
「まだ行き先のない本たち」
書架を数える。まだ六本分もあった。
冬休み中に、翔太や他の友達にも声をかけたし、俺自身も通っていた中学に連絡を取って、少し引き取ってもらえた。
翔太や友達の母校でも引き取ってくれたので、それだけでも百冊ちょっとは行き先を確保できたのに、まだこれだけある、と現実を突きつけられる。
「来週、最後の譲渡会を開くんだ。そこで引取手が見つからなかった本は、……廃棄になるって北園先生から話があったよ」
茨木もカウンターから出てきて、俺の隣に並んだ。
二人で六本の書架の前に立ち、それらを眺める。
一冊、抜き取った。タイトルに『殺人事件』とある。推理小説のようだ。
「うわ、これかなりボロいな」
「うん。残った本のうち、大半はこういうちょっと傷みが激しいものなんだ。中にはまだまだ綺麗なものもあるけど……」
「これ、あと何冊あんの?」
「1856。そのうち綺麗な本は250冊くらいかな」
ここに残った本を引き取る人が居ない理由は、傷みにあるのかもしれない。
「傷みの加減によっては、もう廃棄しかないなって思うものもあるんだけどね……」
その時、茨木が「そうだ」と言って、カウンター内に入る。
一冊の本を手に戻ってきた。
「これ」
茨木が見せてくれたのは絵本だ。
「え、あ、これクラムボンじゃん」
「『やまなし』だよ」
二匹のカニが海の中から、水面を見上げている姿が表紙に描かれている。
「これね、寄贈本なんだ」
「へー」
受け取ってパラパラ捲った。裏表紙の後ろに、平成十四年寄贈と書いたハンコが押されている。
「平成十四年って何年前だ?」
「二十……四年前かな」
かなり昔に寄贈された本だ。その割には綺麗で、破れたりしている箇所もない。
「それ、寄贈者不明の本なんだよ」
「え?」
寄贈本は誰が寄贈したのか管理している、と前に茨木が話していた記憶がある。
それから、寄贈の際に返却か廃棄か選択をしてもらっていて、返却を選んだ人には一人ずつ連絡をしている、と話していたはずだ。
「どういうわけか、寄贈リストに載ってないんだ。でもハンコはちゃんと押してあるでしょ?」
もう一度、裏表紙を捲る。ハンコにはうちの学校の名前も入っているので、寄贈されたことに間違いはなさそうだ。
「北園か水川に聞けばわかるんじゃね?」
「僕もそう思ったよ。でも二人ともわからないって。考えてみればそりゃそうだよね。二人がここに赴任する前の寄贈だもん」
「二十四年も前じゃ、その当時の教師なんてもううちに居ないよなあ」
茨木が小さく溜息を落とす。
「この本だけが寄贈者不明で、どう扱うか迷ってるんだ」
「寄贈者リスト、俺も見たい」
「図書委員しか見ちゃダメなんだよ、あれ」
「え、俺、サブ図書委員ですけど」
しれっと惚けて答えると、茨木は呆れたみたいに眉を下げた後、口元を緩めて「特別だよ」と言った。
カウンター奥の棚から寄贈者リストのファイルを持ってきた茨木と共に、机に向かう。
目当てのページには付箋が貼ってあった。茨木が貼ったんだろう。
「ね、ここに本当はあるはずなんだ」
茨木が指差したのは、リストのナンバー562の欄だ。
『やまなし』と書いてある。その隣には寄贈日が書かれているのに、問題は更にその隣にあった。
確かに寄贈者の欄が空白になっている。
「寄贈日は……平成十四年の三月一日か」
スマホでその年のカレンダーを調べてみると、三月一日は金曜日だった。
「あ、もしかしたらこれ、卒業式の日じゃね?」
「そうかも。三月の頭だもんね。……ということは、卒業式の日にわざわざこの本を寄贈してくれたってこと?」
「その年の卒業生かもな、寄贈したの」
何気なく口にしたけれど、その可能性は高そうだと思った。
『やまなし』の裏表紙を捲ると、そこには発行年月日が書かれている。平成十三年となっていた。
つまり子どもの頃から読み継いできた本ではなく、わざわざ寄贈のために買った、と考えるのが自然だ。
「『やまなし』のことが、すごく好きな人なんだろうね」
「わかんねーぜ? 俺みたいに、クラムボンってなんだよ、意味わかんねー、腹立つな、宮沢賢治っていう怒りに任せての寄贈かもよ」
「なにそれ」
茨木がふふっと笑った。
「このリストに載ってない限り、誰が寄贈したのかはわかんねーんだよな?」
「そうだね。当時のことを覚えてる人が見つかったとしても、寄贈本のことを一冊一冊覚えてる人はさすがに居ないだろうし……」
この小さな謎は、三連栞の時よりも解くのは難しそうだ。何せ図書室内で解決しそうにない。
「北園先生は、当時司書をしていた先生を探してみるって言ってくれたけどね……」
「期待はできなさそうだな」
二人で『やまなし』を前に唸った。リストに名前がないのだから、いくら考えてもわからないのは仕方がないのに、何となく面白くない。気になる。
どうしてこの一冊だけが、正規の手続き通りに寄贈されなかったんだろう。
「……いや、違うな」
「え、なにが?」
考え事の答えだけを口にしたものだから、茨木がキョトンとした目で俺を見る。
「あ、いや、何でこれだけ正規の手続き踏まなかったんだろって思って。けどそうじゃねーなって。正規の手続きは踏んでんだよな、だってリストには寄贈日までちゃんと書いてある。載ってないのは寄贈者だけなんだし」
「確かに……手続きの途中で何かアクシデントがあって、そのままになっちゃった、とか?」
「アクシデントって?」
「貸出や返却の時も、気をつけてはいるんだけど、うっかり別のことに気を取られちゃって、バーコードを読み取り損ねたりってあるんだよ。寄贈の手続き中にそういうことがあったのかなって」
充分考えられる話だ。人の手作業なんだから、ミスはある。
「わざと寄贈者の名前書かなかったってことは、あんの?」
「わざと? ないと思うけど……どうして?」
「アクシデントって言われて、確かにあり得るなって思ったけど、もしアクシデントならその次の寄贈本のリストを作る時に、一つ前の本の寄贈者欄が空欄なことに気づくと思うんだよな。そしたらその時に名前書いとくのが普通じゃね? その時なら寄贈からそんなに時間経ってねーんだし、すぐに誰が寄贈したかくらいはわかるだろ」
俺の指摘を、茨木は宙を見つめて聞いていた。頭の中で推理している顔だ。眉間に皺が寄っている。
「……じゃあ、寄贈者が名前を書きたくないって言ったのかな」
「それか、図書室側に書かない理由があったのか」
ますますわからなくなった。頭がこんがらがってきたな、と思った時、茨木が口を開く。
「とりあえず、北園先生からの連絡を待つよ。僕らがいくら頭を捻っても、手掛かりは何もないもんね。全部憶測でしかないし」
茨木の言う通りだ、と頭を切り替えることにした。
それに、もしかしたらひょんな形で真相がわかるかもしれない。
図書室は春に向けて大移動をする必要がある。その時に普段は探せないような棚の隙間から、何か手掛かりが見つかっても不思議じゃない。
リストを閉じた茨木の手元から、先ほどの行方が見つからない本が収められた書架に視線を移した。
その時だ。頭の隅っこがパッと明るくなった。閃きってこういうことを言うんだ、と妙に冷静なことを考えながら、何度も閃いたそのアイデアを心の中で反芻する。
「茨木!」
急に大きな声を出したからか、茨木がビクッと肩を跳ね上げた。
「俺、いいこと思いついた!」
「いいこと?」
どうしてこんなことを、今の今まで思いつかなかったんだろう。
大阪旅行や茨木の入院を経て、あれだけ、「本棚はどこにあってもいい」と気づいたのに。
茨木は俺の提案を固唾を呑んで待っている。
ニヤリと口角を上げて言った。
「うちの食堂に、本棚を作るんだよ」
「大ちゃん、これ、言ってた道具な。気をつけて使うんだぞ」
商店街の隅っこの工具屋のおじさんが、電動のドライバーを持ってきてくれた。
「なんか困ったら言ってくれ。手伝いにくるから」
「わかった、ありがとう」
礼を言うとおじさんは手を上げて、うちの庭の扉から出て行った。
二月の下旬、庭で木材を広げた状態で茨木と向き合った。
「よし、やるぞ」
「うん、頑張ろうね」
軍手をはめて茨木がガッツポーズを作る。
食堂に本棚を設置する、という、今更ながら思いついたアイデアを親に話したら、あっさりオーケーをもらえた。
新聞や週刊誌を置いているカラーボックスを撤去して、その周りを片付けると、幅60センチの本棚なら何とか設置できそうだと判断し、茨木と共に木材集めを始める。
軍資金は、夏休みに大阪旅行に行った時にもらった餞別が残っていたので、それを使うことにした。
茨木と同額を出し合ってホームセンターに下見に行ったけれど、木材は結構高くて、更にカット代も別にかかることがわかった。
予算内で買えるかどうか、不安を抱えながら食堂の手伝いをしていた時、工具屋のおじさんが店に来たので相談してみたのだ。
するとおじさんは、「木材なら角の材木屋に話つけてやるよ」と言ってくれた。
「カットもやってもらえばいいし、工具なら貸してやる」と更に助け舟を出してくれて、結局、材料費もタダで作れることになった。
寸法通りにカットしてもらったので、俺たちは組み立てるだけだ。
厨房に繋がるドアが開く。母親が心配そうな顔を作って顔を出した。
「本当にできる? 材木屋さんに手伝ってもらったら?」
「大丈夫だって。ノコギリも使わねーし」
「気をつけるのよ。横着しちゃダメよ、大輝。律くん、大輝のこと見張っててね」
まるで俺が大雑把で、さも雑なことを仕出かすみたいな言い草だ。
茨木は苦笑いを浮かべて、「見張ります」と言った。何でお前までしれっと肯定してんだよ。
設計図を見ながら、二人でゆっくり組み立てた。
木工の授業で小さな椅子を作ったことはあったけれど、さすがにこのデカさのものを作るのは初めてだ。
昼は母親がわざわざ弁当箱に詰めた昼飯を出してくれたので、厨房脇の階段に座って二人で食った。
設計図通りに組むだけなのに結構難しくて、途中で棚板の向きを間違えたり、ドライバーの電気コードに足を引っ掛けた茨木が転びそうになってそれを支えたり、とにかくたっぷり時間をかけて組み立てる。
組み立てながら、いろんな話をした。寄贈者不明の『やまなし』の話も、茨木から振ってくれた。
「当時の司書の先生は、結婚で苗字が変わっちゃってたし、もう先生を辞めてるらしくってさ、結局見つからなかったんだ」
北園から聞いたという話を茨木が掻い摘んで説明する。
「ってことはマジでその当時を知ってる人は見つからないってことか」
「そう。さすがにその時の図書委員までは探せないしね」
仮に探せたとしても、その人が寄贈者のことを覚えているとは限らない。
結局、この残された小さな謎は解けそうで解けないままだ。
「春休みにね、図書室の本の移動をすることになったんだけど、秋野来られる?」
「おー、いつでも空けとく。男手足りないだろ、翔太にも手伝わせようか? ……と思ったけど、アイツのことだから絶対落としたり破いたりしそうだからな」
目に見えるような気がして肩を竦める。
「児嶋に頼むか」
「そうだね。児嶋なら手伝ってくれそう」
棚板を慎重に取りつけながら、茨木がふと口を開いた。
「秋野は、進路どうするの」
「進路なあ……お前は?」
設計図を捲り、茨木は頷いてから俺を見る。
「進学するつもり。司書の資格、取りたいから」
何も驚かなかった。そうだろう、と思っていた。
茨木なら、いい司書にきっとなれる。
「それから、教員免許取ろうかなって思ってる」
「司書教諭ってことか?」
「うん。……本当はね、市の図書館で働けたらなって思ってた。でも、茨木が先生だったらよかったって秋野が言ってくれたことが嬉しかったから。頑張ってみようかなって」
少し照れくさそうにはにかんだ茨木を見て、胸がじわりと熱くなった。
自分の何気ない一言が、誰かの背中をそっと押したのだとしたら。
しかもそれが、友達の背中だったとしたら。
込み上げてくるものを誤魔化すように、咳払いを一つする。
「秋野は? やっぱり、お店を継ぐの?」
茨木の言葉を受けて、俺は視線を空に投げた。
これまでのことを振り返る。
喧騒から逃れるために図書室を訪ねて、そこで茨木と出会った。
最初からわかり合えたわけじゃない。「感じ悪いな、コイツ」とさえ思った。
だけど、図書室に足を踏み入れた、あの時のささやかな一歩のお陰で、知った世界がある。
「選択肢をな、増やしてーなって思ってる」
「選択肢?」
そう、と相槌を打ってから続けた。
「勉強はやっぱ好きじゃねーし、受験もやだなって思うし、俺なんかが今更やっても無駄なんじゃね? とは思うんだけど。でも、……最終的にどんな道を選ぶとしても、選択肢は多い方がいいだろ。まだどうしたいかなんてお前みたいにはっきり言えねーんだけどさ、だからこそ自分で選択肢を増やしていくのは悪いことじゃないんじゃないかって思う」
図書室に通っていることを馬鹿にされたくない、ダサいと思われたくない。だから誰にも見つからないよう、こっそり通いたい。
そんなことを本気で思っていたあの頃の俺が、今の俺を見たらひっくり返るかもしれない。
だけどこれは変化でも成長でもない、と俺は思っている。
『カラフル』と同じだ。俺の中にはこういう面も存在していた。ただそれだけの話。そう思っている。
冬の日暮れは夏のそれと比べると早い。早すぎるくらいだ。
あっという間に夕日が俺と茨木の頬と、完成した本棚を赤く照らす。
完成品の見栄えはそんなにいいものじゃなかったけれど、世界に一つしかない本棚は輝いて見えた。
「できた……」
「できたな」
二人揃って大きく息を吐く。それから綺麗にハモった。
「楽しかったな」
「楽しかったね」
顔を見合わせて、どちらからともなく噴き出す。
てっきり茨木は「疲れたね」と言うと思ったのに。
「何で楽しいんだよ、そこはお前、疲れたねって言うとこだろ」
「なにそれ。だって楽しかったもん」
「お前、中巻の栞探しした時、疲れたねとか面倒だねとか言ってただろ」
「その時はその時、今は今だよ」
口を尖らせた茨木の頭に手を遣って、くしゃくしゃに髪を掻き混ぜてやる。
「よし、んじゃ運ぶぞ」
「うん」
父親も呼んで、三人で店内に運び込んだ。天井と本棚の間に、転倒防止の器具を取りつける。
完成した本棚に、前日までの間に図書室から引き取ってきた本を並べた。大体、250冊ほどだ。
茨木が、「まだまだ綺麗な、行き先のない本」と言っていたものをほぼ全部引き取ってきた。
母親が店に降りてきて、本棚を見上げて目を見開く。
「すごいじゃないの。よくできてる」
それから茨木に向けて続けた。
「こんなにたくさんの本、本当にもらっていいの?」
「はい。秋野、……大輝くんが本棚をここに作るってアイデアを出してくれなかったら、本当に行き場がなくてどうにもならなかったと思います。……素敵な本ばかりなので、誰かの手に渡ってくれると嬉しいです」
茨木の言葉に母親はしんみりした顔を作って、「大切に、お客さんと一緒に読ませてもらうわね」と言った。
「そうだ。秋野」
茨木が俺を呼ぶ。肩にかけたショルダーバッグから、一冊の本を取り出した。あの寄贈者不明の『やまなし』だ。
「ここに置いてあげて。結局、誰が寄贈したのかわからないままだけど、秋野の近くに置いてあげて欲しい」
そっと手を伸ばし、受け取った。
思えばこの物語のクラムボンは、俺と茨木を繋ぐ、大事なものだったな、と思う。
その時、そのやり取りを見ていた父親が、「それ……」と呟いた。
「知ってんの? 宮沢賢治の『やまなし』」
俺の言葉に父親は瞳を細めて、手を出してくる。
「少し見せてくれ」
手渡した本をゆっくり捲り、寄贈印のあるページで手を止めた。
「これ、俺が寄贈したやつだな」
予期せぬ言葉が父親の口から飛び出て、びっくりしすぎて声が咄嗟に出ない。
一呼吸置いてから、「は?」と口をつく。
「え、どういうこと? 何で親父が?」
「卒業する時に寄贈したんだよ」
茨木と目を合わせる。茨木も何が何だかわからないという顔をしていた。
(……そうだった。俺、親父と同じ高校に進学したんだった……)
家から通いやすいという、ただそれだけの理由で選んだ高校だ。当然、父親だって似たような理由で選んでいて、俺は父親の後輩でもあった。
平成十四年寄贈、と知った時、ふと親父と同じ歳くらいかもな、と頭の片隅では思った。
思ったけれど、父親が図書室に通っていたイメージなんて全くないし、寄贈までするなんて想像もできない。
だから、父親と結びつけて考えることができなかった。
「これ、寄贈者リストに名前なかったんだよ。それで茨木と一緒に、何でだろうな、誰が寄贈したんだろうなってここ一ヶ月くらいずっと手掛かり探してたのに」
つい愚痴っぽくなる。答えがこんな身近にあるなんて、思ってもみなかった。
父親は気恥ずかしいのか、小さく笑ってから話し始めた。
「当時、司書だった先生のことが好きだったんだ。卒業式の時に思い切って、寄贈のついでを装って告白して、玉砕して、……名前を書く時に、この苦い思い出を残したくなくて、敢えて書かなかった。……そうか、先生も書かずにいてくれたんだな」
過去を懐かしむだけじゃなく、慈しむような穏やかで優しい声で、父親が呟く。母親も、その甘酸っぱい恋の話を、にこにこ笑みを浮かべながら聞いていた。
「あの……、どうして『やまなし』なんですか?」
おずおずと茨木が質問する。すると父親は、今度はバツの悪そうな顔を見せた。
「これに出てくるクラムボンが何なのか子どもの頃からわからなくてね、その先生に聞いたら、クラムボンはきっとみんなの心の中に居る、泡かもしれないしカニの仲間かもしれない、って言ったんだ。全然意味がわからなくて、でもなぜかすごく印象に残って、……それでこの本を選んだ。思い出の本ってやつだ」
何年も、何十年も、いや、何千年も前から、こうやって本は引き継がれてきたのかもしれない。
茨木とまた目が合った。
茨木が柔らかく笑ったから、俺も笑った。
冬の真ん中、騒がしい秋野食堂に、こうして本棚が生まれた。
文化祭の譲渡会の成功を受けて、あれ以来、放課後に定期的に譲渡会が行われている。
文化祭の時と違い、一般の人は入れない。生徒のみしか利用できないので、あの時と比べれば引き取られていく本の数は減ったけれど、新しい掘り出し物がないか、と開催される度に足を運んでくれる人たちのお陰で、図書室の本は少しずつ引取先が見つかっていった。
近隣の学校にも声をかけて、数百冊が引き取られた、と茨木が教えてくれたのは、冬休みに入ってからだ。
その日、俺は茨木と共に市内にある、小さめの図書館を巡っていた。一番大きな図書館は今もまだリニューアル工事中だ。
夏の図書館巡りでわかったのは、デカくて新しくてオシャレな図書館は、確かに魅力的だけど、学校図書室とはまた全く違う場所だということだった。
分館や、公民館の一角にある小さな図書館の方が、より身近だし、より図書室運営に似ていて、何か参考になることがないか、探しに行こう、と俺から誘った。
一つ目の図書館を見終えてから、昼飯を食うことにした。いつも通りのハンバーガー屋だ。
相変わらず、茨木は子ども向けのセットを頼んだ。俺も二セット目はそれにして、オマケの絵本は茨木に「どれがいい?」と聞く。
茨木は目を輝かせて、「いいの?」と言って、欲しいものを選んだ。
「一度に二冊ももらえて嬉しい」
ポテトを食べながら茨木が言う。
「これね、期間限定だからさ、うっかりして期間すぎちゃって、コンプが難しい時もあって。だから嬉しい」
「茨木、コンプとかそういうのするタイプなんだ?」
「本好きは大抵そうだと思う。僕の偏見だけど。同じ本でも表紙を変えたものが出たりすると、つい買っちゃう」
「あー、漫画本でもあるよな。実写になった時に表紙カバー変わるやつ」
ああいうのを集めたくなる気持ちは、俺にはあんまりわからないけれど、嬉しそうにオマケの本をパラパラ捲る茨木からは、もう「無愛想」で「無口」なイメージは消え去っていた。
(けどコイツ、普段は全然、昔と同じでツンとして愛想もないんだよなあ)
教室に居る時や、図書室で利用者の対応をしている時の茨木は、必要最低限しか話さないし、どちらかといえば素っ気ない。
茨木の態度が、俺の前でだけ緩むのだとしたら。
(……友情特権ってやつかもな)
つい口角が上がりそうになる。
「譲渡会のことなんだけどね」
「うん」
「大分少なくなったとは言え、まだまだ行き先未定の本があって。三学期中は、譲渡会の開催日を増やして対応しようってことになったんだけど……やっぱりどうしても、二千冊くらいはどうにもならない本が出てきそう」
茨木によれば、水川や北園以外の教師陣も、以前に勤めていた学校に問い合わせたり、教師仲間に声をかけたりしながら、本の譲渡先を探してくれているらしい。
「もう本当に、目一杯で引取先を探してる。僕も通ってた中学に連絡して、三十冊くらいは引き取ってもらえた。……だけど、限界が見えてきたなって思う」
茨木の言う「限界」がどういう意味なのかは、聞かなくてもわかった。
引取先が見つからない本を、学校のどこかに保管できるのならこんなに悩まない。つまり、廃棄するしかないのだ。
それを踏まえた上で思うのは、よくここまで行き先が見つかったな、ということだった。
約二万冊のうち、残り二千冊。実に九割はちゃんと人から人へと渡った。これは偏に、茨木を始めとする図書委員たちの努力の賜物だ。
一冊も無駄にはできない、という、茨木の気持ちに応えるように、みんなが必死になって同じ気持ちで動いた結果だろう。
それでも、残り一割は決断を迫られる可能性がある。
「今、どれくらい残ってんの?」
「3121冊。そこから千冊ほどは三学期の譲渡会とかで何とかなるんじゃないかって思ってる」
「あとちょっとなのにな。元の二万冊から考えたら大分行き先決まったと思うけど」
「うん。それはそうなんだよね。けど……秋野もわかると思うけど、本の二千冊って相当な量だからね……。二万冊の一割って考えたら少なく感じるけど」
溜息と共に茨木がジュースを飲んだ。
「二千冊って書架で考えたら八本くらいだからさ……」
改めて言われるとすごい数字だ。天井近くまである書架八本分は図書室全体から見れば一角に過ぎないけれど、例えば倉庫や教室にあると考えたら大分スペースを取ることになる。
「……すごく、悔しい」
茨木は小さな声でそう呟いた。
「縮小する方向に舵を切った時、それがどんなに現実的じゃないにしても、残せない全ての本に行き先を作りたいって思った。一冊も廃棄に回したくないって。……それが理想論だってことはわかってたけど、秋野、言ってくれたでしょ」
茨木が目線を上げて、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「最初の頃、足掻く前に諦めるなよって。諦めるのは足掻いてからでも遅くないって」
図書室の閉鎖を知り、それを淡々と受け入れているように見えた茨木に、無性に腹が立ったあの春の日。
茨木が何の抵抗もなく受け入れていると思ってしまって、自分勝手に詰め寄った時、茨木が口を真一文字に結んだのを見て、一番悔しいのは茨木なんだ、と気がついた。
足掻く前に諦めるな、と言った俺と茨木は、あの日からずっとこうして、居場所の在り方を模索してきた。
「……だから、絶対に頑張るぞって思った。絶対に全部の本の引取先を見つけるぞって。……だから、すごく悔しい」
茨木の声には本当に悔しい気持ちが滲んでいる。
ただし、それはあの日、何もできずに諦めていた悔しさとは、また別の色が混じっている気がした。
精一杯やった結果の悔しさの色には、ほんの少しプライドのようなものが感じられる。だから茨木は瞳を伏せたりせず、真っ直ぐ前を向いているのだと思う。
「俺も、中学の図書室に声かけてみるわ」
「本当?」
「翔太にも声かけさせる。他のダチにも頼んでみるよ」
俺たちにできることを、最後の最後までやるだけだ。
茨木は「ありがとう」と言ってから唇を緩めた。
三学期に入ると、三年生は自由登校になる。
学校から一学年分の生徒がほとんど居なくなるのは、去年も経験した。
その時は、「静かだなあ」とか「学校ってこんな広かったっけ?」とか、その程度のことしか思わなかったのに、今年は何だか少し物悲しい気持ちになる。
来年は自分が「居なくなる側」だから、その時のことを何となく想像してしまうからだ。
(進路か……)
子どもの頃は警察官に憧れていた。ただ単に、パトカーに乗ってみたかった。
中学に入る頃には、そんなことを考えることもなくなって、ぼんやりと「いつかは俺も店を継ぐのかな」と思うようになった。
食堂のことは嫌いじゃない。多分、寧ろ好きな方だ。
騒がしさに辟易することはあるけれど、商店街中の大人が俺のことを知っている。それは煩わしさとは別に、ある意味では安心感も与えてくれた。
どこに行っても「秋野さんとこの子」と認識されて、常連さんの中には赤ちゃんだった俺のオムツを替えたことがあるような人まで居る。
めちゃくちゃ恥ずかしいとは思うけれど、困った時はいつでもおいで、とみんなが言ってくれて、実際、親に怒られてメソメソ泣きながらその辺を歩いていたら、常連さんや近くの店の店主に捕まって、アイスやお菓子をくれたり、話を聞いてくれたりした。
都会の中の、小さな下町。その中で一生を終えることを、俺は悲観的には捉えていない。
(……けど、漠然とこのままでいいのかな、とは思うよな)
翔太は大学には行かないと公言していて、俺もそっち寄りだと思っている節がある。確かに大学に行きたいと思ったことは、今まで一度もない。
勉強は好きじゃないし、受験もしんどい。
いずれ店を継ぐのなら、調理師専門学校には通うべきか、と思うけれど、具体的に調べたことはなかった。
一月半ばの放課後、図書室に向かった。
室内はガランとしている。書架はほとんど空になっていて、残す予定の本はざっと見て三十ほどの書架に収まっているけれど、残りの書架はただそこにひっそりと佇むだけの存在だ。
カウンター奥の棚から、茨木が顔を出す。
「秋野」
「すげー減ったな」
改めて室内を見回して言った。
「来月からは一旦閉鎖するからね。残す本を少しずつ空き教室に移動させていかなきゃならないから。貸出自体も来週で一度ストップするから、今はご覧の通りって感じ」
図書室内には、利用者の姿がない。春の時と同じで、俺と茨木しか居ない図書室は、しんと静まり返っている。
「本、移動させんの、俺も手伝う」
「助かる。図書委員って女子ばっかりだから、体力仕事を無理にさせられないって思ってたんだ」
カウンターの一番近くの書架が目に入った。残す本が並んだ奥の書架とは別に区分けされている。
「ここの本は?」
「まだ行き先のない本たち」
書架を数える。まだ六本分もあった。
冬休み中に、翔太や他の友達にも声をかけたし、俺自身も通っていた中学に連絡を取って、少し引き取ってもらえた。
翔太や友達の母校でも引き取ってくれたので、それだけでも百冊ちょっとは行き先を確保できたのに、まだこれだけある、と現実を突きつけられる。
「来週、最後の譲渡会を開くんだ。そこで引取手が見つからなかった本は、……廃棄になるって北園先生から話があったよ」
茨木もカウンターから出てきて、俺の隣に並んだ。
二人で六本の書架の前に立ち、それらを眺める。
一冊、抜き取った。タイトルに『殺人事件』とある。推理小説のようだ。
「うわ、これかなりボロいな」
「うん。残った本のうち、大半はこういうちょっと傷みが激しいものなんだ。中にはまだまだ綺麗なものもあるけど……」
「これ、あと何冊あんの?」
「1856。そのうち綺麗な本は250冊くらいかな」
ここに残った本を引き取る人が居ない理由は、傷みにあるのかもしれない。
「傷みの加減によっては、もう廃棄しかないなって思うものもあるんだけどね……」
その時、茨木が「そうだ」と言って、カウンター内に入る。
一冊の本を手に戻ってきた。
「これ」
茨木が見せてくれたのは絵本だ。
「え、あ、これクラムボンじゃん」
「『やまなし』だよ」
二匹のカニが海の中から、水面を見上げている姿が表紙に描かれている。
「これね、寄贈本なんだ」
「へー」
受け取ってパラパラ捲った。裏表紙の後ろに、平成十四年寄贈と書いたハンコが押されている。
「平成十四年って何年前だ?」
「二十……四年前かな」
かなり昔に寄贈された本だ。その割には綺麗で、破れたりしている箇所もない。
「それ、寄贈者不明の本なんだよ」
「え?」
寄贈本は誰が寄贈したのか管理している、と前に茨木が話していた記憶がある。
それから、寄贈の際に返却か廃棄か選択をしてもらっていて、返却を選んだ人には一人ずつ連絡をしている、と話していたはずだ。
「どういうわけか、寄贈リストに載ってないんだ。でもハンコはちゃんと押してあるでしょ?」
もう一度、裏表紙を捲る。ハンコにはうちの学校の名前も入っているので、寄贈されたことに間違いはなさそうだ。
「北園か水川に聞けばわかるんじゃね?」
「僕もそう思ったよ。でも二人ともわからないって。考えてみればそりゃそうだよね。二人がここに赴任する前の寄贈だもん」
「二十四年も前じゃ、その当時の教師なんてもううちに居ないよなあ」
茨木が小さく溜息を落とす。
「この本だけが寄贈者不明で、どう扱うか迷ってるんだ」
「寄贈者リスト、俺も見たい」
「図書委員しか見ちゃダメなんだよ、あれ」
「え、俺、サブ図書委員ですけど」
しれっと惚けて答えると、茨木は呆れたみたいに眉を下げた後、口元を緩めて「特別だよ」と言った。
カウンター奥の棚から寄贈者リストのファイルを持ってきた茨木と共に、机に向かう。
目当てのページには付箋が貼ってあった。茨木が貼ったんだろう。
「ね、ここに本当はあるはずなんだ」
茨木が指差したのは、リストのナンバー562の欄だ。
『やまなし』と書いてある。その隣には寄贈日が書かれているのに、問題は更にその隣にあった。
確かに寄贈者の欄が空白になっている。
「寄贈日は……平成十四年の三月一日か」
スマホでその年のカレンダーを調べてみると、三月一日は金曜日だった。
「あ、もしかしたらこれ、卒業式の日じゃね?」
「そうかも。三月の頭だもんね。……ということは、卒業式の日にわざわざこの本を寄贈してくれたってこと?」
「その年の卒業生かもな、寄贈したの」
何気なく口にしたけれど、その可能性は高そうだと思った。
『やまなし』の裏表紙を捲ると、そこには発行年月日が書かれている。平成十三年となっていた。
つまり子どもの頃から読み継いできた本ではなく、わざわざ寄贈のために買った、と考えるのが自然だ。
「『やまなし』のことが、すごく好きな人なんだろうね」
「わかんねーぜ? 俺みたいに、クラムボンってなんだよ、意味わかんねー、腹立つな、宮沢賢治っていう怒りに任せての寄贈かもよ」
「なにそれ」
茨木がふふっと笑った。
「このリストに載ってない限り、誰が寄贈したのかはわかんねーんだよな?」
「そうだね。当時のことを覚えてる人が見つかったとしても、寄贈本のことを一冊一冊覚えてる人はさすがに居ないだろうし……」
この小さな謎は、三連栞の時よりも解くのは難しそうだ。何せ図書室内で解決しそうにない。
「北園先生は、当時司書をしていた先生を探してみるって言ってくれたけどね……」
「期待はできなさそうだな」
二人で『やまなし』を前に唸った。リストに名前がないのだから、いくら考えてもわからないのは仕方がないのに、何となく面白くない。気になる。
どうしてこの一冊だけが、正規の手続き通りに寄贈されなかったんだろう。
「……いや、違うな」
「え、なにが?」
考え事の答えだけを口にしたものだから、茨木がキョトンとした目で俺を見る。
「あ、いや、何でこれだけ正規の手続き踏まなかったんだろって思って。けどそうじゃねーなって。正規の手続きは踏んでんだよな、だってリストには寄贈日までちゃんと書いてある。載ってないのは寄贈者だけなんだし」
「確かに……手続きの途中で何かアクシデントがあって、そのままになっちゃった、とか?」
「アクシデントって?」
「貸出や返却の時も、気をつけてはいるんだけど、うっかり別のことに気を取られちゃって、バーコードを読み取り損ねたりってあるんだよ。寄贈の手続き中にそういうことがあったのかなって」
充分考えられる話だ。人の手作業なんだから、ミスはある。
「わざと寄贈者の名前書かなかったってことは、あんの?」
「わざと? ないと思うけど……どうして?」
「アクシデントって言われて、確かにあり得るなって思ったけど、もしアクシデントならその次の寄贈本のリストを作る時に、一つ前の本の寄贈者欄が空欄なことに気づくと思うんだよな。そしたらその時に名前書いとくのが普通じゃね? その時なら寄贈からそんなに時間経ってねーんだし、すぐに誰が寄贈したかくらいはわかるだろ」
俺の指摘を、茨木は宙を見つめて聞いていた。頭の中で推理している顔だ。眉間に皺が寄っている。
「……じゃあ、寄贈者が名前を書きたくないって言ったのかな」
「それか、図書室側に書かない理由があったのか」
ますますわからなくなった。頭がこんがらがってきたな、と思った時、茨木が口を開く。
「とりあえず、北園先生からの連絡を待つよ。僕らがいくら頭を捻っても、手掛かりは何もないもんね。全部憶測でしかないし」
茨木の言う通りだ、と頭を切り替えることにした。
それに、もしかしたらひょんな形で真相がわかるかもしれない。
図書室は春に向けて大移動をする必要がある。その時に普段は探せないような棚の隙間から、何か手掛かりが見つかっても不思議じゃない。
リストを閉じた茨木の手元から、先ほどの行方が見つからない本が収められた書架に視線を移した。
その時だ。頭の隅っこがパッと明るくなった。閃きってこういうことを言うんだ、と妙に冷静なことを考えながら、何度も閃いたそのアイデアを心の中で反芻する。
「茨木!」
急に大きな声を出したからか、茨木がビクッと肩を跳ね上げた。
「俺、いいこと思いついた!」
「いいこと?」
どうしてこんなことを、今の今まで思いつかなかったんだろう。
大阪旅行や茨木の入院を経て、あれだけ、「本棚はどこにあってもいい」と気づいたのに。
茨木は俺の提案を固唾を呑んで待っている。
ニヤリと口角を上げて言った。
「うちの食堂に、本棚を作るんだよ」
「大ちゃん、これ、言ってた道具な。気をつけて使うんだぞ」
商店街の隅っこの工具屋のおじさんが、電動のドライバーを持ってきてくれた。
「なんか困ったら言ってくれ。手伝いにくるから」
「わかった、ありがとう」
礼を言うとおじさんは手を上げて、うちの庭の扉から出て行った。
二月の下旬、庭で木材を広げた状態で茨木と向き合った。
「よし、やるぞ」
「うん、頑張ろうね」
軍手をはめて茨木がガッツポーズを作る。
食堂に本棚を設置する、という、今更ながら思いついたアイデアを親に話したら、あっさりオーケーをもらえた。
新聞や週刊誌を置いているカラーボックスを撤去して、その周りを片付けると、幅60センチの本棚なら何とか設置できそうだと判断し、茨木と共に木材集めを始める。
軍資金は、夏休みに大阪旅行に行った時にもらった餞別が残っていたので、それを使うことにした。
茨木と同額を出し合ってホームセンターに下見に行ったけれど、木材は結構高くて、更にカット代も別にかかることがわかった。
予算内で買えるかどうか、不安を抱えながら食堂の手伝いをしていた時、工具屋のおじさんが店に来たので相談してみたのだ。
するとおじさんは、「木材なら角の材木屋に話つけてやるよ」と言ってくれた。
「カットもやってもらえばいいし、工具なら貸してやる」と更に助け舟を出してくれて、結局、材料費もタダで作れることになった。
寸法通りにカットしてもらったので、俺たちは組み立てるだけだ。
厨房に繋がるドアが開く。母親が心配そうな顔を作って顔を出した。
「本当にできる? 材木屋さんに手伝ってもらったら?」
「大丈夫だって。ノコギリも使わねーし」
「気をつけるのよ。横着しちゃダメよ、大輝。律くん、大輝のこと見張っててね」
まるで俺が大雑把で、さも雑なことを仕出かすみたいな言い草だ。
茨木は苦笑いを浮かべて、「見張ります」と言った。何でお前までしれっと肯定してんだよ。
設計図を見ながら、二人でゆっくり組み立てた。
木工の授業で小さな椅子を作ったことはあったけれど、さすがにこのデカさのものを作るのは初めてだ。
昼は母親がわざわざ弁当箱に詰めた昼飯を出してくれたので、厨房脇の階段に座って二人で食った。
設計図通りに組むだけなのに結構難しくて、途中で棚板の向きを間違えたり、ドライバーの電気コードに足を引っ掛けた茨木が転びそうになってそれを支えたり、とにかくたっぷり時間をかけて組み立てる。
組み立てながら、いろんな話をした。寄贈者不明の『やまなし』の話も、茨木から振ってくれた。
「当時の司書の先生は、結婚で苗字が変わっちゃってたし、もう先生を辞めてるらしくってさ、結局見つからなかったんだ」
北園から聞いたという話を茨木が掻い摘んで説明する。
「ってことはマジでその当時を知ってる人は見つからないってことか」
「そう。さすがにその時の図書委員までは探せないしね」
仮に探せたとしても、その人が寄贈者のことを覚えているとは限らない。
結局、この残された小さな謎は解けそうで解けないままだ。
「春休みにね、図書室の本の移動をすることになったんだけど、秋野来られる?」
「おー、いつでも空けとく。男手足りないだろ、翔太にも手伝わせようか? ……と思ったけど、アイツのことだから絶対落としたり破いたりしそうだからな」
目に見えるような気がして肩を竦める。
「児嶋に頼むか」
「そうだね。児嶋なら手伝ってくれそう」
棚板を慎重に取りつけながら、茨木がふと口を開いた。
「秋野は、進路どうするの」
「進路なあ……お前は?」
設計図を捲り、茨木は頷いてから俺を見る。
「進学するつもり。司書の資格、取りたいから」
何も驚かなかった。そうだろう、と思っていた。
茨木なら、いい司書にきっとなれる。
「それから、教員免許取ろうかなって思ってる」
「司書教諭ってことか?」
「うん。……本当はね、市の図書館で働けたらなって思ってた。でも、茨木が先生だったらよかったって秋野が言ってくれたことが嬉しかったから。頑張ってみようかなって」
少し照れくさそうにはにかんだ茨木を見て、胸がじわりと熱くなった。
自分の何気ない一言が、誰かの背中をそっと押したのだとしたら。
しかもそれが、友達の背中だったとしたら。
込み上げてくるものを誤魔化すように、咳払いを一つする。
「秋野は? やっぱり、お店を継ぐの?」
茨木の言葉を受けて、俺は視線を空に投げた。
これまでのことを振り返る。
喧騒から逃れるために図書室を訪ねて、そこで茨木と出会った。
最初からわかり合えたわけじゃない。「感じ悪いな、コイツ」とさえ思った。
だけど、図書室に足を踏み入れた、あの時のささやかな一歩のお陰で、知った世界がある。
「選択肢をな、増やしてーなって思ってる」
「選択肢?」
そう、と相槌を打ってから続けた。
「勉強はやっぱ好きじゃねーし、受験もやだなって思うし、俺なんかが今更やっても無駄なんじゃね? とは思うんだけど。でも、……最終的にどんな道を選ぶとしても、選択肢は多い方がいいだろ。まだどうしたいかなんてお前みたいにはっきり言えねーんだけどさ、だからこそ自分で選択肢を増やしていくのは悪いことじゃないんじゃないかって思う」
図書室に通っていることを馬鹿にされたくない、ダサいと思われたくない。だから誰にも見つからないよう、こっそり通いたい。
そんなことを本気で思っていたあの頃の俺が、今の俺を見たらひっくり返るかもしれない。
だけどこれは変化でも成長でもない、と俺は思っている。
『カラフル』と同じだ。俺の中にはこういう面も存在していた。ただそれだけの話。そう思っている。
冬の日暮れは夏のそれと比べると早い。早すぎるくらいだ。
あっという間に夕日が俺と茨木の頬と、完成した本棚を赤く照らす。
完成品の見栄えはそんなにいいものじゃなかったけれど、世界に一つしかない本棚は輝いて見えた。
「できた……」
「できたな」
二人揃って大きく息を吐く。それから綺麗にハモった。
「楽しかったな」
「楽しかったね」
顔を見合わせて、どちらからともなく噴き出す。
てっきり茨木は「疲れたね」と言うと思ったのに。
「何で楽しいんだよ、そこはお前、疲れたねって言うとこだろ」
「なにそれ。だって楽しかったもん」
「お前、中巻の栞探しした時、疲れたねとか面倒だねとか言ってただろ」
「その時はその時、今は今だよ」
口を尖らせた茨木の頭に手を遣って、くしゃくしゃに髪を掻き混ぜてやる。
「よし、んじゃ運ぶぞ」
「うん」
父親も呼んで、三人で店内に運び込んだ。天井と本棚の間に、転倒防止の器具を取りつける。
完成した本棚に、前日までの間に図書室から引き取ってきた本を並べた。大体、250冊ほどだ。
茨木が、「まだまだ綺麗な、行き先のない本」と言っていたものをほぼ全部引き取ってきた。
母親が店に降りてきて、本棚を見上げて目を見開く。
「すごいじゃないの。よくできてる」
それから茨木に向けて続けた。
「こんなにたくさんの本、本当にもらっていいの?」
「はい。秋野、……大輝くんが本棚をここに作るってアイデアを出してくれなかったら、本当に行き場がなくてどうにもならなかったと思います。……素敵な本ばかりなので、誰かの手に渡ってくれると嬉しいです」
茨木の言葉に母親はしんみりした顔を作って、「大切に、お客さんと一緒に読ませてもらうわね」と言った。
「そうだ。秋野」
茨木が俺を呼ぶ。肩にかけたショルダーバッグから、一冊の本を取り出した。あの寄贈者不明の『やまなし』だ。
「ここに置いてあげて。結局、誰が寄贈したのかわからないままだけど、秋野の近くに置いてあげて欲しい」
そっと手を伸ばし、受け取った。
思えばこの物語のクラムボンは、俺と茨木を繋ぐ、大事なものだったな、と思う。
その時、そのやり取りを見ていた父親が、「それ……」と呟いた。
「知ってんの? 宮沢賢治の『やまなし』」
俺の言葉に父親は瞳を細めて、手を出してくる。
「少し見せてくれ」
手渡した本をゆっくり捲り、寄贈印のあるページで手を止めた。
「これ、俺が寄贈したやつだな」
予期せぬ言葉が父親の口から飛び出て、びっくりしすぎて声が咄嗟に出ない。
一呼吸置いてから、「は?」と口をつく。
「え、どういうこと? 何で親父が?」
「卒業する時に寄贈したんだよ」
茨木と目を合わせる。茨木も何が何だかわからないという顔をしていた。
(……そうだった。俺、親父と同じ高校に進学したんだった……)
家から通いやすいという、ただそれだけの理由で選んだ高校だ。当然、父親だって似たような理由で選んでいて、俺は父親の後輩でもあった。
平成十四年寄贈、と知った時、ふと親父と同じ歳くらいかもな、と頭の片隅では思った。
思ったけれど、父親が図書室に通っていたイメージなんて全くないし、寄贈までするなんて想像もできない。
だから、父親と結びつけて考えることができなかった。
「これ、寄贈者リストに名前なかったんだよ。それで茨木と一緒に、何でだろうな、誰が寄贈したんだろうなってここ一ヶ月くらいずっと手掛かり探してたのに」
つい愚痴っぽくなる。答えがこんな身近にあるなんて、思ってもみなかった。
父親は気恥ずかしいのか、小さく笑ってから話し始めた。
「当時、司書だった先生のことが好きだったんだ。卒業式の時に思い切って、寄贈のついでを装って告白して、玉砕して、……名前を書く時に、この苦い思い出を残したくなくて、敢えて書かなかった。……そうか、先生も書かずにいてくれたんだな」
過去を懐かしむだけじゃなく、慈しむような穏やかで優しい声で、父親が呟く。母親も、その甘酸っぱい恋の話を、にこにこ笑みを浮かべながら聞いていた。
「あの……、どうして『やまなし』なんですか?」
おずおずと茨木が質問する。すると父親は、今度はバツの悪そうな顔を見せた。
「これに出てくるクラムボンが何なのか子どもの頃からわからなくてね、その先生に聞いたら、クラムボンはきっとみんなの心の中に居る、泡かもしれないしカニの仲間かもしれない、って言ったんだ。全然意味がわからなくて、でもなぜかすごく印象に残って、……それでこの本を選んだ。思い出の本ってやつだ」
何年も、何十年も、いや、何千年も前から、こうやって本は引き継がれてきたのかもしれない。
茨木とまた目が合った。
茨木が柔らかく笑ったから、俺も笑った。
冬の真ん中、騒がしい秋野食堂に、こうして本棚が生まれた。

