「正式に決まったよ」
茨木からそう言われたのは、九月の半ばだ。
金曜日の夜、部屋でゲームをしていた時、電話がかかってきた。
前に電話した時は、まずはラインで『今、大丈夫?』と確認してきたのに、今回は普通にかかってきて、それがちょっと嬉しかった。
「今日、職員会議だったんだ。そこで正式に、図書室は縮小することになったって」
「……廃止じゃなく?」
「うん。廃止じゃなく」
茨木の返事を聞いて、思わずガッツポーズを作ったし、「よかったな!」と言いそうになって、慌てて口を噤む。
廃止じゃないとは言え縮小だ。手放しで喜んだりしたら、茨木には複雑だろう。
そう思ったのに。
「喜ばないの?」
「え? ……いや、だって、縮小は縮小だしな」
「僕はホッとした。図書委員のみんなも大喜びだったよ。続けていけるのが嬉しいって言ってた」
「……マジで?」
「うん。ほんと」
はーっと大きな息を吐く。
縮小に舵を切ることは、苦渋の決断ではある。特に茨木にとってはそうだ。
それでも、続けていけることをみんなが喜び、茨木自身もホッとしたと言えるのなら、この選択は間違っていなかった、と思える。
「んじゃ、お祝いでもするか」
「お祝い?」
「廃止阻止おめでとう、みたいな。あと、決起会みたいな感じ」
何それ、と茨木がふっと笑った。
「お前の退院祝いもしてねーじゃん」
「……退院祝いなんて、今までしたことないよ」
「じゃあ、これが初ってことで。お前、明日ヒマ?」
「え、ほんとにするの?」
「するに決まってんだろ。明日さ、昼の二時半頃、俺んとこ来いよ。昼飯食わずにな。いいもん食わしてやる」
強引すぎる俺の誘いに、電話の向こうで茨木がちょっとだけ怯んだのがわかる。
それでも、少しの間のあと、「住所、わかんない」と茨木は呟いた。
「電話切ったらラインで送る」と応え、茨木の返事を待たずに通話を切る。これ以上話して、やっぱり行けない、と言われたらヘコむと思ったからだ。
すぐに住所を送った。既読がつく。しばらく待っていたら『じゃあ、お邪魔しようかな。秋野、何人家族?』とメッセージが届いた。
三人と応えると、『うちと同じだ』と返ってくる。
そこから他愛のない文字のやり取りをした。考えてみたら、翔太以外とこんな風に取り止めのないメッセージを送り合うことなんて今までなかった。
友達、という言葉を意識すればするほど、茨木と友達になったんだ、という実感がじわじわと胸に広がる。
事前の伺いをせずに電話をかけてきたことを思えば、茨木ももしかしたら俺と同じ気持ちなのかもしれないな、と思った。
翌日、約束の時間の少し前に、俺は店の前で茨木を待つことにした。
商店街にはアーケードがあるから日差しは遮られるけれど、じっとしていれば汗が滲む。
それでも大阪旅行に行った八月のあの暑さと比べれば、随分マシだな、と考えていた時、向こうから茨木が歩いてくるのが見えた。
俺を見つけた茨木の表情に安堵が浮かぶ。少し早足で茨木が寄ってきた。
「ごめん、遅れた?」
「いや? まだ時間になってねーよ、大丈夫」
茨木は俺の背後に視線を送る。古い店構えだ。ちょうどランチタイムが終わったので、暖簾は既に外してある。
「……ここが、秋野の家……」
こくりと茨木が唾を呑むのがわかって、噴き出すように笑う。
「なに緊張してんだよ」
「だって、親御さんも中に居るんでしょ」
「そりゃ居るけど」
「どういう顔で挨拶すればいい?」
「普通でいいだろ、普通で」
それが一番難しいのに、と口を尖らせた茨木をスルーして、入口の引き戸を開けた。
待ち構えていた母親が俺たちを出迎える。
「いらっしゃい、暑かったでしょ」
俺の後ろに少し隠れるみたいに立っていた茨木が、ちょっとだけ前に出て、ぺこりと頭を下げた。
「茨木、律です。初めまして」
「初めまして。大輝の母です。大輝と仲良くしてくれてるんだってね、ありがとう」
俺の母親は圧倒的な陽の人間だ。茨木が若干怯んでいるのが俺にはわかった。
「あの、これ、……お口に合うといいんですが、よかったら」
茨木は手提げの紙袋を母親に手渡す。駅前のケーキ屋の紙袋だ。
茨木が昨日、何人家族か聞いてきた理由はこれだったらしい。
「お前な、気ィ遣うなよ」
「お邪魔するんだからこれくらい当然でしょ」
母親は目を丸くしてから、「ありがとうね、律くん」とにっこり笑った。
父親まで厨房から顔を覗かせる。やっぱりいきなり親と対面するなんて、緊張して当然だよな、と思ったし、いきなり親に会わせなきゃならないなんて、自営業の息子の悲しい運命を呪いたくなる。
父親は茨木の顔を見て、「ゆっくりしていきなさい」と言った。
「座れよ、茨木」
「あ、……うん」
二人で向かい合ってテーブルにつく。
「昼飯、食わずに来たか?」
「うん。秋野がそう言ってたから」
茨木の百点満点の返事に大きく頷いた。茨木は俺のその態度の意味がわかっていないので、キョトンとする。
五分ほどで母親が昼飯を運んできた。
テーブルに置かれた料理を見て、茨木が俺と料理を交互に見る。
「秋野、これ……」
「来週からの、うちの新メニュー。肉吸い定食、だし巻き卵付き」
目の前にあるのは、白米、肉吸い、漬物、だし巻き卵。大阪で食べたあの定食の美味さが忘れられなくて、親にメニューに加えよう、と提案した。
試作を繰り返し、やっと来週お披露目だ。今日はこれを、茨木に食わせてやりたかった。
両親が二階に上がるのを確認してから、茨木と一緒に肉吸い定食を食う。
茨木はずっと、「美味しい」「ぜんぶ美味しい」と言いながら、嬉しそうに食べていて、そのお陰でより一層美味かった。
食べ終えた後、茨木はほうっと吐息を吐いて、「……美味しかった……」と噛み締めるみたいに零す。
「秋野食堂が流行ってるの、わかる。本当に美味しかった」
「流行ってねーよ、……いや、でもまあ、潰れずやれてんだからそこそこは繁盛してるか」
「そうだよ。飲食店って十年で九割が廃業するって言われてるんだから」
「は? マジで?」
茨木の言葉に驚いて瞬きを繰り返した。
俺の家はじいちゃんの代からここで食堂を営んでいる。父親は二代目だ。
一割の生き残りの中に自分の家がある、と考えると、そこそこどころの話ではないように思える。
「本で読んだことある。そもそも一年目で三割が潰れるって。厳しい世界なんだよ」
「マジかよ……、親が四苦八苦して新メニュー開発したり、常連の無茶ぶり聞いたりしてんのも、無意味なわけじゃねーんだな」
ボロくてダサい店だと思ってたし、今もそれは思うけれど、ちょっと見方が変わるな、と素直に感心した。
「どんなことでも、続けていくってことは大変なんだよね。お店も、図書室も同じなのかも」
茨木がぽつりと呟く。
「縮小した図書室が、少しでも長く、できればずっと続いてくれたらいいなって図書委員のみんなも話してた」
「……だよな。せっかく残せるって決まったんだし、これから先も可能な限り引き継いでって欲しいよな」
「うん。月曜日から本格的な選書をスタートさせるんだけど、……まあ、難しいよね」
茨木は肩を落として深い溜息をついた。
「まずはどうすんの」
「とりあえず、入荷が新しいものから優先して残そうって話になってる。あとは稼働率が高いもの。……どこかで必ず線は引かなきゃならないから」
一瞬、寂しそうな色が茨木の目に滲んだ。自覚しているんだろう。それを誤魔化すみたいに表情を緩めた。
「何とか五千冊を選んだとして、……それ以外の本ってどうなんの?」
考えてみれば、このことはずっと頭から抜け落ちていた気がする。
五千冊に選ばれなかった本は、一体どこに行くんだろう。
「それも悩みの種なんだよね……」
「まさか廃棄?」
「まさか! そんな勿体ないことできないよ……。水川先生によると、近隣の学校に声をかけて、必要なものがあれば引き取ってもらうことはできるみたい。だけど量がね……」
「だよな…二万冊近く引き取ってくれるなんて、あり得ねーよな」
必要なものがあれば、と茨木は言ったけれど、例えば相手の学校に既にある本は引き取ってもらえる可能性は低い気がした。
「何かいい案があったら秋野も教えて」
「ん、わかった。考えとく」
その時、茨木の目がレジ近くのカラーボックスに注がれた。そこには新聞や雑誌が置かれている。
「新聞とかも置いてるんだね」
「そー。おっさんは何かと新聞と週刊誌読むからな。俺の親父は全然読まねーけど。茨木んとこは?」
「僕のところは新聞は毎日読んでると思う。うち、共働きなんだ。時事ネタは会社員にとっては鉄板なのかも」
確かに、通学電車の中でも新聞を読んでるのはほとんどスーツ姿のサラリーマンだ。
「秋野。今日は本当にご馳走さま」
茨木が背筋を伸ばして言った。改まって言われると照れくさい。どう返事をしようか迷っていたら、茨木が続けた。
「今度はお客さんとして、また来てもいい?」
「いつものってお前が言ったら肉吸い定食が出てくるくらい、常連になってくれ」
冗談めかして言ったら、茨木は頷いて口元に笑みを浮かべた。
十月に入ると、学校中が文化祭に向けて動き出した。
今年の文化祭はいつもの文化祭と違って、創立三十周年を記念して開催される。だからなのか学校側も生徒も気合いが入っていて、イベント好きな翔太は早くも、「早く文化祭になんねーかな」と暇さえあれば言い続けていた。
部活をやっていない俺を含めた大半の生徒は、クラスの出し物に駆り出される。うちのクラスは誰が言い出したのかクレープ屋に決まった。隣のクラスはお化け屋敷をやるらしい。
来年の閉鎖は免れたものの、図書室が縮小運営に切り替わるという話は、生徒たちの中でも話題になっていた。
例の如く、文化祭まだかな、と昼飯を食いながら零していた翔太の耳にも入っていたらしい。詳しく聞かれた。
「本減らすってどうやんの?」
「近くの学校とかで引き取ってもらえることもあるんだってよ。あとはまあ、……何とかするしかねーだろうな」
「何とかって?」
「……何とかは、何とかだよ。方法考えてるけど、イマイチいいアイデアが浮かばねーんだよな」
茨木からは、何かもしあれば教えて、と言われたけれど、未だにこれといって思いついていない。
「売っちゃダメなわけ?」
メロンパンを齧りながら翔太が言った。
「は? ダメだろ、そんなの。……え、ダメだよな?」
「いや、聞いてんのは俺」
翔太はけたけた笑った。考えもしなかったことを言われて、思わず呆けてしまう。
「普通に古本として売ったらダメなわけ? 古本屋なんかその辺にあるんだし、買い取ってもらえばいいじゃん」
「……お前ってすげーな」
「え、なんで? 俺、褒められてる?」
「褒めてる。多分図書委員じゃ誰もそんなこと思いつかねーわ」
翔太は、それほどでも、とか何とか言いながら頭に手をやった。冗談抜きで、図書室を守りたい、と考えている側からでは見えてこなかった解決法だと思う。
(けど……法的? に問題ねーのかな)
自分で買った本を売るなら問題ないだろう。だけど図書室の本は学校の金で買ったものだ。
放課後、図書室に寄って書架の整理をしていた茨木に聞いてみることにした。
「ダメに決まってるでしょ」
じとりと睨まれる。まるで、新種の生き物でも見ているかのような、怪訝な目だ。
久しぶりだな、この感じ。そうだよ、こいつ、結構こういう失礼なとこあったんだった。
「何を言い出すのかと思ったら……学校の予算で買ったものを売っていいわけないよ」
「まあそれはそうだろうな、とは思ったけどさ」
「秋野が思いついたの?」
「いや、翔太。確かにそういうのってどうなんだろって思ったから聞いた」
「手続きを踏めば、売却はできなくないと思う。けど、いろんなところに承認してもらわなきゃいけないし、現実的じゃないかな」
茨木によれば、学校側の許可、教育委員会への申請などが必要らしい。
現実的じゃない、という言葉に、確かにな、と思い当たる。
今が十月の頭。一ヶ月後には文化祭だ。その後、更に一ヶ月で冬休み目前。その前には期末テストがある。
短い冬休みを挟めばすぐに三学期で、縮小までの時間はそんなに残されていない。
「選書、進んでんの?」
「それ、聞いちゃう?」
茨木はわざとらしく肩を落とした。
「少しずつはやってるけどね……。とりあえず、残せそうにない本のうち、寄贈本に関しては寄贈者に連絡してるところ」
「寄贈者って全部わかんの?」
「勿論。寄贈書に記入してもらうからね。その紙に、もし廃棄になった場合、返却か廃棄かをイエスかノーで選ぶ項目があるんだ。返却に丸をつけてる人には連絡して返却って感じ。大抵の人は廃棄に丸してるけどね」
「へー……」
悩みながらではあるものの、一歩ずつ前に進んでいるんだな、と感じた。
図書委員でもない俺(まあ、茨木任命・サブ図書委員ではあるけれど)は、選書には携われない。仮にやってくれと言われたって無理だ。
手伝えないことはもどかしいけれど、何とかいいアイデアが思いつかないものかな、と書架の背表紙をぼんやり目で追いながら考える。
別の図書委員が茨木を呼ぶ。茨木は「じゃ、またあとで」と言いながら、カウンターの方へと向かった。
(……ちょっと減ったな、本)
前に来た時より、書架に隙間が増えた気がする。
これが五千冊への道程なのだ、と目の当たりにして、何とも言えない寂しさのようなものが込み上げた。
別に特別、本が好きなわけでもない。
『カラフル』は面白かったけれど、あれ以降、ガチャも回していないし、『銀河鉄道の夜』もまだ借りていない。
そんな俺でさえ、隙間の空いた書架を見てしんみりするのだから、図書室を好きな人から見たらもっと物悲しいものを感じるだろう。
(……茨木は、もっともっと感じるんだろうな)
二万五千冊もの本を、一冊も無駄にはできない、と言い切った茨木は、今は前向きに選書作業に取り掛かっているけれど、あの時の気持ちは今もきっと内にあるはずだ。
いろんなことを思い出したり、考えたりしながら、書架の間を行ったり来たりする。
思っていたより、学校の図書室はバラエティに富んだ本がある、と今更ながら思った。
心理学の本があると思えば、その近くには恋愛に特化した心理本なんかもある。
建築の本、法律の本、図書室運営に関する本。この辺りは専門的な本の書架らしい。
(こんなのまであんのかよ)
それは書架の一番下にあった。飲食店経営に関する指南書だ。
しゃがみ込み、一冊抜き取ってパラパラと捲る。文字だらけだったけれど、ところどころに料理の写真が載っていて、その度に手を止めた。
あらかた捲り終えて、元に戻そうとした時、その上の棚が視界に入った。
どういうわけか、その本の背表紙が一冊だけキラキラしているように見える。くっきりはっきり、その本だけが周囲の本から浮いて見えた。
何度もその背表紙のタイトルを上から下へと読む。
「これだ!」
気づいた時には大声で叫んでいた。周辺の生徒が驚いて俺を見る。
俺はその本を引き抜いて、茨木の居るカウンターへ向かった。
茨木は眉を顰めて俺を見上げると、「今の叫び声、秋野でしょ」と睨んでから続ける。
「図書室決まり事、第一項」
「図書室では静かにする」
「わかってるなら静かに」
こほんと咳払いをした茨木に、悪い悪い、と軽く返した。
「そんなことより、これ。これ見てくれ」
カウンターの上に持ってきた本をドンと置く。
「……『フリマアプリの正しい使い方』……」
茨木がタイトルを読み上げてから、伊達眼鏡を持ち上げた。
「これが、なに?」
「鈍いな、お前。これ、いけんじゃね? 売っちゃダメでも譲渡はオッケーだろ? 近くの学校に引き取ってもらうのもタダなんだよな? それなら生徒にタダで譲渡すんのは問題なくね?」
俺の言葉に茨木は息を呑んで、それから本の表紙と俺の顔をまじまじと交互に見る。
「近くの学校に引き取ってもらうっつっても全部は無理じゃん。かと言って捨てるなんてとんでもないって話だろ? それならさ、欲しいって人の手に渡るのはどうかなって」
フリマアプリという文字を見て、俺が思いついたのがこれだ。
これなら、より多くの人に、しかもその本が欲しいという人の元に本が渡る。
「つまり秋野が考えたのは、普通のフリマで売買じゃなく、無料の譲渡会を開催するってこと?」
「そう。これなら金のやり取りは発生しないし、何より引き取り先のない本の行き場が廃棄一択じゃなくなる」
一冊でも多くの本に行き場を用意して、できる限り廃棄本にしたくないはずだ。そのためには、引き取り先を一つでも多く探さなければならない。
茨木はじっと、『フリマアプリの正しい使い方』を見つめている。下を向いたままなので、どんな表情をしているのかわからない。
(え、俺、なんかまずいこと言った? 翔太レベルのこと言ったか?)
いいアイデアだと思ったのに、茨木が無反応なので急に不安になる。
恐々様子を窺っていると、茨木の肩が震えたのでギョッとした。
(げ、マジかよ、泣かせた?)
オロオロして、焦って、嫌な汗が額を伝った時、茨木が泣いているのではなく、笑っているのがわかって一気に力が抜ける。
「は? お前、なに笑ってんの」
「いや、秋野らしいなって思って」
肩を震わせて笑う茨木は、次の瞬間にはしゃがみ込んで笑った。
「おい! そんな笑うこと言ってねーだろ!」
「言ってるよ。言ってる言ってる。あーもーダメ。ほんっと秋野って……」
すると隣の図書委員が「二人とも、静かに」と言った。
俺たちは顔を見合わせて笑った。何がそんなに面白いのかわからないのに、笑えた。
「ここじゃ迷惑になる。行こ、秋野」
一頻り笑った後、茨木はカウンターから出てきて言った。
「行くって?」
「水川先生か、北園先生のところに決まってるでしょ」
どうやら俺の提案は採用らしい。
二人揃って図書室を出た。茨木はまだ薄っすら笑っていて、コイツが笑ってるだけでいいな、なんて思った。
「見た? 見た? 今すれ違った子! めちゃくちゃ可愛かった!」
隣を歩く翔太が興奮気味に同意を求めてくる。
俺の目線は手元にある、文化祭パンフレットに注がれていたので、そのめちゃくちゃ可愛い子については何にも見ていなかった。
「え、ごめん。全然わかんねー」
「何で見てねえの? つーか大輝、さっきから何でパンフレットばっか見てんだよ」
「店番の時間、ここに書いといたからだよ。もうすぐ俺たちの番だぞ」
文化祭がスタートした。店番というのは例のクラスの出し物だ。クレープ屋なので全員で店番を交代しなければならない。
俺と翔太は昼の十二時から一時間、店番をすることになっている。
「え、もう? まだお化け屋敷入ってないのに!」
翔太が不満そうな顔を作った。文化祭が始まったのは朝の九時だ。店番の時間以外は自由なので、俺ははしゃぎまくりの翔太に朝からあちこち連れ回されている。
現に翔太の手には、たこ焼き、焼きそば、唐揚げと一通りの食べ物が入ったビニール袋があるし、後ろ頭には射的で当てたお面を被っていて、心底浮かれていた。
「はしゃぎすぎじゃね?」
「体育祭はダルいけど文化祭は楽しいじゃん。出店いっぱいあるし、他校の可愛い子も来るし」
「まあ、楽しんでるなら何よりだけど」
「大輝は? 図書室のイベント、昼からだっけ」
翔太のいう、図書室のイベントとは、勿論無料譲渡会のことだ。
このアイデアを北園と水川に話したら、大賛成だった。どうやら二人も二万冊もの本の行方をどうするべきか、相当悩んでいたようだ。
文化祭で譲渡会を開催することを提案してくれたのは北園だった。
確かに文化祭なら外部の人も参加してくれる。その方がより多くの本が、必要とする人の手に渡る、と俺も茨木も賛成した。
そうなると大変なのは選書だ。今のスピードで仕分けしていたら文化祭には間に合わない。
結局、絶対に必要な本以外から、約一万冊を譲渡会に出すことになった。
一万冊を選ぶだけでも三週間以上かかった、と茨木に聞いた。
俺はその作業には参加できないけれど、文化祭の前日なら役割があった。
図書室から譲渡会開催場所である体育館に、一万冊の本を運び出し並べるという役割だ。
図書委員たちと台車で少しずつ、本を運んだ。
運んだ本はジャンル別に並べ、会議室から引っ張ってきた長机の上に置く。
当然、長机では収まり切らなくて、浅めの段ボール箱を近くのスーパーからもらってきた。それに模造紙を貼って見栄えを整え、その中にも本を並べた。
「昨日大変だったんだろ、本運ぶの」
「大変どころじゃねーよ、全身筋肉痛だわ。本ってマジで重いんだよ……紙の原材料は木だってことを思い出す羽目になった」
「ウケる」
「何もウケねーよ……」
他人事みたいに翔太が笑う。いや、まあ実際他人事だけど。
譲渡会は午後十二時からの予定だ。図書委員総出で対応する、と聞いている。茨木も勿論、今頃は既に体育館で最後のチェックをしているだろう。
「店番終わったら、俺、体育館の方行くからな」
「おー、わかった。俺はお化け屋敷行こ」
そんな会話をしながら、自分たちの店に向かった。クレープ屋は体育館脇の飲食店ブースの一角にある。
店の前には結構な人だかりができていた。甘い食べ物屋はうちのクラスしかないから、余計に混雑している。
手洗い、消毒、エプロン、手袋の着用、と一通り行ってから、店番に入った。
次々来る客の相手をしながら、クレープをひとつずつ作っては渡し、作っては渡し、休む暇もない。
翔太はレジ係をしている。どれでも一つ五百円だから、かなり楽そうだ。その証拠に買いに来た他校の女子と連絡先を交換している。
(アイツ……後で絶対、何か奢らせてやる)
調理係とは忙しさが全然違うじゃねーか。
暫くしてから、店の前を反対側に歩いていく人たちが増えていることに気がついた。
何気なく目で追っていると、ほとんどの人が手にチラシを持っている。
(なんだ、あれ)
気になるけれど、今は手が離せない。
後で誰かに聞くか、と考えていると、クラスの女子数人が「これ、先生から差し入れだって」とジュースを運んできてくれた。
そのうちの一人が、通行人が手にしているチラシを持っている。
「なあ、それなに?」
話しかけると女子がチラシを俺の方に向けてくれた。
「正門のとこで配ってたの。図書室の本の譲渡会だって」
チラシには、『図書室の本を無料で譲渡します』と書いてある。
「要る? そろそろ店番終わりでしょ」
そう言って、交代の準備を終えた女子がチラシを俺にくれた。
(こんなの配ってたのか……)
チラシ配りなら俺も手伝えたな、と思う。文化祭は二日間行われるので、明日も配るなら手伝いたい。
エプロンを外しながら、チラシにしっかり目を通した。
『図書室は来年の春、縮小します。たくさんの本の行き先がまだ決まっていません。本を必要とする人の手に渡って欲しい、という願いから、無料譲渡会を開くことになりました』──そう書かれている。
チラシを手に反対方向に向かっていた人たちは、これに参加するために移動していたのだ。向かっていた先には体育館の入口がある。
「クレープって自分のクラスのやつは食っていいんだっけ?」
隣の女子に訊ねると「うん。自分で作ってオッケーだよ」と教えてくれた。
調理場の脇に寄って、クレープを一つ作り、それをビニール袋に入れる。
「翔太、俺、そろそろ行くわ」
「おー、行ってら」
ひらひら手を振る翔太の後ろを通り抜け、チラシを持っている人たちの流れに混じった。
体育館の前にたどり着くと、中に入っていく人の他に出てくる人ともすれ違った。
大事そうに本を抱えて出てくる人、もらったらしい絵本を早速開こうとして「おうちに帰ってからね」と母親に言われている子ども、「これ探してたんだよ」と同行者に嬉しそうに話している人……そういう人たちとすれ違って、胸に込み上げてくるものがある。
(やべ……、なんだろ、なんか……泣くようなことじゃないのにな)
鼻の奥がつんと痛い。深呼吸をしてから唾を呑み、体育館に足を踏み入れた。
(……すげー人……!)
中は人でごった返していた。本を選ぶ人たちで溢れている。
誰も彼もみんな真剣な顔で吟味していて、これなら本当に欲しい人の元にちゃんと届く、と安心できた。
「何冊でもいいの?」
「勿論です!」
「ねえ、これの続きあるかしら」
「あります、こちらです」
質問が飛び交い、図書委員たちが一つずつ応えている。
一般客も多いけれど、驚くほど生徒の参加者が多かった。
図書室で何度も見かけた顔も居て、またホッとした。
一つの長机の前に茨木の姿を捉える。茨木は参加者が触って乱れた本を、丁寧な手つきで並べ直していた。
「茨木」
背後から声をかける。振り返った茨木が俺を見て、少し息を吐く。安堵の息に俺には思えた。
「お疲れさん。大繁盛じゃん」
「うん。まさかこんなに反響があるとは思わなかった」
茨木はちょっとだけ寂しそうで、でも嬉しそうに表情を崩す。
「差し入れ」
先ほど作ったクレープが入ったビニール袋を茨木に渡した。
「なに?」
「うちのクラスのクレープ。お前、甘いの好きだっつってたろ」
「好き。嬉しい、ありがとう」
茨木は中を覗き込んだ。「何味?」と聞いてくる。
「一番人気のやつ。いちごチョコカスタード生クリーム」
「食べたかったやつだ」
近くの図書委員に「ごめん、少しだけ外すね」と声をかけた茨木と共に、体育館の隅っこに移動する。
「ここで食べちゃってもいいと思う?」
「大丈夫だろ」
茨木はいそいそとクレープを取り出すと、一口頬張って、「すごく美味しい」と言った。
「秋野が作ったの?」
「そー」
「さすが、食堂の息子なだけある」
「クレープは出してねーよ」
茨木の冗談に突っ込みながら、チラシを見せる。
「これ、見た。こんなの配るなら声かけろよ。手伝ったのに」
「ああ、これ、違うんだ。図書委員で用意したんじゃないよ、児嶋が作ってくれたんだ」
「え?」
意外な名前が出て、目が丸くなった。
本に挟んで、顔も知らない誰かと手紙のやり取りをしていた児嶋は、ガチャ企画をきっかけにその相手とのやり取りが途絶えてしまった。
それでも児嶋はそれ以降も、図書室に足を運んでいて、手紙のやり取りができるから図書室に通っていただけじゃなく、本当に図書室という場所が好きなんだな、と思っていた。
「一週間くらい前かな。図書室に来てくれて、チラシを作るのはどうかなって提案してくれた。文章は、秋野が言ってたことを思い出して僕が考えて、デザインは児嶋がしてくれたんだ」
クレープを食べ終えた茨木は「ご馳走さまでした」と丁寧に言ってから、俺を見る。
「……有難いよね」
「ん。有難いよな」
図書室を必要としている人、図書室の閉鎖に心を痛めた人、そして図書室の行先を気にかけてくれる人が、自分たち以外にも居る、と知れた。
児嶋だけじゃない。今、目の前でたくさんの人が、思い思いに本を選んでいる。
「……必要としている人に渡る、その手助けをできてることが、僕は嬉しいなって思ってる。本は、伝達の道具だからね」
茨木が穏やかな声でそう言った。
「伝達の道具?」
「うん。本ってね、少なくとも千年前には今と同じ様式をしてたんだ。今の本とほとんど形が変わらないんだよ。両開き、背表紙、ノド、全部ある」
「千年前と変わらないって……え、すごくね?」
「すごいよ。それに本は世界中で同じ形をしてる。縦書きでも横書きでも、中身が日本語でも英語でもフランス語でも」
言われて初めて気がついた。
確かにそうだ。前に英語の授業で紹介された洋書も、俺が知っている至って普通の本の形をしていたけれど、そのことを何も特別なことだとは思わなかった。
「誰かに伝えるために本を書いて、自分以外の誰かの気持ちや考えが知りたくて本を読んで、それがまた別の誰かに伝わっていく。だから今日の譲渡会は、すごくすごく、意味のあるものなんだと思う」
茨木の視線の先を追いかける。いろんな人が本を選ぶ姿が、何だか眩しく見えた。
「秋野も何か選んだら?」
これもまた、考えもしなかったことだ。あれだけ本をどうするか考えていたし、譲渡会を思いついたのも俺なのに、自分ももらおう、なんて全く頭になかった。
「そーすっかな」
二人で本の元に戻る。茨木はまた整理を再開させた。
茨木から少し離れて、俺は長机の上を見て回ることにした。
昨日は運ぶのに夢中で、どんな本があるかまで気が回らなかったから、まるで初見のようにキョロキョロしてしまう。
分厚い文芸書のコーナーには、俺の親と同じ歳くらいの人が多い。エッセイのコーナーには女の人が多いし、恋愛小説コーナーは圧倒的に女子生徒ばかりだ。
文庫本のコーナーに差し掛かる。ここも人気らしい。
(文庫なら軽いしな……こっから選ぶか?)
まずはすーっと一通り眺めようとした時、あの黄色の表紙が目に飛び込んできた。『カラフル』だ。
それを手に取り、茨木の元に向かう。
「これにする」
『カラフル』を見た茨木が瞳を細めた。
「それね、人気あるんだ。人気本だからうちの図書室には三冊、所蔵してた。でも縮小するからには同じ本の所蔵を減らそうってなって、それで譲渡会に出したんだよ」
「じゃあ、これ以外にあと一冊出したってことか? もうなかったぞ」
すると茨木は肩を竦め、小さく舌を出す。
「それは、ホラ、図書委員の特権として」
その一言で察した。もう一冊は茨木が引き取ることにしたんだろう。
「ま、それくらいの特権はな」
俺も口端を上げて頷いた。それくらいの特権はあってもいい。
「あの、ちょっといいかな」
その時だった。背後から声をかけられる。振り返ると児嶋が立っていた。
「児嶋。チラシありがとな、すげーじゃん、効果抜群」
俺の言葉に児嶋は照れくさそうに笑ったけれど、それは一瞬のことだ。
困ったように眉を下げ、茨木に話しかける。
「あのさ、……あの本、もうないかな」
そう言って茨木に訊ねた本は、俺には全くどんな本かもわからないものだった。タイトルを聞いてもピンとこない。
茨木は思い当たるらしく、「ああ……」と頷いた後、申し訳なさそうな顔を作る。
「その本なら、ついさっき持って帰った人が居たと思う」
どうやら児嶋の目当ての本は、一足先に誰かに引き取られたらしい。
児嶋は肩を落として、「そうか……」と小さく呟く。
「その本、欲しかったのか?」
俺の質問に児嶋は、何度も首を縦に動かした。
「二人には話しただろ。本に挟んで文通してたって。ガチャ以降、やり取りは途絶えちゃったけど……あの本は俺にとって特別だから。引き取れるなら欲しいなって思ったんだけど、……そっか、ちょっと遅かったか」
児嶋の苦笑いが、胸をきゅっと締めつける。
茨木も申し訳なさそうに、「ごめんね……」と声を落とした。
「いや、いいんだ。これも縁だと思うし。……きっと素敵な人に引き取られて行ったんだって思うよ。いい本だからね」
ありがとう、と言って児嶋は背を向けた。かける言葉が見つからない。
他の本も見ていけば? なんて言えなかった。児嶋にとってはその本だけが唯一で、特別なのだ。
「せめて、どの本を使って文通してたのかわかってれば、取り置いておけたんだけど……」
茨木が悔し気に零す。俺も同じ気持ちだった。
何気なく、児嶋の行方を目で追う。てっきり出入り口に向かうのかと思っていたら、長机の端っこで足を止めて、ある一点を見つめていた。
その視線の先を追いかける。体育館の端に寄って、引き取った本を捲ったり、早速少し読んだりしている人たちが居て、児嶋の目はその中の一人に注がれていた。
そこに居たのは、うちの生徒だ。一人の女生徒が文芸書を開いている。
(……何だ?)
ページを捲る手が早いので、どうやら中身を読んでるわけではなさそうだ。
「あ……」
思わず声が出ていた。
そのことに気づいた時、やっと合点がいった。
(……もしかしたら、手紙、探してんのかも)
ガチャ企画以来、図書室から遠ざかっていたものの、児嶋との手紙のやり取りを途絶えさせてしまったことをずっと気にしていて、譲渡会が開かれることを知り、その本を引き取ろうとしたのだとしたら──。
やがて、女子生徒は本の後ろのページから一枚のメモを見つけた。
それは、児嶋が挟んだ最後のメモなのかもしれない。
女子生徒はそれを見つめ、もう一度本に挟むと、その本を胸に抱き、体育館を出て行った。
児嶋はその背中をずっと見つめている。
そこだけ時が止まったみたいに、俺には見えた。
しばらくしてから俺の視線に気づいた児嶋と目が合う。
児嶋は、はにかむように表情を崩した。
茨木からそう言われたのは、九月の半ばだ。
金曜日の夜、部屋でゲームをしていた時、電話がかかってきた。
前に電話した時は、まずはラインで『今、大丈夫?』と確認してきたのに、今回は普通にかかってきて、それがちょっと嬉しかった。
「今日、職員会議だったんだ。そこで正式に、図書室は縮小することになったって」
「……廃止じゃなく?」
「うん。廃止じゃなく」
茨木の返事を聞いて、思わずガッツポーズを作ったし、「よかったな!」と言いそうになって、慌てて口を噤む。
廃止じゃないとは言え縮小だ。手放しで喜んだりしたら、茨木には複雑だろう。
そう思ったのに。
「喜ばないの?」
「え? ……いや、だって、縮小は縮小だしな」
「僕はホッとした。図書委員のみんなも大喜びだったよ。続けていけるのが嬉しいって言ってた」
「……マジで?」
「うん。ほんと」
はーっと大きな息を吐く。
縮小に舵を切ることは、苦渋の決断ではある。特に茨木にとってはそうだ。
それでも、続けていけることをみんなが喜び、茨木自身もホッとしたと言えるのなら、この選択は間違っていなかった、と思える。
「んじゃ、お祝いでもするか」
「お祝い?」
「廃止阻止おめでとう、みたいな。あと、決起会みたいな感じ」
何それ、と茨木がふっと笑った。
「お前の退院祝いもしてねーじゃん」
「……退院祝いなんて、今までしたことないよ」
「じゃあ、これが初ってことで。お前、明日ヒマ?」
「え、ほんとにするの?」
「するに決まってんだろ。明日さ、昼の二時半頃、俺んとこ来いよ。昼飯食わずにな。いいもん食わしてやる」
強引すぎる俺の誘いに、電話の向こうで茨木がちょっとだけ怯んだのがわかる。
それでも、少しの間のあと、「住所、わかんない」と茨木は呟いた。
「電話切ったらラインで送る」と応え、茨木の返事を待たずに通話を切る。これ以上話して、やっぱり行けない、と言われたらヘコむと思ったからだ。
すぐに住所を送った。既読がつく。しばらく待っていたら『じゃあ、お邪魔しようかな。秋野、何人家族?』とメッセージが届いた。
三人と応えると、『うちと同じだ』と返ってくる。
そこから他愛のない文字のやり取りをした。考えてみたら、翔太以外とこんな風に取り止めのないメッセージを送り合うことなんて今までなかった。
友達、という言葉を意識すればするほど、茨木と友達になったんだ、という実感がじわじわと胸に広がる。
事前の伺いをせずに電話をかけてきたことを思えば、茨木ももしかしたら俺と同じ気持ちなのかもしれないな、と思った。
翌日、約束の時間の少し前に、俺は店の前で茨木を待つことにした。
商店街にはアーケードがあるから日差しは遮られるけれど、じっとしていれば汗が滲む。
それでも大阪旅行に行った八月のあの暑さと比べれば、随分マシだな、と考えていた時、向こうから茨木が歩いてくるのが見えた。
俺を見つけた茨木の表情に安堵が浮かぶ。少し早足で茨木が寄ってきた。
「ごめん、遅れた?」
「いや? まだ時間になってねーよ、大丈夫」
茨木は俺の背後に視線を送る。古い店構えだ。ちょうどランチタイムが終わったので、暖簾は既に外してある。
「……ここが、秋野の家……」
こくりと茨木が唾を呑むのがわかって、噴き出すように笑う。
「なに緊張してんだよ」
「だって、親御さんも中に居るんでしょ」
「そりゃ居るけど」
「どういう顔で挨拶すればいい?」
「普通でいいだろ、普通で」
それが一番難しいのに、と口を尖らせた茨木をスルーして、入口の引き戸を開けた。
待ち構えていた母親が俺たちを出迎える。
「いらっしゃい、暑かったでしょ」
俺の後ろに少し隠れるみたいに立っていた茨木が、ちょっとだけ前に出て、ぺこりと頭を下げた。
「茨木、律です。初めまして」
「初めまして。大輝の母です。大輝と仲良くしてくれてるんだってね、ありがとう」
俺の母親は圧倒的な陽の人間だ。茨木が若干怯んでいるのが俺にはわかった。
「あの、これ、……お口に合うといいんですが、よかったら」
茨木は手提げの紙袋を母親に手渡す。駅前のケーキ屋の紙袋だ。
茨木が昨日、何人家族か聞いてきた理由はこれだったらしい。
「お前な、気ィ遣うなよ」
「お邪魔するんだからこれくらい当然でしょ」
母親は目を丸くしてから、「ありがとうね、律くん」とにっこり笑った。
父親まで厨房から顔を覗かせる。やっぱりいきなり親と対面するなんて、緊張して当然だよな、と思ったし、いきなり親に会わせなきゃならないなんて、自営業の息子の悲しい運命を呪いたくなる。
父親は茨木の顔を見て、「ゆっくりしていきなさい」と言った。
「座れよ、茨木」
「あ、……うん」
二人で向かい合ってテーブルにつく。
「昼飯、食わずに来たか?」
「うん。秋野がそう言ってたから」
茨木の百点満点の返事に大きく頷いた。茨木は俺のその態度の意味がわかっていないので、キョトンとする。
五分ほどで母親が昼飯を運んできた。
テーブルに置かれた料理を見て、茨木が俺と料理を交互に見る。
「秋野、これ……」
「来週からの、うちの新メニュー。肉吸い定食、だし巻き卵付き」
目の前にあるのは、白米、肉吸い、漬物、だし巻き卵。大阪で食べたあの定食の美味さが忘れられなくて、親にメニューに加えよう、と提案した。
試作を繰り返し、やっと来週お披露目だ。今日はこれを、茨木に食わせてやりたかった。
両親が二階に上がるのを確認してから、茨木と一緒に肉吸い定食を食う。
茨木はずっと、「美味しい」「ぜんぶ美味しい」と言いながら、嬉しそうに食べていて、そのお陰でより一層美味かった。
食べ終えた後、茨木はほうっと吐息を吐いて、「……美味しかった……」と噛み締めるみたいに零す。
「秋野食堂が流行ってるの、わかる。本当に美味しかった」
「流行ってねーよ、……いや、でもまあ、潰れずやれてんだからそこそこは繁盛してるか」
「そうだよ。飲食店って十年で九割が廃業するって言われてるんだから」
「は? マジで?」
茨木の言葉に驚いて瞬きを繰り返した。
俺の家はじいちゃんの代からここで食堂を営んでいる。父親は二代目だ。
一割の生き残りの中に自分の家がある、と考えると、そこそこどころの話ではないように思える。
「本で読んだことある。そもそも一年目で三割が潰れるって。厳しい世界なんだよ」
「マジかよ……、親が四苦八苦して新メニュー開発したり、常連の無茶ぶり聞いたりしてんのも、無意味なわけじゃねーんだな」
ボロくてダサい店だと思ってたし、今もそれは思うけれど、ちょっと見方が変わるな、と素直に感心した。
「どんなことでも、続けていくってことは大変なんだよね。お店も、図書室も同じなのかも」
茨木がぽつりと呟く。
「縮小した図書室が、少しでも長く、できればずっと続いてくれたらいいなって図書委員のみんなも話してた」
「……だよな。せっかく残せるって決まったんだし、これから先も可能な限り引き継いでって欲しいよな」
「うん。月曜日から本格的な選書をスタートさせるんだけど、……まあ、難しいよね」
茨木は肩を落として深い溜息をついた。
「まずはどうすんの」
「とりあえず、入荷が新しいものから優先して残そうって話になってる。あとは稼働率が高いもの。……どこかで必ず線は引かなきゃならないから」
一瞬、寂しそうな色が茨木の目に滲んだ。自覚しているんだろう。それを誤魔化すみたいに表情を緩めた。
「何とか五千冊を選んだとして、……それ以外の本ってどうなんの?」
考えてみれば、このことはずっと頭から抜け落ちていた気がする。
五千冊に選ばれなかった本は、一体どこに行くんだろう。
「それも悩みの種なんだよね……」
「まさか廃棄?」
「まさか! そんな勿体ないことできないよ……。水川先生によると、近隣の学校に声をかけて、必要なものがあれば引き取ってもらうことはできるみたい。だけど量がね……」
「だよな…二万冊近く引き取ってくれるなんて、あり得ねーよな」
必要なものがあれば、と茨木は言ったけれど、例えば相手の学校に既にある本は引き取ってもらえる可能性は低い気がした。
「何かいい案があったら秋野も教えて」
「ん、わかった。考えとく」
その時、茨木の目がレジ近くのカラーボックスに注がれた。そこには新聞や雑誌が置かれている。
「新聞とかも置いてるんだね」
「そー。おっさんは何かと新聞と週刊誌読むからな。俺の親父は全然読まねーけど。茨木んとこは?」
「僕のところは新聞は毎日読んでると思う。うち、共働きなんだ。時事ネタは会社員にとっては鉄板なのかも」
確かに、通学電車の中でも新聞を読んでるのはほとんどスーツ姿のサラリーマンだ。
「秋野。今日は本当にご馳走さま」
茨木が背筋を伸ばして言った。改まって言われると照れくさい。どう返事をしようか迷っていたら、茨木が続けた。
「今度はお客さんとして、また来てもいい?」
「いつものってお前が言ったら肉吸い定食が出てくるくらい、常連になってくれ」
冗談めかして言ったら、茨木は頷いて口元に笑みを浮かべた。
十月に入ると、学校中が文化祭に向けて動き出した。
今年の文化祭はいつもの文化祭と違って、創立三十周年を記念して開催される。だからなのか学校側も生徒も気合いが入っていて、イベント好きな翔太は早くも、「早く文化祭になんねーかな」と暇さえあれば言い続けていた。
部活をやっていない俺を含めた大半の生徒は、クラスの出し物に駆り出される。うちのクラスは誰が言い出したのかクレープ屋に決まった。隣のクラスはお化け屋敷をやるらしい。
来年の閉鎖は免れたものの、図書室が縮小運営に切り替わるという話は、生徒たちの中でも話題になっていた。
例の如く、文化祭まだかな、と昼飯を食いながら零していた翔太の耳にも入っていたらしい。詳しく聞かれた。
「本減らすってどうやんの?」
「近くの学校とかで引き取ってもらえることもあるんだってよ。あとはまあ、……何とかするしかねーだろうな」
「何とかって?」
「……何とかは、何とかだよ。方法考えてるけど、イマイチいいアイデアが浮かばねーんだよな」
茨木からは、何かもしあれば教えて、と言われたけれど、未だにこれといって思いついていない。
「売っちゃダメなわけ?」
メロンパンを齧りながら翔太が言った。
「は? ダメだろ、そんなの。……え、ダメだよな?」
「いや、聞いてんのは俺」
翔太はけたけた笑った。考えもしなかったことを言われて、思わず呆けてしまう。
「普通に古本として売ったらダメなわけ? 古本屋なんかその辺にあるんだし、買い取ってもらえばいいじゃん」
「……お前ってすげーな」
「え、なんで? 俺、褒められてる?」
「褒めてる。多分図書委員じゃ誰もそんなこと思いつかねーわ」
翔太は、それほどでも、とか何とか言いながら頭に手をやった。冗談抜きで、図書室を守りたい、と考えている側からでは見えてこなかった解決法だと思う。
(けど……法的? に問題ねーのかな)
自分で買った本を売るなら問題ないだろう。だけど図書室の本は学校の金で買ったものだ。
放課後、図書室に寄って書架の整理をしていた茨木に聞いてみることにした。
「ダメに決まってるでしょ」
じとりと睨まれる。まるで、新種の生き物でも見ているかのような、怪訝な目だ。
久しぶりだな、この感じ。そうだよ、こいつ、結構こういう失礼なとこあったんだった。
「何を言い出すのかと思ったら……学校の予算で買ったものを売っていいわけないよ」
「まあそれはそうだろうな、とは思ったけどさ」
「秋野が思いついたの?」
「いや、翔太。確かにそういうのってどうなんだろって思ったから聞いた」
「手続きを踏めば、売却はできなくないと思う。けど、いろんなところに承認してもらわなきゃいけないし、現実的じゃないかな」
茨木によれば、学校側の許可、教育委員会への申請などが必要らしい。
現実的じゃない、という言葉に、確かにな、と思い当たる。
今が十月の頭。一ヶ月後には文化祭だ。その後、更に一ヶ月で冬休み目前。その前には期末テストがある。
短い冬休みを挟めばすぐに三学期で、縮小までの時間はそんなに残されていない。
「選書、進んでんの?」
「それ、聞いちゃう?」
茨木はわざとらしく肩を落とした。
「少しずつはやってるけどね……。とりあえず、残せそうにない本のうち、寄贈本に関しては寄贈者に連絡してるところ」
「寄贈者って全部わかんの?」
「勿論。寄贈書に記入してもらうからね。その紙に、もし廃棄になった場合、返却か廃棄かをイエスかノーで選ぶ項目があるんだ。返却に丸をつけてる人には連絡して返却って感じ。大抵の人は廃棄に丸してるけどね」
「へー……」
悩みながらではあるものの、一歩ずつ前に進んでいるんだな、と感じた。
図書委員でもない俺(まあ、茨木任命・サブ図書委員ではあるけれど)は、選書には携われない。仮にやってくれと言われたって無理だ。
手伝えないことはもどかしいけれど、何とかいいアイデアが思いつかないものかな、と書架の背表紙をぼんやり目で追いながら考える。
別の図書委員が茨木を呼ぶ。茨木は「じゃ、またあとで」と言いながら、カウンターの方へと向かった。
(……ちょっと減ったな、本)
前に来た時より、書架に隙間が増えた気がする。
これが五千冊への道程なのだ、と目の当たりにして、何とも言えない寂しさのようなものが込み上げた。
別に特別、本が好きなわけでもない。
『カラフル』は面白かったけれど、あれ以降、ガチャも回していないし、『銀河鉄道の夜』もまだ借りていない。
そんな俺でさえ、隙間の空いた書架を見てしんみりするのだから、図書室を好きな人から見たらもっと物悲しいものを感じるだろう。
(……茨木は、もっともっと感じるんだろうな)
二万五千冊もの本を、一冊も無駄にはできない、と言い切った茨木は、今は前向きに選書作業に取り掛かっているけれど、あの時の気持ちは今もきっと内にあるはずだ。
いろんなことを思い出したり、考えたりしながら、書架の間を行ったり来たりする。
思っていたより、学校の図書室はバラエティに富んだ本がある、と今更ながら思った。
心理学の本があると思えば、その近くには恋愛に特化した心理本なんかもある。
建築の本、法律の本、図書室運営に関する本。この辺りは専門的な本の書架らしい。
(こんなのまであんのかよ)
それは書架の一番下にあった。飲食店経営に関する指南書だ。
しゃがみ込み、一冊抜き取ってパラパラと捲る。文字だらけだったけれど、ところどころに料理の写真が載っていて、その度に手を止めた。
あらかた捲り終えて、元に戻そうとした時、その上の棚が視界に入った。
どういうわけか、その本の背表紙が一冊だけキラキラしているように見える。くっきりはっきり、その本だけが周囲の本から浮いて見えた。
何度もその背表紙のタイトルを上から下へと読む。
「これだ!」
気づいた時には大声で叫んでいた。周辺の生徒が驚いて俺を見る。
俺はその本を引き抜いて、茨木の居るカウンターへ向かった。
茨木は眉を顰めて俺を見上げると、「今の叫び声、秋野でしょ」と睨んでから続ける。
「図書室決まり事、第一項」
「図書室では静かにする」
「わかってるなら静かに」
こほんと咳払いをした茨木に、悪い悪い、と軽く返した。
「そんなことより、これ。これ見てくれ」
カウンターの上に持ってきた本をドンと置く。
「……『フリマアプリの正しい使い方』……」
茨木がタイトルを読み上げてから、伊達眼鏡を持ち上げた。
「これが、なに?」
「鈍いな、お前。これ、いけんじゃね? 売っちゃダメでも譲渡はオッケーだろ? 近くの学校に引き取ってもらうのもタダなんだよな? それなら生徒にタダで譲渡すんのは問題なくね?」
俺の言葉に茨木は息を呑んで、それから本の表紙と俺の顔をまじまじと交互に見る。
「近くの学校に引き取ってもらうっつっても全部は無理じゃん。かと言って捨てるなんてとんでもないって話だろ? それならさ、欲しいって人の手に渡るのはどうかなって」
フリマアプリという文字を見て、俺が思いついたのがこれだ。
これなら、より多くの人に、しかもその本が欲しいという人の元に本が渡る。
「つまり秋野が考えたのは、普通のフリマで売買じゃなく、無料の譲渡会を開催するってこと?」
「そう。これなら金のやり取りは発生しないし、何より引き取り先のない本の行き場が廃棄一択じゃなくなる」
一冊でも多くの本に行き場を用意して、できる限り廃棄本にしたくないはずだ。そのためには、引き取り先を一つでも多く探さなければならない。
茨木はじっと、『フリマアプリの正しい使い方』を見つめている。下を向いたままなので、どんな表情をしているのかわからない。
(え、俺、なんかまずいこと言った? 翔太レベルのこと言ったか?)
いいアイデアだと思ったのに、茨木が無反応なので急に不安になる。
恐々様子を窺っていると、茨木の肩が震えたのでギョッとした。
(げ、マジかよ、泣かせた?)
オロオロして、焦って、嫌な汗が額を伝った時、茨木が泣いているのではなく、笑っているのがわかって一気に力が抜ける。
「は? お前、なに笑ってんの」
「いや、秋野らしいなって思って」
肩を震わせて笑う茨木は、次の瞬間にはしゃがみ込んで笑った。
「おい! そんな笑うこと言ってねーだろ!」
「言ってるよ。言ってる言ってる。あーもーダメ。ほんっと秋野って……」
すると隣の図書委員が「二人とも、静かに」と言った。
俺たちは顔を見合わせて笑った。何がそんなに面白いのかわからないのに、笑えた。
「ここじゃ迷惑になる。行こ、秋野」
一頻り笑った後、茨木はカウンターから出てきて言った。
「行くって?」
「水川先生か、北園先生のところに決まってるでしょ」
どうやら俺の提案は採用らしい。
二人揃って図書室を出た。茨木はまだ薄っすら笑っていて、コイツが笑ってるだけでいいな、なんて思った。
「見た? 見た? 今すれ違った子! めちゃくちゃ可愛かった!」
隣を歩く翔太が興奮気味に同意を求めてくる。
俺の目線は手元にある、文化祭パンフレットに注がれていたので、そのめちゃくちゃ可愛い子については何にも見ていなかった。
「え、ごめん。全然わかんねー」
「何で見てねえの? つーか大輝、さっきから何でパンフレットばっか見てんだよ」
「店番の時間、ここに書いといたからだよ。もうすぐ俺たちの番だぞ」
文化祭がスタートした。店番というのは例のクラスの出し物だ。クレープ屋なので全員で店番を交代しなければならない。
俺と翔太は昼の十二時から一時間、店番をすることになっている。
「え、もう? まだお化け屋敷入ってないのに!」
翔太が不満そうな顔を作った。文化祭が始まったのは朝の九時だ。店番の時間以外は自由なので、俺ははしゃぎまくりの翔太に朝からあちこち連れ回されている。
現に翔太の手には、たこ焼き、焼きそば、唐揚げと一通りの食べ物が入ったビニール袋があるし、後ろ頭には射的で当てたお面を被っていて、心底浮かれていた。
「はしゃぎすぎじゃね?」
「体育祭はダルいけど文化祭は楽しいじゃん。出店いっぱいあるし、他校の可愛い子も来るし」
「まあ、楽しんでるなら何よりだけど」
「大輝は? 図書室のイベント、昼からだっけ」
翔太のいう、図書室のイベントとは、勿論無料譲渡会のことだ。
このアイデアを北園と水川に話したら、大賛成だった。どうやら二人も二万冊もの本の行方をどうするべきか、相当悩んでいたようだ。
文化祭で譲渡会を開催することを提案してくれたのは北園だった。
確かに文化祭なら外部の人も参加してくれる。その方がより多くの本が、必要とする人の手に渡る、と俺も茨木も賛成した。
そうなると大変なのは選書だ。今のスピードで仕分けしていたら文化祭には間に合わない。
結局、絶対に必要な本以外から、約一万冊を譲渡会に出すことになった。
一万冊を選ぶだけでも三週間以上かかった、と茨木に聞いた。
俺はその作業には参加できないけれど、文化祭の前日なら役割があった。
図書室から譲渡会開催場所である体育館に、一万冊の本を運び出し並べるという役割だ。
図書委員たちと台車で少しずつ、本を運んだ。
運んだ本はジャンル別に並べ、会議室から引っ張ってきた長机の上に置く。
当然、長机では収まり切らなくて、浅めの段ボール箱を近くのスーパーからもらってきた。それに模造紙を貼って見栄えを整え、その中にも本を並べた。
「昨日大変だったんだろ、本運ぶの」
「大変どころじゃねーよ、全身筋肉痛だわ。本ってマジで重いんだよ……紙の原材料は木だってことを思い出す羽目になった」
「ウケる」
「何もウケねーよ……」
他人事みたいに翔太が笑う。いや、まあ実際他人事だけど。
譲渡会は午後十二時からの予定だ。図書委員総出で対応する、と聞いている。茨木も勿論、今頃は既に体育館で最後のチェックをしているだろう。
「店番終わったら、俺、体育館の方行くからな」
「おー、わかった。俺はお化け屋敷行こ」
そんな会話をしながら、自分たちの店に向かった。クレープ屋は体育館脇の飲食店ブースの一角にある。
店の前には結構な人だかりができていた。甘い食べ物屋はうちのクラスしかないから、余計に混雑している。
手洗い、消毒、エプロン、手袋の着用、と一通り行ってから、店番に入った。
次々来る客の相手をしながら、クレープをひとつずつ作っては渡し、作っては渡し、休む暇もない。
翔太はレジ係をしている。どれでも一つ五百円だから、かなり楽そうだ。その証拠に買いに来た他校の女子と連絡先を交換している。
(アイツ……後で絶対、何か奢らせてやる)
調理係とは忙しさが全然違うじゃねーか。
暫くしてから、店の前を反対側に歩いていく人たちが増えていることに気がついた。
何気なく目で追っていると、ほとんどの人が手にチラシを持っている。
(なんだ、あれ)
気になるけれど、今は手が離せない。
後で誰かに聞くか、と考えていると、クラスの女子数人が「これ、先生から差し入れだって」とジュースを運んできてくれた。
そのうちの一人が、通行人が手にしているチラシを持っている。
「なあ、それなに?」
話しかけると女子がチラシを俺の方に向けてくれた。
「正門のとこで配ってたの。図書室の本の譲渡会だって」
チラシには、『図書室の本を無料で譲渡します』と書いてある。
「要る? そろそろ店番終わりでしょ」
そう言って、交代の準備を終えた女子がチラシを俺にくれた。
(こんなの配ってたのか……)
チラシ配りなら俺も手伝えたな、と思う。文化祭は二日間行われるので、明日も配るなら手伝いたい。
エプロンを外しながら、チラシにしっかり目を通した。
『図書室は来年の春、縮小します。たくさんの本の行き先がまだ決まっていません。本を必要とする人の手に渡って欲しい、という願いから、無料譲渡会を開くことになりました』──そう書かれている。
チラシを手に反対方向に向かっていた人たちは、これに参加するために移動していたのだ。向かっていた先には体育館の入口がある。
「クレープって自分のクラスのやつは食っていいんだっけ?」
隣の女子に訊ねると「うん。自分で作ってオッケーだよ」と教えてくれた。
調理場の脇に寄って、クレープを一つ作り、それをビニール袋に入れる。
「翔太、俺、そろそろ行くわ」
「おー、行ってら」
ひらひら手を振る翔太の後ろを通り抜け、チラシを持っている人たちの流れに混じった。
体育館の前にたどり着くと、中に入っていく人の他に出てくる人ともすれ違った。
大事そうに本を抱えて出てくる人、もらったらしい絵本を早速開こうとして「おうちに帰ってからね」と母親に言われている子ども、「これ探してたんだよ」と同行者に嬉しそうに話している人……そういう人たちとすれ違って、胸に込み上げてくるものがある。
(やべ……、なんだろ、なんか……泣くようなことじゃないのにな)
鼻の奥がつんと痛い。深呼吸をしてから唾を呑み、体育館に足を踏み入れた。
(……すげー人……!)
中は人でごった返していた。本を選ぶ人たちで溢れている。
誰も彼もみんな真剣な顔で吟味していて、これなら本当に欲しい人の元にちゃんと届く、と安心できた。
「何冊でもいいの?」
「勿論です!」
「ねえ、これの続きあるかしら」
「あります、こちらです」
質問が飛び交い、図書委員たちが一つずつ応えている。
一般客も多いけれど、驚くほど生徒の参加者が多かった。
図書室で何度も見かけた顔も居て、またホッとした。
一つの長机の前に茨木の姿を捉える。茨木は参加者が触って乱れた本を、丁寧な手つきで並べ直していた。
「茨木」
背後から声をかける。振り返った茨木が俺を見て、少し息を吐く。安堵の息に俺には思えた。
「お疲れさん。大繁盛じゃん」
「うん。まさかこんなに反響があるとは思わなかった」
茨木はちょっとだけ寂しそうで、でも嬉しそうに表情を崩す。
「差し入れ」
先ほど作ったクレープが入ったビニール袋を茨木に渡した。
「なに?」
「うちのクラスのクレープ。お前、甘いの好きだっつってたろ」
「好き。嬉しい、ありがとう」
茨木は中を覗き込んだ。「何味?」と聞いてくる。
「一番人気のやつ。いちごチョコカスタード生クリーム」
「食べたかったやつだ」
近くの図書委員に「ごめん、少しだけ外すね」と声をかけた茨木と共に、体育館の隅っこに移動する。
「ここで食べちゃってもいいと思う?」
「大丈夫だろ」
茨木はいそいそとクレープを取り出すと、一口頬張って、「すごく美味しい」と言った。
「秋野が作ったの?」
「そー」
「さすが、食堂の息子なだけある」
「クレープは出してねーよ」
茨木の冗談に突っ込みながら、チラシを見せる。
「これ、見た。こんなの配るなら声かけろよ。手伝ったのに」
「ああ、これ、違うんだ。図書委員で用意したんじゃないよ、児嶋が作ってくれたんだ」
「え?」
意外な名前が出て、目が丸くなった。
本に挟んで、顔も知らない誰かと手紙のやり取りをしていた児嶋は、ガチャ企画をきっかけにその相手とのやり取りが途絶えてしまった。
それでも児嶋はそれ以降も、図書室に足を運んでいて、手紙のやり取りができるから図書室に通っていただけじゃなく、本当に図書室という場所が好きなんだな、と思っていた。
「一週間くらい前かな。図書室に来てくれて、チラシを作るのはどうかなって提案してくれた。文章は、秋野が言ってたことを思い出して僕が考えて、デザインは児嶋がしてくれたんだ」
クレープを食べ終えた茨木は「ご馳走さまでした」と丁寧に言ってから、俺を見る。
「……有難いよね」
「ん。有難いよな」
図書室を必要としている人、図書室の閉鎖に心を痛めた人、そして図書室の行先を気にかけてくれる人が、自分たち以外にも居る、と知れた。
児嶋だけじゃない。今、目の前でたくさんの人が、思い思いに本を選んでいる。
「……必要としている人に渡る、その手助けをできてることが、僕は嬉しいなって思ってる。本は、伝達の道具だからね」
茨木が穏やかな声でそう言った。
「伝達の道具?」
「うん。本ってね、少なくとも千年前には今と同じ様式をしてたんだ。今の本とほとんど形が変わらないんだよ。両開き、背表紙、ノド、全部ある」
「千年前と変わらないって……え、すごくね?」
「すごいよ。それに本は世界中で同じ形をしてる。縦書きでも横書きでも、中身が日本語でも英語でもフランス語でも」
言われて初めて気がついた。
確かにそうだ。前に英語の授業で紹介された洋書も、俺が知っている至って普通の本の形をしていたけれど、そのことを何も特別なことだとは思わなかった。
「誰かに伝えるために本を書いて、自分以外の誰かの気持ちや考えが知りたくて本を読んで、それがまた別の誰かに伝わっていく。だから今日の譲渡会は、すごくすごく、意味のあるものなんだと思う」
茨木の視線の先を追いかける。いろんな人が本を選ぶ姿が、何だか眩しく見えた。
「秋野も何か選んだら?」
これもまた、考えもしなかったことだ。あれだけ本をどうするか考えていたし、譲渡会を思いついたのも俺なのに、自分ももらおう、なんて全く頭になかった。
「そーすっかな」
二人で本の元に戻る。茨木はまた整理を再開させた。
茨木から少し離れて、俺は長机の上を見て回ることにした。
昨日は運ぶのに夢中で、どんな本があるかまで気が回らなかったから、まるで初見のようにキョロキョロしてしまう。
分厚い文芸書のコーナーには、俺の親と同じ歳くらいの人が多い。エッセイのコーナーには女の人が多いし、恋愛小説コーナーは圧倒的に女子生徒ばかりだ。
文庫本のコーナーに差し掛かる。ここも人気らしい。
(文庫なら軽いしな……こっから選ぶか?)
まずはすーっと一通り眺めようとした時、あの黄色の表紙が目に飛び込んできた。『カラフル』だ。
それを手に取り、茨木の元に向かう。
「これにする」
『カラフル』を見た茨木が瞳を細めた。
「それね、人気あるんだ。人気本だからうちの図書室には三冊、所蔵してた。でも縮小するからには同じ本の所蔵を減らそうってなって、それで譲渡会に出したんだよ」
「じゃあ、これ以外にあと一冊出したってことか? もうなかったぞ」
すると茨木は肩を竦め、小さく舌を出す。
「それは、ホラ、図書委員の特権として」
その一言で察した。もう一冊は茨木が引き取ることにしたんだろう。
「ま、それくらいの特権はな」
俺も口端を上げて頷いた。それくらいの特権はあってもいい。
「あの、ちょっといいかな」
その時だった。背後から声をかけられる。振り返ると児嶋が立っていた。
「児嶋。チラシありがとな、すげーじゃん、効果抜群」
俺の言葉に児嶋は照れくさそうに笑ったけれど、それは一瞬のことだ。
困ったように眉を下げ、茨木に話しかける。
「あのさ、……あの本、もうないかな」
そう言って茨木に訊ねた本は、俺には全くどんな本かもわからないものだった。タイトルを聞いてもピンとこない。
茨木は思い当たるらしく、「ああ……」と頷いた後、申し訳なさそうな顔を作る。
「その本なら、ついさっき持って帰った人が居たと思う」
どうやら児嶋の目当ての本は、一足先に誰かに引き取られたらしい。
児嶋は肩を落として、「そうか……」と小さく呟く。
「その本、欲しかったのか?」
俺の質問に児嶋は、何度も首を縦に動かした。
「二人には話しただろ。本に挟んで文通してたって。ガチャ以降、やり取りは途絶えちゃったけど……あの本は俺にとって特別だから。引き取れるなら欲しいなって思ったんだけど、……そっか、ちょっと遅かったか」
児嶋の苦笑いが、胸をきゅっと締めつける。
茨木も申し訳なさそうに、「ごめんね……」と声を落とした。
「いや、いいんだ。これも縁だと思うし。……きっと素敵な人に引き取られて行ったんだって思うよ。いい本だからね」
ありがとう、と言って児嶋は背を向けた。かける言葉が見つからない。
他の本も見ていけば? なんて言えなかった。児嶋にとってはその本だけが唯一で、特別なのだ。
「せめて、どの本を使って文通してたのかわかってれば、取り置いておけたんだけど……」
茨木が悔し気に零す。俺も同じ気持ちだった。
何気なく、児嶋の行方を目で追う。てっきり出入り口に向かうのかと思っていたら、長机の端っこで足を止めて、ある一点を見つめていた。
その視線の先を追いかける。体育館の端に寄って、引き取った本を捲ったり、早速少し読んだりしている人たちが居て、児嶋の目はその中の一人に注がれていた。
そこに居たのは、うちの生徒だ。一人の女生徒が文芸書を開いている。
(……何だ?)
ページを捲る手が早いので、どうやら中身を読んでるわけではなさそうだ。
「あ……」
思わず声が出ていた。
そのことに気づいた時、やっと合点がいった。
(……もしかしたら、手紙、探してんのかも)
ガチャ企画以来、図書室から遠ざかっていたものの、児嶋との手紙のやり取りを途絶えさせてしまったことをずっと気にしていて、譲渡会が開かれることを知り、その本を引き取ろうとしたのだとしたら──。
やがて、女子生徒は本の後ろのページから一枚のメモを見つけた。
それは、児嶋が挟んだ最後のメモなのかもしれない。
女子生徒はそれを見つめ、もう一度本に挟むと、その本を胸に抱き、体育館を出て行った。
児嶋はその背中をずっと見つめている。
そこだけ時が止まったみたいに、俺には見えた。
しばらくしてから俺の視線に気づいた児嶋と目が合う。
児嶋は、はにかむように表情を崩した。

