アオハル、貸出中

 大阪旅行から帰ったその日、俺は泥のように眠った。
 帰りの夜行バスは疲れもあったし、三列シートの快適さもあって結構眠れたはずなのに、家に着いてシャワーを浴びた瞬間、ベッドにダイブしてそのまま寝落ちだ。
 目が覚めたら夕方だった。茨木とは早朝、バスを降りたところで別れたので、ラインを送っておく。
『また図書室行くわ』と送ったら、一時間ほどで『わかった』と返ってきた。
 翔太と遊んだり、店の手伝いをしたり、あっという間に五日が過ぎた。
 旅行から戻って六日目、昼過ぎに家を出て学校に向かう。
 久しぶりの図書室は相変わらず涼しかった。今日もカウンターに茨木の姿はない。
 パソコンの前か、どこかの書架の近くだろう。
 そう思って探しに行こうとした時、カウンターに居た女子が「あの……」と俺を呼び止める。一年生の図書委員だ。
「茨木先輩ならお休みです」
「あ……、そうなんだ」
 茨木にだって用があって当たり前だし、休んでいてもおかしくない。それなのにどうしてもガッカリしてしまう自分を隠せなかった。自然と肩が下がる。
 それを見た図書委員が、小さな声で続けた。
「ついさっき水川先生がきて、茨木先輩は暫く休むって教えてくれました」
「? 暫く?」
「体調を崩して、入院したって言ってました」
 ギョッとして、カウンター越しに図書委員に詰め寄る。
「入院? 体調崩したって何で?」
 俺の勢いに図書委員は少し怯えながら、「詳しくはわからないです……」と消えいるような声で呟いた。
 図書室を出て、ポケットからスマホを取り出す。嫌な汗が背中を伝う。
 トーク画面を呼び出し、茨木に電話をかける。だが出ない。
「くそ……ッ」
 入院中なら病室は通話禁止かもしれない、とやっと思い当たる。
 階段を二段飛ばしで駆け下り、職員室に向かった。
 職員室のドアを開けると、中に居た数人の教師が俺に視線を寄越す。目当ての水川は席に座っていた。
「水川先生」
 近寄って声をかける。水川は手元の資料から顔を上げた。
「秋野くん。どうかした?」
「茨木、入院したって本当ですか」
 俺が職員室に来た理由がわかったんだろう。水川は合点がいったように頷く。
「今朝、茨木くんのご家族から連絡があってね。暫くは図書委員としての活動が難しいですって」
「暫くって? 何の病気ですか、病院どこかわかりますか」
 勢いよく質問したら、水川はちょっと驚いたみたいに目を丸くしてから、「落ち着いて」と言った。
「二、三日の入院だと思うって仰ってた。念のために夏休み中は家で休ませますって。病院もちゃんと聞いてあるから、ちょっと待ってね」
 そう言って水川は手近にあったメモ用紙に、何かを書き込んだ。
「病院はここよ。もしお見舞いに行くなら、図書室のことは心配しないでって伝えておいてくれる?」
 メモには病院の名前が書かれていた。
 礼を言って職員室を出る。スマホを確認したけれど、やっぱり折り返しはないし、メッセージもなかった。
(二、三日ってことは、……そんなやばい病気じゃねえってことだよな?)
 心臓がばくばくと音を立てている。廊下はエアコンがないから暑いはずなのに、真冬みたいに指先が冷たくなった。
 そのくせ、額からは汗が大量に噴き出している。シャツの裾を捲り上げて、滴る汗を拭った。
 病院の場所をスマホで調べると、ここからなら電車で五駅先だとわかった。
(会えるかわかんねーけど、とりあえず行こう)
 じっと連絡を待つだけなんて性に合わない。
 電車に揺られている間も、何度もスマホを確認した。茨木からの連絡はない。
(やっぱ、弾丸旅行がまずかったんじゃねえのかな)
 風邪も滅多に引かない健康な俺でさえ、帰ってすぐに半日寝こけるくらいには、しんどい旅だった。
 もし春や秋の旅ならここまでではなかっただろう。夏の暑さが疲れに拍車をかけた。
(あいつ、朝飯も残してたもんな……、夜はちゃんと食ってたけど、寝不足なのは間違いなかっただろうし)
 次から次へと後悔が押し寄せる。それを振り払うようにかぶりを振った。今考えてもどうしようもない。
 駅から徒歩十分の場所に、病院はあった。総合病院でかなり大きい。
 入退院センターと書かれた表示を見つけたので、その通りに進んだ。
 しばらく歩くと受付が見えた。そこに座っていたスタッフに、「お見舞いしたいんですが、部屋の番号がわからなくて」と伝える。
 スタッフは「患者さんのお名前わかりますか」と言いながら、パソコンを操作した。
「茨木、律です」
 かちゃかちゃとキーを叩く音が、やけに響く。
「西病棟の九階ですね。エレベーターで上がって、ナースステーションでお声掛けください」
 ぺこりと頭を下げ、すぐ隣にあるエレベーターに乗った。
 九階に着くと最初に目に入ったのはデイルームと書かれた場所だ。テレビとテーブルがいくつか並んでいる。
 右側にナースステーションがあった。茨木の名前を伝えると部屋を教えてくれる。
 廊下を進み、912号室のドアをノックした。
「はい」
 小さな声が聞こえる。間違いなく茨木の声だった。
 ゆっくりドアを横に引く。入ってすぐのところにカーテンがかかっていた。それを開ける前に、「茨木」と声をかける。
「……え? 秋野……?」
「開けていいか、これ」
「うん……」
 そっと指先でカーテンの端を摘んで引いた。
 ベッドの上には茨木が居た。俺と目が合うなり、苦笑いを浮かべる。
「水川先生に聞いたの?」
「……おー」
 茨木の顔なんてもう見慣れているはずなのに、病院のベッドの上の茨木は、全然知らない人みたいに見えた。
「座って」
 茨木が視線で傍らの椅子を薦めてくる。その椅子に、ぎこちない動きで座った。
「……大丈夫なのかよ」
 口にしてから後悔した。入院しているのだから大丈夫なわけがないし、茨木のことだから「大丈夫」と答えるだろう。
「大丈夫」
 予想通りの言葉を茨木は呟いた。
「……体調崩したって水川は言ってたけど」
「うん。今年の夏は暑いからね、ちょっとしんどくなっちゃった」
「……やっぱ、旅行のせいか? 夜行バス、きつかったんだろ。大阪の暑さも」
「それだけじゃないよ。僕ね、子どもの頃、よくこうやって入院してたんだ」
 初耳だった。こくりと唾を呑む。
「初めて、聞いた」
「うん、初めて言った」
 茨木が口元を緩めた。
「持病があるわけじゃないんだよ。でも風邪とか引きやすくて。しかもそれを拗らせるんだよね。肺炎になったりしてさ」
 虚弱体質、という言葉を思い出していた。もしかしたら茨木もそのタイプなのかもしれない。
「大きくなってからはほとんどなかったんだけどね。ちょっと疲れが溜まってたみたい。昨夜高熱が出て、そのまま入院になった」
 茨木のベッドの横に点滴台があった。そこから伸びたチューブの先は、茨木の左手の甲に繋がっている。
「……顔、真っ白だな」
 茨木の声は普段とほとんど変わらなかったけれど、顔色は青白かった。血の気が引いているように見える。
「点滴してもらってるから、時期に回復すると思う。熱も下がったしね。入院も長くないよ。多分明後日には帰れると思うけど、夏休みももう残り少ないから、図書委員の業務は休ませてもらうことにしたんだ」
 普段口数の多くない茨木が一生懸命、話してくれている。俺を安心させるためだろう。
 それが一層、俺の胸を苦しくさせる。
 なのに、俺にできることなんて一つもない。俺は医者じゃないから茨木の体調を治してやれないし、タイムマシンも持ってないから旅行前に戻って茨木を気遣うこともできなかった。
「……ホントに、大丈夫なのかよ」
「うん。ここの病院は、僕が子供の頃からお世話になってるとこでさ、入院も念のためにって感じ」
 本当にそうなのか、それとも茨木が軽く言ってくれているのか、判断できない。唇を噛んで俯いた。
「それより秋野」
「……なに」
「お見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、手ぶらってどうなの。籠盛りの高級フルーツ詰め合わせとか、普通持ってくるでしょ」
 顔を上げる。茨木が口端を上げて俺を見ていた。茨木なりの冗談のつもりらしい。
「……元気じゃん、悪態つけんなら」
「うん、元気だよ」
 茨木が笑顔を見せた。俺もつられてやっと笑えた。
「久しぶりの入院で退屈」
「あ、お前、俺さっき電話したんだぞ」
「え? ごめん、気づかなかった」
「よっぽど体調悪いのかと思った。ラインもこねーし」
 口を尖らせると茨木はスマホを確認して、「あ、ホントだ」と言った。
「てか、ここ個室だよな。高いんだろ、個室って」
「大部屋空いてなかったんだ。だから仕方なくここにって。僕としてはラッキー。だってこの病棟、小児科だからね……」
 確かに年齢的にはまだ小児科で間違いないけれど、普段の病院でわざわざ小児科を選ぶことなんてない。普通に近所の町医者に行けば、大人も子どもも区別がないからだ。
 思わず噴き出した。茨木はじとっとした目で俺を見て、「笑い事じゃないよ……」と声を落とす。
 いつもの茨木だ、と思えた。心の底からホッとした。明日も来て、その時にはゼリーでも持ってきてやろうかな、と考えた時、茨木がゆっくり口を開いた。
「……秋野」
「ん?」
「図書室、……どうなっちゃうんだろうね」
 茨木の声が病室の床に頼りなく落ちる。心細さを隠せていない声だった。
「……夏休み、いろんな図書館見たけど、……別に解決策が浮かんだわけじゃねーもんな」
 正直に言った。誤魔化しても意味がない。それに茨木も同じ気持ちなんだろう。だからこそ、「どうなっちゃうんだろうね」と口にしたに違いない。
 茨木の目は窓の外に向けられている。九階だからさぞ見晴らしがいいだろう、と視線を追ったのに、そこにあるのは向こうの病棟の窓だけだ。
(ちゃんと、話さねーと……)
 北園の空き教室を利用した図書室について、茨木が抵抗を示したあの日から、何となくこの話題を避けてきたように思う。
「……中之島図書館を見て、本は生徒の財産だっていう北園先生の言葉を思い出したよ。図書室の本は一朝一夕で築き上げた財産じゃない。長い年月を掛けて、漸く24856冊になった。……僕にはやっぱり四冊に三冊を諦めるなんてできない」
 声に悔しさが滲んでいるのがわかった。
 茨木の気持ちは、理解できる。俺もあの歴史ある図書館を見た時、ここに築かれた歴史の重みは昨日今日、突然現れたものじゃない、と強く感じたからだ。
 できるなら今のまま図書室を継続していきたい。俺もそう思っている。
 それでも、廃止か縮小かの選択を突きつけられている今、どちらがより今後のためになるのかを考えなくてはならない。
(けど、……茨木は縮小するくらいなら廃止って思ってんだよな……)
 友達と同じ気持ちじゃない時、どう言えばいいんだろう。
 どう伝えればいいんだろう。
「……お前の気持ちは、わかるよ」
 そんな白々しい言葉しか出てこない自分に腹が立つ。
「北園先生は五千冊に絞るって言ってたよね。本は毎年、予算内で購入して増えていく。つまりその度にまた減らす必要があるよね」
 茨木の指摘にハッとした。確かにそうだ。
 五千冊にしたところで、来年購入する本が例えば三十冊あれば、残した五千冊からまた三十冊分を廃棄しなければならない。
(……そうか……、縮小するってことは、毎年これを繰り返すのか……)
 気持ちが沈む。俺たちは来年三年生で、再来年には卒業してしまう。
 だから正確に言えば、新たな廃棄本を選ばなきゃならないのは一年だけだ。
 だが、残った後輩たちはそれを継いでいく必要がある。
 きっと茨木にとってはそれも辛いんだろう。
「五千冊はゴールじゃない。縮小は一度きりの話じゃなくて、これからずっと続いていく運営方針なんだ。……だから諦めたくない。どうにか今のままの形で運営を続けていきたい。もう二度と、図書室を失いたくない」
 茨木の横顔を見つめた。
「二度とって、……なんだよ」
 瞳を伏せた茨木が、緩く首を左右に振る。それからゆっくり瞼を押し上げ、俺の方へと顔を向けた。
「……僕が図書室を失うのは二回目なんだよ」
 茨木の声がほんの少し震えている。
「この病院ね、僕が中学の時に建て替えてるんだ。その前はもっと小さな病院だった。僕は子どもの頃、そこに入院してて……院内にね、図書室があったんだよ」
 病院の中に図書室があるなんて、今まで知らずに生きてきた。
「二階の隅っこの部屋が図書室だった。入院患者なら一度に五冊まで借りられる。児童書が多かったけど、小説も漫画もあったから大人の患者さんもよく借りてた。入院って退屈だからね、僕、しょっちゅう通ってたんだ」
 懐かしそうに目を細めた茨木が、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「……学校を休みがちだった僕にとって、院内図書室は外の世界との繋がりだった。そこで読んだ本の話題が学校で出たりすると、話の輪の中に入っていけた。それだけじゃなくて、同じように入院してる子たちと回し読みしたり、一緒に図書室に行ったり、……楽しかったんだ」
 外の世界との繋がり。
 それを聞いて、俺にとってもそうだったな、と思い出す。
 図書室に行かなければ、俺は一生、宮沢賢治の本を読もうとは思わなかったし、『カラフル』だって読まなかった。
 本は、図書室は、俺を知らない世界に繋げてくれたのだ。
「……でも、建て替えが決まって、院内図書室は閉鎖されちゃった。そこにあった本は各病棟のデイルームに移動したんだけど、図書室っていう場所がなくなったことで、人が集まるということがなくなった。……デイルームの本は、ほとんど誰にも借りられずに、いつの間にか処分されてたよ」
 寂しそうな声が耳にこびりついて、それがそのまま俺の心臓に到達して揺さぶった。
 茨木がどうして図書室に拘ったのか、漸くその形が俺にも見えた。
 居場所を一度失って、それが跡形もなく消えてしまった経験は、茨木にとっては絶対に忘れられない傷なのだ。
「……けどよ、院内図書室とうちの図書室が同じ道を辿るかはわかんねーだろ? 縮小してもちゃんと残っていくかもしれねーし……」
 何のフォローにもならないセリフが口をつく。励ましたい気持ちが強すぎて、逆に無神経な言葉が出てくるなんて最悪だ。
「わかってる。……でも、頭ではわかってても気持ちが追いつかない」
 茨木は膝を抱えると、その膝に額を押しつけるようにして背中を丸めた。
「失いたくない、ただそれだけなんだ。……やっと見つけた居場所なのに、また図書室を失ったら、僕はどこにいけばいいの」
 それはあまりにも悲しい、茨木の本音だ。
(……怖かったんだな)
 本が好きなのも本当だし、図書委員も好きでやっている。図書委員のイメージを壊さないように、伊達眼鏡を掛ける、という斜め上の行動に出たりもする。
 でも、根っこにあったのは、「見つけた居場所を失いたくない」という、ささやかで、でも切実な願いだった。
(……俺にも、理解できない気持ちじゃないよな)
 茨木ほどの切実さはなかった。今は翔太にも図書室通いのことを普通に話せるようになった。
 それでも、居場所を失いたくない、という気持ちはわかる。
 図書室の閉鎖を知った時、俺が思ったのは「居場所を失いたくない」だった。
「……俺、食堂の賑やかさって嫌いじゃねーんだよ」
 静かに口を開く。
「ガチャガチャする食器の音も、酒飲んだおっさんたちの笑い声も、俺にとっちゃ産まれた時からそこにある日常なんだよな。でも、だからといって四六時中だとげんなりすることもあって。そんな時は図書室に通ってたんだよな、中学ん時」
 茨木が少し首をずらして、俺を見つめた。
「けど、ある時、真面目くんとかアピールすんなよとか揶揄われて。お勉強好きな秋野くん、とか言われて、なんかすげー恥ずかしくて。それで行かなくなった。その代わり、市内の図書館に行くようになったんだよ。勿論、誰にも見つからないようにコソコソ」
 今思えば馬鹿らしい。言いたいやつには言わせておけばよかったのに、と思う。でもそれは、今だから言えることだ。
「市内の図書館がリニューアルで閉館するってなった時、マジでどうしようかと思った。……仕方なく図書室に行ったら、お前が居たんだよ」
 茨木がふっと笑った。
「仕方なくって。正直すぎでしょ」
「俺の長所。……でもまあ、お前、気づいてたと思うけど、やっぱバレたくなかったんだよな。また中学ん時みたいに言われんの嫌だったし。……だから翔太が図書室で喚いた時も、最初は誤魔化そうとした。翔太は俺を自分側だって思ってたし、俺もそれ否定しなかった。……けど、お前といろんなこと話したり、『カラフル』読んだり、クラムボンのこと教えてもらったり、そういうのは否定されたくなくて」
「ずっと気になってた。……あの後、ちゃんと仲直りできたんだよね?」
「おー、それは大丈夫。翔太はデリカシーないけど、底意地悪いとかそんなんじゃねーし。あいつ、クラムボンのこと知ってた。カプカプ笑うってことも。クラムボンって何ですかって先生に聞いたら、そんなこともわからないのかって言われたらしいわ。そっから勉強とかどうでもよくなったって」
 茨木は丸めていた身体を起こし、目をぱちぱちさせた。
「……ちょっと酷くない?」
「俺もそう思う。ま、俺も海の生き物って言われたけどな。茨木が先生だったらよかったなって思った。翔太にそう言ったら、あいつもそう思うってよ」
 茨木が目を左右に動かしてから、俯く。どうやら気恥ずかしいらしい。
「……俺にとって図書室って、そういう場所なんだよな。うるせー家からの逃げ場所。でも、今は居場所だって思える。お前、最初の時に言っただろ。図書室はみんなの居場所だからって。本を読んでも読まなくてもいいって。俺はあれを聞いて、すげーホッとしたし、嬉しかった」
 何もしなくても、居ていい場所がある。
 この事実が、日常の喧騒から逃がしてくれたし、新しいものとの出会いも齎してくれた。
 だから。
 だからやっぱり俺は。
「……痛みを伴うことはわかる。失うのって怖いよな。お前が言うように、五千冊はゴールなんかじゃないってことも、理解できた。それでも俺は、……居場所は自分たちで作ってもいいんじゃないかって思う。誰かが作った場所じゃなく、俺たちの手で、新しい居場所を作るのも悪くないんじゃないかって」
 大阪の食堂で見た、あの本棚が脳裏を掠める。
 あの本棚は、俺に大事なことを教えてくれた。
 うるさくて騒がしい俺の家の中にも、居場所はきっと作れる。
 逃げ場所なんかじゃない、かけがえのない居場所を。
 ゆっくり立ち上がった。茨木が俺を見上げる。
「……まずは、ゆっくり休めよ。退院したら連絡しろよな」
 踵を返した背中に、「秋野、ありがと」という茨木の声が届いた。


 三日後、茨木から『退院した』と連絡があった。
 夏休みはもう残り一週間ほどだ。いつもならもっと夏休みが続けばいいのに、と思うのに、今年は違った。
 夏休みが終われば、茨木に会える。茨木と会って、アイツがどんな決断を下すのか知りたい。
 毎日そのことばかり考えていた。
 それなのに、短いようで長いような、そんな夏休みが終わり、二学期が始まった途端に怖くなった。
 閉鎖を選ぶのか、縮小を選ぶのか、あんなに知りたかったのに怖い。
 軽快とは言えない足取りで学校に向かった。教室の扉を開けると、「大輝〜」と翔太がヒラヒラと手を振ってくる。
「え、お前、焼けてんな」
 翔太は随分日焼けしていた。俺と遊んだ時はここまで焼けていなかったので、ちょっと驚いてしまう。
「夏休みの後半、市民プールの売店で短期バイトした。時給安かったけど、タダでプール入り放題っつーからいいなと思ったのに、日中がもう暑くて暑くて」
「そりゃそうだ。今年、猛暑だって散々言われてたからな」
「結局バイト終わりに泳ぐ元気なんかなくなってて、日焼けしただけで終わった」
 翔太らしいエピソードだな、と笑った。翔太も苦笑いしている。
 自分の席に荷物を置いたタイミングで、茨木が後ろの扉から入ってきた。
 ばったり目が合う。机に肘をつき、もう片方の手をひらりと振った。
 茨木もこっそり右手を振り返してくる。
(顔色、良さそうだ)
 いつもの茨木だった。病院で見た、あの青白さは残っていない。胸を撫で下ろし、茨木に近寄った。
「おはよ」
「おはよう。お見舞いに来てくれて、ありがとう」
「もう大丈夫なのかよ」
「すっかり。しっかり休んだしもう元気だよ。それに」
 茨木が不自然にそこで言葉を切る。反射で席に座っている茨木を見下ろした。
 視線がかち合う。すると茨木は唇で弧を描き、続きを口にした。
「それに、これから五千冊に絞るんだから、倒れてられないでしょ」
「……は?」
 目を見開いた時、チャイムが鳴る。
「ほら、席に戻って。先生来ちゃう」
「おい、ちょっと待て、え?」
 困惑している俺を見て、茨木は不敵な顔のまま、ひらひら手を左右に振る。
「お前な、……っ、後で聞くからな! きっちり聞くからな!」
「ハイハイ」
 何が何だかわからない俺とは裏腹に、余裕たっぷりな茨木はまだクスクス笑っていて、その顔からはあの日の寂しそうな色は見えない。
(茨木が笑ってんなら、いいや)
 あんなに怖かったのに、そんな本人に聞かれたら恥ずかしすぎることが頭に浮かんだ。
 授業の合間の休み時間では、満足に話せないと判断して、午前中はソワソワしながらも我慢した。
 昼休みに入った瞬間、茨木に近寄る。
「外、出る?」
 そう訊ねてきたので、首だけで頷いた。
 二人で教室を出て、屋上に向かう階段の下に移動する。ここはどういうわけか夏でも冷んやりしていて、俺のお気に入りの場所だ。
 階段に座ると、茨木も隣に座った。
 きっちり聞かせてもらう、と言ったのは俺なのに、何をどう切り出せばいいのか迷う。
 先に口を開いたのは茨木だった。
「いっぱい、考えた」
 息を吐いて、茨木の言葉の続きをじっと待つ。
「秋野、三連栞の文庫本のこと、覚えてる?」
「覚えてる。中巻が書架になくて、二人で探したやつだろ?」
 あれは確か、図書室に通うようになってしばらくした頃だ。
 何気なく書架を見ていたら三部作の真ん中の巻だけがないことに気づいて、茨木と二人で図書室の中を探した。
 茨木が伊達眼鏡と知ったのも、あの日だった。
「あの時、また買えばいいんじゃないのって秋野は言った。僕は、図書室の予算の話をして、ここには寄贈本もたくさんある、一冊も無駄にはできないって答えた」
 懐かしい思い出だ。だけどよく考えたらたった数ヶ月前の話で、あの時、俺は茨木のその言葉を聞いて、簡単に「買い直せば?」などと言ったことを恥じた。
「……今でも、その気持ちに変わりはない。例えほとんど借りられてない本でも、これからも貸出がないとは限らないでしょ。その本を必要とする人が現れるまで、図書室に所蔵していたい。……でも、現実問題として今でも廃棄本は出るんだ」
 苦い笑みを作る茨木を見つめる。
「できる限り、汚れたら拭いて、破れたら修繕してる。それでも限界はあって、……そういう時は、この本は役目を終えたんだって思うようにしてた。……だけど、今回の縮小はそれとは全然違うでしょ。蔵書の八割を減らさなきゃならないのは、役目を終えたとは言えないと思う」
 膝の上で作った拳に力を込めた。茨木の言っていることは何も間違いじゃない。
「でも、……大阪で食堂の本棚を見た時、素直に素敵だなと思った。こういう形もあるんだって思えた。サラリーマンの人、本を選んでたよね。それ読みながら食べてるのを見て、この人はここを居場所にしてるんだなって思った」
 あの時、俺も同じことを考えていた。
 本棚はどこにあってもよくて、利用する側がどこを居場所にするのかも自由。
 あのレトロな食堂にあった本棚は年季も入っていたし、並んだ本も決して新しいものじゃなかった。
 それでも、あそこでひっそりと、大切に、まだ見ぬ誰かを待っている。
「……二度と居場所を失いたくないって思ってた。だけど秋野が言ってくれた、居場所なら自分たちで作るのも悪くないんじゃないかっていう言葉は、あの食堂の本棚の在り方と重なって、……八割に減らすのは苦しいよ。でも、残せるものに目を向けなきゃならないってやっとわかった」
 ふっと吐息を漏らして、茨木が表情を緩めた。
「これが、僕の答え」
「……そっか。……うん、……そっか」
 馬鹿みたいに繰り返す。すると茨木は急に立ち上がった。
「……でも! 悔しい気持ちはなくならない!」
 珍しく大きな声を出す茨木を見て、俺も立ち上がる。
「そりゃそうだ! 悔しいよな!」
「うん!」
「よし、茨木、叫べ! 叫んでやれ!」
 茨木は意を決したように廊下の窓を開けると、大きく息を吸い込み、口元でメガホンみたいに手を広げて叫ぶ。
「悔しい! 八割減らすのは、しんどい! 苦しい! でも! 絶対に成功させる!」
 腹の底から目一杯叫んだ茨木は、言い終えるとはーっと長い息を吐き、俺を振り返る。
「手伝ってもらうよ、秋野。君はもう、サブ図書委員だから」
 腰に手を当てて仁王立ちする茨木の顔からは、前を向こうという気持ちが溢れていて、俺は笑った。声を出して笑った。
「なんだよ、サブ図書委員って」
「僕が勝手に決めた」
「お前、そんな権限あんの?」
「ないけど、ある」
 言ってることはめちゃくちゃだ。茨木も自分でそう思ってるんだろう。言いながら笑って、俺もまた笑って、そしたら、もう随分前からそう思ってたけど、ずっと言うタイミングを失っていたことをやっと口にした。
「しゃーねえな、ダチの頼みは断れねーんだよ、俺」
 すると茨木は、「秋野と友達でよかった」と瞳を細めた。