アオハル、貸出中

 ちょっとくらい休憩しろよ、太陽。
 ついついそんなことを思ってしまう。それくらい、今日もかんかん照りだ。
 気温は三十八度だとニュースで見たけれど、どう考えたって四十度はある。
 三館目を出た辺りで、時刻は昼の二時過ぎだった。図書館を出た瞬間に、ぶわっと汗が噴き出すのだから今年の夏は特別暑い。
 隣の茨木も言い方は悪いけれどげっそりしていた。今日の茨木は丸眼鏡を掛けていないし、当たり前だけど私服だ。それだけでいつもとちょっと違う顔に見えた。
「なあ、そろそろ飯食おうぜ」
「そうだね……ちょっと涼しいとこに移動しよ」
 頷く茨木と共に、駅の近くまで戻った。駅の下にハンバーガー屋があったのでそこに入ることにする。
 店内に入った瞬間、今度は寒すぎだろと思うくらいにエアコンが効いていて、この落差で具合が悪くなりそうだな、と心の中でぼやいた。
 注文したハンバーガーのセットを受け取り、二階席に移動する。ちょうど端っこが空いていたのでそこに茨木と向かい合って座った。
「お前、それで足りんの?」
 茨木のトレーを見て思わず尋ねてしまう。茨木が頼んだのはオモチャがついてくる子供向けのセットだ。
 シンプルなハンバーガーと少なめのポテト、飲み物だって一番小さい。
「この暑さじゃ食欲もなくなるよ……。それに僕、これ集めてるんだ」
 そう言って茨木が見せてくれたのは、オマケのオモチャだ。といっても、プラスチックのオモチャじゃない。小さな本だった。
「オマケって本もあんの?」
「うん。市販の本を再編集したものとか、オリジナルのものとか色々あって、結構面白いよ。……僕が少ないのを差し引いたとしても、秋野は食べすぎじゃない?」
 ドン引きしたみたいな茨木の視線は、俺のトレーに注がれていた。
 ハンバーガーとポテトと飲み物、至って普通のセットが二つ。翔太だって同じくらい食うし、俺にとってはこれがスタンダードだ。
 しかも今日は朝から図書館巡りをしていた。体力には自信のある俺でさえ、三館周ったこの時点でへとへとだった。これくらい食わなきゃ回復しない。
「それにしてもマジでしんどかったな……今日は比較的、近場を周ったからこの時間で三つ見れたけど、一日で周るのはこれが限界かもな」
 俺の言葉に茨木はストローから口を離して頷く。
 図書館巡りは今日で二回目だ。提案したその二日後に一回目をスタートさせたけれど、その日は少し離れた場所の図書館を選んでしまったせいで二館しか周れなかった。
 今日こそはたくさん周るぞ、と二人で意気込んだのはよかったけれど、暑さで体力が削られてしまい、結果として三館で終了しそうだ。
「秋野は、どこの図書館が印象に残った?」
「俺はこないだ行った、日比谷のとこ。あれヤバいな、三角の建物ってだけでワクワクする。企画展とかも力入ってたし」
 俺たちが行った日には夏休みの影響なのか、展示スペースでは日本の漫画展が行われていた。
 一階のカフェは結構賑わっていたし、本当に図書館の本を持ち込めることにも驚いた。無線LANは完備されているし、おまけにタブレットの貸出まである。
 ここなら一日中居てもいいな、と思った。
「茨木は?」
「圧倒されたのは、仲町図書館かな……。十一万冊の蔵書って本当にすごいなって。建物も迫力あった。テラスもあったりして、すごく近代的というか。逆に今日見たところはどこも小さな図書館だったけど、児童書が豊富なところはやっぱり賑わってたから、それもすごくいいなって思った」
「あー、子ども多かったな。ちょっとうるせーけど、活気あってよかった。後、俺が気になったのは、廃棄の本ってあんな風に持ち帰れるんだな」
 今日三館目に行った図書館は、新刊コーナーの片隅に『リサイクル本』と表示された棚があった。
 結構傷んだ本が多かったけれど、利用者が数人、そこから選んでは持ち帰るのを見かけた。
「除籍した本は、うちの市でもああやってリサイクルしてると思うよ」
「俺、全然知らなかったわ。ああいうの見てるとさ、図書館ってマジで市民のためのものなんだなーって思った。ネットできねーじいさんばあさんでも、金持ってない子どもでも、誰でも行けんだもんな」
 それを考えたら、北園が言っていた、「学校図書室はたった三年しか利用できない」という言葉が余計に重みを増す。
 人生の中で、ほんの僅かな時間しか通えない場所が図書室だと思えば、やっぱりどうしても閉鎖は避けたい。
「けどさ、いくつか周って思ったのは、それぞれに良さはあるものの、図書室に取り入れられるかって言われたら難しいよな」
 率直に感想を口にした。茨木はポテトを指先で摘んでから溜息を吐く。
「同感。僕はガラス張りはどうかと思うけど、明るさや開放感で言えば圧倒的だよね。だけどそれを図書室でやれるかってなると……無理だよね、普通に」
 勿論、企画展なんかは面白かった。本を読まなくても、ダイレクトで伝わってくるものがあったし、飲食可能とまではいかなくても、蓋つきの飲み物なら持ち込み可にすれば、今みたいに夏の暑い日は喜ばれるだろう。
 だけど、それらは改善案の一つにすぎない。つまり存続してからの話で、俺たちが躓いているのはその手前なのだ。
 食べ終えたハンバーガーの包みを、丁寧に折りたたんだ茨木と目が合う。
「秋野。次、どうする?」
「この近くにはもうないんだっけ?」
「うん。電車で一時間くらい離れたとこしかない」
 スマホを操作した。午後三時、今から電車で一時間かけて行くのは流石に難しい。図書館の閉館は基本的には午後五時だ。
「今日はここまでにするか。茨木、次、他に行きたい図書館とかねーの?」
 次の予定をいつにするか、カレンダーアプリを開く。茨木の返事を待ったけれど、どういうわけか沈黙が続いた。
 スマホから顔を上げる。茨木は少し目線を周囲に向けて、何かを考えているような顔をした。
「茨木」
「あ……、うん。……都内の行きたい図書館だよね」
 茨木もスマホを取り出した。検索するつもりらしい。
 ただ、茨木の反応を見れば、行きたいところはあるけれど口に出すのを躊躇っているのは明らかだった。
「別に都内に拘らなくてもいいけど、なんだよ、行きたいとこ、遠いのか?」
 俺の言葉に茨木は顔を上げて、スマホをテーブルの上に置く。
「……いつか、一度は行ってみたいなって思ってる図書館があって、行きたいところって言われてそのこと思い出しただけ」
「どこ?」
 それでも茨木はまだ答えない。焦れて、もう一度どこなのか聞こうとしたら、漸く口を開いた。
「……大阪」
「大阪?」
 予想しなかった地名だ。ちょっと声が上擦ってしまった。
「大阪の、中之島図書館ってところ。僕たちが図書館巡りで見たところは、どこも新しくて綺麗だったけど、そこはすごく古いんだ。明治時代に建てられたんだよ」
「明治!」
 驚いて聞き返す。茨木は頷いてから、再びスマホを操作した。画面を俺の方に向けてくる。
 そこにあったのは、石で造られた建物だった。
「え、これが図書館?」
「うん。歴史感じるよね。国の重要文化財に指定されてるんだ」
 それがどれほどすごいのかはわからなかったけれど、写真で見ただけでもかなり迫力がある。国で守って当然だ、と思わせる威厳のようなものを感じた。
「すげー。新しい図書館もいいけど、これ格好いいな。俺も見てみたい」
 そこまで言って、はた、と口を閉ざす。
 見てみたい? だったら見たらいいだけだ。
「秋野?」
「行こうぜ、大阪」
「え!」
 今度は茨木が目を見開く番だった。
「夏休みだぜ? 時間はたっぷりある。一泊二日、新幹線ナシならそこまで金もかかんねーだろ」
「え、待ってよ、大阪だよ? すごく遠いよ? 旅行だよ?」
「俺だって大阪が遠いことくらいはわかってるよ。学校始まったら無理だろ。でも今なら行けんじゃん。お前、いつ空いてる?」
 カレンダーアプリを表示させながら、残りの飲み物を飲んだ。
 茨木は何にも言わない。不安になって顔を上げたら、テーブルに肘をついて頭を抱えるみたいにしていた。
「え、なんだよ、その反応」
「……秋野って、本当にさあ……」
「なに」
「……変なやつって思っただけ」
 そう言って茨木は、俺と視線を合わせて笑った。


 大阪に行く、と親に言ったら、母親は目を見開いて「は?」と言った。
「行くってあんた、自転車で行けるようなとこじゃないのよ。新幹線で行くようなとこなの。それに行くって誰と」
 母親は、口から先に産まれてきた、とばあちゃんに言われるくらいお喋りなので、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
 対して父親は無愛想で、無口な方だ。その父親が母親を制した。
「金の目処は立ってるのか」
「あ、……うん。夜行バス使おうと思ってる。夜にこっち出て、朝に大阪着いて、その日の夜にまた夜行バスで戻るって感じ。これなら一万円ちょっとで行けるから」
「それじゃゼロ泊じゃないの」
 母親がまた口を挟んだ。それをもう一度、父親が手で制する。
「しんどいぞ。夜行バスなんてほとんど寝れないだろうし」
「うん。けどまあ、大阪着いてからちょっと疲れたなってなったら、カラオケでも入って仮眠するし」
 向こうでビジネスホテルにでも泊まるのが楽なんだろうけれど、調べたら未成年の宿泊には親の同意書が必要らしい。言えば書いてくれるだろうけれど、宿泊代までは出せそうにない、というのが俺と茨木の出した結論だ。
「飯代入れて、大体二万円以内が予算。ギリギリだけど行けっかなって」
 茨木もそれくらいなら問題ない、と言った。
「誰と行くんだ。一人じゃないだろ? 翔太くんか?」
「茨木ってヤツ。二年になってから、……仲良くなったヤツで、図書委員やってる」
 仲良くなった、と言う時、ちょっとだけ緊張してしまった。茨木との関係の変化を、こうして口にするのは初めてだ。
 図書委員と伝えたのは、それだけで真面目なヤツだと伝わると判断したからだった。
 案の定、母親の顔に安堵の色が浮かんだ。翔太じゃないと聞いた時は、ギョッとしていたけれど。
「相手の親御さんも了承してること、親御さんの連絡先とその茨木くんの連絡先を置いて行くこと、絶対に危ないことはしないこと。これが守れるなら行っていい」
 父親の言葉に母親もちょっと溜息を落としたもものの、「気をつけて行きなさいよ」と言ってくれた。
 ──こうして、俺は茨木と大阪旅行に行くことになった。
 旅行当日、夜の十時。池袋駅に着くと茨木は既に到着していた。
 夜行バスで寝れるとはいえ、宿泊ナシの旅なので俺の荷物はショルダーバッグ一つだ。中身もモバイルバッテリーと財布、メモ帳とボールペンくらいしか入っていない。
 一方、茨木の荷物はショルダーバッグ一つなのは同じなのに、やけにパンパンだ。
「お前、それ何入ってんの」
「水筒とか……あと本」
「水筒? 遠足じゃん」
「ミネラルウォーター入れてきたんだよ。車酔いとかしちゃうかもしれないし」
 用意周到というべきか、それとも水なんてそこの自販機で買えば? というべきか。
 こういうちょっとズレているところが茨木らしい。
 バスの車内はそこそこ混んでいた。俺たちの席は真ん中辺りのシートだ。シートは横に四列で並んでいて、俺たちは向かって右側の二列シートを予約してある。
 並んで座った。窓側は茨木の席だ。シートは狭いけれど、思っていたよりは椅子も柔らかいし悪くない。
「秋野、夜行バス初めて?」
「初めて。茨木は?」
「僕も。眠れるか心配」
「俺の親、夜行バスはほとんど寝れないぞって言ってた」
 出かけにした、父親との会話を思い出す。若い時に夜行バスを使ってよく一人旅をしたらしい。
 家を出る直前、餞別だ、と言って封筒をくれた。中身は一万円札だった。
 交通費込み二万円では、何とか足りるとしても心許ないのも事実だったので嬉しかった。
 やがて、バスはゆっくり動き出した。修学旅行以外で誰かと、……友達と旅行に行くのはこれが初めてだし、しかも夜の旅となれば、ワクワクしない方がおかしい。
 隣の茨木をこっそり見たら、目が合ってしまった。
「大阪も初めて?」
 茨木が訊ねてくる。
「京都は行ったことあるけど、大阪は初」
「大阪の人は歩くスピードが速いってほんとかな」
「茨木、転びそう」
 揶揄っただけなのに、茨木は真剣な顔で「気をつける」と言った。
 いくつかのバス停で停車する度に人が乗り込んでくる。慣れた人が多いのか、席に座るなりアイマスクをつけて眠る人も居た。
 暫く走ると、バスは高速道路の入口を通過した。
 深夜十二時を過ぎた頃、俺たちは眠ることにした。バスの中は意外と静かで、あんまり喋るわけにもいかなかったからだ。
 ちょっとうとうとしかけたところで、一つ目のサービスエリアで停まった。そこからも数時間置きに停まる。その度に外に出る人が居て、熟睡なんか全くできない。
 最初は柔らかいと思った椅子はどんどん硬さを増していくし、父親の言葉は正しかったな、と思った。
 茨木も眠れなさそうだった。時々、薄目を開けて茨木を見ると、カーテンの隙間から車のヘッドライトが入り込んで、それが茨木の横顔を照らす。
 それが妙に印象に残った。


 ガヤガヤとした人の声で、重い瞼を押し上げる。どうやらいつの間にか寝ていたらしい。
 欠伸を一つしたところで、隣の茨木が「おはよう」と言った。
「……はよ。もう着いた?」
「うん。後十分くらいみたいだよ」
 周囲の人たちが降りる支度を始めているのがわかった。
「お前、眠れた?」
「少しだけ」
「日中、やばいなって思ったら言えよ。カラオケにでも入って一回寝ようぜ」
 俺の提案に茨木は、「わかった」と応える。
 少ししてから、バスは目的地に着いた。下車する人たちに混じって、俺たちもバスを降りる。
 時刻は朝六時半。降りた瞬間から朝日が照りつけていて、眩しい上に暑かった。
 大きく伸びをする。これ以上バスに揺られていたら尻が悲鳴を上げていたかもしれない。
「夜行バス、結構キツくね?」
「うん……、でもすごいね。乗ってる間に、本当に大阪に着いちゃった」
 茨木がそう言って、辺りを見渡す。俺も同じようにした。
 標識や案内図に、「大阪」と書いた箇所を見つけるだけで、とても遠いところに来た、と感じる。
 茨木がスマホを取り出した。
「写真?」
「違うよ。親に着いたって連絡しなきゃいけないから。でも、写真撮って送っとくのもいいね」
 茨木はカメラを起動して、周囲の建物を撮影する。
「俺も連絡しとくか」
 家を出る時に母親から、着いたら連絡しなさいよ、と言われていたのを思い出した。
 ラインを送ってから、茨木に声をかける。
「とりあえず飯食おうぜ、腹減った」
「君、本当に元気だね……」
 朝飯といっても、どこにどんな店があるのかわからない。結局、駅の近くにチェーンのハンバーガー屋があったのでそこに入った。
「大阪来てもここかよって笑えるよな」
「でも安心感はあるでしょ。値段だって変わらないし」
「それはそう。つーか昨日の夜、父親が金くれたんだよな」
 ハンバーガーを齧りながら何気なく口にした。
「……僕のところも。その予算じゃ何かあった時に困るって」
 普段は、干渉すんなよ、鬱陶しいな、などと思うのに、こういう時に助けてくれる親の存在は、やっぱり有難い。勿論、口に出してお礼を言ったりすることは難しいのが現実だ。
 目的の中之島図書館までは、御堂筋線という路線に乗るらしい。図書館の開館は九時なので、直前までハンバーガー屋で時間を潰すことにした。
 観光するにしても、まだほとんどの店が閉まっているし、ここなら涼しい。
 八時半過ぎに店を出た。大阪に到着した時は人はまばらだったのに、通りを歩く人の数は一気に増えていた。
「梅田駅ってどっち?」
「えっと、多分こっち。御堂筋線は地下鉄だから、地下街から行くみたい」
 茨木の指差す方へ、並んで歩く。夏休み中だからかものすごい人の数だ。ぶつからないように気をつけながら、何とか地下街への入口を見つけた。
 地下に降りればすぐわかるだろう、と思っていたのに、それは甘かった。
「は? 広!」
 思わずそんな声が出るくらい、目の前には驚くほどの広さの地下街が広がっている。しかもその空間を、縦横斜めに大勢の人たちが行き交う。あまりの人の多さに圧倒された。
「これ、駅に辿り着けんのか?」
「ちょっと怯むね……梅田って地下ダンジョンって言われるくらいなんだって」
 茨木の言葉に、なるほど、と頷く。ダンジョン、確かにその通りだ。
 あちこちに短い階段があって、その先にもまだ地下空間が広がっている。
 案内図を見て、自分たちがどこに居るのか、まず把握することにした。
 そこから何とか、本当に何とか歩いて駅を発見する。これだけでも大分疲れた。
 ところが電車に乗りさえしたら、中之島図書館まではたった一駅で、逆に拍子抜けしてしまった。帰りもあの恐ろしく広いダンジョンの中を歩くのか、と思ったらちょっとゾッとしてしまう。
 最寄駅で降りて、地上に上がった。首が痛くなるほどの高さのビルの群れがそこにはあった。
「……オフィス街?」
 茨木がぽつりと溢す。パリッとしたスーツ姿の人たちが、忙しそうに早足で俺たちの横を擦り抜けていく。
「こんなとこに、ホントにあんな石の建物あんのか?」
 不安が口をついたら、茨木も同じ気持ちだったらしく、「駅、間違えてないよね?」と言った。
 地上に出てすぐのところに、周辺の地図が描かれた案内図があった。現在地より少し先に、中之島図書館と書いてある。
「合ってるわ。え、でも全然イメージ違くね?」
 ネットで見ただけだけど、あの石の建物を見た時、てっきり公園の奥深いところにあるような、そんな気がした。
 森の中を歩いていたら、木の影からゆっくりその姿を表すイメージだ。
 こんな、ビルだらけの街の一角にあるなんて、全く想定外だった。
「……とりあえず、行ってみよ。ネットで調べた限りだと、徒歩五分くらいみたい」
 茨木の言葉を合図に、俺たちは再び歩き出した。
 地下街の人も歩くスピードが速かったけれど、この辺の人たちはもっと速い。茨木は何度もぶつかりそうになって、数回目の時、とうとう俺の後ろに隠れた。俺を盾にするつもりのようだ。
「その方がいいかもな」
「うん……並んで歩いたら絶対誰かにぶつかって迷惑かけちゃう」
 茨木の歩幅に合わせて歩みを進める。
(それにしてもこの時間でこんだけ暑いのかよ……)
 まだ朝の十時前だ。それなのに、ちょっと歩いただけで汗が額を伝う。大阪の夏は暑いと前にネットで見たことがあった。
 オフィス街だから、アスファルトの照り返しが強烈なのも心を折ってくる。
「茨木、大丈夫か」
「うん、大丈夫」
 声に張りがない。朝飯も半分くらい残していたことを思い出す。夜行バスは茨木にはきつすぎたのかもしれない。
 クラクションの合間に、水の音が聞こえてきた。近くの川の音だ。
 行き交う人たちの中にはスマホで会話している人もいる。当たり前だけどみんなイントネーションがテレビで見るお笑い芸人と同じで、ついついそっちに気を取られていたら、いきなり目の前に石造りの建物が現れた。
 本当に突然だ。ビルとビルの途切れたところに、急に現れたその白い建物は、図書館というより神殿のようだった。
「すごい……」
 俺の後ろから顔を出した茨木が、呆然と立ち尽くして呟く。
「やばくね?」
「うん、やばい」
「お前、やばいなんて言うんだ」
「君、本当に僕を何だと思ってるの」
 建物を正面から見据えた。四本の円柱に支えられた正面玄関からは、歴史の重みが感じられる。
「すげー敷居高いな……これ、本当に入っていいのか?」
「え……、いい、と思うけど……でも気持ちはわかる」
 玄関に辿り着くまでに石でできた階段があった。その近くでそわそわしていたら、一人の女性が入って行った。チャンスとばかりにその後に続いて、階段を上がり中へと入る。
「すげえ……」
 息を呑むことしかできない。中央のホールは吹き抜けになっていて、天井にはステンドグラスのドームがある。
 そこから太陽の光がキラキラと差し込み、螺旋状の階段に降り注いでいた。
 現役の図書館として存在していることが不思議な建物だ。
「建築当時は、周りに高い建物がなかったらしいよ。どこから見ても目立つようにこういう形の建物にしたんだって」
 茨木の説明に相槌を打つ。
「当初は本の貸出はしてなくて、入口で鞄を預かってたみたい。入るだけでお金かかったんだって。それくらい貴重な建物だったんだね」
 いつになく饒舌な茨木が、何となく微笑ましかった。
 瞳を細めて館内を見つめる茨木は心底嬉しそうで、コイツって全然無愛想なんかじゃなかったんだな、と思う。
「好きに見てこいよ。俺も、本棚とか見てくる」
 憧れの場所だ。一人でじっくり、余すことなく見たいだろう、と思い、そう提案した。
 茨木は、「うん」と頷いて、中央の階段の方へ向かう途中で振り返る。
「本棚じゃなくて、書架」
「え?」
「秋野、図書室でもずっと本棚って言ってるけど、書架だよ」
 そういえば、確かに茨木や図書委員たちは書架と言っていたな、と思い当たる。
「意味違えの?」
「同じようなものだけど、本棚は家庭用とかも含まれる。書架は図書室や図書館でしかほとんど使われないかも」
 これまでの俺なら、意味が似たようなもんならどっちでもいいだろ、と思ったかもしれない。
「書架、な。覚えた」
 そう返すと茨木は、小さく笑ってゆっくり階段を上がって行った。


 昼飯は近くのコンビニで調達した。節約の意味もあったけれど、流石オフィス街。ランチタイムはどこも行列だったからだ。
 川沿いにベンチがあったからそこに座って、おにぎりを食べたけれど、日陰のはずなのに熱風に煽られて、地獄みたいな暑さだった。
 茨木は甘そうな菓子パンを選んでいたけれど、やっぱり暑さのせいで食は進まないようだ。
「菓子パンよりおにぎりとかの方がよかったんじゃね?」
「僕、甘いもの結構好きなんだ。好きなものなら食べられると思ったんだけど……さすがに喉に入っていかない……」
「だよな。もう中入ろうぜ……」
 俺がそう言うだけで、茨木は全てを察したんだろう。結局すぐに図書館に戻った。
 中之島図書館には閉館まで居た。茨木は何かをメモしたり、撮影可能なところは写真を撮ったりしていた。
 何度も「秋野、退屈じゃない?」と聞かれて、その度に首を左右に振る。実際、全然退屈じゃなかった。
 図書館巡りで訪問したさまざまな図書館に比べたら、ここは確かに古い。古すぎるくらいだ。
 だけど、人と時代が築き上げてきた歴史の重厚さがそこかしこに感じられて、古さがマイナスどころか何倍もプラスになっていた。
 中之島図書館を出ても、まだ外は暑かった。それでも日中の太陽の暑さがないだけマシだ。
 茨木は名残惜しそうに図書館を見つめてから、俺を見た。
「秋野、ありがとう。一日付き合ってくれて」
「俺も楽しかったし」
 夜行バスの出発時間までまだかなりある。昼飯をテキトーに済ませたので腹も減った。
 とりあえず梅田まで戻ることにした。電車は満員で、一駅だけとはいえ結構しんどい。
「ねえ」
 梅田に着いた時、茨木が声をかけてきた。
「秋野は行きたいところ、ないの? 時間も限られてるから遠いとこは無理だけど……せっかく大阪まで来たんだし」
 実はあった。行きたいところというより、食いたいものがある。
「場所っつーか、食ってみたいものがあるんだよな」
「なに?」
「肉吸い」
「にくすい」
 茨木は片言で復唱した。
「……って、なに?」
「肉うどんのうどんが入ってないヤツらしい。大阪の名物の一つなんだってさ」
「たこ焼きしか知らなかった」
「俺も。昨日ネットで大阪名物調べてたら出てきたんだよ。大衆食堂とかで食えるらしい」
 肉吸いの名店もあるようだけど、基本的には食堂なら結構な確率でメニューにある、と見た。つまり、大衆食堂ならどこに入っても食べられる可能性がある。
「じゃあ食堂探そうよ。歩いてたら見つかるかな」
「ダンジョンだからな。地下街歩いてりゃ大丈夫じゃね?」
 巨大迷路の中を歩いている気分だった。あんまりウロウロしたら迷うかな、と一瞬思ったが、地下街なだけあってあちこちに太い柱がある。
 その柱に案内図がくっついているので、最悪、それを辿れば駅に戻れるだろう。
「随分古いところに入り込んじゃったね……」
 茨木の言う通り、俺たちは地下で繋がったビルに入り込んでいた。柱には駅前ビルと案内が出ている。
「あ、茨木。ここ、飲食店多そう」
 案内の下にビル内の店舗の名前があった。金券ショップや薬局の他に、居酒屋や喫茶店も多い。
 仕事帰りのサラリーマン、学生の集団なんかとすれ違いながら歩いた。
 少し先に看板が出ている店がある。肉吸いと書かれているのを見て、茨木と目を合わせた。
 そこは文字通りの大衆食堂だった。入口の暖簾は年季の入った古さだったけれど、汚れていなかった。いかにも昭和といった雰囲気で、初めて来た店なのに俺にとっては見慣れた店構えだ。
「ここでいいか?」と茨木を振り返る。茨木は物珍しそうに外観を眺めながら頷いた。
 ちょっと緊張しながら暖簾を潜る。その瞬間、ふわっと出汁の香りが鼻先を擽った。
(あ……、うちと同じ)
 厳密にいえば、この店の出汁の匂いはかなり鰹節の香りが強くて甘い。だけどそこに混じる食材の匂い、湯気の香りがうちの食堂と同じで、安心感を覚える。
「いらっしゃい、好きなとこ座ってねえ」
 語尾が柔らかく伸びた関西弁で、中年の女性店員が言った。多分、俺の母親と同じくらいの歳だ。
 入口近くのテーブル席に座った。壁にはうちと同じく短冊形のメニューがたくさん貼られている。
 親子丼、天丼、焼き魚定食、きつねうどん、かけそば、カツ煮定食……ありとあらゆるメニューが書かれていた。その下に書かれた値段はどれもこれも驚くほど安い。
 一品メニューも豊富だった。恐らく食事だけじゃなく、酒とつまみを目当てに来る客も多いんだろう。
 目当ての肉吸い定食もちゃんとあった。
「茨木、決めた?」
「秋野と同じものにする」
 そのタイミングで先ほどの女性店員が「何しましょ」と言いながらテーブル脇に立つ。
「肉吸い定食を二つ、お願いします」
「はいよ。お冷やはセルフやからね。はい、おしぼり」
 そう言って手渡されたおしぼりはしっかりしたタオルで、火傷しそうなほど熱い。真夏なのにその熱さがなぜか気持ちよかった。
 店の隅っこにグラスと水が置いてある。茨木が「僕、取ってくるよ」と言って立ち上がった。
 持ってきてくれた水を飲み、店内をぐるりと見回す。
 席は半分ほどが埋まっていた。ビール片手に新聞を読んでいるおっさんも居れば、スーツ姿でカツ丼を頬張っているサラリーマンも居る。
 ふと奥に棚があることに気づいた。本棚だ。漫画や小説が結構な冊数で並んでいた。
(……こんなとこに本棚……)
 うちの店にもカラーボックスが置いてある。そこには新聞や週刊誌を置いているけれど、本らしいものはない。
 カツ丼を食っていたサラリーマンが立ち上がった。水を汲むついでに、本棚の前に立つ。そこから一冊を選んで席に戻った。
(……どこに置いてもいいんだな、本棚って)
 当たり前のことのようだけど、これまで考えたこともないことだ。
「本棚、あるね」
 茨木が小さな声で言った。
「うん。びっくりした。こんな風に置くのもありなんだな」
「そうだね。どこに置いてもいいんだね、本棚って」
 俺が心で思ったことを茨木が口にしたので、何だか気恥ずかしかった。
「お待ちどうさん、ゆっくり食べてねえ」
 運ばれてきたのは正しく、俺が昨晩ネットで見た定食そのものだ。
 白飯の隣にうどん鉢に入った肉吸い、漬物、小皿には卵焼きが載っている。卵焼きの隣には大根おろしが控えめに添えられていた。
「美味しそう……」
 これには茨木もそう呟いた。二人で目を合わせてから、「いただきます」とハモる。
 肉吸いを一口、まずは出汁だけを飲んだ。茨木もだ。口をつけた瞬間に顔を見合わせた。
「うま……!」
「おいしい……!」
「やば、めちゃくちゃうまい」
 鰹と昆布の出汁に牛肉の甘い脂が溶け出している。味が染み込んだ、大きな豆腐も入っていた。
 底には落とし卵が入っている。レンゲで割ると、絶妙な固さの卵がほんの少しだけとろりと出汁に広がった。
「これ、うちの店でも出せねえかなあ」
「食堂やってるんだっけ?」
「そう。あれ? 俺、お前に言ったっけ?」
「クラスメイトたちがよく言ってるから。秋野食堂の跡取りって」
「継ぐなんて一言も言ってねーのにな……」
 げんなりした顔を作ると、茨木はくすくすと笑ってから卵焼きを頬張った。
「秋野、この卵焼き美味しい。甘くない。お出汁の味がする」
「出汁巻きたまごってやつだな」
 俺も一口頬張った。肉吸いとはまた全然違う出汁が、じゅわっと口の中に広がる。
「ご飯、おかわりあるよ、よかったら言うてね」
 女性店員が横を通った際に声をかけてくれた。遠慮なく茶碗を差し出すと、あつあつの白米が運ばれてくる。
 しっかり二杯を食べ切った。会計の時に女性店員が俺たちを見て、「観光?」と訊ねてきた。
「え、あ、はい」
「やろうねえ。言葉が綺麗やったから。東京から?」
「はい。肉吸い、すげーうまかったです」
「ほんまに? よかったわあ。この辺、飲み屋も多いから気をつけて帰りや。またおいで」
 リズミカルで軽快な関西弁を聞きながら、店を出る。
「美味しかった……」
 茨木が、ほうっと息を吐いて言った。
「気に入った?」
「うん。お出汁ってすごいね。疲れがちょっと取れた感じ」
「わかる。今日めちゃくちゃ汗掻いたからな」
 地下街をゆっくり歩いて、駅へと戻る。
 レトロな喫茶店も多くて、中之島図書館の古さとはまた全然違う古さを残している、と感じた。
 かと思えば高層ビルだらけだし、ちょっと傍を見ると東京より緑が多い。大阪は不思議な街だ。
 駅に戻る途中で大阪土産を売っている店を見つけ、そこに入った。
 食費があまりかからなかったから、父親からの餞別を使わなくても、俺の軍資金の残りでお土産くらいは買えそうだ。
 茨木も何か買おうと店内を見ている。
 悩んだ末、俺はバターを使ったプチケーキと、ご当地でしか買えないスナック菓子を買った。ド定番のたこ焼き味だ。
「大阪って感じするね」
 覗き込んだ茨木が言う。
「そういや、たこ焼き食ってねえ」
「ほんとによく食べるね……。たこ焼き屋さんなら駅のところにたくさんあるんじゃない?」
 土産屋を出て少し歩くと、茨木の言った通りたこ焼き屋があった。
 茨木を振り返ると、茨木は「よかったね」と言って噴き出すように笑う。
 十五個入りを一つ買った。茨木が、とてもじゃないけど一人前食べられない、と言ったので、分けてやろうと思ったからだ。
 差し出すと、「じゃあ、一つだけ」と言って頬張る。本場のたこ焼きは俺が普段食べるものと比べ物にならないくらい、ふにゃふにゃでトロトロで柔らかかった。
 ソースが抜群にうまい上に、たこ焼きの生地も出汁の味がして、茨木は「大阪のお出汁ってすごく美味しいね」と言った。
 夜行バスの時間まで、俺たちは朝飯を食ったハンバーガーチェーン店で休憩した。本当はもっと観光したかったけれど、バスの時間に間に合わないのはまずい。
 出発時刻が迫り、指定の乗車場に移動した。
 帰りは行きと違って三列シートのバスだ。勿論四列の方が安いので、そちらを予約したかったけれど満席で取れなかった。
 バスに乗り込んで、シートに座った瞬間、茨木と目が合った。何も言わなくても気持ちがわかる。
「三列すげー。四列と全然違えな」
「だね。四列が満席で逆によかったかも」
 ここからまた、長い移動が始まる。
 窓の外を見つめている茨木に、「楽しかったな」と言ってみた。
「うん、楽しかった」
「図書館すごかったな」
「歴史と威厳を感じたよね。最新の図書館も魅力的だけど、ああいう図書館も素敵だった」
 図書館巡りも大阪旅行も、図書室存続のために何かを掴みたくて決行したのに、実際にはただただ、規模の違い、予算の違い、需要の違いを思い知るものになった。
 それでも、打ちのめされるような気持ちにはならなかった。
 不思議と、「こういう図書館もあるんだな」と受け入れられた。腑に落ちた、と言ってもいい。
 図書室には取り入れられないことばかりでも、この夏休みは無駄にはならなかった。そう思う。
 バスはゆっくりと高速道路に入った。
 瞼の裏に、食堂の本棚が焼きついている。
 本棚は、どこにあってもいい。
 俺の家みたいに、ガチャガチャざわざわした場所にあってもいいんだ。
 世界の見え方が、少し変わった。そんな夏休みだった。