アオハル、貸出中

「司書資格?」
 北園は眉根を寄せて聞き返してくる。
 週明けの月曜日、俺と茨木は放課後、早速北園の元に向かった。
 職員室を覗いたけれど姿は見えず、近くに居た水川に聞いたら「生物準備室じゃないかしら」と言われ、二階の準備室のドアをノックした。
 中に居たのは北園だけだ。
 北園は俺たちの顔を見るなり、「授業でわからないところがあるから教えてくださいって顔じゃないな」と言った。
 促されるまま、机を挟んで椅子に腰掛ける。生物準備室に入ったのは初めてだ。
 窓際には流し台があり、その近くには冷蔵庫と棚があった。
 棚の上にはインスタントコーヒーの瓶やマグカップまであって、教師ってヤツは生徒にはあれこれ言うくせに自分たちはちゃっかり楽しんでんだよな、と面白くない気持ちになる。
「持ってるけど……え、なに。まさか俺に司書やってくれってこと?」
 北園の態度からは明らかな拒絶反応が感じられる。だが茨木はそんな北園に向かって、はっきり頷いた。
「お願いします。図書室を残したいんです」
 北園は、うーん、と唸り、腕組みをする。回転式の椅子を足でゆらゆら揺らしながら、ボサボサの髪を掻いた。
「いや、まあな。気持ちはわかるよ。わかるけど……」
「……けど?」
 俺の言葉を拾って、北園は悪びれた様子もなく言った。
「ぶっちゃけ面倒くさい」
 それが生徒の頼みに対する教師の返事かよ、と思う。舌打ちしそうになるのを、顔を背けることで堪えた。
「俺も本は好きだし、図書室の意義みたいなのは、一応教師の端くれとして理解はしてる。だけどなあ……、こんな話、生徒にしたくないんだけど、お前らが本気だってわかるから言うぞ。司書教諭を兼任しても、給料ってほとんど変わらないんだよ」
 金の話かよ、と言おうとしたら、茨木が「わかります」と言ったので、驚いて茨木を見る。
「前に、本で読みました。加算の手当があるところもあるけど、労力とは釣り合わないって。司書は資格も必要なのに、その重要さが賃金には反映されないって書いてました」
「うん。部活の顧問とかも、あれ、ほとんどボランティアだからな。試合の引率とかは手当あるけど、微々たるもんだ。だからまあ、うん。手間と責任が増えるだけで、司書兼任とかは誰もやりたがらない」
 そんな理由で断られるなんてたまったもんじゃない。イライラしながら北園を見た。
「水川先生も積極的にやりたいってわけじゃなかったからな。うちには俺と水川先生しか司書資格を持ってる教師が居ないんだ」
「どうやって水川、……先生が担当するって決まったんですか?」
 俺の質問に北園は、「くじ引き」と答えた。
「あみだくじだよ。お前らには申し訳ないけど、教師のやる気なんてもんは、その程度と思っていい」
 茨木が隣に居なかったら、俺は椅子を蹴って準備室を出て行ったかもしれない。
 茨木が、膝の上で作った拳に力を込めるのがわかった。
「……手当が労力に比べると少ないことはわかります。でも、絶対に迷惑かけません。できるだけ委員のメンバーで対応します。だから」
 茨木はそこで言葉を切って、下を向く。肩が震えているように見えた。
「待て待て。話はまだ終わってない」
 北園が少し慌てた声を出す。
「面倒くさいのは確かだ。俺は生物部の顧問もやってるし、その上で司書兼任となると水川先生以上に関われない。だけど、先週の職員会議で図書室についての話が出た」
 茨木が顔を上げた。俺も北園を真っ直ぐ見据える。
「最近、図書室の利用者が増えてることは教師陣も知ってる。閉鎖の知らせを受けて、生徒たちが自主的に行動して、利用者を増やしたことを喜んでるんだ」
「だったら……!」
 俺の言葉を遮るように、北園が右の掌を俺に向けた。
「ただ、さっきも言ったように俺が司書を兼任しても、充分な手が回らないのも事実だ。そこで、一つの可能性としてある案が出た」
 隣の茨木がこくりと唾を呑んだのがわかる。俺も短い息を吐いて、背筋を伸ばした。
「南校舎の三階に、一つ、空き教室がある。そこを小さな図書室として利用するのはどうか、っていう提案が出た。教室の規模なら蔵書も五千冊ほどだろ。それくらいなら俺も管理しやすいし、生徒たちも完全閉鎖よりは喜ぶんじゃないかってな」
 確か、去年まで三年四組だった教室だ。今年は全学年が三組までしかない。一つ、教室が余っていることを思い出した。
(ガチャ企画、マジでやってよかった……!)
 あれがなければ、利用者が増える見込みはない、と切り捨てられていた可能性が高い。
「どうだ、茨木。これなら俺も協力できると思う」
 北園の言葉に茨木はきゅっと唇を噛む。
 てっきり喜ぶと思ったのに、予想外の反応だ。
「……その案以外は、無理ですか? 今の図書室をそのまま残すのは、どうしても難しいんでしょうか」
 茨木が遠慮がちに口を開く。北園は困ったみたいに眉尻を下げた。
「気持ちはわかる。俺も自分が司書をやるやらないは別にしても、図書室は大事な場所だと思うよ。なんてったって学校図書室は、人生の中でたった三年しか利用できないからな」
 北園の言葉を聞いて、ハッとした。
 今まで一度も、三年しか利用できない場所だ、なんて思ったことがなかったからだ。
 考えてみれば当たり前で、生徒じゃなくなれば図書室にはもう入ることはできない。
 児嶋が見知らぬ誰かとしていた文通を、「少し早く終わりがきただけだ」と言ったことを思い出した。
 ガチャは確かに成功した。だけど同時に、児嶋のささやかな文通は一足早く終わりを告げることになった。
 児嶋が文通を続けられるのは、たった三年しかなかったのに。
「図書室の本は、生徒の財産だと思う。学校側も、何が何でも閉鎖させたいわけじゃない。わかるか、茨木。学校は敵じゃないんだ」
 茨木の唇が震えている。泣き出すんじゃないか、と一瞬どきりとした。
 だが茨木は真っ直ぐ北園を捉えると、わかりました、と小さな声で言って立ち上がった。
 俺も慌てて腰を浮かせる。
「司書の件、規模を縮小すれば受けてもいいって思ってくださってるのがわかって嬉しかったです。……でも、空き教室の話は、もう少し待ってほしいです」
 すみません、と茨木が頭を下げた。北園は茨木の肩をやんわりした手つきで、ぽんぽんと叩く。
「わかった。焦らなくていい。どうせもうそろそろ期末テストだろ。その後は夏休みだ。二学期になってからでも遅くない」
 北園に見送られながら、準備室を後にした。
 茨木の足取りは重い。声をかけるべきか迷って、結局口を開いた。
「空き教室じゃダメなのかよ」
 二つ返事で喜ばなかった茨木を責めるつもりじゃない。だからできるだけ柔らかく言ったつもりだ。
 廊下を歩く茨木の足が止まった。
「今、うちの図書室にある蔵書の数、わかる?」
「え、全然わかんねえ」
「24856冊」
 驚いて目を見開いた。正確な冊数を覚えていることにも驚いたけれど、何よりそれほどまでの数があるとは思っていなかったからだ。
 せいぜい一万冊程度だと思っていた。だから北園が五千冊と言った時、大体半分にすればいけるんじゃね? などと軽く考えてしまった。
「おおよそ四冊に三冊は処分しなきゃならない。僕にはできないよ」
 茨木の眉が悲しそうに下がる。それを見て、胸が苦しくなった。
「北園先生が、面倒くさいって言いながらも、自分にできる範囲で協力しようとしてくれてるのは有難いよ。学校は敵じゃないって言葉も頭ではわかってる。だから、小さな図書室として残せるのなら、それが一番なのかもしれない」
 茨木と目が合った。その瞳の中に、言葉にはできない痛みが滲んでいる気がして、息ができなくなる。
「でも、本が生徒の財産だって言うなら、縮小してもいいわけないよ。一冊も無駄にできない。一度も借りられてない本だって、これから先も誰も借りない保証なんてない」
 茨木がハッとしたように口を噤んだ。ごめん、と小さく呟いて斜め下に視線を落とす。感情的になったことを恥じているようだった。
「……一緒に来てくれてありがとう、秋野。僕、今日は帰るね」
 引き止める間もなく、茨木は踵を返す。バタバタと廊下を駆けていくその背中が、いつもよりもっと小さく見えた。


 七月に入った。
 図書室のガチャは推理小説特集に変わった。
 放課後、たまに覗く。先月の恋愛特集の時より、男子の利用者が増えた印象だ。
 茨木とはあれ以来、空き教室のことについては話していない。
 上手く切り出せなくてグズグズしていたら、あっという間にテスト前になってしまった。
 勉強は好きじゃないけれど、赤点は流石にまずい。小遣いを減らされるし、夏休みに補習に通わなきゃならなくなる。
 仕方なく、翔太と一緒に赤点を回避できるだけの対策は取った。翔太も補習だけは避けたいようだ。
 結果はギリギリの点数だったけれど、二人揃って補習は免れた。翔太は心底ホッとしたのか、大袈裟なくらい喜んだ。
 長い夏休みが始まった。俺の夏休みは、昼と夜のピーク時に店の手伝いをさせられると決まっている。
 一応、報酬はくれるけれど、日当にして僅か二千円だ。実働で四時間ほどだから、時給五百円。外でバイトした方がよっぽど儲かる。
 だけど、暇な日は手伝わなくていいし、遊ぶ予定がある場合はそっちを優先しても文句は言われない。こういう緩さはよそのバイトではあり得ないだろうから、時給五百円には目を瞑るしかなかった。
(そういや、図書室って夏休みも開いてんのかな)
 夏休みに入ってすぐ、そんなことを考える。茨木にラインで聞いたら『九時から十六時まで開いてるよ』と返ってきた。
 ということは、茨木や図書委員は夏休みも学校に通っているんだろう。
 俺だったら絶対にサボる。もしかしたら図書委員たちも、茨木以外はサボっているかもしれない。
(それにしても暑ィな、マジで)
 部屋にエアコンはあるものの、窓から入る太陽光はあまりにも容赦がなくて、ベッドで寝転んでスマホを触っているだけで、じわりと汗が滲む。
 今年の夏は猛暑だとニュースで見た。今年だけじゃなくて去年もだっただろ、と心の中で愚痴る。この調子じゃ来年も猛暑だろう。
 俺の親が子供の頃は、プールの授業なんて水温が低過ぎて中止になることがあったらしい。俺たちの世代からは考えられないことだ。
(……冷やかしに行くかな、図書室)
 不意にそんな考えが浮かぶ。あそこなら絶対涼しいし、スマホの充電もできる。
 食堂の開店前に、「今日は手伝い無理」と断りを入れた。
 十時半頃、家を出る。昼からにしようかと思ったけれど、少しでも涼しい時間に出た方が利口だと思った。
(ぜんっぜん利口じゃねえよ、何だ、この暑さ……!)
 一歩、外に出ただけで、全身の毛穴から汗が噴き出す。
 瞬く間にTシャツが肌に張りついた。襟首を摘んでパタパタ仰いだけれど、全く無意味だった。
 引き返そうかな、と一瞬思ったけれど、既に汗は掻いてしまっている。
(とりあえず着いたらまず自販機寄ろ……)
 それだけを楽しみに、学校へ向かった。
 夏以外の季節に比べて五倍は疲れたと思ってしまう。それくらいへとへとになりながら何とか辿り着いた時には、十一時半になっていた。
 グラウンドでは野球部が練習試合をしている。ホームランを打つ、気持ちのいい音が耳の奥に響いた。
 歓声と拍手を聞きながら、グラウンドの脇を通って校舎に入る。
 当然、靴箱の周辺や廊下にはエアコンなんてかかっていない。
 それなのに、校舎に入った途端、涼しく感じた。日陰のお陰かもしれないと思ったけれど、それだけではない気もする。
 誰もいない校舎はしんとしていて、遠くから聞こえてくるのは先ほどの野球部の声くらいだ。
 売店横の自販機で、水を買った。普段は水なんて買わないのに、今日は水以外あり得ないと思ってしまう。
 一気に飲み干すと、首筋の辺りの体温がすーっと下がる。腕で汗を拭った。
 廊下の窓はところどころ開いている。その窓から風が吹き抜けて、頬を撫でた。
 生温くないない、といえば嘘になる。それでも炎天下の中を移動してきた身体には、心地よく感じた。
 目当ての図書室の前に辿り着くと、深呼吸をする。
(ビビるだろうな、茨木)
 俺が来ることなんて全く想像していないはずだ。
 ちょっとワクワクしながら、ドアを押し開く。
 涼しい風がふわりと隙間から溢れ、その風があのインクと紙の匂いをつれてくる。
 室内には数人の生徒が居た。カウンターに目を遣る。そこに茨木は居なかった。代わりに別の図書委員が座っている。
(……連絡してから来ればよかったな)
 肩透かしを食らったような、ちょっと面白くないような、そんな気持ちになった。
 約束してたわけじゃないし、事前に居るかどうかも確認しなかったのに、何となく茨木は絶対ここに居るような気がしていた。
 端の席に腰を下ろす。本棚をぼんやり眺めているくせに、目は茨木を探した。
 十五分くらいそうしていたら、身体の熱は随分引いていた。
(……俺も、なんか本探すか……)
 立ち上がり、奥にあるパソコンの方へ移動する。
 パソコンは合計三台置かれていて、そのうち右端のパソコンの前に誰かが座っていた。
 顔を見なくてもわかる。
(なんだ……)
 ここに居たのか。
「何やってんの」
 後ろから声をかける。茨木はビクッと肩を上げてから俺を振り返った。
「秋野……、どうして?」
「どうしてって?」
「だって夏休みなのに」
「夏休みだからこんな時間から来たんだろ」
 口端を上げると茨木は少し頷いてから、「そっか」と言った。
「で? 何やってんだよ」
 隣のパソコンの椅子を奪って、茨木の横に座る。画面を覗くと、綺麗な建物の画像が見えた。
「何、ここ。どこの画像?」
「図書館だよ」
「図書館〜?」
 思わず声が大きくなる。茨木が人差し指を自分の口元で立てた。
「え、これ図書館? 全然イメージ違くね?」
 声を絞って言った。パソコンに表示されている建物は、ガラス張りの大きな建物で、パッと見たら商業施設のように見える。
 うちの市の図書館は現在リニューアル工事中で、新しい建物がどうなるのかはわからない。だから元の図書館と比べるしかないけれど、あまりにも違いすぎた。
 市の図書館は古いレンガの外壁が、ところどころ割れたり剥がれたりしていたし、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
 館内もそうだ。どちらかと言えば薄暗い。天井の電球が切れたままのところがあったり、掲示物が破かれているところもあった。
 図書館はそこしか知らなかったから、どこもこんなもんだ、と思っていただけに衝撃的だった。
 マウスを動かし、館内写真を表示させる。
 太陽光に照らされた、窓際のソファで寛ぐ人たち、カウンター席で飲み物を飲みながら本を読んでいる人まで居て目を見開いた。
「え、なにこれ、え?」
 困惑した俺に茨木は頷きながら、「うん。そうなるよね」と呟く。
 できるだけ声を落として、茨木と話し合った。
「最近、建て直しされた図書館とかはこういうの多いんだ。綺麗で、お洒落で、明るくて、洗練されてて」
「全然知らなかった……。じゃあうちの市の図書館もこうなんの?」
「多分ね」
「へえ〜。いいな、こういうの。開放的な感じするし。図書館って古くさいとどうしても閉鎖的な感じするしさ。薄暗くてじめっとしてるし。でもこういう明るくて、しかも派手な見た目なのは人が来やすいだろ」
 パソコン画面をまじまじと見つめる。前を通りかかったとしても図書館だとは気づかないかもしれない。それくらい、これまでの図書館とは違う。
 ガラス張りの外観は、何となく新しい未来を想像させるし、館内が外から見えるので利用者の顔も見える。
 ところが茨木は苦い顔を作った。
「どうした?」
「……確かに明るくて、お洒落で、見た目も派手だと思うけど、これだけ日の光が館内に差し込んだら、本の傷みは激しくなるだろうなって」
「傷み?」
「日焼けとか。秋野、さっき図書館は薄暗いって言ったけど、それには理由がちゃんとあるんだよ」
 日焼け、と言われてすぐにはピンとこなかった。本なんて日焼けするか? 人肌じゃあるまいし。
 そんな俺の心を見透かしたんだろう。茨木が例を出してくれた。
「秋野、漫画読む?」
「読む」
「単行本の上の部分、古いやつだと茶色くない?」
「茶色い。え、あれが日焼け?」
 茨木はこくりと頷くと立ち上がり、近くの棚から二冊、文庫本を抜き取って戻ってくる。
「見て、ここ。ここは本の天っていうんだ。こっちは半年前に入荷した、比較的新しい本。こっちは所蔵して十年になる」
 そう言って茨木は、本の最上部を並べて俺に見せる。色がまるで違った。気にしたこともなかったけれど、こうやって比べるとよくわかる。
「勿論、日光だけが原因じゃないよ。蛍光灯の光で日焼けしたり、酸素に触れることで黄色くなったりもするから」
「これ、直せねえの?」
「酷くなければ直せるよ。紙やすりで優しく表面を削ったり、漂白剤で拭いたり。図書館や古本屋さんなんかには専用の機械もあるけど、図書室にはないから手作業だけどね」
 茨木が見せてくれた二冊の本を、改めて見つめた。
 古くて黄ばんだ本より、新しい本の方がいい。
 それはきっとみんなが思うことだ。
 だけど、古いものを修繕しながら一つずつ大事にする茨木の姿勢は、この図書室にとってなくてはならないものなのだと感じられる。
 同時に、北園の提案に反論した、あの時の茨木が脳裏に蘇った。
 五千冊にまで絞れば可能性がある、と言われたのに、茨木は首を縦に振らなかった。
 勿論、突然の提案に困惑したのもあったと思う。だけどそれ以上に、やっぱり飲み込めなかったんだな、と思った。
 縮小自体を受け入れられない茨木のことを、頑固だなんて思わない。そんな風に思えるわけがない。
「……でも、秋野の言うこともわかるよ。これまでの図書館のイメージを払拭して、明るくて綺麗な場所に生まれ変わって、たくさんの市民が集まるようにしていくっていうのは、市の運営としては正しい」
 そう言ってほんの少し、悔しそうに唇を噛んだ。
「……なあ。他にもこういう図書館ってあんの?」
 茨木は先ほどの本を棚に戻すために立ち上がりながら、「あるよ」と言った。
「東京だと千代田区の日比谷図書文化館とか。図書エリアの本を、併設のレストランやカフェに持ち込めるんだ。三角形の外観が面白いよ」
「それ、さっきも思ったけど、いいわけ?」
「? なにが?」
「図書館って普通、飲食禁止だろ」
「最近は多いんだ。正直言うと、僕はヒヤヒヤしちゃうけどね……。自分で買った本でさえ、何かを飲んだり食べたりしながら読むのは、ちょっとやだ」
 茨木らしいな、と思った。
 うちの食堂にも新聞と週刊誌が置いてある。食べながら読んでもいい。新聞なんかは特に、ビールとアテを摘みながら読んでるおっさんも多い。
 当たり前だけど、一日置いておいた新聞は結構ボロボロになっている。料理を溢した跡なんかも普通にある。
 物が新聞なので、どうせ一日二日で廃棄だ。多少の汚れなんかあって当然だし、気にしたこともない。
 だけど、図書室や図書館の本でそれをやられたら、と想像してしまう。
(弁償になんのかな。ゴネるヤツ居そう、クレーマーみたいなヤツとか)
 想像しただけでげんなりした。
 一方で、こんな暑い日なら、冷たい飲み物を片手に、涼しくて綺麗な図書館で本を読むのは、ある意味で贅沢だなあ、と思ってしまう。
 寒い日だって同じだ。暖かい場所で温かい飲み物を飲みながら、本を読む。そういうのが好きな人がたくさん居るだろうことは、俺にもわかった。
 だからこそ茨木が言うように、飲食可能の図書館が増えたんだろう。
 需要があるから供給される。ガチャ企画とも似ていると思った。
 あれも、ランダムで当たるワクワク感に需要があったし、本の値段が高くてなかなか買えない、という側面もあった。
「取り入れられるいいところは取り入れて、古くても変える必要のないものは残していく。……そういうのが理想だけど、なかなか難しいよね」
 茨木がぽつりと呟く。
 これまで図書室に関わってきて体験した、さまざまな出来事が頭に浮かんだ。
(なんかこう……ヒントみたいなのがあればいいのにな)
 答えじゃなくて構わない。ゲームみたいに攻略本がないのは当然だ。
 だけど、要所要所でチュートリアルがあればいいのに。
 それがあれば、図書室を残すためにやれることの、最善策が何なのかわかるのに。
 その時だ。ふと頭の片隅に過ったことがある。それをそのまま口にした。
「図書館巡り、しねえ?」
「え?」
 茨木が目を丸くして俺を見る。
「千代田区だっけ? さっき言ってたの。他にもあるんだろ。直接行けばなんかいいアイデアとか浮かぶかもしれねーし」
 茨木はまだピンときていないようだ。焦ったくて、自分の髪をくしゃっと掻き混ぜる。
「何とか今の形で図書室残したいんだろ? 空き教室じゃなくて。諦める前に足掻こうぜって、俺、言ったじゃん」
 学校側にも事情がある。北園の提案だって完全廃止に比べれば、悪くない。
 それでも、北園は「結論は二学期になってからでも遅くない」と言った。夏休みの間は猶予がある、ということだ。
 起死回生の何かが見つかる可能性だって、ゼロじゃない。
「そりゃ、行きたい気持ちはあるけど……でも」
 茨木のその言葉の続きが俺にはわかった。
 だから言ってやった。それは茨木の声と綺麗にハモった。
「君は図書委員じゃないのに」
 予想が当たった俺は、思わずにんまりした。逆に見透かされた茨木は、悔しそうに唇を噛んだ。
 頬が少し赤い。照れているとわかって、何だか妙に可笑しかった。
(素っ気なくて無愛想で、感じ悪い伊達眼鏡の図書委員って思ってたのにな)
 それらは確かに茨木の一面として存在するけれど、あくまで一面だ。『カラフル』のことをまた思い出した。
 こういう、折に触れて本のことを思い出す、という経験ができるようになったのは、あの日、思い切って図書室のドアを開けたからだ。
(まだここに来たことないヤツも居るよな、絶対)
 そういう人たちにも一度は足を運んでもらいたい、と思った。
 翔太だって、アイツは自分を馬鹿だと言うけれど、あれ以来、図書室に行く俺を普通に見送ってくれる。
「図書室寄るわ」と俺も言えるようになったし、翔太は「行ってら」と実に軽い返事する。たまに「明日は俺と遊ぼうぜ、ゲーセン行きたい」と先手を打ってくることもあって、それがいかにも翔太らしい。
 茨木は少し考えるように斜め下に視線を移してから、躊躇いがちに顔を上げて俺を上目で見た。
「……行きたい」
「おー、じゃあ決まりな」
「でも、全部巡るのは現実的じゃないよ」
「え、そんな多いのかよ。百くらい?」
「分館とかも入れたら四百近くある」
「四百!」
 また声が大きくなる。近くの机で本を読んでいた生徒が振り返った。俺も茨木も肩を竦めた。
「秋野は声が大きいんだよ」
「だってお前、四百もあると思わねーだろ……百でも多いと思ったのに」
 こそこそと小声で会話を続けながら、図書館がそんなに多いとは思わなかった、と改めてその数に驚く。
「小さな移動図書館みたいなのも含めるともっと多いかも」
「え、じゃあさ、今、市の図書館、リニューアルで閉館してんだけどまさか……」
「うん。市内の図書館は一つじゃないからね。一番大きなところが閉館してるだけで、小さな図書館は開館してるよ」
 膝から崩れ落ちそうになった。
 何だ、それ。完全に一つしかないと思い込んでいたから、行き場を探して図書室に辿り着いたというのに。
(まあ、でもその思い込みのお陰でここに来れたわけだけどな……)
 もしあの時、他にも図書館があるとわかれば、多少遠くてもそちらに通ったかもしれない。
 そしたらきっと、茨木が伊達眼鏡の変なヤツだとは、知らないままだった。
「秋野、どうかしたの?」
 俺が口を噤んだからか、茨木が顔を覗き込んでくる。
「いや? 伊達眼鏡やべーって思っただけ」
 揶揄うことで誤魔化すことにした。茨木はまた人差し指を唇に当てる。
「伊達眼鏡ってことは内緒なんだからね」
 つまり、コイツのこのデカい丸眼鏡の秘密を知っているのは、俺だけということだ。
「しゃーねえな。黙っといてやるか」
 わざと恩着せがましく言って笑ったら、茨木もつられて笑った。