アオハル、貸出中

 飲食店経営と聞けば、何だか金持ちそうなイメージが湧くかもしれない。
 だけど俺が育った環境は、そんないいもんじゃない。
 商店街の店主たち、その家族、その知り合い、近所の人たちで何とか店を続けている。そういう食堂だ。
 客同士も顔見知りばかり。新規の客なんて滅多にこない。それでも常連さんが毎日来てくれるわけじゃないから、集客のための工夫は常にしている。
 ランチタイムにサービス品を安く提供したり、夕方五時からはハッピーアワーと称して、生ビールとツマミ三種で千円にしたり、さまざまなアイデアを実行していた。
 だから俺にとって、客が来ることは正しいこと、という認識がある。
 欲しいものがあるから、人は集まるんだと思うし、だからこそ俺の家みたいにニーズに合わせた工夫が必要なんじゃないか、と思う。
 図書室の存続について考えた時、真っ先に思ったのが集客をどうするかだった。
 人が来れば、その人がまた別の誰かを連れてくる。賑わいはそうやって作られていくものだと考えた。
 ガチャ企画を思いついた時、それに茨木が賛同してくれた時、どちらも嬉しかった。
 実際に企画がスタートして、人が増えたのをこの目で見て間違ってなかった、と思った。
 なのに、児嶋のあの寂しげな顔が頭から離れない。
 茨木の言葉もだ。秋野は間違ってない、という言葉には俺への気遣いを感じた。
 一方で、児嶋もまた間違えていない。それは俺にもわかったし、何より「本当にそうだったの」という問いかけは胸に残った。
(なんていうんだっけ、こういうの……)
 あっちを立てればこっちが立たず、だっけ。
 利用者が増え、少し活気が満ちたのは間違いなくプラスなのに、行き場を失くした児嶋や児嶋の手紙の相手が居る。
『カラフル』が頭を過った。物事も人も、一面だけでは見えてこないものがある。それは正しく、図書室運営についてと重なった。
 児嶋はあれ以降も時々図書室に来るらしい。茨木がラインで教えてくれた。
 逆に俺は、あの日から少し図書室から足が遠のいている。
 茨木はそれについて何も言わない。児嶋のことはラインで送ってくれたけれど、『秋野は何で来ないの?』とは一度も聞いてこなかった。
 ガチャ企画が始まって二ヶ月が過ぎようとしている。来月はミステリ特集のガチャになるらしい。
 同時に茨木が言っていた、栞がもらえるスタンプカードもスタートするようだ。
 図書室の運営は順調と言える。勿論、これが即廃止撤回に繋がるわけじゃないけれど、滑り出しとしては悪くないし、上向きだ。そのはずだ。
 だけど、司書教諭の問題は解決できる兆しはないし、児嶋の件もある。
 言葉にできないモヤモヤとした感情が、胸の奥にずっと居座っていた六月下旬。
 俺は、翔太から意外な提案をされた。


「未亡人、見に行かね?」
 昼飯のパンを食っている時、翔太が言った。焼きそばパンが喉に詰まりそうになって、慌ててオレンジジュースを飲んで流し込む。
 何とか飲み込んでから口を開いた。
「未亡人って?」
「図書室のだよ。前に話したろ、幸薄い系の儚げな美少女が居るらしい」
 翔太に気づかれないように、ちらりと茨木の席の方を見る。茨木はいなかった。図書室かもしれない。昼休みも解放していることを、俺は茨木と関わるようになってから初めて知った。
「やめといた方がいいんじゃね?」
 やんわり言ってみる。美少女と決めつけている翔太にとって、未亡人の正体が茨木だと判明すれば落ち込むに決まっている。
(落ち込むだけならまだマシだ)
 コイツのことだ。図書室でデカい声で「はあ? 全然未亡人じゃねえじゃん、詐欺だよ、詐欺!」などと叫ぶかもしれない。
 だけど俺のそんな不安は翔太には通じない。きょとんとした顔で俺を見る。
「なんで?」
「何でって……美少女とは限らねーだろ。ガッカリするかもしれねえじゃん。やめとけよ」
「大丈夫、絶対美少女だって。あだ名が未亡人だぞ? 未亡人なんて美人に決まってるじゃん」
 主張に何の根拠もない翔太と違って、俺は根拠があって反対しているというのに。
 いっそ茨木だとバラすか?
 でもそうなると、「なんでそんなこと知ってんの?」と聞かれるだろう。
 それに「本当かどうか確かめようぜ」と言われたら、付き合わざるを得ない。
「今がチャンスなんだよ。人がそこそこ居るなら悪目立ちすることもねえじゃん?」
 翔太の言葉に、俺が初めて行った頃の図書室を思い出した。
 委員は茨木一人。下校のチャイムが鳴るまで誰も図書室に入ってくることはなかった。
 確かにあの状態では、いくら未亡人が気になったとしてもあまりにも目立ってしまう。
 翔太なりに考えているんだなと思う反面、どうしてもデリカシーのないことを大声で叫ぶ姿が目に浮かんだ。
「やめとけって。その未亡人とやらも迷惑だろ」
 今度は強めに言った。すると翔太は「大輝、気になんねえの?」と口を尖らせる。
「俺は別に」
 どうか諦めてくれ、と願いながらわざと素っ気なく答えた。まさかこれが逆効果になるとは。
「じゃあ俺一人で行くかあ」
 ギョッと目を剥いた。翔太は食べ終えたパンの袋をクシャクシャに丸めている。
「え、一人で? なんで」
「だって大輝、興味ねーんだろ? それなら仕方ないから一人でも行くかって思って。俺はめちゃくちゃ見たいもん、未亡人」
 一人で行かせる方がよっぽど危険だ。あれこれ文句をつけて、茨木と揉める未来が見える。
「……俺も行く」
 結局、そう答えるしかなかった。翔太は何を勘違いしたのか、にまにまと口元を緩める。
「なんだよ、やっぱり大輝も見たいんじゃん。未亡人。美少女だもんなあ、そりゃ見たいよなあ」
 しみじみと腕組みをする翔太に、念のために釘を刺した。
「言っとくけど、美少女じゃないからって喚くなよ」
「大丈夫大丈夫」
「あと、いくら人が増えたって言っても騒げば目立つんだからな」
「わかってるわかってる」
 全く大丈夫でもなさそうだし、何にもわかってもいなさそうな返事で不安しかない。だが、腹を括るしかないと自分に言い聞かせた。
 放課後、意気揚々と図書室に向かう翔太の後ろをついて歩く。
 事前に茨木にラインで連絡しようと思ったけれど、どう言えばいいのかわからず、結局やめた。
 いくら何でも、翔太だって入室早々に「未亡人居ますか?」なんて聞かないだろう。
 騒ぎそうな気配を察知したら、翔太の首根っこを掴んで退散しよう。
 そんなことを考えながら図書室のドアの前に辿り着く。
「なあ、大輝。なんて言って入ればいいと思う? お邪魔しますとか?」
「何も言わなくてもいいだろ……」
 この「慣れてなさ」が引き起こすかもしれないさまざまなトラブルが、次々頭に浮かんだ。
 いっそ俺が先に入った方が、と思った時には、翔太はドアを開けていた。
(あ……、この匂い……)
 初めて来た時と同じ。古い紙とインクの匂いだ。
 少し図書室から遠ざかっていただけなのに、懐かしく感じる。
 読書家でも何でもない。図書室に来ても別に本を読んでいたわけでもない。それでも、この匂いと凛とした空気を、好きだと思う。
 胸いっぱいに吸い込もうと深呼吸をした時だ。
「すみません、未亡人居ますか」
 予想通りの声が聞こえた。翔太がカウンターに身を乗り出す形で、図書委員に声をかけている。
 幸い茨木は居ない。だが翔太の声がデカ過ぎて、ガチャ周りに集まっていた人や、貸出手続きをしている人が一斉に翔太を見た。
「おい、翔太」
 肩を叩いて止めた。だけど翔太はワクワクしてますというオーラを全身から出して、図書委員に詰め寄っている。
「み、ぼうじん、ですか?」
 図書委員は頬を引き攣らせ、翔太に問い掛けた。
「そう。未亡人。幸薄い系の美少女」
「翔太、やめろって」
 周りの生徒たちが、クスクス笑っている。恥ずかしくて、今すぐ逃げ出したい。それか、全くの無関係を装ってしまいたい。
「えっと、……ちょっと待ってくださいね、タイトルで探してみます……」
 図書委員はちらりと俺に視線を寄越した。俺の顔を覚えているんだろう。
 その上で、「何なの、この二人」という訝しげな目を向けてくる。その目から一刻も早く逃れたかった。
「あ、違う違う。本探してんじゃねえの。未亡人ってあだ名の図書委員に会いたいんだよ」
 翔太は周りの目が気にならないのか、それとも気づいていないのか、平気な顔で質問を続けている。
 図書委員は困惑していた。無理もない。
(茨木が居ないのはよかったけど……)
 とにかく何とか翔太に諦めさせなければ。
 その時だった。
「図書室では静かにして」
 今、最も聞きたくない声が背後から届く。振り向かなくても茨木だとわかった。
 翔太は声のした方に顔を向け、にぱっとしか形容できない笑顔を茨木に向ける。
「え、茨木、図書委員だったんだ? なあなあ、未亡人って居る?」
 茨木の眉がピクリと動いた。
(最悪……)
 頭を抱えそうになる。茨木が太い溜息を吐いた。
「僕のことだよ」
 茨木の言葉に翔太は口をあんぐりと開ける。次の瞬間、大笑いした。
「いやいや、いいから、冗談は! なあ、どの子? 俺は絶対に美少女だって確信してんだけどさあ」
 そんなことを言いながら、茨木の背中をバンバンと音が鳴るくらい叩く。
 本を抱えたままだった茨木はちょっとバランスを崩しそうになった。
 ズレた伊達眼鏡を指先で上げ直してから、茨木が翔太を見据える。
「残念だったね、美少女じゃなくて」
 その一言に、翔太もこれが冗談ではないと悟ったんだろう。
「はあ? マジで? マジで言ってんの? 意味わかんねーじゃん、何で茨木が未亡人なんだよ、詐欺じゃん!」
 ほぼ一言一句、俺の想像通りの文句が翔太の口から飛び出す。
 視線が痛かった。どう考えても俺たちは異端だった。
「あーあ、せっかくわざわざこんな校舎の端っこまで来たのに損した。茨木の顔なんか見慣れてるっつーの」
 翔太の発言がこれ以上エスカレートしては困る。
 力ずくで引き摺ってでも出て行こう、と思った瞬間だ。
「しっかし図書室って暗いよなあ。辛気くさいっつーか、地味でジメジメしてるっつーか。大体、今時読書って。スマホがあれば充分じゃん。なあ、大輝」
 ギクリとした。
 まさかこのタイミングで話を向けられるとは思わなかった。
 そんなことねえよ、と否定したかった。それなのに、声が出ない。
 頬が強張ったのが自分でわかったのに、どういうわけか俺の表情筋は愛想笑いを作った。
「いや、……まあ、……スマホは、便利だけどな」
 精一杯の抵抗のつもりだった。だが翔太はそれを賛同と捉えたようだ。
 翔太の目がカウンターの上にあった、返却本に向けられた。そのうちの一冊をひょいっと手に取る。
「宮沢賢治だって。こんなの読むヤツの気がしれねーよな」
 何かを言うより先に身体が動いた。
 翔太の手から本を奪い取る。それは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。
「え、なに? どうした?」
 翔太が俺を窺ってくる。
 周囲の生徒の目が、俺たちに向けられているのが痛いくらいにわかった。
 隅の本棚に児嶋の姿があるのを、目の端に捉える。
「……バカにすんのは違くね? 本読むって別におかしなことじゃねーじゃん」
 そう答えてから、『銀河鉄道の夜』を元の場所に戻す。
 翔太は俺の態度が不満だったんだろう。あからさまにげんなりした顔を作った。
「え、何だよ、大輝も読書しちゃうタイプ?」
「……いや、別に。そんなんじゃねえけど」
「だよな、お前そんなタイプじゃねえもんな。勉強だって得意じゃねーし」
「まあな」と返事をして、愛想笑いを続けた。声が震えそうになったけれど、何とか堪えた。
 何のアピールだよ、と馬鹿にされた、中学の時のことが頭から離れない。
 茨木は、俺がこっそり図書室に通っていることに気づいていた。だからこんなことになっても、「秋野は図書室に来てくれてたよ」なんて言わない。
 言わずに、翔太の無礼な言葉に無反応を貫いてくれている。
 へらへら笑って誤魔化して、茨木に気を遣わせて、そうまでして俺は一体、何を守りたいんだろう。
 茨木がどんな顔をしているのか、怖くて茨木を見ることができない。
「図書室なんてガチ勢しかこねーだろ。お勉強大好きな意識高い系。隠キャばっかだもんな」
 翔太が周りの生徒たちに目を向けた。それを見た時、猛烈な怒りが腹の底から湧き上がる。
「そんなんじゃねーよ」
 自分でも驚くほど、低い声が出た。翔太が一瞬、怯んだのがわかる。
「意識高いとか、隠キャとか、そんなんじゃねーよ。図書室はそういう場所じゃねーだろ」
 口の中がカラカラに渇いていた。翔太と喧嘩するのはこれが初めてだ。
 だけどこれだけは、聞き流せない。
「え? どうした、大輝。何で怒ってんの? お前のこと言ってんじゃないぜ?」
「俺のことかどうかはどうでもいいんだよ。それに」
 そこで言葉を切る。
 ぐっと顎を引いてから、翔太の目を真っ直ぐに見つめた。
「それに、俺も図書室、たまに来るから」
 言った。
 とうとう言った。
 翔太の反応が怖い。茨木の反応も怖かった。
 翔太は半笑いを浮かべながら口を開く。
「マジ? 大輝が図書室に何の用だよ」
「何の用って……別に用はねえよ」
「え、じゃあ何しに来てんの? つーかゲーセン行こって誘ったの断ってたじゃん。図書室来てたのかよ」
 言い返す言葉が見つからず、唇を噛んだ。翔太は俺の肩をガシッと掴んで続ける。
「あのなあ、大輝。俺たちみたいなバカには図書室なんか似合わねえの。俺もお前も受験とは無縁じゃん。大学行く気なんかねえじゃん。お前は勉強しなくたって食堂継げばいいんだし、俺たちにお勉強はいらねえのよ。わかる?」
 翔太の言葉の一つ一つが、俺の胸に刺さって抜けない。
 確かに大学に行こうなんて考えていなかった。
 親から継いでくれと言われたわけではないけれど、何となく、卒業したら店で働くんだろうな、という未来を薄っすら想像している。
 それを悲観したことはないし、抗うほどやりたいことがあるわけでもない。
 それでも、こうやって他人から、「お前には必要がない」「お前には似合わない」と言われると、どうしようもないくらいに気持ちが沈む。
「帰ろうぜ、大輝」
 それは、翔太なりの気遣いだったのかもしれない。
 喧嘩別れみたいにしたくない。だから普段通りの声掛けをした。俺にはそう思えた。
 だけどそれに首を縦に振れるだけの余裕が、俺にはなかった。
「悪ぃけど、俺、図書室に残る」
「なんで」
「図書室が好きだから」
 また明日な、と翔太に笑って言った。
 翔太は何か言いたそうにしていたけれど、結局何も言わずに踵を返す。
「……おー、また明日な」
 そう言って帰っていく翔太の後ろ姿は、少し小さく見えた。
 翔太が出て行ったことで、周りの生徒たちはまだ空気を引き摺りつつも、各々の本選びや勉強に戻っていく。
 小さく息を吐いて、肩の力を抜いたところで漸く茨木の顔を見ることができた。
「……悪かったな」
 ぼそりと呟く。茨木は緩く首を左右に振ると、「美少女じゃなくてごめんね」と言った。
 それが茨木なりの冗談だとわかって、やっとちょっと笑えた。
 あれだけ騒いだし、不快なことも言われただろうに、茨木はそのことには一切触れなかった。
 茨木がカウンター内に入るのを確認してから、さっき翔太が手に取った『銀河鉄道の夜』に触れる。
「……なあ、これ、返却されたんだよな? 次の予約とか入ってる?」
 俺の質問に茨木は貸出用のパソコンを操作した。本のバーコードを読み取る。
「誰も予約してないよ」
 つまり、今日借りようと思えば借りられるということだ。
「借りる?」
 茨木が訊ねてくる。俺はカウンターに肘をつき、頭を支えた。
「どうすっかな……」
「悩んでる理由は?」
「ガチャで引きたい」
 俺の言葉に茨木が珍しく笑う。瞳を細めてちょっと噴き出したから、意外だった。
「来月はミステリ特集だから『銀河鉄道の夜』は入らないよ」
「そこはお前、図書委員特権で入れとけよ」
 茨木は眉尻を下げて「考えとく」と言った。
『銀河鉄道の夜』をカウンターに置いたタイミングで、生徒が一人、貸出カウンターに来た。
 邪魔にならないように少し避ける。顔を見ると児嶋だった。
 何となく気まずい。カウンターから離れようとした時、児嶋が声をかけてくる。
「秋野、さっき結構格好よかったよ」
 穴があったら入りたいとはこのことだ。肩を竦めた。
「図書室に通ってるとさ、どうしても真面目だの何だのって言われたりすることあるから。でも図書室が好きだからって言った秋野は格好よかったよ。堂々としてた」
「勘弁してくれ……。それより、騒いで悪かったな」
 どうにか話題を変えようと謝る。児嶋は「大丈夫だよ」と笑った。
 貸出手続きを茨木に任せながら、児嶋が続ける。
「あ。この前、閉鎖の理由は司書教諭が居なくなるからって言ってたよな?」
 俺は茨木と顔を見合わせた。
「それだけが理由じゃないけど……大きな原因の一つではあるよ」
「今って水川先生が担当してるんだよな? 俺、思い出したんだけど、確か北園(きたぞの)先生も司書資格持ってたと思うよ」
 児嶋の言葉に茨木は立ち上がって反応した。俺も児嶋にぐいっと顔を近づける。
「それ、マジ?」
「うん。北園先生、俺が一年の時の担任だったんだ。何かのキッカケで図書室の話をしたことがあって、その時に確か資格持ってるって言ってたと思う。大学で取るだけ取ったって」
 北園の顔を思い浮かべた。
 ボサボサ頭と白衣が特徴の生物の教師だ。俺も一年の時、生物を教えてもらった。確か今は一年生の担任をしている。
 三十代前半の気怠そうな男性教諭で、口癖は「面倒くさい」だ。
 他の教科では抜き打ちの小テストがあったりするのに、北園の授業では「面倒くさいから」を理由にそれがなかった。そのテキトーさが俺は嫌いじゃなかった。
 もう一度、茨木と顔を見合わせた。茨木の目が輝いているのがわかる。
 児嶋が出て行ったタイミングで茨木は「秋野」と俺を呼んだ。
「これ、すげー情報じゃね?」
 俺も慌ててカバンからノートを取り出す。『図書室存続に向けての課題』をまとめた、あのノートだ。
 北園、と書き込んでから、茨木を見る。
「もし本当に北園が資格持ってんなら、司書問題は一気に解決するじゃん」
「うん。でも、放課後に結構時間割いてもらわなきゃいけないこともあるし、嫌がられるかも」
「大丈夫だろ。水川だってほとんど来てねーんだし」
「しー! 声が大きい」
 茨木が人差し指を立てて自分の唇に当てた。
 カウンター近くに居た図書委員の視線を浴びてしまい、肩を竦める。
 茨木の、変わらない態度が嬉しかった。絶対に嫌な思いをしたはずなのに、いつも通り口うるさくて、いつも通り素っ気ない。
 それが、「ここに居ていい」と言われている気がして、胸の奥がじんわり熱を持った。


 その日は、翔太からの連絡はなかった。
 いつもならくだらないことで通知音を鳴らしてくる。テレビ見てるか、とか、この動画見て、とかそんな他愛のないことばかりだけど、俺にとっては大事な日常のひとつだ。
(また明日な、とは言ったけど、やっぱ気まずいよな)
 部屋のベッドに寝っ転がって、ぼんやり翔太のことを考えた。
 翔太とは高校に入ってから知り合った。出席番号は遠いけれど、背の順が近くて、体育の時にペアになることが多かったから、自然とつるむようになった。
 気のいいバカだ。成績も俺と似たようなもので、二人揃って数学で一桁の点数を取り、仲良く放課後に補習に参加したこともある。
 ゲーム好きで、新しいもの好き。いい意味でも悪い意味でも思ったことをすぐ口に出すので、デリカシーのないところはあるけれど、引き摺らないところが長所だ。
 その翔太が、連絡してこない。
 言い過ぎたかな、と思う反面、あれは翔太が悪い、とも思う。
 枕元に投げ捨てたスマホが鳴った。
 翔太だ、と思ったら、表示されていたのは茨木の名前だ。
 ラインのトーク画面を開く。『今、大丈夫?』とあった。
 こういうところが翔太とは違う。アイツなら俺の都合なんかお構いなしに電話してくる。
 指先で通話のボタンを押した。何度目かのコールの後、茨木が出た。
「も、……もしもし……」
「何で吃ってんだよ」
「……電話かかってくると思ってなかったんだよ。大丈夫そうなら僕からかけようと思ってた」
 茨木は本当に予想外だったらしい。ちょっと声が慌てていて、何だか可笑しかった。
「今日秋野が帰った後、図書委員の子と話したんだけどね」
「何を」
「北園先生のこと。児嶋の言う通り、北園先生は司書資格持ってるみたい。委員の子も聞いたことあるって言ってた」
「マジか。じゃあ早速週明けにでも頼みに行こうぜ」
「うん、そのつもり。それで、……秋野はどうする?」
 質問の意味がわからなかった。身体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。
「何、どうするって」
「だから……、秋野も来る?」
「行くけど」
 頼みに行こうぜ、と先に言ったのは俺だ。茨木に言われるまでもなく、勝手に一緒に行くつもりだった。
 電話の向こうで小さく息を吐く気配がした。
「秋野ってすごいね」
「は? 何が」
「君、図書委員でも何でもないんだよ。それなのに、企画を考えたり、ガチャの機体を持ってきてくれたり、先生に頼みに行くのを当然のように自分も行くつもりでいたり」
 茨木の声がいつもより柔らかく聞こえる。電話のせいなのか、それとも俺の気持ちの変化からなのかわからない。
 もしかしたら、俺だけじゃなく、茨木の気持ちの変化も影響してるんじゃないか、なんて思ってしまった。
「普通はね、面倒がってここまでしないと思うよ。図書委員でさえ、頼みに行くのは嫌だって子も居た。でも秋野は、自分のことみたいに捉えてる。君が最初に図書室に来た時はさ、うわ、うるさいヤツが来たって思ってた」
 コイツも翔太に負けず劣らず、思ったことを口にする。それとも、茨木がこんな風に軽口を叩く相手は、俺だけなんだろうか。
「……俺だって、げ、何でコイツが居るんだよ、最悪って思ったっつーの」
「うん。顔に書いてた」
「無愛想のくせに伊達眼鏡掛けてるし、変なヤツって思ったし。つーか今も思ってるからな、俺は」
「僕だって校則違反とわかっていながら、何度先生に怒られても髪染めてくる変なヤツって思ってるよ、今も」
 茨木が小さな声で、「でも」も続ける。
「でも、それだけじゃないって今はわかってる」
 ぐっと顎を引き、胸いっぱいに酸素を吸い込んだ。長い時間をかけて息を吐く。
「……俺もそれだけじゃないってわかってる」
 この一言を口にするのは勇気が要った。気恥ずかしいし、鼻で笑われるんじゃないか、と思った。
 だけどそれと同じくらい、茨木は絶対にそんなことしない、という確信もあった。
「月曜日の放課後、北園先生のとこに一緒に行こう」
 茨木はそれだけ言って、電話を切る。
 通話終了の画面をじっと見つめた。
 不思議なことにもう一度電話したいと思った。
 さすがにかける理由がないからしなかったけれど。
 翌日土曜日、ちょうどランチタイムが終わった頃だ。
 階段下から俺を呼ぶ母親の声がした。休みの日の昼飯は、いつも大体このタイミングだ。客足が少し落ち着いた辺りで呼ばれる。
 腹減ったなあ、と考えていた時だったので、やっとか、と立ち上がろうとした。
「翔太くん来てるわよー!」
 ぴたり、と動きを止める。
 は? 翔太が?
 結局、昨日は一度も連絡がなかったし、今日もなかった。月曜日に普通の顔をして会うのは緊張するな、と思っていたけれど、まさか家に来るとは思わなかった。
 慌てて階段を降りる。厨房から店内に抜けると、翔太は端っこの席でメニューを見ていた。
「どうした?」
 平静を装いながら、翔太に近づく。翔太は俺に気づいて、メニューから目を離した。
「どうしたって、飯食いに来たんだけど」
 ニッと口端に笑みを浮かべる。その顔を見てホッとした。気まずいまま月曜日を迎えたくなかった俺にとって、大袈裟だけど救いだった。
 きっと、翔太も同じことを思ったんだろう。俺の表情が崩れたのを見て、翔太の眉が下がる。
 最後の客のレジ打ちをした後、母親が暖簾を手に店内に戻ってきた。
「翔太くん、久しぶりじゃない? 来てくれて嬉しいわあ」
「ごめんね、おばさん。ランチタイム、終わるタイミングで来て」
「いいのよ。大輝の昼もまだだし。いっぱい食べてって」
 会話を聞きながら俺も翔太の前に座った。
 テーブルの上のコップに水を注いだところで、母親がトレーに載せた飯を運んでくる。
 俺たちの前に置かれたのは、生姜焼きと白飯と味噌汁だ。
「召し上がれ。大輝、食べ終えたら洗い物するのよ」
 そんなことを言いながら、母親はエプロンを外して、父親と共に二階に上がった。
「いただきます!」
 翔太が手を合わせた。俺も同じようにした。
 生姜焼きを頬張りながら、「あー、やっぱウマい」と唸る。
「そうかあ?」
「大輝はこの美味さに慣れてんだよ。マジで美味いから」
 ギクシャクするんじゃないかと心配していたのが嘘みたいだ。
 半分食べ終えた辺りで、翔太が言った。
「ホントはさぁ」
「ん?」
「ちゃんとランチタイムに間に合うように来たんだよな」
「? じゃあ何で入らなかったんだよ」
 すると翔太は水を飲み干してから、少し下を向く。
「……何となく? で、もう閉まるかもってタイミングでおばさんに見つかって、入って入ってって言われた」
 何となく、と翔太は言ったけれど、その理由が俺には察しがついた。
 敢えてそれには触れず、「ふうん」と返事をする。
「ちゃんと金払うつもりだったんだけどなあ……」
「いいだろ、別に。残りもんだしさ。そう思うならまた今度来てくれりゃいいよ」
 俺の言葉に翔太は「そっか」と応えた。
「大輝、図書室って何で閉鎖すんの?」
 食べていたキャベツの千切りが喉に詰まりそうになる。急いで水で流し込んだ。
 翔太から話題を振られるとは思わなかったので、面食らう。
「……学校側の事情。司書教諭の水川が来年産休で居なくなるし、利用者が少ないからって」
「ししょって何?」
「は? 司書ってのは、……司書って何だよ。俺も詳しく知らねーわ」
「知らねーのかよ」
 翔太が声を出して笑った。
 ポケットのスマホを取り出し、テーブルの上に置く。検索サイトで『司書とは』と入力してみる。翔太も画面を覗き込んだ。
「司書とは、図書館の資料整理、収集、貸出業務、読書案内などを行う専門家で、学校図書室や市立図書館などで活動します、だってよ」
 俺が出てきた情報を読み上げると、翔太はきょとんとした顔を俺に向ける。
「水川、昨日居なかったじゃん。じゃあ別に居なくていいんじゃねえの? 茨木、貸出の手続きしてたじゃん。バーコードのとこ、ピッて」
「俺もそう思うけど、なんか法律で決まってるらしい」
「じゃあ水川が居なくなるし、人も少ないから閉鎖するかってこと?」
「まあ、それ以外にも理由はあんのかもしれねーけど、大きな理由はそれ」
 俺が言うと翔太は口を尖らせて、「昨日も結構、人居たのにな」と言った。
「北園が司書の資格持ってるかもって話が出てきたから、頼んでみようぜってなってる」
「へえ〜。大変なんだな」
 他人事みたいな口調ではあったけれど、完全に興味がないのなら翔太からわざわざ話題に出したりしないだろう。
 積極的に関わろうという気はなかったとしても、まるで無関心とは言えない。それくらいの距離感があっても、何も不思議じゃない。
「大輝、大学とか行くの?」
 食べ終えた翔太が口にした。
「いや、まだ何も考えてねーよ。翔太は?」
「俺? 俺、勉強嫌いだもん。それに俺、バカだから受験落ちるだろうし」
 確かに成績は決して良くはない。でも、翔太の声には諦めの色が滲んでいる気がした。
「バカが勉強したって笑われるだけだろ。今更賢い人間になれるわけねーしさ。バカなりに上手く生きてけりゃ充分だし」
 翔太の言葉に、胸が苦しくなる。泥濘に足を入れた時みたいに、その泥にどこまでも自分の足が沈んでいくような、そんな気がした。
「……俺はさ、大輝もそうなんだと思ってたんだよな」
 翔太が壁のメニューを見ながら、ぽつりと零す。
「だってお前も俺と同じくらいバカじゃん。毎日怒られんのわかってんのに、絶対黒髪にしねーし、ピアスも外さねーしさ。俺もだけど。学校の決まり守るのってダセーじゃん。そんなの破って好き勝手遊ぶ方が楽だし楽しいし。図書室なんて特にそうだろ。喋るな、食うな、飲むな、汚すな、期限破るな、みたいな、やっちゃダメなことのオンパレードでさ。そんなとこ通っていい子アピールするヤツなんてダルいだろ。それでも頭のいいヤツがやる分にはまだマシだけどさあ、俺みたいなバカがそれやったら笑われるだけじゃん?」
 翔太の話がどこに行き着くのか、黙って耳を傾ける。途中で口を挟むべきじゃないと思った。
 翔太はコップの縁を指先で少し触れてから、唇を噛んだ。
「……でも、図書室ってそれだけじゃねーのかもなって昨日、家帰ってから思った」
 翔太の顔を見つめる。
「昨日、ガチャのとこに居たヤツらの他にも結構居たじゃん? スマホ充電してるヤツも居たし、寝てるヤツも居たよな」
「ああ……、そうだな。パソコンもあるから、ネットやってるヤツも居るし」
「アピールとかじゃねーのかな、ってちょっとだけ思った。ちょっとだけだけど」
 翔太の言葉に思わず笑った。翔太なりの不器用な理解だったのかもしれない。
「でも、バカには図書室なんか必要ねーからって気持ちに変わりはねーからな」
「ま、確かに俺も別に図書室で本読んでるわけじゃねーけどな」
 俺が答えると翔太はパッと表情を明るくする。
「だよな? やっぱ大輝はこっち側だよな? 今更あっち側には行けねーよな」
「けど、俺はお前が言ってるような、こっちとかあっちとかは、もう気になんなくなった」
 翔太が息を呑んだのがわかった。だけどこれを言わなければ、俺は翔太の友達とは言えない。
 一面だけを見て、同調して、その場を取り繕うのは簡単だ。
 だけど、痛みを伴ってもいいから、翔太とはきちんと向き合っておきたかった。
「俺、食堂のこと嫌いじゃねーの。けど毎日マジでうるさくてさ。静かな場所が欲しかった。要は逃げ場が欲しかったんだよな」
 今度は俺が、店内を見渡す番だった。
 常連さんから頼まれて追加した、壁に貼られた手書きのメニュー。
 レジ横に置いてある、『ご自由にどうぞ』の飴玉。
 隅っこのカラーボックスにはその日の新聞と、週刊誌が無造作に置かれている。
「図書室に通うようになったのは、茨木が、ここは本を読んでも読まなくても自由な場所だって言ったからなんだよ。へー、別に読まなくてもいいんだって思った。それが結構、居心地よかったんだよな」
「……ゲーセンより?」
「比べるようなもんじゃねーだろ。ゲーセンだって好きだよ。でも図書室も好きだ。俺もバカだし、アピールとか思われたくねーから黙ってたけどさ。……けど、あの場所って本当は翔太が思うような、高尚っつーの? 意識高い場所なんかじゃないんだと思う」
 コップの水をゆっくり飲んだ。翔太も俺に倣うように、喉を潤す。
 対面でよかったな、と思えた。ラインや電話じゃ、翔太がどんな顔をしているのかわからない。
 でも今、目の前に居る翔太からは、怒りも嫌悪も感じなかった。ただただ、自分とは無縁の世界と思っているということが伝わってくる。
「そもそもさ、俺、マジで読書とかは好きでも何でもねーの。嫌いとまでは思わないから、こないだもガチャでたまたま当たった小説、読んだけど」
「大輝、小説読めんの? 俺は無理。文字だらけで頭に入ってこねーもん。漫画なら、まあ読めるけど」
「俺だって似たようなもんだよ。宮沢賢治とか意味わかんねーって思ってたし。つーか今も思ってるし」
 俺は翔太にクラムボンの話をした。クラムボンの正体が知りたくて、図書館の図鑑を調べたのに載っていなかったことも話した。すると翔太は、最初は口を半開きにしていたのに、徐々に首を何度も縦に動かし始める。
「待った。それってカプカプ笑うやつ?」
「翔太も知ってんの?」
「知ってる! あれ宮沢賢治なのかよ、知らなかった」
 翔太は椅子の背もたれに身体を預けた。
「俺、あれ大っ嫌いなんだよな。俺も大輝みたいに小学生の頃にクラムボン? が何なのか先生に聞いたら、そんなこともわからないのかってクラスのみんなの前でめちゃくちゃバカにされてさ。アレ以来、本も勉強も嫌いになった」
 げんなりした顔を作る翔太を見て思った。
 出会う教師によってその後が簡単に変わってしまう。
 俺は「宮沢賢治、意味わかんねえ」で済んだけれど、翔太はそれをキッカケに「知る」ということが苦手になったのだ。
「ちなみにクラムボンの正体、何なのか知りてえ?」
 俺の言葉に翔太は、ちょっとだけ喉を詰まらせて、「知りたい」と言った。
「正解は、『何だかわからない』」
「はあ?」
 予想通りの翔太の反応に笑いが漏れる。
「は? 何だよ、それ。何だかわからないってどういうこと?」
「茨木が教えてくれたんだよ。クラムボンって宮沢賢治が作った言葉だから、本当のところは誰にもわかんねーんだって。勿論、泡とか微生物とか考察してる偉い人は居るらしいんだけどさ、マジでこの世の誰にも正解はわかんねーらしい」
「え、じゃあ俺に『そんなこともわからないのか』って言った担任も、正解はわかんねーってこと?」
「だろうな。そいつが宮沢賢治じゃない限り、正解はわかってないだろ」
 翔太は天を仰ぎ、だらんと両腕から力を抜いた。
「ムカつく。けどおんなじくらい、なんかもうどうでもよくなってきた……誰にもわかんねーことでバカにされたのかよ、俺」
「ソイツの態度は最悪だよな。かと言って、俺んとこも海の生き物って言い切ってたからなあ……」
 しみじみした声が出た。脱力したくなる気持ちはよくわかる。
「この話を茨木から教えてもらった時、コイツが先生だったらよかったなって、俺、思ったよ」
 そう言うと、翔太も「俺もそう思う」と言った。
 その声に切実さと、悔しさと、羨ましさが混じっている気がして、翔太が今日会いに来てくれたことには大切な意味がある、と思った。