アオハル、貸出中

 教室の一角で、クラスメイトたちが集まって盛り上がっている。
 メモと本を抱えて、「え、それ当たったんだ?」「読んだことある?」などと見せ合っていた。
 それをちょっと離れた席から眺める。つい口が緩みそうになった。
(マジで大成功じゃん、ガチャ企画!)
 クラスメイトが手にしているメモは、図書室に設置したガチャの中身で、本はそのメモ通りに借りたものだ。
 茨木にガチャ企画の話をした日、俺は家に帰って早速ガチャの写真を撮って茨木にラインを送った。勿論、綺麗に洗っておいた。
 翌日には茨木から「先生の許可が下りた」と言われ、その次の日にはガチャを抱えて登校した。
 重さはそうでもないけれど、目立つことこの上ない。
 翔太に見つかったら絶対「なあなあ、それ何? 何?」とうるさいに決まっている。朝イチで職員室に運んだ。
 茨木は既に職員室前で待っていた。茨木の隣に女の先生が立っていて、顔は見覚えがあるのに名前が思い出せなかった。
 すると茨木がそれを察したのか、俺の脇腹を肘で小突く。
「司書の先生だよ。水川(みずかわ)先生」
「秋野くんね。重かったでしょう? ありがとう」
 水川に預けてから、茨木と一緒に教室に向かった。
 茨木によれば、水川は現国を担当しているらしい。司書の資格は持っているものの、特に図書室運営には興味がないようだ。
「悪い先生じゃないんだ。学校司書の仕事なんてボランティアみたいなものだと思うから、熱心さがなくても仕方がないかな、とも思うし」
 半ば諦めの気持ちがあるのか、茨木が小さな声を落とす。
「でも、考えようによっちゃ、図書委員の自由度はそこそこ高いってことじゃね?」
 あれこれ口を出すだけ出されるよりはマシだと思えた。茨木は俺を横目で見る。
「……秋野って、ポジティブだよね」
「お前が今、いい意味で言ってないことはよくわかった」
 茨木はくすりと笑った。
「なんで? いい意味で言ったのに」
「なら素直に受け取ってやるか」
「上から目線」
「伊達眼鏡」
「それ悪口じゃなくない?」
 そんな軽口の応酬をした後、茨木が言った。
「まずは一回目の中身の特集を考えなきゃね。実際に企画をスタートさせられるのは……二週間後くらいかも」
 今が五月の初旬だから、少なくとも今月末にはスタートできるはずだ。
 テスト期間と被らないし、ちょうどいいかもしれない。
 俺も手伝いたかったけれど、頻繁に通うのは翔太に怪しまれる。ただでさえ、最近ゲーセンに同行する頻度が減った。
 それに、俺は図書委員じゃない。企画を考えたのは俺だけど、細かな手続きや準備は委員じゃなければできないこともある、と茨木が話してくれた。
 図書室のデータは個人情報だから、というのが理由だ。
 そういえば、図書委員でさえ誰がどんな本を借りたかはわからない、と前に言われたことがある。
 結局、週に三回ほど顔を出しては企画の行末を見守った。
 ポップ作りは俺でも手伝えたので気合いを入れて描いた。
 茨木は美術が大の苦手らしく、俺がポップ作りを引き受けたら珍しくパッと目を輝かせてから、「報酬はジュースでいい?」と言った。
「図書室、飲食禁止だろ。いいのかよ」
「……だから、それはホラ、見つからないようにこっそりってことだよ」
 ボソボソと茨木が零すから思わず笑えた。カウンターの内側でしゃがみ込んで二人で飲んだジュースは、売店のオレンジジュースで、味なんてわかり切ってるのに妙に美味く感じた。
 茨木の宣言通り、企画は二週間後にスタートした。放送部に頼んで、昼休みに「図書室でガチャ企画を始めました」とアナウンスしてもらったのもよかったんだろう。
 毎日少しずつ人が増えて、今度はそれが口コミで広がった。
 茨木からは貸出人数の詳細がラインで届いて、それを見る限り右肩上がりのようだ。
 企画が始まって三週間が過ぎ、こうやって教室の話題の一つとして見聞きする機会が増えた。
 どうしてもニンマリしてしまう。
(まさかここまで上手くいくとはな)
 図書室は校舎の端っこにある。目立たない場所にあるせいでこれまでほとんど注目されたことがないだけで、みんな意外と潜在的に「本が読みたい」という気持ちがあるのかもしれない。
 ついこないだ耳にした、ガチャで借りた本について話しているクラスメイトの会話の中に、「本なんてぽんぽん買えないし」というのがあった。
 試しに本屋に行って値段を確かめてみることにした。薄めの文庫本を手に取って、大体の値段を想像しながら裏面を見る。
「高!」
 反射的に声が出た。周りの客が俺を見る。逃げるように小説コーナーから離れた。
(あんなうっすいのに、なんで八百円もすんだよ)
 しかも税抜きだ。つまりほぼ千円。自販機のジュース一本さえ、お釣りで買えない。
(学食のカレーが四百円、……ってことは二杯食えるじゃねえか)
 実家の食堂を思い出した。ランチタイムの日替わり定食はサービス価格で七百円税込。
(本、高くね?)
 同時に、ウチの日替わり定食安すぎじゃね? と思ったし、図書室の年間三十万の予算がいかに少ないか改めてわかった。
 その後も、漫画のコーナーや新書のコーナーを見て回ったけれど、俺の予想よりもずっと高い値段が本の裏に印字されていて、クラスメイトの「ぽんぽん買えない」が現実なんだと知る。
(……図書室の意義って、ここにあんのかもな)
 茨木の言葉が脳裏に蘇った。
 ここには無駄にしていい本なんて一冊もない、というあの言葉。
 どんな人でも、手を伸ばせば本を読める。図書館に行くには交通費が必要でも、学校の図書室ならそれも要らない。
 そして今、俺が思っていたよりもずっと、本を必要としている人が居ることが、ガチャ企画を通してわかった。
 この盛況ぶりに、茨木も忙しそうだ。茨木以外の図書委員も、利用者増加に伴ってちゃんと委員会活動をするようになったらしく、図書室で見かけるようになった。
 この日の放課後、俺は例の如くこっそり図書室に向かった。
 軋むドアを開けた先、ガチャの周りには数人の生徒が居る。楽しそうに順番に回す姿を横目で見ながら、カウンターに歩み寄った。
 茨木は女子生徒に貸出手続きをしているところだ。邪魔にならないよう、端っこに立ってその様子を眺める。
 手続きを終えた茨木と目が合った。
「すげー流行ってんじゃん」
 俺の言葉に茨木は肩を解すように手で揉んで、「まあね」と応える。
「図書委員の中でも評判いいよ。今月は青春特集にしたけど、来月は恋愛特集にしようって提案が出てる」
「へぇ……」と相槌を打ちながら、ガチャのカプセルを開け、メモを開いて本棚に向かう利用者たちを見つめた。
 みんな楽しそうだし、友達同士で盛り上がっているので、これまでの図書室からは考えられないくらいに活気に満ち溢れている。
 利用者が少ないことも図書室廃止の理由の一つだったから、これは手応えがあるんじゃないか、と思えた。
 図書室が生徒の中でなくてはならない存在だと証明できれば、廃止は撤回されるかもしれない。
「なあ、次の企画、考えてんの?」
「まだだよ。でも、せっかく人が増えたからスタンプカードみたいなのを作るのはどうかって案は出てる」
「スタンプカード?」
 茨木が説明してくれたのは、返却時にカードにスタンプを押して、そのスタンプが十個溜まればオリジナルの栞がもらえる、というものだ。
 栞といえば、あの三連栞を思い出す。
 茨木と今みたいに会話するようになったキッカケは、中巻のない三部作に挟まれた三連栞だった。
「確か私物の栞は挟んじゃ駄目なんだよな?」
 決まり事に書いてあったはずだ。
「紛失した場合、責任取れないからね。だから栞を使用する場合はこれを使ってもらってる」
 茨木がそう言ってカウンターの上に置いてある、小さな箱を手に取った。
 中には画用紙で作った短冊みたいな栞が入っている。
「掲示物の切れ端を、形を揃えて切っただけなんだけどね。これなら返却不要だから、使用後に捨ててもらっても構わないし」
 こういうところに節約を感じられて、図書室の運営は大変なんだな、と思わされた。
「スタンプの栞プレゼントってまさかコレじゃねえよな?」
「まさか。利用者が増えたから、水川先生が少し支援してくれるって。印刷所に頼んで綺麗な栞を作ってもらおうかって話になってる」
 着々と話が広がっている、と感じた。ガチャ企画を提案した俺としては、この状況はかなり嬉しい。
「秋野もガチャ回してみたら?」
 それは、茨木にとっては何気ない一言だったんだと思う。
 今までの俺なら「やんねーよ」と一蹴していたかもしれない。
 なのに、回してもいいな、と思えた。茨木は俺が本当に回すかどうかなんて気にも留めていない。その距離感が、俺から照れくささみたいなものを拭い去ってくれる。
 人が少し途絶えたのを見計らってガチャを回してみた。
 ころんと転がり落ちたカプセルを、恐る恐る手に取る。
 確か特集は「青春」だ。青春物と言われても一作も頭に浮かんでこない。
(……宮沢賢治が当たったら読んでやってもいいけどな。まあ、当たったらだけど)
 言い訳めいたことを考えながら、四つに折り畳まれたメモを開く。
 そこには数字とタイトルだけが書かれていた。数字は本棚の番号だ。ちなみにタイトルを見ただけでは、どんな本なのか、誰の本なのか、さっぱりわからない。
 宮沢賢治でないことは、察しがついたけれど。
 メモを頼りに本棚を探す。どうやら文庫本を引き当てたらしい。
 助かった、と思った。分厚い文芸書が当たったら絶対に借りない自信がある。
「あった……」
 目当ての本はすぐに見つかった。
 背表紙の上に指を引っ掛けて引き抜く。表紙を確認したら、目が眩みそうな鮮やかな黄色で面食らった。
『カラフル』というタイトルから、いろんな色の表紙を想像していたのだ。
「……森、絵都……」
 聞いたことのない作家だし、勿論読んだこともなかった。
(面白いのか? これ……)
 そう思うものの、本自体は結構古びていて、何人もの人が読んだ本なんだろうな、とわかる。
 後ろを見ると、初版は二十年近く前だ。
(微妙なの引いたかも)
 どうせならもうちょっと新しいものが読みたかった。
 どうしようかと考えていたら、いつの間にか近くにいた茨木が、しゃがみ込んで返却本を本棚に戻していた。
「茨木」
「なに?」
「これ読んだことあるか?」
 黄色の表紙を茨木に向ける。茨木は「あるよ」と答えてから立ち上がった。
「面白い?」
「僕は好きだよ。それ、当たったの?」
「そう。小難しそうじゃねーのは救いだけど、これめちゃくちゃ古い本だぞ。時代背景とかも違うだろうし」
「映像化されてるよ。アニメにもなってたと思う」
 茨木の一言に、警戒が緩んだ。実写にもアニメにもなってるなら、やっぱりそんなに難しくなさそうだ。俺でも読めるかもしれない。
「……借りるか」
「せっかく当たったんだし、いいんじゃない?」
 絶対に借りた方がいい、とか、絶対に読むべき、とか、茨木はそういうことは言わない。それが逆に、いろんなもののハードルを下げてくれる気がした。
「ガチャの中、宮沢賢治入ってねえの?」
「入ってるよ」
「それ当てたかった」
 ぽろりと口から溢れた。茨木はふっと表情を緩めると、「次は当たるといいね」と言った。
 貸出手続きを済ませる。図書室で本を借りたのはこれが初めてだ。
 読んだことのない本を、自分の意思で借りる。
 何でもないことのはずなのに、何だかちょっとだけ誇らしかった。


 家に帰ってから、早速『カラフル』を開いた。
 生前の罪によって輪廻のサイクルから外れた「ぼく」が、天使業界の抽選に当たり、再チャンスの機会を得る。
 自殺を図った少年・真の身体にホームステイして、その罪を思い出していく、という話だ。
 驚くほど読みやすかった。難しい言葉は何にも出てこない。
 話の内容もシンプルでわかりやすかった。ついつい先が気になって、ページを捲る手が止まらない。
 結局、徹夜して読んだ。気がついたら朝になっていた。
 読書なんて、別に楽しいと思ったことがない。
 読むのはせいぜい漫画くらいだ。それなのに、たった一晩で一冊を読み終えてしまった。
(……普通に、読めたな)
 窓の向こうは既に空が白んでいる。カーテンの隙間からそっと外を覗いた。
 朝日が眩しい。雀の鳴き声が聞こえた。同時に一階から、厨房の仕込みの音が聞こえる。
 トントンという包丁がまな板を叩く音、ぐつぐつという汁物を煮込む音、かちゃかちゃという食器が当たる音。
 煩わしくてうるさいはずの音なのに、今朝はそんな風に感じなかった。
(眠……)
 欠伸を噛み潰しながら考えたのは、茨木のことだ。
 一晩で読んだと言ったらどんな顔をするだろう。
 アイツのことだから、「ふうん、そう」と言うだけかもしれない。
 いや、もしかしたら案外「どこがよかった?」と聞いてくる可能性だってある。本の話をする時だけは、茨木は饒舌だ。
(変なヤツ)
 変わり者だと思う。
 だけどそれと同じくらい、茨木が纏う空気は心地いい、と思う。
 その日の放課後、返却しに行った。茨木はちょっとだけ目を丸くして「もう読んだの?」と言う。
「読みやすかった」
「そう」
「題名の意味がわかって、読んでよかったなって思った」
 俺の言葉を受けて、茨木は瞳を細めてから口を開いた。
「どんな人でも一面だけじゃ見えない、いろんな色を持ってる。僕は秋野にも同じことを思ったよ。今まで知らなかった色が見えたなって」
 どきり、とした。
 茨木の口からそんな言葉が出てくることを、まるで想像していなかった。
(……俺も、同じこと思ったって言ったら、どうなるんだろ)
『カラフル』を読んで、俺も茨木と同じ感想を持った。
 視点を変えれば見える景色は変わる。
 俺は茨木のことを「無愛想」で「感じが悪い」としか思っていなかった。
 接していくうちに、それだけじゃないということがわかった。考えてみれば当たり前だ。誰にだっていろんな顔がある。俺にもある。
 その当たり前のことを、『カラフル』は改めて俺に教えてくれた。
 気恥ずかしさと同時に、ふわふわとした浮き足立つ気持ちが芽生える。
(……やっぱ、図書室に来てよかったな)
 もし来ていなかったら、俺は『カラフル』にも茨木律にも触れることなく人生を終えたかもしれない。
「……もっと、他にも企画考えようぜ」
 俺も同じ気持ち、とは言えなかった。誤魔化すみたいに話題を変える。茨木もゆっくり頷いた。
「図書委員の中で、なんか企画出てねーの? 栞プレゼントの話は聞いたけど」
「ビブリオバトルとかは出たけど……」
「なにそれ。何と戦うんだよ」
 全く聞いたことのない単語が出たので興味が湧いた。
 図書室とバトルという言葉がミスマッチすぎたせいでもある。
 茨木の説明によると、ビブリオバトルというのは本の紹介コミュニケーションゲームらしい。
 参加者が読んで面白いと思った本について、一人あたり五分の持ち時間を使って紹介し、最後に誰のどの本が一番読みたいと思ったか、を投票する、というもののようだ。
「絶対やめた方がいいと思うけど、俺は」
 ストレートに、思った通りに口にした。茨木は肩を竦めると「やっぱり?」と呟く。
「いかにも本好きが考えそう。人が一人も来ない読書会の存在を忘れてんじゃねーの」
 呆れた声が出た。茨木も小さく溜息を吐いている。
「なんかそういうんじゃなくてさ、交流とかじゃなくてあるだろ、他に」
 上手く言えないけれど、ビブリオバトルではない、ということだけはわかった。
「あ、そうだ。漫画は? 漫画増やそうぜ」
 手塚治虫の漫画なら、中学の図書室にもあったのを覚えている。
 ところが茨木はこの提案に露骨に眉根を寄せた。
「漫画は無理」
「なんで」
「漫画は大変なんだよ……」
 茨木の言葉からは、漫画が嫌だ、というニュアンスは感じられない。それよりも、漫画は困る、という風に聞こえた。
「漫画は管理するのが大変なんだ。表紙が文芸と違ってソフトカバーだし、文芸書より人気があるから回転率が高い。その結果どうなると思う?」
 茨木の言ってることが理解できない。首を傾げていると、茨木は人差し指をピッと立てた。
「すぐにボロボロになるんだよ……」
「……あー……、なるほど……」
 言われてみれば簡単に想像できる。友達と貸し借りしているだけでも、漫画本は結構な確率でボロくなっていくからだ。
「それに巻数も多いからね。スペースにも予算にも限りがあるから、漫画は所蔵には向かないってことで、うちでは買わないことになってる」
 てっきり、学校だから買わないんだとばかり思っていたから、意外と合理的な理由があるんだな、と感心してしまった。
「何より……」
 茨木が小さな声で続けた。
「何より、人が増えたのは嬉しいし有難いけど、……来年からは司書教諭が居ないっていうのも大きな問題だから。そこをどうにかしないと、廃止は避けられないんだよね」
 確かに茨木の言う通りだ。
 多少人が増えたからといって、学校側が一度決めた廃止を撤回するとは思えない。
 だけど積み重ねだって大事だろ、と思う気持ちがあった。
 司書教諭の確保なんて、俺たち生徒ではどうにもならない。
 できることを積み重ねて、生徒にとって図書室は有意義だと証明する。これだって欠かせない活動のはずだ。
(けど、積み重ねるっつってもなあ……、やっぱ品揃えの良さは必要だと思うし。でもそうなると予算の問題にぶち当たるし)
 一筋縄ではいかない、と肩を落とした時、別の図書委員がガチャを回していた男子生徒に声をかけているのが目に入った。
「図書室は飲食禁止なので、飲み終えてから利用するか、一旦カウンターで預かるかになります……」
 男子生徒の手には紙パックのジュースがある。その連れの手にも同じものがあった。
 図書委員の女子はおどおどしながらも言うべきことはきちんと言っている、という印象だ。ただ、それで男子生徒が言うことを聞くとは限らない。
 茨木が立ち上がる。ゆっくりした足取りで近寄ると、「預かるよ」と男子生徒に向かって手を差し出した。
 男が対応したことに、相手はちょっと怯んだようだ。
 女子委員はほっとした顔でそそくさと別の棚に移動した。
 男子生徒も渋々という顔で紙パックを茨木に手渡す。
「入り口で気づいて、そこで預かればよかったよね。ごめん。ゆっくり楽しんで」
 意外な思いで、こちらに戻ってくる茨木を見つめた。
 茨木が紙パックをカウンターの内側に置いたタイミングで声をかける。
「やるじゃん」
「何が?」
「お前のことだからてっきり、飲食禁止って書いてあるでしょ、読めないの? 市中引き回すよ、とか言うかと思った」
「僕を何だと思ってるの、君は」
 眉根を寄せて溜息を吐いた茨木は、緩く首を振った。
「悪気があるわけじゃないことはわかったから。利用者が増えれば、決まり事を読まない人も出てくるし、読んでもうっかりってことは誰にでもあるでしょ」
「……結構、トラブルとか増えてんの?」
 俺の質問に茨木の顔が一瞬だけ曇る。
「そりゃあね。ないことはないよ」
「例えば?」
「貸出期限を過ぎても返却がないことが増えたり、……家で読んでる時は飲食禁止なんて無理だからね。汚れたり、うっかり破れたりとか。でも、それはそんなに大きな問題じゃない。本は形があるものだから。形があるものがいつか崩れるのは自然の摂理でしょ」
 茨木の言葉を頭の中で反芻した。
 つまり茨木は、本を大事に思っていて、大切に扱うことは前提で、それでもいつかはダメになる、ということを受け入れている。
 図書室廃止を静かに受け入れていたあの時の茨木の顔が頭に浮かんだ。
 カウンターの内側を何気なく覗いたら、床の上に箱があった。廃棄と書かれた箱だ。中には数冊の本があった。
 よく見ると補修の跡があちらこちらにある。それでも表紙が半分以上取れかかっているものや、水で濡れたのか波打っているものもあった。
 悩みに悩んで、廃棄の決断を下したんだろうな、と想像がつく。
 一冊も無駄にできない中で、その決断はきっと重く、しんどいもののはずだ。
 茨木と関わるようになって、図書室の裏側が垣間見えるようになった。
(……やっぱり、残してやりてえよな)
 最初は、やっと得た静かな場所を失いたくない、と思った。
 だけど今は、茨木が大切に思うこの場所を失いたくない。
 貸出や返却の手続きをしている茨木や図書委員たちを目の端に捉えながら、図書室内をぐるりと見渡す。
 一番端にある棚の前で、本を開いて溜息を落とす男子に気がついた。
(……確か、児嶋(こじま)……だっけ)
 一年の時に隣のクラスだった児嶋だ。体育は隣の組と合同授業なので、覚えていた。
 児嶋はあからさまにがっかりした顔をして、とぼとぼといった足取りで棚から離れる。
 近くの席に腰を下ろし、頭を抱える児嶋の様子は、どう見ても他の利用者とは違った。
 気になる。
 だけど声をかけたら、俺が図書室に通っていることがバレてしまう。
(……いや、まあ別に……今だって変装してるわけじゃねえしな)
 実際、クラスの女子に図書室でばったり出会したこともある。一瞬ギクリとしたけれど、特に言葉を交わすこともなかった。
 図書室に通っていることを知られたくないというより、その結果揶揄われるのが俺は嫌なだけだ。
 ということは、児嶋には知られても問題なさそうに思う。児嶋だって図書室に通っているのだから、揶揄いのネタにするとは思えなかった。
 意を決して、すーっと児嶋の近くに寄った。気配を察知した児嶋が顔を上げる。
「あー……っと、秋野、だっけ?」
 柔らかな笑みをくれた。俺も軽く手を上げて「そう。児嶋だよな?」と応じる。ついでに隣に座った。
「元気なくね? なんかあった?」
 なるべく軽く訊ねてみる。児嶋は苦笑いを浮かべて、照れたように頭に手をやった。
「いや……、大したことじゃないよ。大したことじゃ、ないんだけど……」
 言いながらがっくり肩を落とし、そのまま机に肘をついた児嶋はさっきと同じように頭を抱える。
「全然、大したことあるだろ……」
 思わず突っ込んでしまう。児嶋は、「うん……」と溢して長い溜息を吐いた。
「図書室内の困り事か? それなら俺、委員呼んできてやるけど」
「大丈夫。本当に大したことじゃないし」
 慌てた様子で児嶋が立ち上がる。逃げるようにそそくさとドアに向かった。
 家に帰ってから、茨木にそれとなくラインで聞いてみる。
『児嶋ってわかる?』という俺の質問に、『一年の時、隣のクラスだった人?』と返ってきた。
 図書室によく来るのか、と聞いたら、たまに来るよ、と返事が届く。
 本好きなのか、それとも俺みたいに特に用もなく来ているのか。
(あの態度はどう考えても、そのどっちでもねーよな)
 図書委員には言いたくない困り事を抱えているのかもしれない。
 そうなると、汚したとか紛失したとかだろう。
 どっちも正直に言えば、市中引き回しはなさそうなのに。
 この日以降、図書室に顔を出す時は必ず児嶋の姿を探した。
 二回に一回は見かける。児嶋は毎回同じ棚の前にいて、落ち込んだ様子で本を借りることもなく帰っていく。
 やっぱり気になる。気にならない方がおかしい。
 五回目に見かけた時、俺はもう一度、児嶋に声をかけた。
 本棚の前で後ろから声をかけたからか、児嶋はビクッと肩を跳ね上げて、恐る恐る俺を見る。
 相手が俺とわかってホッとしたのから、少し力を抜いた。
「なあ、マジでなんかあったんじゃねえの?」
 すると児嶋は左右をきょろきょろと見回す。
 ガチャ企画は二ヶ月目に突入し、今は恋愛特集になった。
 そのせいで利用者は女子が多い。だが女子は長居することは稀だ。貸出手続きを済ませると友達と会話しながら図書室を出ていく。
 ちらっと聞こえた限り、どうやら飲食のできる場所に移動しているようだ。
 だから一ヶ月目の時より、室内は落ち着いていた。俺もよく見かける常連ぽい生徒が数人いるだけだ。
 児嶋は周りに人が少ないことがわかったからか、こくりと唾を呑み、「誰にも言わないって約束できるか?」と言った。
「いいけど……え、なに? 深刻な話か?」
 児嶋の声のトーンに真剣味を感じ、思わず後ずさる。
 二人で端の席に座った。児嶋はまた辺りを見回してから、重い口を開く。
「実は……、俺、文通してたんだ」
「文通?」
 全く予想しなかった言葉が出てきて、聞き返す俺の声が裏返った。児嶋は肩を落としながら続ける。
「図書室の本を介して、名前も顔も知らない誰かと文通してた。最初は、俺が何気なく本にメモを挟んだことがきっかけだったんだ。好きな本に、『この本が好きです。同じ人いませんか?』って書いた紙を挟んだまま、返却した」
 通常なら、返却本に不要なものが挟まれていないか、図書委員が確認してから本棚に戻されるはずだ。茨木がいつもそうやっているのを見ている。
 それでも見落としはあるだろうし、委員は茨木だけじゃない。挟まれたメモに気づかないまま、本棚に戻されることもあるだろう。
「返事が来るなんて思ってなくてさ。それでもちょっとドキドキしながら、図書室に来る度にその本を開いてた。暫くはずっと俺が書いたメモがそのまま挟まれてて……、ある時、そのメモがなくなってたんだ。代わりに別のメモが挟まれてた」
「別のメモ?」
「うん。『同じです。この本が好きです』──そう書いてあったんだ」
 聞いているだけで、胸の鼓動が早くなる。少女漫画を読んだことがないのに、それっぽいと思った。
「すぐに返事を書いて挟んだ。そこから文通が始まったんだよ。向こうは俺が誰なのか知らないし、俺も知らない。ただ本を通して、メモのやり取りをしてた」
 まさかそんなことがこの図書室の中で行われていたなんて。
 甘酸っぱい気持ちが胸に広がった時、ふと気がついた。
「やり取りをしてた、って言った?」
 俺の問いかけに児嶋は苦笑を浮かべて頷く。
「うん。してた。過去形」
「ってことは今は……」
「一ヶ月前くらいかな。ほら、ガチャが始まって少ししてから、返事が来なくなったんだ」
 息を呑んだ。理由なんか児嶋に説明されなくてもわかる。
(人が、増えたからだ)
 本の中に手紙を挟んでやり取りするなんて、よく考えたらリスクが高い。
 それでも成り立っていたのは、利用者が少なかったからだ。
 だがガチャ企画が始まってから状況は変わった。
 大混雑というわけほどではないけれど、以前に比べれば圧倒的に人が増えた。静まり返った図書室だったのに少々騒がしくなって、俺自身も「結構変わったな」と思うことがある。
「……元々、約束してたわけじゃないし、ただ飽きただけなのかもしれない。でも、ぱったり途絶えたからさ。……寂しいなって気持ちがあるんだ」
 何と言えばいいのか、わからなかった。
 人が増えたことはいいことだ、としか思っていなかった俺にとって、児嶋の話は耳が痛かったし、何とも言い難い引け目のようなものを感じてしまう。
「図書室、閉鎖するんだろ?」
 児嶋の声にハッとして、目を合わせる。
「ちょっと早く終わりが来ただけだって思うことにするよ」
 寂しそうに眉尻を下げた児嶋に、何か言葉をかけようとした時、俺の背後から声がした。
「二人とも、そろそろ下校の時間だよ」
 振り返ると茨木が立っていた。
 児嶋は照れたような困ったような、そんな笑顔を貼りつけて茨木を見る。
「聞こえてた?」
 児嶋の質問に茨木はバツの悪そうな顔を作り、ほんの少し首を縦に動かした。
「ごめん、勝手に本にメモを挟んだりして」
「それは、……本が傷むからやめて欲しいとは思うけど、……僕こそ立ち聞きしてごめんね」
 微妙な沈黙と空気が俺たちを包む。ここは俺が場を取り持つべきだと思ったけれど、言葉が出てこない。
 少し早く終わりが来ただけ、という児嶋の声がずっと耳の奥で反響している。
「ガチャ企画、面白いよ。茨木が考えたの?」
「ううん。秋野が」
「へえ。秋野、図書委員だったんだ」
 児嶋の誤解を解くため、「いや、違えよ」と言ったら児嶋はますますわからなくなったようだ。
「手伝ってくれてるんだ。図書室廃止をどうにか撤回できないかって」
 茨木の言葉に児嶋が少し目を丸くする。
「確かに廃止は寂しいもんな。俺も寂しいよ。家に持って帰ってもなかなか読まないと思って、借りることはあんまりしなかったけど、結構放課後はここで読んでたからさ」
 児嶋の声には懐かしさと寂しさが滲んでいた。
(……あ、やべ。……なんか、すげーモヤモヤする)
 利用者が増えることはメリットばかりじゃないのかもしれない。
 そう思う反面、じゃあ俺の企画がダメだったってことか? と思ってしまう。
 それを認めたくない気持ちと、でも今、目の前で切なそうに諦めの言葉を口にした児嶋を無視できない気持ちがあって、胃が重たい。
「そもそも廃止の理由って?」
 児嶋が茨木に問いかけた。
「理由は一つじゃないんだ。利用者が少ないことも理由だし、来年の春からは水川先生が産休で代わりの司書教諭が居ないっていうのも理由」
「学校側の都合もあるんじゃ、どうしようもないのかもしれないね」
 児嶋の声に顔を上げた。諦めたくないから足掻いてんだよ、と言おうと思った時、茨木が俺の脇腹を肘で小突いた。
 児嶋はそれには気づかなかったようだ。「じゃあ俺、そろそろ帰るよ」と言って、図書室を出ていく。
 その背中を黙って見送った。
 児嶋が帰った後、図書室には俺と茨木しか残っていないことに気がつく。
 茨木は俺を真っ直ぐ見て、口を開いた。
「秋野は間違ってないよ」
 言葉に詰まる。見透かされたようで、茨木の目から逃れるみたいに視線を床に落とした。
「利用者増加は、図書室の長年の課題だった。それを秋野はガチャ一つでここまで改善させたんだ。秋野は間違ってない」
「……けど」
「うん。けど、児嶋も間違ってないよね」
 茨木の言葉がずしりと腹の真ん中に沈む。
 鉛みたいに重いその塊をどうにかしたくて、自信のない反論が口をつく。
「……だけど、……人が集まる図書室にはそれなりに理由があるだろ。読みたい本があるとか、……ガチャもそうだけど、派手で面白い企画があったり、流行りの本があったり、だから人が来るし、実際増えたし……」
 言いながら、自分の語尾がどんどん小さくなるのを感じた。
 茨木の目を見れず、下を向く。上靴の先をじっと見ていた。
「──本当に、そうだった?」
 静かな声が耳に届き、反射で顔を上げる。
 俺の瞳を真正面から見つめる茨木の目に真剣な光が宿っていた。
「秋野が図書室に来た理由、本当にそうだった? 面白い企画があるから、読みたい本があるから、だから来たの?」
 虚を突かれた。
 確かにその通りで、俺はそんなものを求めて図書室に足を踏み入れたんじゃない。
 言葉が何も浮かんでこなかった。茨木はそんな俺を否定することなく、穏やかに一度頷く。
「……児嶋が、本を介して誰かと手紙のやり取りをしてるなんて、気づかなかった。利用基準から考えたらやめて欲しいことではある。本が傷むからってさっきは言ったけど、万に一つでもやり取りしている相手以外に読まれてしまう可能性があるんなら、リスクの高いことはやめた方がいいって僕は思う。……それでも」
 そこで言葉を切った茨木を、そっと横目で見た。
 茨木の目線は本棚に送られている。その目は、優しいものだったけれど、同時に酷く寂しそうでもあった。
「……それでも、本が児嶋と誰かを繋ぐ架け橋になってたこと、それがこの図書室の中で続いてたことは、無視はできないなって思った」
 痛いくらいに唇を噛む。
 悔しいからじゃない。茨木の言葉に、何も混ぜたくなかった。