図書室の一角にある机の上に、ノートを広げる。
茨木は俺と向き合う形で座ると、俺を見て伊達眼鏡のフレームを持ち上げた。
「……で? まずは何から始めるの?」
「とりあえず、現状の把握じゃね?」
筆箱からシャーペンを取り出し、ノートに『図書室存続に向けての課題』と書く。
来年の春、図書室が廃止になることは理解できた。
そして俺と茨木は、それを阻止するために足掻けるだけ足掻くことに決めたわけだけど、具体的な案はまだ何も浮かんでこない。
それならまずは、今、図書室がどういう状況なのかを確認しておきたかった。図書委員の茨木はわざわざ確認するまでもないかもしれないけれど、未だにコソコソ通うしかない俺には必要な作業だ。
「利用者とか、何人くらい居るか把握してんのか?」
「そりゃまあね。貸出利用者は月平均で大体十人」
「十人!」
思わずでかい声を出してしまった。茨木はじろりと俺を睨むと、人差し指を口元で立てる。
「静かにして」
首を竦めて応じたけれど、茨木が言った人数の少なさに改めて愕然とした。
「……つーか、十人って。え、十人?」
あまりにも衝撃的で聞き返してしまう。茨木は「そう何度も繰り返さないでよ……」と声を落とした。
「全校生徒が確か五百人くらいだろ。それでお前、月に十人って……」
「貸出利用者だけだよ? 秋野みたいに本を借りずに利用してる人だって居るから、それを含めたらもうちょっと多いよ」
口を尖らせた茨木だったが、仮に俺を含めた「本を借りない利用者」を足したところで、倍にはならないだろう。
まさかこれほどまでに利用者が少ないとは。
(……こりゃ、廃止って言われても無理はねーかもなあ……)
俺にしても市の図書館がリニューアルで閉館にならなければ、恐らく卒業まで一度も図書室には足を踏み入れなかったと思う。
「閉鎖の一番の理由は、前にも話したけど司書の先生が来年の春から産休に入るからなんだけどさ……」
「利用者の少なさもそれに追い打ちをかけてるってわけか……」
俺の言葉に茨木は力なく項垂れた。
放課後の図書室内をぐるりと見渡す。
確かに設備の整った新しい場所とは言えないけれど、古くても綺麗だ。本棚に埃が積もってるようなこともないし、整理整頓もきちんとされている。
どこにでもある、普通の学校図書室だ。逆に言えば、目新しい何かがあるわけではないから、わざわざ足を運ぶ理由がない、と言われたらそれまでだけど。
「なあ、アレ、何?」
俺の声に顔を上げた茨木は、俺の指の先を目線で辿った。
貸出カウンター近くの棚の上に、本が二冊、飾られている。
「あれは、先生のおすすめコーナーだよ。毎月、いろんな先生に頼んでおすすめの本を選んでもらってるんだ。それをああやって紹介してる」
企画のひとつだよ、と茨木が続けた。
学校らしい企画だ、と思いながら立ち上がり、棚に近づいた。
紹介されているのは二作とも、堅苦しくて古くて難しそうな本だ。一瞬でげんなりした。手に取ってみようという気さえ起こらない。
「企画って、お前これ、集客を見込んでってことだよな?」
質問を投げかけると茨木は目をぱちぱちさせてから言った。
「集客って言い方が正しいかどうかはわからないけど、……そうだよ、少しでも利用者が増えるといいなと思って」
「コレで増えると本気で思ってる?」
茨木はバツが悪そうに目線を泳がせる。
やっぱコレじゃダメってわかってんじゃねーか。
「読みたいって気にならない?」
「なんねーよ。一ミリもなんねーよ、なんだよ、この本。どっからどう見ても、大人の説教くささが滲み出てんだろ」
はっきり言ったら、茨木も「それは、まあ……うん……」と頷いた。
「もっとこう……なんかあるだろ、何でこんな意味のないことやってんだよ。企画したの誰?」
「知らない。僕が一年生の頃から既にあったから、そのコーナー」
「絶対やめた方がいいと思うぞ、俺は。いや、別にあってもいいけど、コレで人が増えることはねーよ、断言する」
席に戻ると、茨木は腕組みをしながら俺の後ろの本棚を見つめながら口を開いた。
「じゃあ、……あの企画もやっぱりダメなのかな。だから参加者がいないのかも」
「? なに、あの企画って」
茨木は手元のファイルを開き、その中から一枚の紙を取り出す。差し出されたその紙には、『読書会のお知らせ』とあった。
「なんだ、これ」
「二ヶ月に一回やってるんだ。予め決められた課題本を読んで、放課後に図書室に集まって感想を言い合う。課題本はなるべく話題になった本とか、有名な名作を司書の先生が選んでくれるんだけど……」
言葉の最後が萎んだことで、何となく察しがつく。多分だけどこの読書会は、成功したことが一度もないんだろう。
無理もない。例え本を読むのが好きだったとしても、感想を言い合うのはちょっと……、と敬遠したくなる気持ちはわかる。
俺だって好きな本の一冊や二冊、ないわけではないけれど、それの感想をみんなで言い合おう、なんて集まりに参加しようとは思わない。
「……なぁんかさあ、ズレてんだよな、多分」
「ずれてる?」
「例えばなんだけど、おすすめコーナー作るにしても、実写化作品特集とかさ、もうちょっととっつきやすいのがあるだろ」
率直に言った。茨木も頷いて、「それは一理あるんだけどね」と返してくる。
「でも、予算も限られてるし……何より、ここは学校の図書室だから。特集や企画がある程度、勉強に因むのは仕方がないでしょ」
茨木の言っていることはよくわかった。
市の図書館ならDVDだって借りられる。その側の棚で、実写化アニメ化した原作本が紹介されているし、入ってすぐの一番目立つ場所には雑誌の最新号が並んでいて、いつも賑わっていた。
ところが図書室はそうはいかない。入り口に一番近い棚は新着図書のコーナーにはなっているけれど、中身は図鑑や昔の作家が書いた本が中心だ。
今話題の本なんてほとんどない。
(欲しいものがあるから、人が集まってくるんだよな)
それなのに図書室はその真逆だ。欲しいと思うものがない。だから利用者が月に十人しかいないんだろう。
「やっぱりまずは利用者を増やすのが先決じゃね? 利用者が増えれば廃止に反対する生徒も増えるかも知れねーじゃん」
今のところ、図書室が廃止になると知っている生徒は、俺の周りでは一人も居ない。
さりげなく翔太に聞いてみたけれど、「え、マジ? じゃあもう未亡人に逢えるチャンス、ねーの?」と返ってきただけだ。
「増やすって言ったって……、話題の本をたくさん増やしたりはできないよ」
茨木の返事に「まあ、それはそうだけど」と呟きながら、手元のスマホを操作する。
「なあ、他の学校の図書室はどんなことやってんのかな」
検索欄に『図書室 アイデア』と入力してみた。いくつかの記事がヒットする。
「あー……やっぱDVDとか充実してるとこもあるんだな」
スマホを机の上に置いて、茨木の方に向けた。茨木は眼鏡を外して覗き込む。
「ほんとだ……」
「確かにこういうのがありゃ、ちょっと立ち寄ってみるか、って気になるかもな」
「でも……」
茨木がそこで言葉を切った。少し考えるみたいに目線を落とす。しばらくしてから顔を上げた。
「でも、本当にラインナップだけの問題かな。確かにうちには話題の新刊は少ないし、メディアの貸出もないけど、利用者が少ないのはそれだけが理由じゃないよね、きっと」
もう一度、図書室の中を見渡した。茨木も同じように首を動かす。
落ち着いて本を読んだり、俺みたいにただぼーっと過ごすには最適な場所だ。自習するスペースもある。
茨木はさっき口を尖らせて、「貸出利用者以外にも来るよ」と言ったけれど、あれは負け惜しみなんかじゃないんだろう。
少ないながらも、自習している生徒や、借りずに読むだけの生徒を見かけたことがある。
「ちょっと考えてみるわ、俺」
「何を?」
「企画。確かに面白い新刊が入ってくりゃアピールにはなるけど、予算って決まってんだろ。確か……」
「年間三十万くらい」
以前も、茨木からそう聞いた。
三十万円は大金だ。だけど、高校の図書室で一年に買える本の代金、と考えたら少ないと感じてしまう。
実際、リクエストされた本を全部買うことはできない、と茨木は話していた。
「予算を増やせるわけねーんだし、それなら工夫するしかないだろ。読書会も先生おすすめコーナーも、学校の図書室ってことを考えりゃ正しいのかもしれないけど、……ま、ぶっちゃけつまんねーじゃん?」
「はっきり言い過ぎでしょ……」
「お前だって内心じゃそう思ってるくせに」
「思ってるよ」
眼鏡を掛け直しながら茨木が言う。やっぱりコイツ、そこそこ失礼だよな。俺が言うのもなんだけど。
だけど、それが俺にとっては結構よかった。
コイツがもし見た目通りのちょっと繊細なヤツなら、俺はこんなにくだけて会話できなかったかもしれない。
スマホをポケットにしまった時だ。
茨木が小さな声で「秋野」と俺を呼んだ。
「なに?」
「……気持ちは嬉しいんだけど、君は図書委員じゃない。企画考えたり、そういうの有難いよ。でも、……面倒じゃないの?」
俺を窺うような茨木の言葉に、頭を掻いてから両手を上に上げて伸びをした。
「面倒なら、最初っから廃止阻止しようぜなんて言ってねーよ」
「……そっか」
「それに、図書委員の手伝いをしてはならないって決まりごとはないだろ?」
そう言って茨木を見返すと、茨木はほんの少しだけ口元を緩めて「確かに」と言った。
「大輝ー! ご飯!」
下から母親の声がする。
俺の晩飯は店の賄いだ。子供の頃からずっとそうで、接客の合間を縫って作ってくれる。
その日の忙しさに左右されるから、時間はまちまちだ。
今日は六時半。早いタイミングで呼ばれたな、と思った。
階段を降り、厨房に続く扉を開ける。手前の台の上にトレーに乗った晩飯があった。
手を伸ばした時、野菜の仕込みをしていた母親が言った。
「あんた、今日遅かったね」
放課後、茨木と図書室で作戦会議をしていたせいで、いつもより少し遅くなってしまったのは事実だ。
「翔太くんとゲーセン?」
「……まあ、そんなとこ」
適当に誤魔化すことにした。図書室の話をするつもりはない。
「勉強もちゃんとしなさいよ、もう高校二年なんだからね」
「わかってるって」
飯の前に聞きたい話じゃない。飯の前じゃなくても聞きたくないけれど。
トレーを持ち上げ、踵を返す。さっさと逃げた方がいい。
「あー、待って、大輝」
「なんだよ……」
うんざりしながら足を止めて振り返る。
「あんた、スマホで課金なんかしてないわよね?」
いきなり話が飛んだので眉根が寄った。
「何の話だよ」
「それがねえ……」
声のボリュームを落として続ける。
「酒屋の松本さんとこ、この春、息子さんが小学生になったばっかりなんだけどね」
酒屋の松本さん、というのは、商店街の端っこにある「松本酒店」の店主のことだ。うちの食堂の常連の一人で、奥さんと一人息子をつれて土日のどちらかは必ず食べに来てくれる。
でかい声でよく笑う、気のいいおじさんという印象だ。
「お母さんのスマホでゲームをやってて、課金しちゃったんだって」
「へー……」
特に興味のない話だ、と思って気のない返事を返したら、母親はもう一段、声を潜めて耳打ちしてくる。
「五十万円」
「ご……!」
思わず絶句した。母親はわけ知り顔でうんうん頷きながら、「クレジットカードが紐付いてたらしいのよね」と溢す。
「返金してもらえないか交渉したらしいんだけどダメだったんだって。大輝、あんた、課金なんかしてないわよね?」
「してねーよ。そもそも俺、スマホでゲームやらねーし」
「それならいいけど。アイテム? かなんかがガチャガチャでランダムで出てくるらしいのよ。当たりが出るまで何回もやっちゃったんだって」
翔太がやってるのを見たことがあった。俺はデジタルのデータに課金するという発想がないので、ゲームアプリには疎い。
俺がやるのはゲーセンのアーケードゲームか、ソフトを購入してプレイするテレビゲームだけだ。
「五十万なんてほんと怖いわよねえ」とか何とか言いながら、洗い場に戻っていく母親に背を向けて階段を上がった。
部屋で飯を食いながら、五十万円という額の大きさを改めて考える。
(一年で三十万しか予算がないって話の後に聞くと、何とも言えねーな……)
ああいうガチャって上限とかあんのかな。クレーンゲームなら天井があったりするけど。
そんなことを考えながら箸を動かしていた時、不意に頭に浮かんだ。
(……そうだ……、アレ使えんじゃね?)
急いで残りを掻き込み、トレーを持って階段を駆け下りる。
「なあ、アレまだある?」
皿を洗っていた母親に話しかけた。
「アレってなによ」
「店の前に置いてた、ガチャガチャの機体」
「裏庭の倉庫にあるけど」
靴を履き、裏の勝手口から外に出る。倉庫の扉を開けると、中のライトがセンサーでパッとついた。
親父の釣り道具や、俺が子供の頃に使っていたボールや縄跳びなんかが置いてある。
その中のひとつに、目当ての物はあった。
古いガチャガチャの機体だ。重さを覚悟して持ち上げたのに、思っていたよりずっと軽い。
倉庫から引っ張り出すと意外なほど小さかった。
このガチャガチャは食堂のレジ横に以前置いてあったものだ。
親父が知り合いから譲り受けた物で、カプセル入りのオモチャも入っていた。中身がなくなるまで、店頭に飾ってあって、子ども連れのお客さんたちが楽しんでいた。
(茨木に連絡……)
スマホを部屋に置いてきたことを思い出すと同時に、茨木の連絡先を知らないことも思い出した。
ふと笑いが込み上げる。これから一緒に図書室廃止を阻止しようというのに、まさか連絡先さえ知らずにいたとは。
翌朝、教室に着くと既に茨木は自分の席に座って本を読んでいた。
図書室で話をするようになったものの、教室ではまだ話しかけたことはない。茨木から話しかけてくることもなかった。
幸い翔太はまだ来ていない。何気ない風を装って、茨木に近づく。隣に立つと茨木が顔を上げて俺を見た。
「……おはよう」
意外なことに茨木からそう言ってくれた。俺も「おはよ」と返す。
それからスマホを取り出して、茨木と目を合わせた。
「なあ、連絡先、交換しようぜ」
「……いいけど」
茨木は読んでいた本を閉じるとカバンからスマホを取り出した。カバーのついていない、シンプルなスマホだ。茨木っぽいなと思った。
スマホをかざして連絡先を交換した。俺のスマホに『茨木律』と表示される。ラインのアイコンは本の表紙だった。
「これ、何の本?」
アイコンを指差して訊ねる。茨木は「これ」と言って先ほどまで読んでいた本を俺の方に向けた。
「げ。宮沢賢治」
「なに、その反応」
俺の拒否反応に茨木の眉が寄る。
茨木が見せてくれた本は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だ。
「俺、宮沢賢治ダメなんだよな……」
正直に言った。怒るかなと思ったけれど、茨木は「人それぞれだからね」と言っただけだ。
「怒んねえの?」
「なんで怒るの。ダメだって思ったってことは、秋野は読んだんでしょ? 読んだ上でダメだと思ったんなら、それはその時の秋野に合わなかっただけだよ」
茨木の言葉には、どこにも押しつけがましさがない。図書室の先生おすすめコーナーとは真逆だ。
銀河鉄道の夜ってどんな話? そう聞こうとした時、教室の前のドアから翔太が入ってきた。
茨木はすっと元の姿勢に戻って本を開く。
茨木なりに気を遣ったんだ、とわかって、何となく胸の真ん中に苦いものが広がった。
(……やっぱ、俺がこそこそ図書室通ってんの、茨木、気づいてんだろうな)
図書室通いを知られたくない俺は、初回から今に至るまでずっと、タイミングを見計らって図書室に顔を出している。
二度と「真面目くん」だの「アピール」だのと言われたくない、という気持ちがなかなか拭えないのだ。
「大輝、おはよ。なあなあ、今日の放課後、ゲーセン行こうぜ」
そんなことを言いながら俺に近寄ってきた翔太が、裏技試したいんだよなあ、と続けた。
「裏技ってなんだよ」と笑って応じながら、茨木の元を離れる。心臓がちょっとだけ、きゅうっと縮んだ気がした。
ネットで見たという裏技の話を嬉々として説明する翔太の声は、あんまり頭に入ってこなかった。
(マジでダセェな、俺)
茨木と親しくしていたとしても、図書室に通っていたとしても、別に誰かに咎められるようなことじゃないのに。
隠そうとしている自分が、すごく小さな人間に思えた。
翔太の話を話半分で聞きながら、茨木を肩口で振り返る。
茨木は「銀河鉄道の夜」の世界に入っていて、教室の中で茨木だけが浮かんで見えた。
適当に理由をつけて翔太の誘いを断り、放課後は図書室に向かった。
図書室に行きたいから、とは言えなかった。
翔太は素直な性格なので、断った理由を食堂の手伝いだと思い込んでいる。今はまだ、その勘違いを訂正する勇気は俺にはない。
図書室の扉を開けると、カウンターに座って作業している茨木と目が合った。
茨木は目を少し丸くして、「どうして?」と呟く。
「どうしてって?」
「ゲーセンに行くんじゃなかったの?」
どうやら聞かれていたらしい。バツが悪くて前髪をクシャクシャにした。
言い訳を口にしようとしたけれど、何を言えばいいのかわからない。
茨木はそれ以上は何も言ってこなかった。深く追求されないことにホッとして、短い息を吐く。
「ちょっと話したいこと、あんだけど」
わざと話題を変えた。茨木が眼鏡の奥で目線を上げる。
「企画、一個思いついた」
俺の言葉に茨木は、またびっくりしたみたいに目を見開いた。
「え、もう?」
カウンターに身を乗り出して、俺はガチャガチャの機体の話を茨木にした。
「それ、まだ動くの?」
「動く。昨日試しに回したら動いた。本格的なやつってわけじゃねーから、金入れて動かすんじゃなくて、専用のコイン入れて動かすやつなんだよ」
たまにファミレスなんかで見かける、お子様ランチのオマケで専用コインを入れたらオモチャが出てくる、あの手のガチャガチャだ。
「このガチャガチャの中身を、本にすんの、どう?」
「中身を?」
「カプセルに本のタイトル書いた紙を入れて回す。出た紙に書いてある本を借りる。ちょっとワクワクしねえ?」
誰かに本をおすすめされるのも悪くはないけれど、ランダムに出たカプセルの中身に従って本を借りるのは、案外楽しいんじゃないか、と考えた。
少なくとも俺なら、ちょっと回してみたいと思う。
「……悪く、ないかも」
茨木がぽつりと言った。
「だろ?」
「うん。本屋さんでもあるんだ。中身がわからない仕掛けをして販売するっていうのが」
茨木の話によれば、中身の見えない袋に店員が書いた紹介文を貼り付けて販売する、ブラインド形式の本があるらしい。
「僕も時々買うよ。普段自分では選ばないジャンルの本が入ってたりして、楽しいんだ」
茨木が少し表情を崩した。本の話をしている茨木からは、いつもの無愛想さが消えていて何だか笑ってしまう。
自分が考えた企画が好感触を得たことも嬉しい。
「でも、その機体ってもらってもいいものなの?」
「いいよいいよ、どうせ倉庫で埃被ってるだけなんだし」
「じゃあ、先生に一度話してみる」
ありがとう、秋野、と言われてちょっとドキッとした。真っ直ぐに礼を言われると戸惑ってしまう。
「茨木は何か思いついた?」
「ずっと考えてるけど……なかなか。でも、秋野のガチャのアイデアを聞いて、思いついたことがある」
「何?」
「ガチャのテーマを決めるともっといいかもって。例えば一ヶ月毎に中身を替えるんだ。今月は恋愛特集、来月は絵本特集、その次は青春特集、みたいな感じで」
中身のテーマ性にまで考えが及んでいなかった俺にとって、茨木のその提案は目から鱗と言ってもよかった。
本好きの茨木らしい提案だと思ったし、その仕様なら継続して借りてもらえる確率もぐっと上がりそうだ。
「作者別のテーマでもいいかもな」
俺が言うと、茨木は微かに口元を緩めて「賢治特集とか?」と言った。
側にあった椅子を、カウンター近くに引き寄せて座る。
「なあ、宮沢賢治って面白い?」
俺の率直な質問に、茨木はゆっくり口を開いた。
「僕は好き」
「意味わかんの?」
「? 意味って?」
「宮沢賢治の話って、意味わかんなくね?」
茨木なら茶化したりしない、という確信が、俺の中にはあった。
予想通り、茨木は笑ったり、馬鹿にしたりしなかった。
カウンターの椅子に座り、身体を俺の方に向けて、小さく咳払いをする。
「賢治の話は、小説だけど詩でもあると僕は思ってる。抽象的な話が多いし、賢治独特の造語も多いから、秋野が意味わかんないって思っても不思議じゃないよ」
茨木の声には誠実さが滲んでいた。わからないものをわからないと言っても、茨木はそれを否定したりしない。
俺が宮沢賢治の話にちょっと興味を持っても、茨木はそれを「アピール」とも「真面目くん」とも思わないのだ。
「秋野は宮沢賢治の何を読んで、苦手だなって思ったの?」
茨木になら話してもいい。その気持ちが、自然と俺の口を動かしていた。
「……『やまなし』」
ぽつりと溢すと、茨木は「ああ……」と納得の色をした声を上げる。
宮沢賢治の『やまなし』は、小学生の頃に学校の図書室で読んだ。
カニの兄弟が見る、生き物たちの世界の話で、その中にクラムボンという生き物が出てくる。
何の生き物なのかは未だにわからない。
しかもクラムボンはカプカプ笑うらしい。
「俺、あのクラムボンが何なのか全然わかんなかったんだよな。だってカプカプ笑うんだぞ? 何だよ、カプカプって。で、担任の先生に聞いたんだよ。クラムボンって何ですかって」
「そしたら、先生はなんて言ったの?」
「海の生き物。だから俺、図鑑調べたんだよ。家の図鑑には載ってなかったから、わざわざ図書館行って」
ところがどの図鑑を開いても、クラムボンという名前の生き物は載っていなかった。
そこで俺が辿り着いた結論は、「宮沢賢治の嘘つき。意味わかんねーよ」だったのだ。
茨木は俺の話を真剣に聞いていた。導き出した結論についても、笑ったりせずに聞いてくれた。
「秋野がクラムボンで悩むのは、当然かも」
「茨木もクラムボン、わかんねーの?」
「僕だけじゃないよ。世界で誰にもわからないんだ、クラムボンが何なのか」
ずっこけそうになった。宮沢賢治好きの茨木ならクラムボンの正体がわかると思ったのに。
「は? わかんねーの? マジで? 何で?」
「だってクラムボンは賢治が作った言葉だから。意味はわからないって言うのが定説」
肩から力が抜けた。
何だ、それ。そんなんアリかよ。
「いろんな人が研究したり、考察したりしてる。泡だって言う人もいるし、光だって言う人もいるし、小さな魚なんじゃないかって言う人もいるよ。それくらい自由なんだ。どう読んでもいいんだよ」
そう言われても、へー、そうですか、とはなかなか思えなかった。
長年の謎が解けないことにもモヤモヤするし、何より、「どう読んでもいい」だなんて納得いかない。
「そんなの、変だろ」
「何が?」
「だって、国語の授業では意味を教えるだろ。読書感想文だって書かせるし、この時の作者の気持ちを答えなさいってテストだって出る。それなのにどう読んでもいいなんて、変じゃねーか」
思ったことをそのまま正直に口にした。茨木を責める気持ちはなかったけど、声にちょっと棘が混ざってしまったな、と思う。
茨木は眼鏡を外してカウンターに置くと、本棚を見渡すように首を伸ばし、視線をゆっくりと室内に巡らせた。
「図書室でどう過ごすかは自由だよって言ったの、覚えてる?」
「覚えてる」
「本を読んでも読まなくてもいい、勉強してもいいし、迷惑にならないのならちょっと居眠りするくらい、何でもない。図書室はそういう場所なんだ。そこに置いてある本も、そういう存在でいいんだよ」
茨木の瞳が細くなる。
図書室を大事にしているんだな、ということが伝わってくる顔だった。
「……クラムボンが何なのか、わかんなくてもいいってこと?」
「うん。読書感想文なんて本当は書かなくてもいいんじゃないかって僕は思うよ。言語化できなくても、意味がわからなくても、心に残るものってあるから。現に秋野は宮沢賢治は苦手だ、クラムボンの意味がわからないって思って生きてきたのに、クラムボンがカプカプ笑うことは覚えてる」
それってすごいことじゃない? と茨木が続けた。
(……あ、何か……そうかもって思える、……かも)
不意にそんな考えが頭に浮かぶ。
わからないものはわからなくていい、なんて学校じゃ教えてくれない。
わからないならわかるまで考えさせられる。それでもわからないなら、答えを提示されてその「答え」を覚えさせられる。
俺にとっての学校の授業はいつもコレだ。
意味がわからなくても、答えが合っていれば点数になる。
理解したいという気持ちはなくはないけれど、そんなことより点数の方が重視されるのだから、答えを暗記することは悪いことじゃない、と思っていた。
(……だけど、図書室はそうじゃねーんだ)
ここにある本の中には、「答え」はないんだろう。
わからないことはわからないままで、わからないと答えていい。
(でも、これをもし教師や大人に言われてたら、反発したろうな、俺)
普段教えてる授業と真逆のこと言いやがって。テキトー過ぎんだろ、と悪態を吐いたかもしれない。
「……俺、図書室に来てよかったわ」
ぽつりと呟いた。
大袈裟に言って、大袈裟に捉えられたら嫌だから、わざと何でもないことのように言った。
すると茨木は「ふうん」と返してくる。
その何気なさが、俺には心地がよかった。
茨木は俺と向き合う形で座ると、俺を見て伊達眼鏡のフレームを持ち上げた。
「……で? まずは何から始めるの?」
「とりあえず、現状の把握じゃね?」
筆箱からシャーペンを取り出し、ノートに『図書室存続に向けての課題』と書く。
来年の春、図書室が廃止になることは理解できた。
そして俺と茨木は、それを阻止するために足掻けるだけ足掻くことに決めたわけだけど、具体的な案はまだ何も浮かんでこない。
それならまずは、今、図書室がどういう状況なのかを確認しておきたかった。図書委員の茨木はわざわざ確認するまでもないかもしれないけれど、未だにコソコソ通うしかない俺には必要な作業だ。
「利用者とか、何人くらい居るか把握してんのか?」
「そりゃまあね。貸出利用者は月平均で大体十人」
「十人!」
思わずでかい声を出してしまった。茨木はじろりと俺を睨むと、人差し指を口元で立てる。
「静かにして」
首を竦めて応じたけれど、茨木が言った人数の少なさに改めて愕然とした。
「……つーか、十人って。え、十人?」
あまりにも衝撃的で聞き返してしまう。茨木は「そう何度も繰り返さないでよ……」と声を落とした。
「全校生徒が確か五百人くらいだろ。それでお前、月に十人って……」
「貸出利用者だけだよ? 秋野みたいに本を借りずに利用してる人だって居るから、それを含めたらもうちょっと多いよ」
口を尖らせた茨木だったが、仮に俺を含めた「本を借りない利用者」を足したところで、倍にはならないだろう。
まさかこれほどまでに利用者が少ないとは。
(……こりゃ、廃止って言われても無理はねーかもなあ……)
俺にしても市の図書館がリニューアルで閉館にならなければ、恐らく卒業まで一度も図書室には足を踏み入れなかったと思う。
「閉鎖の一番の理由は、前にも話したけど司書の先生が来年の春から産休に入るからなんだけどさ……」
「利用者の少なさもそれに追い打ちをかけてるってわけか……」
俺の言葉に茨木は力なく項垂れた。
放課後の図書室内をぐるりと見渡す。
確かに設備の整った新しい場所とは言えないけれど、古くても綺麗だ。本棚に埃が積もってるようなこともないし、整理整頓もきちんとされている。
どこにでもある、普通の学校図書室だ。逆に言えば、目新しい何かがあるわけではないから、わざわざ足を運ぶ理由がない、と言われたらそれまでだけど。
「なあ、アレ、何?」
俺の声に顔を上げた茨木は、俺の指の先を目線で辿った。
貸出カウンター近くの棚の上に、本が二冊、飾られている。
「あれは、先生のおすすめコーナーだよ。毎月、いろんな先生に頼んでおすすめの本を選んでもらってるんだ。それをああやって紹介してる」
企画のひとつだよ、と茨木が続けた。
学校らしい企画だ、と思いながら立ち上がり、棚に近づいた。
紹介されているのは二作とも、堅苦しくて古くて難しそうな本だ。一瞬でげんなりした。手に取ってみようという気さえ起こらない。
「企画って、お前これ、集客を見込んでってことだよな?」
質問を投げかけると茨木は目をぱちぱちさせてから言った。
「集客って言い方が正しいかどうかはわからないけど、……そうだよ、少しでも利用者が増えるといいなと思って」
「コレで増えると本気で思ってる?」
茨木はバツが悪そうに目線を泳がせる。
やっぱコレじゃダメってわかってんじゃねーか。
「読みたいって気にならない?」
「なんねーよ。一ミリもなんねーよ、なんだよ、この本。どっからどう見ても、大人の説教くささが滲み出てんだろ」
はっきり言ったら、茨木も「それは、まあ……うん……」と頷いた。
「もっとこう……なんかあるだろ、何でこんな意味のないことやってんだよ。企画したの誰?」
「知らない。僕が一年生の頃から既にあったから、そのコーナー」
「絶対やめた方がいいと思うぞ、俺は。いや、別にあってもいいけど、コレで人が増えることはねーよ、断言する」
席に戻ると、茨木は腕組みをしながら俺の後ろの本棚を見つめながら口を開いた。
「じゃあ、……あの企画もやっぱりダメなのかな。だから参加者がいないのかも」
「? なに、あの企画って」
茨木は手元のファイルを開き、その中から一枚の紙を取り出す。差し出されたその紙には、『読書会のお知らせ』とあった。
「なんだ、これ」
「二ヶ月に一回やってるんだ。予め決められた課題本を読んで、放課後に図書室に集まって感想を言い合う。課題本はなるべく話題になった本とか、有名な名作を司書の先生が選んでくれるんだけど……」
言葉の最後が萎んだことで、何となく察しがつく。多分だけどこの読書会は、成功したことが一度もないんだろう。
無理もない。例え本を読むのが好きだったとしても、感想を言い合うのはちょっと……、と敬遠したくなる気持ちはわかる。
俺だって好きな本の一冊や二冊、ないわけではないけれど、それの感想をみんなで言い合おう、なんて集まりに参加しようとは思わない。
「……なぁんかさあ、ズレてんだよな、多分」
「ずれてる?」
「例えばなんだけど、おすすめコーナー作るにしても、実写化作品特集とかさ、もうちょっととっつきやすいのがあるだろ」
率直に言った。茨木も頷いて、「それは一理あるんだけどね」と返してくる。
「でも、予算も限られてるし……何より、ここは学校の図書室だから。特集や企画がある程度、勉強に因むのは仕方がないでしょ」
茨木の言っていることはよくわかった。
市の図書館ならDVDだって借りられる。その側の棚で、実写化アニメ化した原作本が紹介されているし、入ってすぐの一番目立つ場所には雑誌の最新号が並んでいて、いつも賑わっていた。
ところが図書室はそうはいかない。入り口に一番近い棚は新着図書のコーナーにはなっているけれど、中身は図鑑や昔の作家が書いた本が中心だ。
今話題の本なんてほとんどない。
(欲しいものがあるから、人が集まってくるんだよな)
それなのに図書室はその真逆だ。欲しいと思うものがない。だから利用者が月に十人しかいないんだろう。
「やっぱりまずは利用者を増やすのが先決じゃね? 利用者が増えれば廃止に反対する生徒も増えるかも知れねーじゃん」
今のところ、図書室が廃止になると知っている生徒は、俺の周りでは一人も居ない。
さりげなく翔太に聞いてみたけれど、「え、マジ? じゃあもう未亡人に逢えるチャンス、ねーの?」と返ってきただけだ。
「増やすって言ったって……、話題の本をたくさん増やしたりはできないよ」
茨木の返事に「まあ、それはそうだけど」と呟きながら、手元のスマホを操作する。
「なあ、他の学校の図書室はどんなことやってんのかな」
検索欄に『図書室 アイデア』と入力してみた。いくつかの記事がヒットする。
「あー……やっぱDVDとか充実してるとこもあるんだな」
スマホを机の上に置いて、茨木の方に向けた。茨木は眼鏡を外して覗き込む。
「ほんとだ……」
「確かにこういうのがありゃ、ちょっと立ち寄ってみるか、って気になるかもな」
「でも……」
茨木がそこで言葉を切った。少し考えるみたいに目線を落とす。しばらくしてから顔を上げた。
「でも、本当にラインナップだけの問題かな。確かにうちには話題の新刊は少ないし、メディアの貸出もないけど、利用者が少ないのはそれだけが理由じゃないよね、きっと」
もう一度、図書室の中を見渡した。茨木も同じように首を動かす。
落ち着いて本を読んだり、俺みたいにただぼーっと過ごすには最適な場所だ。自習するスペースもある。
茨木はさっき口を尖らせて、「貸出利用者以外にも来るよ」と言ったけれど、あれは負け惜しみなんかじゃないんだろう。
少ないながらも、自習している生徒や、借りずに読むだけの生徒を見かけたことがある。
「ちょっと考えてみるわ、俺」
「何を?」
「企画。確かに面白い新刊が入ってくりゃアピールにはなるけど、予算って決まってんだろ。確か……」
「年間三十万くらい」
以前も、茨木からそう聞いた。
三十万円は大金だ。だけど、高校の図書室で一年に買える本の代金、と考えたら少ないと感じてしまう。
実際、リクエストされた本を全部買うことはできない、と茨木は話していた。
「予算を増やせるわけねーんだし、それなら工夫するしかないだろ。読書会も先生おすすめコーナーも、学校の図書室ってことを考えりゃ正しいのかもしれないけど、……ま、ぶっちゃけつまんねーじゃん?」
「はっきり言い過ぎでしょ……」
「お前だって内心じゃそう思ってるくせに」
「思ってるよ」
眼鏡を掛け直しながら茨木が言う。やっぱりコイツ、そこそこ失礼だよな。俺が言うのもなんだけど。
だけど、それが俺にとっては結構よかった。
コイツがもし見た目通りのちょっと繊細なヤツなら、俺はこんなにくだけて会話できなかったかもしれない。
スマホをポケットにしまった時だ。
茨木が小さな声で「秋野」と俺を呼んだ。
「なに?」
「……気持ちは嬉しいんだけど、君は図書委員じゃない。企画考えたり、そういうの有難いよ。でも、……面倒じゃないの?」
俺を窺うような茨木の言葉に、頭を掻いてから両手を上に上げて伸びをした。
「面倒なら、最初っから廃止阻止しようぜなんて言ってねーよ」
「……そっか」
「それに、図書委員の手伝いをしてはならないって決まりごとはないだろ?」
そう言って茨木を見返すと、茨木はほんの少しだけ口元を緩めて「確かに」と言った。
「大輝ー! ご飯!」
下から母親の声がする。
俺の晩飯は店の賄いだ。子供の頃からずっとそうで、接客の合間を縫って作ってくれる。
その日の忙しさに左右されるから、時間はまちまちだ。
今日は六時半。早いタイミングで呼ばれたな、と思った。
階段を降り、厨房に続く扉を開ける。手前の台の上にトレーに乗った晩飯があった。
手を伸ばした時、野菜の仕込みをしていた母親が言った。
「あんた、今日遅かったね」
放課後、茨木と図書室で作戦会議をしていたせいで、いつもより少し遅くなってしまったのは事実だ。
「翔太くんとゲーセン?」
「……まあ、そんなとこ」
適当に誤魔化すことにした。図書室の話をするつもりはない。
「勉強もちゃんとしなさいよ、もう高校二年なんだからね」
「わかってるって」
飯の前に聞きたい話じゃない。飯の前じゃなくても聞きたくないけれど。
トレーを持ち上げ、踵を返す。さっさと逃げた方がいい。
「あー、待って、大輝」
「なんだよ……」
うんざりしながら足を止めて振り返る。
「あんた、スマホで課金なんかしてないわよね?」
いきなり話が飛んだので眉根が寄った。
「何の話だよ」
「それがねえ……」
声のボリュームを落として続ける。
「酒屋の松本さんとこ、この春、息子さんが小学生になったばっかりなんだけどね」
酒屋の松本さん、というのは、商店街の端っこにある「松本酒店」の店主のことだ。うちの食堂の常連の一人で、奥さんと一人息子をつれて土日のどちらかは必ず食べに来てくれる。
でかい声でよく笑う、気のいいおじさんという印象だ。
「お母さんのスマホでゲームをやってて、課金しちゃったんだって」
「へー……」
特に興味のない話だ、と思って気のない返事を返したら、母親はもう一段、声を潜めて耳打ちしてくる。
「五十万円」
「ご……!」
思わず絶句した。母親はわけ知り顔でうんうん頷きながら、「クレジットカードが紐付いてたらしいのよね」と溢す。
「返金してもらえないか交渉したらしいんだけどダメだったんだって。大輝、あんた、課金なんかしてないわよね?」
「してねーよ。そもそも俺、スマホでゲームやらねーし」
「それならいいけど。アイテム? かなんかがガチャガチャでランダムで出てくるらしいのよ。当たりが出るまで何回もやっちゃったんだって」
翔太がやってるのを見たことがあった。俺はデジタルのデータに課金するという発想がないので、ゲームアプリには疎い。
俺がやるのはゲーセンのアーケードゲームか、ソフトを購入してプレイするテレビゲームだけだ。
「五十万なんてほんと怖いわよねえ」とか何とか言いながら、洗い場に戻っていく母親に背を向けて階段を上がった。
部屋で飯を食いながら、五十万円という額の大きさを改めて考える。
(一年で三十万しか予算がないって話の後に聞くと、何とも言えねーな……)
ああいうガチャって上限とかあんのかな。クレーンゲームなら天井があったりするけど。
そんなことを考えながら箸を動かしていた時、不意に頭に浮かんだ。
(……そうだ……、アレ使えんじゃね?)
急いで残りを掻き込み、トレーを持って階段を駆け下りる。
「なあ、アレまだある?」
皿を洗っていた母親に話しかけた。
「アレってなによ」
「店の前に置いてた、ガチャガチャの機体」
「裏庭の倉庫にあるけど」
靴を履き、裏の勝手口から外に出る。倉庫の扉を開けると、中のライトがセンサーでパッとついた。
親父の釣り道具や、俺が子供の頃に使っていたボールや縄跳びなんかが置いてある。
その中のひとつに、目当ての物はあった。
古いガチャガチャの機体だ。重さを覚悟して持ち上げたのに、思っていたよりずっと軽い。
倉庫から引っ張り出すと意外なほど小さかった。
このガチャガチャは食堂のレジ横に以前置いてあったものだ。
親父が知り合いから譲り受けた物で、カプセル入りのオモチャも入っていた。中身がなくなるまで、店頭に飾ってあって、子ども連れのお客さんたちが楽しんでいた。
(茨木に連絡……)
スマホを部屋に置いてきたことを思い出すと同時に、茨木の連絡先を知らないことも思い出した。
ふと笑いが込み上げる。これから一緒に図書室廃止を阻止しようというのに、まさか連絡先さえ知らずにいたとは。
翌朝、教室に着くと既に茨木は自分の席に座って本を読んでいた。
図書室で話をするようになったものの、教室ではまだ話しかけたことはない。茨木から話しかけてくることもなかった。
幸い翔太はまだ来ていない。何気ない風を装って、茨木に近づく。隣に立つと茨木が顔を上げて俺を見た。
「……おはよう」
意外なことに茨木からそう言ってくれた。俺も「おはよ」と返す。
それからスマホを取り出して、茨木と目を合わせた。
「なあ、連絡先、交換しようぜ」
「……いいけど」
茨木は読んでいた本を閉じるとカバンからスマホを取り出した。カバーのついていない、シンプルなスマホだ。茨木っぽいなと思った。
スマホをかざして連絡先を交換した。俺のスマホに『茨木律』と表示される。ラインのアイコンは本の表紙だった。
「これ、何の本?」
アイコンを指差して訊ねる。茨木は「これ」と言って先ほどまで読んでいた本を俺の方に向けた。
「げ。宮沢賢治」
「なに、その反応」
俺の拒否反応に茨木の眉が寄る。
茨木が見せてくれた本は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だ。
「俺、宮沢賢治ダメなんだよな……」
正直に言った。怒るかなと思ったけれど、茨木は「人それぞれだからね」と言っただけだ。
「怒んねえの?」
「なんで怒るの。ダメだって思ったってことは、秋野は読んだんでしょ? 読んだ上でダメだと思ったんなら、それはその時の秋野に合わなかっただけだよ」
茨木の言葉には、どこにも押しつけがましさがない。図書室の先生おすすめコーナーとは真逆だ。
銀河鉄道の夜ってどんな話? そう聞こうとした時、教室の前のドアから翔太が入ってきた。
茨木はすっと元の姿勢に戻って本を開く。
茨木なりに気を遣ったんだ、とわかって、何となく胸の真ん中に苦いものが広がった。
(……やっぱ、俺がこそこそ図書室通ってんの、茨木、気づいてんだろうな)
図書室通いを知られたくない俺は、初回から今に至るまでずっと、タイミングを見計らって図書室に顔を出している。
二度と「真面目くん」だの「アピール」だのと言われたくない、という気持ちがなかなか拭えないのだ。
「大輝、おはよ。なあなあ、今日の放課後、ゲーセン行こうぜ」
そんなことを言いながら俺に近寄ってきた翔太が、裏技試したいんだよなあ、と続けた。
「裏技ってなんだよ」と笑って応じながら、茨木の元を離れる。心臓がちょっとだけ、きゅうっと縮んだ気がした。
ネットで見たという裏技の話を嬉々として説明する翔太の声は、あんまり頭に入ってこなかった。
(マジでダセェな、俺)
茨木と親しくしていたとしても、図書室に通っていたとしても、別に誰かに咎められるようなことじゃないのに。
隠そうとしている自分が、すごく小さな人間に思えた。
翔太の話を話半分で聞きながら、茨木を肩口で振り返る。
茨木は「銀河鉄道の夜」の世界に入っていて、教室の中で茨木だけが浮かんで見えた。
適当に理由をつけて翔太の誘いを断り、放課後は図書室に向かった。
図書室に行きたいから、とは言えなかった。
翔太は素直な性格なので、断った理由を食堂の手伝いだと思い込んでいる。今はまだ、その勘違いを訂正する勇気は俺にはない。
図書室の扉を開けると、カウンターに座って作業している茨木と目が合った。
茨木は目を少し丸くして、「どうして?」と呟く。
「どうしてって?」
「ゲーセンに行くんじゃなかったの?」
どうやら聞かれていたらしい。バツが悪くて前髪をクシャクシャにした。
言い訳を口にしようとしたけれど、何を言えばいいのかわからない。
茨木はそれ以上は何も言ってこなかった。深く追求されないことにホッとして、短い息を吐く。
「ちょっと話したいこと、あんだけど」
わざと話題を変えた。茨木が眼鏡の奥で目線を上げる。
「企画、一個思いついた」
俺の言葉に茨木は、またびっくりしたみたいに目を見開いた。
「え、もう?」
カウンターに身を乗り出して、俺はガチャガチャの機体の話を茨木にした。
「それ、まだ動くの?」
「動く。昨日試しに回したら動いた。本格的なやつってわけじゃねーから、金入れて動かすんじゃなくて、専用のコイン入れて動かすやつなんだよ」
たまにファミレスなんかで見かける、お子様ランチのオマケで専用コインを入れたらオモチャが出てくる、あの手のガチャガチャだ。
「このガチャガチャの中身を、本にすんの、どう?」
「中身を?」
「カプセルに本のタイトル書いた紙を入れて回す。出た紙に書いてある本を借りる。ちょっとワクワクしねえ?」
誰かに本をおすすめされるのも悪くはないけれど、ランダムに出たカプセルの中身に従って本を借りるのは、案外楽しいんじゃないか、と考えた。
少なくとも俺なら、ちょっと回してみたいと思う。
「……悪く、ないかも」
茨木がぽつりと言った。
「だろ?」
「うん。本屋さんでもあるんだ。中身がわからない仕掛けをして販売するっていうのが」
茨木の話によれば、中身の見えない袋に店員が書いた紹介文を貼り付けて販売する、ブラインド形式の本があるらしい。
「僕も時々買うよ。普段自分では選ばないジャンルの本が入ってたりして、楽しいんだ」
茨木が少し表情を崩した。本の話をしている茨木からは、いつもの無愛想さが消えていて何だか笑ってしまう。
自分が考えた企画が好感触を得たことも嬉しい。
「でも、その機体ってもらってもいいものなの?」
「いいよいいよ、どうせ倉庫で埃被ってるだけなんだし」
「じゃあ、先生に一度話してみる」
ありがとう、秋野、と言われてちょっとドキッとした。真っ直ぐに礼を言われると戸惑ってしまう。
「茨木は何か思いついた?」
「ずっと考えてるけど……なかなか。でも、秋野のガチャのアイデアを聞いて、思いついたことがある」
「何?」
「ガチャのテーマを決めるともっといいかもって。例えば一ヶ月毎に中身を替えるんだ。今月は恋愛特集、来月は絵本特集、その次は青春特集、みたいな感じで」
中身のテーマ性にまで考えが及んでいなかった俺にとって、茨木のその提案は目から鱗と言ってもよかった。
本好きの茨木らしい提案だと思ったし、その仕様なら継続して借りてもらえる確率もぐっと上がりそうだ。
「作者別のテーマでもいいかもな」
俺が言うと、茨木は微かに口元を緩めて「賢治特集とか?」と言った。
側にあった椅子を、カウンター近くに引き寄せて座る。
「なあ、宮沢賢治って面白い?」
俺の率直な質問に、茨木はゆっくり口を開いた。
「僕は好き」
「意味わかんの?」
「? 意味って?」
「宮沢賢治の話って、意味わかんなくね?」
茨木なら茶化したりしない、という確信が、俺の中にはあった。
予想通り、茨木は笑ったり、馬鹿にしたりしなかった。
カウンターの椅子に座り、身体を俺の方に向けて、小さく咳払いをする。
「賢治の話は、小説だけど詩でもあると僕は思ってる。抽象的な話が多いし、賢治独特の造語も多いから、秋野が意味わかんないって思っても不思議じゃないよ」
茨木の声には誠実さが滲んでいた。わからないものをわからないと言っても、茨木はそれを否定したりしない。
俺が宮沢賢治の話にちょっと興味を持っても、茨木はそれを「アピール」とも「真面目くん」とも思わないのだ。
「秋野は宮沢賢治の何を読んで、苦手だなって思ったの?」
茨木になら話してもいい。その気持ちが、自然と俺の口を動かしていた。
「……『やまなし』」
ぽつりと溢すと、茨木は「ああ……」と納得の色をした声を上げる。
宮沢賢治の『やまなし』は、小学生の頃に学校の図書室で読んだ。
カニの兄弟が見る、生き物たちの世界の話で、その中にクラムボンという生き物が出てくる。
何の生き物なのかは未だにわからない。
しかもクラムボンはカプカプ笑うらしい。
「俺、あのクラムボンが何なのか全然わかんなかったんだよな。だってカプカプ笑うんだぞ? 何だよ、カプカプって。で、担任の先生に聞いたんだよ。クラムボンって何ですかって」
「そしたら、先生はなんて言ったの?」
「海の生き物。だから俺、図鑑調べたんだよ。家の図鑑には載ってなかったから、わざわざ図書館行って」
ところがどの図鑑を開いても、クラムボンという名前の生き物は載っていなかった。
そこで俺が辿り着いた結論は、「宮沢賢治の嘘つき。意味わかんねーよ」だったのだ。
茨木は俺の話を真剣に聞いていた。導き出した結論についても、笑ったりせずに聞いてくれた。
「秋野がクラムボンで悩むのは、当然かも」
「茨木もクラムボン、わかんねーの?」
「僕だけじゃないよ。世界で誰にもわからないんだ、クラムボンが何なのか」
ずっこけそうになった。宮沢賢治好きの茨木ならクラムボンの正体がわかると思ったのに。
「は? わかんねーの? マジで? 何で?」
「だってクラムボンは賢治が作った言葉だから。意味はわからないって言うのが定説」
肩から力が抜けた。
何だ、それ。そんなんアリかよ。
「いろんな人が研究したり、考察したりしてる。泡だって言う人もいるし、光だって言う人もいるし、小さな魚なんじゃないかって言う人もいるよ。それくらい自由なんだ。どう読んでもいいんだよ」
そう言われても、へー、そうですか、とはなかなか思えなかった。
長年の謎が解けないことにもモヤモヤするし、何より、「どう読んでもいい」だなんて納得いかない。
「そんなの、変だろ」
「何が?」
「だって、国語の授業では意味を教えるだろ。読書感想文だって書かせるし、この時の作者の気持ちを答えなさいってテストだって出る。それなのにどう読んでもいいなんて、変じゃねーか」
思ったことをそのまま正直に口にした。茨木を責める気持ちはなかったけど、声にちょっと棘が混ざってしまったな、と思う。
茨木は眼鏡を外してカウンターに置くと、本棚を見渡すように首を伸ばし、視線をゆっくりと室内に巡らせた。
「図書室でどう過ごすかは自由だよって言ったの、覚えてる?」
「覚えてる」
「本を読んでも読まなくてもいい、勉強してもいいし、迷惑にならないのならちょっと居眠りするくらい、何でもない。図書室はそういう場所なんだ。そこに置いてある本も、そういう存在でいいんだよ」
茨木の瞳が細くなる。
図書室を大事にしているんだな、ということが伝わってくる顔だった。
「……クラムボンが何なのか、わかんなくてもいいってこと?」
「うん。読書感想文なんて本当は書かなくてもいいんじゃないかって僕は思うよ。言語化できなくても、意味がわからなくても、心に残るものってあるから。現に秋野は宮沢賢治は苦手だ、クラムボンの意味がわからないって思って生きてきたのに、クラムボンがカプカプ笑うことは覚えてる」
それってすごいことじゃない? と茨木が続けた。
(……あ、何か……そうかもって思える、……かも)
不意にそんな考えが頭に浮かぶ。
わからないものはわからなくていい、なんて学校じゃ教えてくれない。
わからないならわかるまで考えさせられる。それでもわからないなら、答えを提示されてその「答え」を覚えさせられる。
俺にとっての学校の授業はいつもコレだ。
意味がわからなくても、答えが合っていれば点数になる。
理解したいという気持ちはなくはないけれど、そんなことより点数の方が重視されるのだから、答えを暗記することは悪いことじゃない、と思っていた。
(……だけど、図書室はそうじゃねーんだ)
ここにある本の中には、「答え」はないんだろう。
わからないことはわからないままで、わからないと答えていい。
(でも、これをもし教師や大人に言われてたら、反発したろうな、俺)
普段教えてる授業と真逆のこと言いやがって。テキトー過ぎんだろ、と悪態を吐いたかもしれない。
「……俺、図書室に来てよかったわ」
ぽつりと呟いた。
大袈裟に言って、大袈裟に捉えられたら嫌だから、わざと何でもないことのように言った。
すると茨木は「ふうん」と返してくる。
その何気なさが、俺には心地がよかった。

