君の放つアルテミスの矢が、僕の胸を貫いた

 
「そこにいるの、天野くんだよね?」
 夕闇を切るような呼びかけに僕は振り返った。
 凛とした声が、静かに流れていく矢川の向こう岸へと通り過ぎていく。見上げると、堤防の上で立ち止まる人影があった。沈んでいく太陽がその輪郭をオレンジ色に滲ませている。
 視界がぼやけて、顔が見えない。
 十一月は陽が落ちるのが早い。いつの間に冬が近付いていたのか、先月の運動会に半袖でも暑かったのが嘘みたいだ。
「……そうだけど、誰?」
 返事すると、川面から僕を撫でるように冷たい風が吹いた。河川敷にいる僕を見下ろすスカートが揺れている。
 矢川中(うち)の女子の制服だ。ぼんやりとしていた焦点が少しずつ合っていくと、髪は顎よりも高い位置に切りそろえられ、スカートのプリーツが揺れると素足の白さが覗く。
「もしかして……、望月、か?」
「え、今やっと分かったの?」
 人影の正体はクラスメイトだった。土手の斜面をスカートの裾を翻しながら、軽やかに駆け下りるなり、僕の方へ向かってくる。
「暗いし、逆光だったから見えにくくて」
「一人? 何しているの?」
 市立矢川中学校の名前の通り、校舎脇に沿って流れている矢川は舗装された堤防には桜の木が連なったジョギングコース、河川敷には野球グラウンドまで整備され、春には夏にはバーベキューや花火をする人達で賑やかになる。でも寒空の下、中学の奴等はおろか犬の散歩する人すら見当たらない。河原には僕しかいなかった。
「天野くん、こんな所にいて寒くない? 何の用?」
 見れば向こうも一人だった。
「いや、別に。そっちこそ、こんな遅い時間に河原に来るなんて」
「ここだと良く見えるから」
 教室以外で会うとは思わず、つい早口になった僕の返事を気にもせずに望月は草むらを抜けて僕の方へと近づいてきた。ようやく顔が見えると、華奢な顎を、くい、と持ち上げた望月は背伸びをすると、鼻先で空を指す。
「星」
「……え?」
「てんたいかんそく」
 聞き間違えかと思った。
 つい数時間前、二年四組の廊下側の席で頬杖をついている望月は死んだ魚のような目をしていた。その姿とロマンチックな答えとのギャップは海のように遠く、「てんたいかんそく」が「天体観測」だと脳内で漢字変換されるのに時間がかかった。
「天野くんも、ほら!」
 有無を言わさない態度で、望月が僕の左腕を軽く引っ張る。最近また窮屈になった学ランの袖にかかる手を払うことができず、つられて空を仰ぐ。
 いつの間にか陽は暮れ、頭上の空は矢川の底よりも深い群青色に変わっていた。雲ひとつない。濃紺の絨毯を広げたような夜空にじっ、と目を凝らしていると、ようやくチラチラと散らばる光が視界に飛び込んでくる。
 星だ。
 星が、紺碧の空に溢れかえっている。
「……ほんとだ。すげぇ」
 毎晩来ているのに、見上げたことなんてなかった。
 視界を横断する矢川もすっぽりと覆っていしまう夜のドーム、その至る所で星が輝いている。大きい星、それに寄り添うような小さな星もあった。その中でも東の低い位置に、三粒の星が横並びしているのが目に入った。昔、理科の教科書で見た記憶がある。
「あれ、何だっけ。三つ並んでるやつ」
「ミンタカ、アルニラム、アルニタクのこと?」
「……ごめん、何て?」
「馬頭星雲?」
「ば、ばとう?」
「それともM(メシエ)43? M42?」
「……ごめん。何言ってんるのか全然理解出来ないんだけど……」
 宇宙人と喋っている気分になっている僕に一瞬黙り込むと、今度は望月が恐る恐る質問してくる。
「もしかしてオリオン座のこと?」
「そうだ! それ!」
 やっと知っている名前に胸のつかえが降りる。
 水平に並んだ三つの星を中央にした砂時計のような形で、その上下の対角線上に一際明るい星が囲んでいる。天頂に近い左側の星が赤みがかっている一方、地面近い右下の星は青白い。オリオン座を形作るそれらは周りの星よりも眩しくて、改めて目を奪われる。
目立つ星座だ。
「言われてみれば、小学校の授業で習ったかも」
「冬の星座のうちでも基本中の基本だよー? 見つけるのも時間かかってたし」
 望月の呆れた声が耳に突き刺される。僕は昔から理科が苦手だし、何より視力が悪いのだから仕方ない。
「その感じだと、天野くんは星を見ていたわけじゃないんだよね? 自主練……、って感じでもないよね」
 望月とは、今年初めて一緒のクラスになった。教室では勉強も運動も普通ぐらいの成績で、身長が高い以外は、大人しいタイプで目立たない。クラスメイトから話しかけられれば明るく会話しているのを見かけるが、自分から率先して交流するほどでもない。
 それが嘘みたいに饒舌だ。
 自分の会話量のキャパが一気にオーバーした僕は、話を逸らすのが面倒くさくなる。
「望月には関係無いだろ」
 声変わりしたばかりの自分の声は低く、冷たく響いた。
 ――しまった。
 慌てて顔を上げると、いつの間にか望月は左隣に並んで立っていた。
 僕の肩ぐらいの位置にサッカーボールよりも小さい頭がある。ショートカットの真っ黒な髪が風に揺れ、白い首を必死に伸ばして夜空を眺めている。
「オリオン座と言えば、今夜はプレアデス星団もよく見えるなぁ。さすが等級1.6のメシエ天体! アルキオネ、エレクトラ、マイア、タイゲタ、ケラエノ、アステローペ、姉妹がお喋りしているみたい! 末っ子のメロペーも見えそう」
 僕の話聞いてなかったのかな……。
 聞いたこともない言葉をまたブツブツと呟き始め、すっかり天体観測に夢中な様子だ。思わずつられて僕も再び空を仰ぐ。夜目に慣れてきたのか、さっきよりも沢山の星を見つけることが出来た。
「もしかして、望月が言っているのってオリオン座の右側のやつ? キラキラしたのが集まっている」
「そう、あれがプレアデス星団! 特に目立つ七つ星があるでしょ? これが姉妹でオリオンから逃げている、って言われてるの。そんな乙女達を守るためにプレアデス星団は牡牛座の背中部分にあって、牛の両角を構えてオリオンに向かい合っているところだよー」
「え、牡牛座って、占いに出てくるやつか?」
 オリオン座をしっかり捉えた僕は、その右上から迫るような青白く発光する塊を見つける。幾つも集まった星達の存在を認識した途端、河川敷向こうの家々の灯りがみすぼらしく思えるほど眩しい。ただ正直、牛の形には全く見えない。
「あはは。確かにあれが牛の形に見えるとか古代ギリシャ人って想像力豊かだよね。プレアデス星団は和名だと、すばる、って言うんだよ」
「あ、それは聞いたことあるかも……、親戚のおじさんがカラオケで熱唱してた」
 すると望月はまた苦い顔しながら「それも昴だね」と付け足すように笑った。
「あれは? 牡牛座の逆、オリオン座の左側の下、明るく白いやつ」
「シリウス。聞いたこと……ないよね? おおいぬ座の一等星でオリオンの猟犬って言われているんだよ。オリオン座の左上の赤い星がベテルギウスって言うんだけど、ベテルギウスと同じ高さの左側にも明るい星があるでしょ? それがこいぬ座のプロキオン。どっちも太陽の何倍もの大きさの天体。その三つを結んだのが冬の大三角形って言うの。聞いたことない?」
 望月の指差す方角へと視線を運ぶと、その通り、秋空に大きな三角形が現れた。
「本当だ」
 寒くて縮こまっていた背筋を伸ばし、見つけた星と星を点と点のように結んでみる。
 綺麗だな、と僕は素直に認める。
 秋の夕方はあっという間に太陽を飲み込み、土手のアスファルト道路も、その向こうの中学校の校舎も住宅も闇に染め、地平線の上半分を正確にコンパスで描いたように空を半円に切り抜いている。その西側で、少しだけ欠けた丸い月が煌々と輝いていた。
「すごいな……。こんなに星座ってちゃんと見付けられるんだ。それに月もくっきり見える」 
「綺麗でしょ? 望遠鏡で覗いたらクレーターも見えるんだよ。地上から離れたものを見るのもたまには良いもんだよ」
 何故か得意げな望月の声は、川辺を通り抜ける秋風に似て澄んでいた。
 微かな可能性が僕の頭を横切る。
 ⋯⋯もしかして、わざと話を逸らしてくれたのかな。
 そっと盗み見すると、空の天辺(てっぺん)に届こうとばかりに姿勢をまっすぐに伸ばし、夜空に吸い込まれそうな横顔は僕に興味などなさそうだ。
 気のせいか。
 一人になりたくて、河原に逃げてきた僕とは違う。
 同じように背筋を伸ばす。
 群青から黒のグラデーションに染まる半円を前にすると、自分は地球の上にいるんだな、とまた馬鹿にされそうな当然のことを実感する。宇宙空間を軌道から外れることなく廻っていると考えると、不思議だ。
 ゆらゆらと地球に揺られながら僕はここに立っている。
 ――いや、一人、じゃないのか。今は、望月と二人で立っている。
「悪くないな。天体観測ってのも」
「じゃあ、星座、教えてあげよっか?」
 僕の名前を呼んだ時と同じ、迷いのない声だった。
「天野くん、星座のこと全然知らないんだもん。教え甲斐がありそう」
「……僕、視力も記憶力にも自信ないんだけど」
「だからだよ、私が教えてあげる。特別に家庭教師になってあげる」
「え、それって……、どういう意味」
 返事に窮したその時、僕達の間を風が通り抜け、望月の前髪が巻き上がった。
 大きな瞳が僕をまっすくに見ている。
 月の光を反射した瞳が夜行動物のように瞬き、僕を捕え、星座にピントを合わせていた僕の視界は急に顕微鏡を覗かされたみたいに距離感覚が狂いそうになる。
「えっ、と……」
「決まり! 天野くん、さっきもすごく反応良かったし、良い生徒になりそう」
 やっぱり自信満々だ。望月はとっておきの秘密基地を教えてくれた友達みたいに無邪気だ。
「それにさ、天野くんも夜空眺めていたら、大概のことなんてどーでも良くなるよ。きっと」

 一人きり、サッカー部を抜け出して来た僕に、鈴を鳴らすような明るい声が流れ星のように降ってきた。
 その夜から、望月と僕の二人だけの天体観測が始まった。

   ☆ ☆