週明けの空は朝から雲に覆われていた。
基本、学校の無い日は矢川に行っていない。望月と約束をしたことは無いけど、呼吸で何となく伝わっていた。
望月、大丈夫かな。
先週の金曜日は寒さが一段と増し、屋外で逃げ場のない河原でコンコンと何度も咳き込むのを心配すると、
「しし座流星群を目撃するためにも風邪なんか引いてられないよー!」とドヤ顔され、「先生無しじゃ授業にならないよ」と呆れながらも笑い返した。
大丈夫だといいな、と四組の教室へと歩いていると、
「⋯⋯あ、あ、天野くん⋯⋯!」
薄暗い廊下の向こうから近藤が慌てて駆け寄ってきた。大きな黒縁の眼鏡が鼻からずれ落ちている。二年になってからクラスの男子の中で一緒に過ごすことが多いが、大人しい近藤がこんなに動揺しているのは初めてだ。
「おはよ。どうした、何かあったのか?」
「た、大変なんだよ、天野くん……。取りあえず、教室には入らないほうが――」
「来た来た、アマぁ! さすがにこれはやり過ぎだってぇ」
すると突然、背後から無理やり近藤が抱き寄せられる。佐々木だ。すると、四組の教室からつるんでいる奴等も出てきて、顔をニヤつかせながら近づいてくる。ひらひらと顔の横で白い紙かざすと数名で回し読みを始め、「うわぁ」とか「ひでぇな」と芝居がかった遣りとりに、それが何か僕はすぐに分かった。
「さっきから天野くんのこと何度も言ってて……、それに、米倉くんが⋯⋯」
動揺しながらも近藤が僕に耳打ちしようとするのを遮り、
「あー、俺が何だって? 近藤。ピーピー言ってて聞こえないなぁ」
教室後方のドアから着崩した学ラン姿の米倉が現れ、わざとなのか妙にゆっくりとこっちに向かってくる。
「そ、その……」
「てか、眼鏡ずれてんぞ。相変わらずダセェなー」
「あ、俺、分かっちゃったかもー! いつもつるんでるアマが浮気して近藤淋しいんじゃねぇの?」
「きゃー、天野くん、男にもモテモテー」
小学生でもしない低レベルな揶揄いに、必死で僕に何かを伝えそうとしていた近藤がますます萎縮すると、抵抗虚しく米倉に羽交い締めされた。
「ち、ちが⋯⋯僕は」
声が震えている。今にも泣きそうだ。
「僕に用があるんだろ、近藤から離れろよ!!」
ドスの効いた低い声が廊下の端から端。まるで大人の男の人が威嚇するみたいに僕は喉の奥底から絞り出していた。脇からホールドしていた米倉の腕を剥がし、近藤が解放されるなり僕の背後に隠れるのを確認してほっとする。
僕に言い返されると思っていなかったのか、米倉達はぎょっとして立ち竦んだままだ。
「これが何だって言うんだよ」
油断している隙に紙きれを奪うと、案の定、それは男子の間で回っていたあの紙だった。『女子の誰とヤリたいか』という下品な無記名投票。まだやっていたのか、と呆れて突き返そうとした瞬間、真新しい筆跡を見つけた。
『ガードゆるい、簡単にやれそう』。
急いで書きたしたのか右斜めの文字の末尾には僕の名前。そこから矢印が引かれ、女子の名前が挙げられている。望月の名前がそこにあった。
何だ、これ⋯⋯?
自分の手に回ってきた時、無言での牽制のせいで捨てそびれてしまった。その後は回覧されるなくて気にも留めなかった。僕の背後でおどおどしたまま固まる近藤に「教室戻ってろよ」と告げて見送ると、
「望月とかアマも意外なとこ狙うんだなぁ? モテる奴はやっぱ違うねぇ、サッカー練習はそこそこに切り上げるくせにな」
「柘植さん可哀想だなー、クリスマス会に来て激励してくれるって言うのに、あっさり愛人作られちゃって。あ、それならやっぱこっちは遊びか」
「三組の女子にも手ぇ出してたじゃん。委員会の帰り利用してさ、三股かよー」
「近藤も入れて四股の間違いじゃねぇの?」
怯んだもののすぐに米倉達は調子を戻した。ひゃはは、と下卑た笑いが耳障りだ。許せない。
「ふざけるな!!」
陽の当らない廊下に、声変わりを終えたばかりの僕の声が反響する。四組の教室にいた一部の女子達が異変を察知して顔を出した。
そうだ、望月は……!
僕は焦って教室に入り、窓際を探す。そこに天使の輪を被ったショートカットは居なかった。
良かった⋯⋯。
登校前か休みか、いずれにせよ、まだこの騒ぎに望月を巻き込まずにいると分かって安堵する。すると、渦中の僕を怪訝そうにクラスメイト達が耳打ちしはじめた。
「嘘、今の天野くん? 怖いんだけどー」
遠巻きにこちらを窺ってくる噂好きの女子達も、廊下から顔を覗かせる他クラスの同級生も皆、焦点が合わない。どの顔もお面みたいに平坦だ。
どうして、僕が書いていない僕の署名と望月の名前が書かれてるのか、意味が分からない。靄がかかったように頭が混乱する。立ち籠めたままぐちゃぐちゃに思考をかき混ぜて重くのしかかり、心を真っ黒に染めようとする瞬間、僕は理解した。
――悪意だ。
