その紙は、国語の時間に回って来た。
宛先も送り主もないノートの切れ端だ。どこからか突然沸いてきたように、僕は教室の最後尾の席でそれを受け取る。
座席は先週変わったばかりだった。
恒例の席替えのくじ引き前に、とある匿名の要望が担任の元に届いたらしい。いつも、生徒主体を尊重する、と学級委員の柘植さんに頼みきりで、ホームルームの冒頭でその手紙をさらっと読み上げた。
「『身長の高い天野が前の方に座ると、黒板が隠れて見えにくい』って意見が来てたぞ。学級委員、これも含めて席替え決めるようになー」
担任はそれだけ言って教壇を柘植さんに譲り、自分はオブザーバーだ、と言って教室の端に退いた。
「確かにアマがいるとよく見えねぇんだよなー! 背が高過ぎんだよー」
最初に声を上げたのは米倉だった。当然、佐々木達のグループ五、六人が同調すると、他のクラスメイトが無言を貫く中で柘植さんが僕を庇った。
「でも、天野くんが前列に座っているのは目が見えにくいからで」
「何、柘植、天野くんのことは庇うよねー? 体育祭実行委員で一緒になってから大胆じゃないー?」
すると今度は、少し柄の悪いグループの女子がくすくすと笑い出した。
「私は天野くんが困るんじゃないか、って心配なだけで!」
「天野くーん、見えにくいなら私のノート見せるから隣にいっていいー?」
「あんたこそ狙ってるじゃん」
「天野くんモテモテー。これならどこの席でもいいんじゃないのー」
「おい、静かに。早く決めなさい」
ようやく担任がその場を止めたが収拾がつきそうもなかった。湧く嬌声と、それに重なるひやかし。それよりも僕は、それ以外の教室の大多数から受ける僕への無言の視線の方が重く感じた。
望月の天体講義を受ける前までは知らなかったけど、それは宇宙の四分の一を占め、重力を持つ物資でありながらも光では観測できない暗黒物質みたいだった。
「大丈夫です。僕、後ろの席でも」
「でも、天野くん、事故以来見えにくいって」
遮る柘植さんに僕は首を振った。
「最近はそんなに支障無いから。手術したばかりの頃を思えば見えるようになったし、移動するよ」
机の中の教科書類を自分のカバンに詰め込み、僕は席を立って移動する。
見えるようになったなんて、嘘だった。だけも、影でとやかく言われるくらいなら、最初から決められている方がよっぽど楽だ。
いざ移動すると、廊下側の最後尾の席は米倉達もわざわざ振り返るのが面倒なのか、流石に授業中にいじってくることが減った。居眠りしても見つかりにくくて一石二鳥だった。
十二月に入ったばかりの月曜日、五時間目の国語の授業中に突然、その紙は僕に回ってきた。
『男子全員! 女子にはぜってぇ秘密。バラしたらシメる』
物騒な文章だ。特定のあて先の無い、男子限定の回覧板のようなものだ。筆跡鑑定できそうもない汚い文字。開いた紙面には、その字面よりももっと汚い言葉が並んでいた。
『女子の誰とヤリたいか全員投票~~~!!!』
語尾にはビックリマークが踊っている。その文言の下には、勢いで書いたのだろう文字がまばらに続いているのが目に入る。すると、僕が開いた数秒後、クスクスと小さな笑い声が上がった。中年女性の国語教師が黒板に和歌を書き連ねる中、ばれない程度に黒い学ランの肩が幾つも揺れている。米倉は勿論、波が起きるようにクラス半数近くの男子が含まれていた。
ヤリたい。
その意味を僕はもちろん理解していたし、この前の体育の時間、走り幅跳びをする女子の体型を品定めしていたように、男子のほぼ全員の最大関心事なのは分かっているつもりだった。
だれど、様々な筆跡でクラスの女子の名前を連ねた匿名の文字は、欲望を垂れ流しするように生々しい言葉を書き加えていた。
『胸でかい。揉みてぇ』
『俺は尻フェチだからこいつに一票』
『こいつ、先輩とできてる。俺にもヤらせろ』
……気持ち悪い。弁当で食べたばかりの生姜焼の味がむかむかと喉をせり昇ってくる。
筆圧の強い文字は佐々木だろう。漢字ミスに気付いてないのは多分あいつ、米倉のは意外にも見当たらない。
くだらない。
即座に紙切れを握りつぶし、ゴミ箱に捨てようと振りかざしたその時、視線を感じて顔を上げた。振り返った何人かと目が合う――牽制だ。
「あっ」
一瞬のことだった。僕の隙を見計らうように、右斜め前の奴に僕の掌から紙切れを奪れ、思わず声が漏れる。
「天野くん? 何か質問かしら?」
すかさず国語の先生が僕を指してくる。
「⋯⋯すみません。何でもない、です」
「そう、授業中は静かにね。――はい、この“有明の つれなく見えし 別れより”と言うのは、後朝(きぬぎぬ)の別れを考えれば分かるように⋯⋯」
座り悪いまま僕が着席すると、わざとらしいくらい黒い波は引いていた。誰もが知らん顔する中、斜め左に座る近藤が控えめに振り返り、眼鏡の奥から心配そうに“だいじょうぶ?”と窺ってきたので、黙って頷く。
後味の悪さを拭いきれないまま、視線を逸らす。――ふと、近藤の二つ前、窓際で静かに俯く望月の後ろ姿が目に入った。
名前、書かれてなかったよな……。
紙切れを見たのは瞬間だったが、ざっと並ぶ女子の名前に見当たらなかった。望月が対象にされていなくて、ほっと溜め息を吐く。
左斜め向こう、ショートカットの後頭部を眺めればガラス窓越しの柔らかな陽射しを受けて、黒い髪に今日もしっかり艶の輪が現れている。
……そう言えば、あれも後味悪い話だったな。
ふと頭に浮かぶのは、望月に教えてもらったばかりの神様の物語。
オリオンは、僕の予想以上に不幸な結末を迎えていた。なにせ恋人だったアルテミスに誤って殺されてしまうのだから。いくら元々、オリオンが傲慢だったとは言え、散々な結末に同情しか湧かなかった。
だれど、望月は愉しそうに説明してきた。
『神様も失敗するんだよ。面白くない?』
不思議な感想に、僕とは違う感性を持っめるんだな、と最初は怪訝に思った。だけど、その乾いた笑い声を思い返す。
この世には救われないことばかりだ、と自分に言い聞かせるみたいな、明るい諦めが滲んでいる気がした。
教室で居心地の悪い僕と、家に居づらそうな望月。
⋯⋯早く放課後にならないかな。
窓の外を見るふりをして、僕はおもむろに視線だけで探す。つまらなさそうにノートを取る後ろ姿、セーラー襟の上でショートカットの髪に天使の輪が輝いていた。それは五限目の眠さを覚ますほど眩しく、僕はゆっくりと両目を細めた。白くぼやけていく景色が心地良いと思ったのは初めてだった。
その日、回覧の手紙はもう回ってくることはなかった。
