君の放つアルテミスの矢が、僕の胸を貫いた


 陽。
 下の名前で呼ぶのか……。
 望月の声は、「天使より神様がいい」と嘯(うそぶ)いた時と同じように弾んでいた。
「天野くんも同じサッカー部だもんね」
「太谷と同じ」の部分を僕はなぞり返す。頭の中に校内の人間関係の地図が広がり、まるで星座をつくるように望月と太谷の間に線が結ばれていく。
「……知らなかったよ、太谷と喋ってるとこ、見たことないから」
「んー。クラス別だし、向こうが小学の高学年サッカー始めてから忙しくなっちゃったからね。今は全然喋らないかな」
「家、近いのか」
「隣だよ。三歳からずっと」
 恒星の名前をあっさり諳んじるような答えだ。
 全く知らなかった。僕達の通う公立矢川中は、三つの公立小学校の卒業生が合流するのだが、二人とは別の小学校だった。厳密には、僕はサッカーの交流試合で小学五年から太谷とは顔見知りだったが、望月の存在は知らなかった。数か月前まで名前を知らなかった星と同じように、僕は何も知らない。
「キャプテンでしょ、陽。どんな感じ?」
「……周りからすごい頼りにされているよ」
「だろうな、想像つく」
 僕は押し黙る。
 忘れた頃に川沿いを吹き抜ける風が、学ランの襟を震わす。マフラーをしてくれば良かった。
 今、何時なんだろう。
 遠目に堤防の街灯に照らされ、矢川中の校舎の時計が目に入るが、ぼんやりと霞んで分からない。
「十九時過ぎだよ。……天野くん、門限大丈夫?」
「あ、うちは母さんが夜遅いから。遅くても大して怒られないし」
「放任なんだ、信頼されてるね。ちなみに私は、言うまでもないと思うけど自由、フリーダムだよ!」
 明るく言い放つや否や、両手を広げてパタパタと上下に振ってみせる。
「⋯⋯まさかとは思うけど、天使のつもり?」
「そう! どう? 今夜も天使の輪っか、英語で言うならhalo(ヘイロー)出てる?」
「出てる、出てる」
「ふふふー、尊いでしょ?」
 自分から神様がいい、とごねたのも忘れている。太陽に比べて弱いものの、夜空の紺碧に丸々と浮かぶお月様の光を浴びる望月はまるでエネルギーを吸収しているみたいで、寒さをものともしない。昼間、高跳びのバーを飛び越えた時と同じ物怖じしない横顔が月明かりに照らし出される。
「……ああ、そう言えば、夜空でも見てみたらって薦めてくれたの、陽だったな」
 白い息とともに漏れた望月の声が、張りつめたような夜気に鈴の音みたいに鳴り響く。
「陽からしたら思い付きみたいな提案だったんだろうけどね。私が小六の頃からかな。……うちの家、空気が酷くなってさ」
「え」
「多分、あの人、もうずっと浮気してるんだよね」
 あの人達、と自分の両親をまるで他人のように扱う。
「かと言って、母親の方もフォロー出来ないっていうか、疲れて帰った途端あんなに煩く言われたらそりゃ逃げたくなるのも分かるし。元々折り合い悪いんだよね、あの人達が合う訳がないのは明らかなのに、何で結婚したんだろうなー」
 急な話題の高低差に驚く。
 神話を語るテンションで望月は続ける。
 どうやら父親の転勤がきっかけで望月家は引っ越してきたらしく、この土地になかなか馴染めない望月の母親のメンタルが不安定になったのが事の始まりだった。四歳年下の弟が生まれた際、一度収まったものの、喧嘩っ早い両親の間に流れる空気はまたすぐ不穏になった。
「きっと理由は何でも良いんだよね、相手の言い方が気に入らない、食べ方が汚い、あの時ああしてくれなかった、とか食事中でも平気で言い合い始めちゃって、だけど弟――その頃はまだ小二でまだ小さいから、泣き出しちゃうじゃん? だから頑張って私が間に入って止めようとしたんだけど……、無駄だよねー」
「⋯⋯そのこと、太谷は知って⋯⋯?」
「勿論。一戸建てとは言え、窓越しに嫌でも聞こえちゃうよね。うん、陽のお母さんが心配して仲裁しようとしてくれたんだけどね」
 それなら、と僕が言いかける前に先に答えられた。
 それこそ夫婦仲が悪化するのと比例して、望月の母親は付き合いが悪くなり、家に引き籠もるようになった。幼馴染の親とは言え、第三者の入る余地は無かったと言う。
「だから、喧嘩するたびに弟連れて部屋に避難してたな。泣きじゃくる弟をあやして、寝かしつけて。……でも、壁越しに親の声が聞こえちゃうんだよね。だから、ベランダに出たの。⋯⋯そしたらさ、偶然、陽もベランダに居たんだよ」
 天上を仰いでいた顔を川面に向ける。僕の左横、肩辺りの高さで黒髪が揺れる。
「陽の家は右隣なんだ。一戸建て同士だけど、ベランダの高さが同じくらいで柵越しで話せるぐらいの。私、どうやってごまかそうって困っていたら」
 天文学講義をするような、まるで自分の身の上のことではないように淡々と話していた声が止まった。咳払いして、望月がゆっくりと続ける。
「『今夜は月きれーだなー、星もいっぱい見えんなー』って、陽から声かけられたの」
 ……それは多分、偶然じゃない。
 キャプテンとしてチームを率いる太谷はいつも人をよく観察している。そして、疑うことなく他人に手を差し出す。その真面目さや仲間想いな所から、部員や顧問からの支持は絶大で、いつも煩い米倉達ですら素直に従うくらいだ。
 かたや僕はプレーでミスを多発して、今日だって自主練習をサボった。サッカー部のお荷物だ。
 不意に、差し出された大きな掌が夜目に慣れた瞼の裏にぼんやりと浮かぶ。
『アマが必要だよ』
 二年前、サッカー部に入るのを悩んでいる僕を引き留めてくれた。
 ――厳しいけど、太谷はいつだって僕を見捨てない。
 クシャリ、と足元の雑草を踏みしめる音がいやに大きく響く。キラキラと満天の星空から落とした視線の先、僕のスニーカーは泥だらけだ。
「陽がベランダで空眺めるとこなんて、それ以来全く見たことないけどねー。同じまん丸でも、お月様よりサッカーボールに夢中だからね。⋯⋯ねぇ、天野くん、見て! 今夜は十六夜月(いざよいつき)だよ」
 短い回想を終えると望月が僕の左袖を軽く引っ張ってきた。つられて地面から北東の空を仰ぎ直せば、いちめん濃藍色の片隅でもよく目立つ月は、少しだけ右側が欠けている。
「いざよい?」
「そう。いざよう、は躊躇う、って意味。満月よりも控えめに昇ってくるから名付けられたんだって」
「凄いな、星座だけじゃなくて月まで詳しいんだな」
「まぁ、苗字的に? 夜空、宇宙のこと詳しくなるのも運命かなって。陽きっかけで、それから星座とか天体を調べるようになったの。⋯⋯だから、偉そうに言ったけどまだまだ付け焼き刃なの私の授業は。ごめんね」
 えへへ、とはにかんだ。話題が太谷から変わって、僕はやっと返事する。
「……すごいな、独学なんだ」
「え? 何もすごくないじゃん」
「本で調べたりしたんだろ、星座。それで覚えたのか」
「うん、図書委員だから。たまに司書の先生に許可貰ってパソコンのインターネット使わせてもらうこともあるよ。それに帰宅部だから時間だけはあるし」
「そう言えば、望月って部活入ってないよな? それも天体観測のため?」
 そこまで訊いて、矢川中学校の入学時に全生徒が必ず何かしらの部活に所属する規則だったのを思い出した。天文学部は存在しないので、中一の時に何部かには入って辞めたのだろう。
「⋯⋯ああ、うん。まぁね」
 なぜか口籠られた。
 ゆっくり月を眺めたいのかな、と僕も黙って見上げていると、
「でも、ずっと一人で天体観測してたから、まさか仲間が増えるとは思わなかったなぁ⋯⋯。こんな夜遅い時間に矢川にぼっち、って⋯⋯天野くんも意外と根暗だよね?」
 急に横からからかわれた。目尻が下ってにやにやと僕を上目遣いする。
「おい」
「だって、ぼっちは、ぼっちじゃん?」
 冗談めかして笑うと今度は両目が弓なりに、三日月の形になる。不思議と望月にはからかわれても嫌じゃない。
「天野くんはモテるから、大変そうだしね」
「⋯⋯え? 急に、何」
「授業中、よく手紙が回ってくるよ。女子の間だけど、天野くんの名前よく出てくる。それに、柘植さんものこともや、米倉くんや佐々木くん達が絡んできてるのも」
 突然、ここでは考えないようにしていたことを持ちかけられ、僕は思わず視線を外す。
 十二月の矢川の堤防には、舗装道路をマラソンする人や犬の散歩をする人がまばらにいても、河川敷まで降りてくる人はほとんどいない。日が暮れた後の急激な冷え込みは、ここを無人にしてくれる。
「⋯⋯正直、面倒じゃない? 生きてるってだけで色々ありすぎ。手に負えないな、私には」
 左隣からの問いかけは、少し抑えながら覗きこまれるようで、今までサッカー部の奴等にいじられたり、太谷から正論を投げられたりするのとは違う色をしていた。
 教室では目立たぬよう席に座り、チャイムが鳴ると同時にあっという間に下校している望月は、クラスメイトのことなど興味なさそうな空気を醸し出している。女子の間で授業中に回ってくる手紙も一瞥をくれただけで即座に次に回していた風だったのに。
 ――知っていたのか。
 関わりたくない人間関係をうざったく思っている僕を、教室の片隅から見てくれていた。
「……大丈夫だよ。僕、ぼっちだから」
「そっか」
 素っ気ない返事だ。
 だけど、それが妙に心地良い。
 マフラーをしてこなかった首を竦めながらも、僕の胸元でじんわりと温かさが広がっていく。
「なんかさ、夜空のほうがいいとか、私達も大概だよね? ぼっち同士」
 自分達が立っている場所より、頭上の世界に想いを馳せる望月は、この河原以外、校舎での僕を知ってくれていた。
 面倒なことは全部、僕達のいる足元にある。

  ☆