君の放つアルテミスの矢が、僕の胸を貫いた

 今日の五限開始前のことだ。
 理科実験室に移動しようと席から立ち上がると、後ろから背中をつつかれた。
「あ、あ、天野くん、その」
 近藤だ。色白の丸い顔に黒ぶち眼鏡越しに見上げてくる。今年から同じクラスになって話すようになったけど、いまだに話しかけてくるたび、恥ずかしそうにする。もっと遠慮しないで話し掛けてくれればいいのに。
「何、近藤?」
「つ、柘植さんが、何か用事あるみたいだけど⋯⋯」
 視線の先を辿る。廊下で数名固まっているセーラー服の群れの中、ぼんやりと焦点を合わせていくと柘植さんを発見した。
 女子の平均くらいの背で、肩の辺りで切りそろえたボブヘアに、三つ折りのソックス。他の女子達がシュシュで髪をまとめたり、ポイント刺繍入りのをはいたりと校則をゆるく破っているのに対して、柘植さんは学生の見本そのものの身なりで目立った。
 僕に用どころか、足早に移動し始めている。
「で、でも⋯⋯、ずっと天野くんのこと見てたよ⋯⋯?」
 近藤がおそるおそるしてくる指摘に、ぼんやりと思い当たる節を逡巡してみたが、先月の体育祭以降、特に柘植さんと約束していたことはなかった。
 でも、確かに、いつからか柘植さんの視線を感じるようになったかも⋯⋯。
 授業中、ふと気配がして黒板から目を離してそちらに向ける。机に立てた教科書で顔を覆いながら横を向く柘植さんと目が合った。一度や二度じゃない。
 こうなったのはいつからだっけ。
 ――夏休み前までは、顔を見合わせることもなかったのに。
「希望者は挙手をお願いします!」
 あれは一学期も終わりがけ、六時間目の学級会だった。
 教壇に立って必死に呼びかける学級委員の柘植さんに対し、米倉や佐々木を筆頭に四組のクラスメイト達はおしゃべりをやめなかった。
 議題は、二学期のメイン行事の体育祭について。あろうことかと言うか、当然と言うべきか、クラス実行委員二名がなかなか決まらなかった。横断幕のデザインや競技別の出場者、応援合戦の選曲と、決めるべき項目が沢山ある上に、運営当日まで実行委員としてクラスを代表せねばならない。
 中学入りたての一年生の時こそはしゃいでいたクラスメイト達は、大変な役回りだと知ると白けたのだ。
 担任は「自主自立」をクラス目標に掲げ、さっさと職員室に戻っていた。柘植さんともう一人の学級委員の男子生徒は初めこそ張り切って仕切っていたが、六月辺りから学校を休むようになった。
「おい、早く誰か立候補しろよー。このままだと放課後までかかるんだけどー!」と誰かが言出だし、
「じゃあ、お前がやれば」「誰がやるかよ」とくだらないラリーに馬鹿笑いすると、一部の女子も、
「てか、準備とかだるくない?」と同調するので、柘植さんは黒板の前で俯き泣きそうになっていた。今で言う陰キャ――他のクラスメイトは無言を貫き、早くこの時間が過ぎるのを願っているのが僕にはひしひしと伝わってきた。
 居てもたっても居られなくなり、無意識に手を挙げていた。
「僕でよければ、やろうか、柘植さん」
「はぁ? アマ、サッカー部はどうすんだよ。サボる気かよ」
 挙手する僕をすかさず佐々木が不満そうに突っ込んできた。
「部活はちゃんと出るよ。休み時間とかに準備するよ。それに、このまま話してても進まない決まないから」
「きゃー、天野くんてば格好良いー」と茶化す声を無視すると、「助かるよ、ありがとう! あ、でも、大変なことは私がやるから安心して」と安堵に溢れた柘植さんの声が返ってきた。
 相手が笑顔になると嬉しい。
 役に立てて良かった、と僕は素直に思った。
 当日までの間、出来る限り時間を作って柘植さんと準備を進め、体育祭は無事滞りなく実施された。二年四組が団結できた、とはお世辞にも言えなかったけど米倉達筆頭にしたメンバーが応援合戦に乗り気で、それにつるむ女子達も加勢してそれなりに盛り上がった。普段大人しいグループも美術委員を中心に横断幕の色塗りを楽しんで、何とかクラスの空気を最悪にはしなかったと思う。
「あ、行っちゃった⋯⋯! な、な、何だったんだろうね柘植さん。僕の勘違いかな」
 近藤の声につられて再度廊下を見れば、柘植さんの姿は消えていた。
 僕に用事があったんだろうか。
 だとしたら声をかけてくれればいいのに、と思うそばから記憶が甦る。
 あれは早朝、校門が開く時間から打ち合わせしようと、まだ誰も登校していない教室に二人で机を並べていた時のことだ。ふとペンを持つ手を止めた柘植さんが呟いた。
「天野くんて、優しいね」
 恥ずかしそうに、だけど、観察するようにまじまじと僕を見つめてくる。
「⋯⋯あのさ、立候補してくれたのって、もしかして⋯⋯」
「立候補したのが、何?」
「やだ、意外と鈍感なんだね。ふふふ」
 今度は急に笑うなり、顔を背けてきた。その横顔は窓からの朝陽を浴びて赤く染まっていた。
 やっぱり僕は、柘植さんから見ても鈍感なのか。他の人よりも察するのが下手なのかも知れない、とまた少し落ち込んだ。
 そして今、こうして望月に黙り込まれると確信が強まっていく。矢川の上流から吹いてくる風の冷たさを、嫌でも受け止めざるを得ないみたいに。