蒼の結婚が決まってからというもの、本田家は大慌てだった。相手側から着の身着のままで良いと言われていたが、商家の娘としてそういう訳にもいかない。相手方に失礼のない程度に花嫁道具を揃えていった。一つ一つ用意が整っていくたびに、もうすぐこの家から出ていくのだという実感が出てくる。
しかし、蒼には気掛かりなことがあった。
それが肝心の旦那様のことだった。結婚するとは聞いたが、それは誰なのか、どんな人なのか、全く教えてもらっていないのだ。正勝も「忙しい」と言ってばかりでなかなか蒼と話す時間を取ってくれない。
ーーでもそろそろ教えてもらわないと。
蒼は意を決して父親の仕事部屋の前まで来ていた。そして大きく深呼吸して扉をノックした。
「失礼します」
部屋の中から不機嫌そうな声で「入れ」という返事が返ってきた。声の様子からしても、とても歓迎されている雰囲気ではない。それでも誰とも分からないまま嫁ぐのは嫌だった。
蒼は「よし」と気合を入れて扉を開けた。
「何だ。私は忙しいんだ。手短に済ませなさい」
正勝は仕事机から顔を上げずに素っ気なくそう言った。まだ返事してもらえただけでも良い方だろう。
「あの、お父様。私の嫁ぎ先はどういったところなのですか?」
正勝は一瞬動きを止めた。しかしすぐに素っ気ない返事が返ってきた。
「立派な神社の跡取りと聞いている」
「え……?えっと、それでは私の旦那様は一体どんな方なのですか?」
「それは自分の目で確かめなさい」
「あの……お名前だけでも……」
「はあ。そんな事は嫁いだ先で聞きなさい」
聞けば聞くほど謎である。名前まで教えてもらえないなんて異常ではないだろうか。だがどうも正勝も詳しく知らない様子だ。
ーーきっと、私に興味がなくて、さっさと出ていってほしいんでしょうね
そう考えるだけで蒼は気持ちが沈んでいった。きっとたまたま結婚話が出たので蒼を追い出すために詳細を聞かず飛びついたに違いない。本田家から出て行ってしまえば、あとは蒼がどうなろうが関係ない事なのだ。
落ち込んで言葉の出ない蒼を、正勝は鬱陶しそうに睨みつけた。
「話はそれだけか?なら早く部屋に戻りなさい」
「……はい。分かりました」
もうすぐこの家から出ていくというのに、正勝は最後まで蒼に興味を示してくれなかった。
蒼なりに頑張ってきたというのに、その結果が今の状況である。正勝の態度がそれをありありと示してくる。蒼は正勝の仕事部屋にいればいるほど寂しくなるだけだった。
蒼は正勝に言われた通り、それ以上何も聞かず、すぐに部屋を出た。
「あらぁ?蒼ちゃん、どうしてここにいるのぉ?」
するとそこには茜が立っていた。どうやら仕事部屋に用事があるらしい。
「ちょっとお父様に聞きたい事があったのよ」
「ふぅん」
茜はあまり興味惹かれなかったらしい。素っ気ない返事しか返って来なかった。だが茜はそれよりも蒼に聞いてほしい、と言いたげに目を輝かせて蒼を見つめてくる。
蒼は仕方なく笑顔を作って尋ねた。
「茜も用事があるの?」
「うん!私の旦那様について話がしたくってぇ」
「茜の旦那様?」
「蒼ちゃん結婚するでしょう?だから私も早く旦那様見つけたいってお父様にお願いすることにしたの。茜としてはぁ、この前の御曹司様なんか良いと思うんだよねぇ」
「そ、そうね……」
どうやらまだあの御曹司を諦めていなかったらしい。結婚が決まってから学校に行っていないので様子がわからないが、御曹司から話がない限り、茜と御曹司が結婚するのは難しいのではないだろうか、と蒼は心配になった。
「みんな忙しそうでぇ、なかなか話聞いてくれないんだもん。私、お父様に話すのが一番早いって思ったのぉ」
なんだ、と蒼は肩を落とした。蒼の結婚話で慌しかった両親や周囲の様子を見て、構ってもらえなかった事が気に入らなかったようだ。
ーーそもそも私にはもう心配する必要もないのに。
蒼はもうこの本田家を出て行く身だ。心配したところでもう蒼に出来る事なんてないのだ。
「じゃあね、蒼ちゃん」
茜は蒼の横を通り過ぎ、扉をノックもせずに開けた。そして「お父様ぁ」と甘えた声を出した。
蒼はギョッとして振り返った。蒼がそんな事したら怒号が飛んでくる。良家の娘としての礼儀がなっていないと、怒られるのは目に見えている。
しかし父からの咎める声は聞こえなかった。茜同様甘い声で「おやおや、どうしたんだい?」と聞いている。
蒼の時とは全く違う態度の父親に蒼は呆然とした。
ーー何、期待していたんだろう。
こんな事、前からだと言うのに。結婚が決まったからと言ってあの両親が変わるはずもないのに。
ーー神社の跡取り……かあ。
神社ならば、縁切りの加護持ちでも受け入れてくれるところはありそうだ。それならば今ほど辛い思いはしないかもしれない。と、蒼は前向きに考えることにした。
ーー高望みなんてしないけど……でも、ご年配の旦那様だったらどうしよう。
あの父親が組んだ縁組みだ。どんな困難が待ち受けているのか分からない。もともと政略結婚なんてそんなものだと聞いた事もある。
蒼は深いため息をつくのだった。
◆◆◆
そうして瞬く間に嫁入りの日がやってきた。
この日ばかりは蒼は高価な着物に身を包み、美しく化粧もしている。こんなに着飾ったのはいつぶりだろう、と思う。ととのせの祝いの時以来かもしれない。そのせいか茜は大変不機嫌だった。
「蒼ちゃんばっかり狡い!」
「嗚呼、茜。貴方はそのままでも充分綺麗よ。貴方の嫁入りの時は貴方にぴったりの着物をあつらえるからね」
母親がそう言って茜を宥めていたが、茜は納得していないようで頬を膨らませていた。なかなか機嫌を直さない茜に手を焼いた母親は、蒼を睨みつけた。
「蒼!何してるの!さっさと出て行きなさいよ!茜が嫌がるでしょう!?」
八つ当たりにも程がある。使用人達も驚いた表情をしたが、誰も何も言わずに目を逸らした。
蒼はため息をつきつつ、荷物を持って庭へと出た。家の中からはまだ茜の我が儘な声が漏れ聞こえて来る。母親は茜につきっきりになっているので、見送りは父親一人だった。
だが二人の間に会話はない。
沈黙が続くのは嫌だな、と思っていたところに、豪華な馬車が家の前に止まった。
「いらっしゃったな」
父親の呟きに、蒼は目を丸くした。確かに立派な神社の跡取りとは聞いていたが、こんな豪華な馬車に乗るような金持ちだとは思わなかった。
馬車からは一人の年配の男性が降りてきた。
その男性を見た時、蒼はやっぱり、と思った。
ーーきっとあの方が私の旦那様ね。
覚悟はしていたが、政略結婚なんてやっぱりこんなものなのだ。蒼は特に驚く事もなく男性に歩み寄った。
「初めまして。本田蒼と申します」
「貴方が蒼様ですね」
物腰の柔らかい印象の男性だった。蒼は少しほっとした。これで性格に難ありだったらどうしようかと不安になっていたところだった。
男性は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。本日、旦那様が迎えに来られる予定だったのですが、急な用事で来れなくなってしまいまして……」
「そう……だったんですね」
どうやら蒼の勘違いだったらしい。では一体どんな人だろうか、とますます気になってしまう。
男性は蒼の荷物を受け取ると、馬車に乗るよう促した。
馬車に乗る前、蒼は一度振り返った。
しかし父親は何も言わずにじっと蒼を見ているだけだった。蒼も敢えて何も言わずに馬車に乗った。
ーーもう、帰ることはないわよね。
男性が小さな声で「よろしいのですか?」と尋ねてきた。蒼は少し困ったように微笑んだ後ゆっくりと頷いた。
これが、蒼にとって本田家で過ごす最後の時間だった。
あまりにもあっさりと、そして静かに過ぎていった別れに、蒼の心も凪いだ。悲しいとか寂しいとか色んな感情がないわけではない。けれど一番心を占めていたのは諦めだった。
ーーさようなら。
蒼は心の中でぽつりと別れの言葉を紡いだ。
それからしばらく馬車に乗って王都の隣町までやって来た。町に入ると長い参道が続き、その先には大きくて豪華な朱色の神社が見えた。
「あれが、私の嫁ぎ先……」
近付けば近付くほど、その神社の大きさに気が付く。
「蒼様。あちらが大和国最古の縁結びの神社である琴坂神社でございます」
「初めて来ました。こんな素敵な神社が王都の隣町にあったなんて」
「知る人ぞ知る場所ですからね。おや?」
「どうしたんですか?」
男性が窓の外を見て目を丸くした。その後すぐに優しい笑顔で窓の外を指差した。蒼は促されるまま、指差す方を見ると、神社の前に一人の男性が立っていた。
「どうやら待ちきれなかったようですね」
「あの方が、旦那様……」
まだ小さくてよく見えないが、年配の男性ではなさそうだった。
ーー一体、どんな方なのかしら。
蒼は次第に近付いてくる旦那様に、胸をときめかせるのだった。
しかし、蒼には気掛かりなことがあった。
それが肝心の旦那様のことだった。結婚するとは聞いたが、それは誰なのか、どんな人なのか、全く教えてもらっていないのだ。正勝も「忙しい」と言ってばかりでなかなか蒼と話す時間を取ってくれない。
ーーでもそろそろ教えてもらわないと。
蒼は意を決して父親の仕事部屋の前まで来ていた。そして大きく深呼吸して扉をノックした。
「失礼します」
部屋の中から不機嫌そうな声で「入れ」という返事が返ってきた。声の様子からしても、とても歓迎されている雰囲気ではない。それでも誰とも分からないまま嫁ぐのは嫌だった。
蒼は「よし」と気合を入れて扉を開けた。
「何だ。私は忙しいんだ。手短に済ませなさい」
正勝は仕事机から顔を上げずに素っ気なくそう言った。まだ返事してもらえただけでも良い方だろう。
「あの、お父様。私の嫁ぎ先はどういったところなのですか?」
正勝は一瞬動きを止めた。しかしすぐに素っ気ない返事が返ってきた。
「立派な神社の跡取りと聞いている」
「え……?えっと、それでは私の旦那様は一体どんな方なのですか?」
「それは自分の目で確かめなさい」
「あの……お名前だけでも……」
「はあ。そんな事は嫁いだ先で聞きなさい」
聞けば聞くほど謎である。名前まで教えてもらえないなんて異常ではないだろうか。だがどうも正勝も詳しく知らない様子だ。
ーーきっと、私に興味がなくて、さっさと出ていってほしいんでしょうね
そう考えるだけで蒼は気持ちが沈んでいった。きっとたまたま結婚話が出たので蒼を追い出すために詳細を聞かず飛びついたに違いない。本田家から出て行ってしまえば、あとは蒼がどうなろうが関係ない事なのだ。
落ち込んで言葉の出ない蒼を、正勝は鬱陶しそうに睨みつけた。
「話はそれだけか?なら早く部屋に戻りなさい」
「……はい。分かりました」
もうすぐこの家から出ていくというのに、正勝は最後まで蒼に興味を示してくれなかった。
蒼なりに頑張ってきたというのに、その結果が今の状況である。正勝の態度がそれをありありと示してくる。蒼は正勝の仕事部屋にいればいるほど寂しくなるだけだった。
蒼は正勝に言われた通り、それ以上何も聞かず、すぐに部屋を出た。
「あらぁ?蒼ちゃん、どうしてここにいるのぉ?」
するとそこには茜が立っていた。どうやら仕事部屋に用事があるらしい。
「ちょっとお父様に聞きたい事があったのよ」
「ふぅん」
茜はあまり興味惹かれなかったらしい。素っ気ない返事しか返って来なかった。だが茜はそれよりも蒼に聞いてほしい、と言いたげに目を輝かせて蒼を見つめてくる。
蒼は仕方なく笑顔を作って尋ねた。
「茜も用事があるの?」
「うん!私の旦那様について話がしたくってぇ」
「茜の旦那様?」
「蒼ちゃん結婚するでしょう?だから私も早く旦那様見つけたいってお父様にお願いすることにしたの。茜としてはぁ、この前の御曹司様なんか良いと思うんだよねぇ」
「そ、そうね……」
どうやらまだあの御曹司を諦めていなかったらしい。結婚が決まってから学校に行っていないので様子がわからないが、御曹司から話がない限り、茜と御曹司が結婚するのは難しいのではないだろうか、と蒼は心配になった。
「みんな忙しそうでぇ、なかなか話聞いてくれないんだもん。私、お父様に話すのが一番早いって思ったのぉ」
なんだ、と蒼は肩を落とした。蒼の結婚話で慌しかった両親や周囲の様子を見て、構ってもらえなかった事が気に入らなかったようだ。
ーーそもそも私にはもう心配する必要もないのに。
蒼はもうこの本田家を出て行く身だ。心配したところでもう蒼に出来る事なんてないのだ。
「じゃあね、蒼ちゃん」
茜は蒼の横を通り過ぎ、扉をノックもせずに開けた。そして「お父様ぁ」と甘えた声を出した。
蒼はギョッとして振り返った。蒼がそんな事したら怒号が飛んでくる。良家の娘としての礼儀がなっていないと、怒られるのは目に見えている。
しかし父からの咎める声は聞こえなかった。茜同様甘い声で「おやおや、どうしたんだい?」と聞いている。
蒼の時とは全く違う態度の父親に蒼は呆然とした。
ーー何、期待していたんだろう。
こんな事、前からだと言うのに。結婚が決まったからと言ってあの両親が変わるはずもないのに。
ーー神社の跡取り……かあ。
神社ならば、縁切りの加護持ちでも受け入れてくれるところはありそうだ。それならば今ほど辛い思いはしないかもしれない。と、蒼は前向きに考えることにした。
ーー高望みなんてしないけど……でも、ご年配の旦那様だったらどうしよう。
あの父親が組んだ縁組みだ。どんな困難が待ち受けているのか分からない。もともと政略結婚なんてそんなものだと聞いた事もある。
蒼は深いため息をつくのだった。
◆◆◆
そうして瞬く間に嫁入りの日がやってきた。
この日ばかりは蒼は高価な着物に身を包み、美しく化粧もしている。こんなに着飾ったのはいつぶりだろう、と思う。ととのせの祝いの時以来かもしれない。そのせいか茜は大変不機嫌だった。
「蒼ちゃんばっかり狡い!」
「嗚呼、茜。貴方はそのままでも充分綺麗よ。貴方の嫁入りの時は貴方にぴったりの着物をあつらえるからね」
母親がそう言って茜を宥めていたが、茜は納得していないようで頬を膨らませていた。なかなか機嫌を直さない茜に手を焼いた母親は、蒼を睨みつけた。
「蒼!何してるの!さっさと出て行きなさいよ!茜が嫌がるでしょう!?」
八つ当たりにも程がある。使用人達も驚いた表情をしたが、誰も何も言わずに目を逸らした。
蒼はため息をつきつつ、荷物を持って庭へと出た。家の中からはまだ茜の我が儘な声が漏れ聞こえて来る。母親は茜につきっきりになっているので、見送りは父親一人だった。
だが二人の間に会話はない。
沈黙が続くのは嫌だな、と思っていたところに、豪華な馬車が家の前に止まった。
「いらっしゃったな」
父親の呟きに、蒼は目を丸くした。確かに立派な神社の跡取りとは聞いていたが、こんな豪華な馬車に乗るような金持ちだとは思わなかった。
馬車からは一人の年配の男性が降りてきた。
その男性を見た時、蒼はやっぱり、と思った。
ーーきっとあの方が私の旦那様ね。
覚悟はしていたが、政略結婚なんてやっぱりこんなものなのだ。蒼は特に驚く事もなく男性に歩み寄った。
「初めまして。本田蒼と申します」
「貴方が蒼様ですね」
物腰の柔らかい印象の男性だった。蒼は少しほっとした。これで性格に難ありだったらどうしようかと不安になっていたところだった。
男性は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。本日、旦那様が迎えに来られる予定だったのですが、急な用事で来れなくなってしまいまして……」
「そう……だったんですね」
どうやら蒼の勘違いだったらしい。では一体どんな人だろうか、とますます気になってしまう。
男性は蒼の荷物を受け取ると、馬車に乗るよう促した。
馬車に乗る前、蒼は一度振り返った。
しかし父親は何も言わずにじっと蒼を見ているだけだった。蒼も敢えて何も言わずに馬車に乗った。
ーーもう、帰ることはないわよね。
男性が小さな声で「よろしいのですか?」と尋ねてきた。蒼は少し困ったように微笑んだ後ゆっくりと頷いた。
これが、蒼にとって本田家で過ごす最後の時間だった。
あまりにもあっさりと、そして静かに過ぎていった別れに、蒼の心も凪いだ。悲しいとか寂しいとか色んな感情がないわけではない。けれど一番心を占めていたのは諦めだった。
ーーさようなら。
蒼は心の中でぽつりと別れの言葉を紡いだ。
それからしばらく馬車に乗って王都の隣町までやって来た。町に入ると長い参道が続き、その先には大きくて豪華な朱色の神社が見えた。
「あれが、私の嫁ぎ先……」
近付けば近付くほど、その神社の大きさに気が付く。
「蒼様。あちらが大和国最古の縁結びの神社である琴坂神社でございます」
「初めて来ました。こんな素敵な神社が王都の隣町にあったなんて」
「知る人ぞ知る場所ですからね。おや?」
「どうしたんですか?」
男性が窓の外を見て目を丸くした。その後すぐに優しい笑顔で窓の外を指差した。蒼は促されるまま、指差す方を見ると、神社の前に一人の男性が立っていた。
「どうやら待ちきれなかったようですね」
「あの方が、旦那様……」
まだ小さくてよく見えないが、年配の男性ではなさそうだった。
ーー一体、どんな方なのかしら。
蒼は次第に近付いてくる旦那様に、胸をときめかせるのだった。


