アオハルな恋とウラらかな復讐

 ピピピピ……。

 アラーム音に起こされた麗は、目をこすりながらカーテンを開ける。
 ウラアカウント問題も、盗撮事件も解決したのに、空はあいにくの曇り模様。

「お母さん、おはよう」

麗の肩に手を置いて笑顔で映っている母に、手を合わせる。

「……絶対、見つけてやる」

顔を塗りつぶされている父を睨みつける。
 穢れた感情がどろどろと流れ出る。
 制服の上から胸元を押さえつけ、頑丈に蓋をする。
 この感情は、知られたくない。特に、あいつには。
 向かいの部屋のドアを見つめ、ふっと息を吐き出した。

「起きる時間ですよ」

ノックをしても何の反応もない。ドアに耳をつけてみるが、一切物音が聞こえない。

 いつもどおり。いい加減、自分で起きてほしい。

 ドアを開けると、ベッドの上で葵がお腹を出して寝ている。床に落ちている布団を畳んで、麗は溜息をついた。

「……アオ」

まだ呼び慣れない。違和感のせいか、胸の奥がざわつく。
 猫っ毛に寝癖がついて、鳥の巣みたいな頭だ。なのに、無駄に顔がいい。
 これだから性格が悪くても、ファンがつく。
 なんかむかつく。

「起きて!」

肩を揺らそうと手を伸ばした時。

「……うるせえ」

葵が片目を開ける。手首を掴み、強く引っ張られる。

「わっ!」

態勢が崩れたところを抱きとめられ、顔が近づく。
 心臓が跳ね上がり、体中の血が全速力で駆け巡る。

 ち、近い! 鼻がぶつかりそう!

「麗」

掠れた声で名前を呼ばれる。

「……っ!」

耳も顔も、一気に熱くなる。

 今、名前呼ぶとか、反則!

 まだ寝ぼけているのか、葵の目は焦点が合っていない。
 

「……寝言? もう、離してよ!」

手首をぶんぶん振る。
 葵は目をこすり、ようやく麗の顔に焦点を当てた。徐々に瞳孔が開いていく。

「おまっ、何してんだよ!」

ぱっと手を離して、赤い顔で睨みつけてきた。

「それはこっちのセリフなんだけど。さっさと仕度して」 

麗は言い捨てると、勢いよくドアを閉めた。
 頬が熱を帯びている。早鐘を打つ鼓動の音がうるさい。
 落ち着かせるように両手を頬に当て、早足にキッチンへ向かった。

「あいつ、何なの」

フライパンに火をつけて卵を3つ落とし、水を入れてふたをする。パチパチ弾ける音の向こうから、葵の声が聞こえる。
 
『麗』 
 
 葵に名前を呼ばれたの、初めて。
 寝言だったのがなんか嫌だけど。
 ……あれ、何で嫌なんだろう。

「おはよう、麗ちゃん。顔、赤くない?」

ふいに背後から晴の声がして、麗は慌てて振り向いた。

「びっくりした!」
「おいしそうな匂いだね」

笑みを浮かべた晴が距離を詰めてくる。

「ちょっと、近い。邪魔なんだけど」
「そう? あ、ぼくの目玉焼き、半熟がいいな」

麗の横に立って、晴がフライパンの蓋を開ける。麗は肩をすくめて火を止めた。

「アオと何かあった?」

ドクン。
 胸の奥が脈打つ。振り向くと、獲物を捕らえる獣のような目とかち合った。
 心の奥まで見透かすような晴の瞳。
 うっすら笑みを浮かべている表情からは、何を考えているのか読み取れない。

「……別に」

麗は目を逸らす。
 晴は顔をしかめ、麗の顎を持ち上げた。

「隠しごとはよくないな。フェアじゃない」

うっすらと笑みを浮かべる。細めた瞳の奥に広がる闇が麗を捉える。
 麗は思わず息を呑んだ。

「ぼくもアオには言えないこと、しちゃおうかな」

晴が耳元で囁く。

 危険だって分かっているのに、動けない。
 晴の吐息が、耳の奥に入り込む。
 
「ぼくのことだけ見てよ、麗ちゃん」

また傷つけて、泣き顔見たいだけだって分かっているのに。
 何でそんな不安そうな顔で見るの。
 晴の本音が分からない……。

「離れろ」

寝癖をつけたままの葵が、晴の襟首を掴む。

「麗ちゃんと大事な話してたのに。ねえ?」
「……してない。ご飯できたから、あっちで待ってて」

麗はざわつく胸を押さえ、2人に背を向けた。
 2人はリビングに行くと、各々の場所に腰かけた。

「ねえ、アオ。麗ちゃんってさ、手放したくなくなるよね」
「はあ?」

顔をしかめる葵に、晴は目を三日月型に細めた。

「ぼくだけのモノにしてもいい?」

葵の目をまっすぐ見据える。

「いいわけねえだろ」

青筋を立て、晴の胸倉を掴みかかった。

「ちょっと、何やってるの」

朝食を運んできた麗が2人の間に割って入った。
 葵は舌打ちをして、トーストにかじりつく。手の付けられない大型犬のようだ。

「暴力的だなあ。優しい方がモテるのに。麗ちゃんもそう思うよね?」
「さあ。2人にファンがいることが信じられない」
「そう? 麗ちゃんにもファンができるかもよ」

晴が麗の前髪をさっと持ち上げる。薄茶色の瞳に、晴の意地悪そうな笑顔が映る。
 麗は無言で晴の手を払い、前髪を撫でつけた。

「なわけねえだろ」

葵がせせら笑う。

「麗ちゃんの噂、拡散されてるよ。ぼくたちの妹で、美人だって」

晴がスマホを開いて、ファンサイトを見せてきた。そこには、葵と晴の間に挟まれた麗の画像が映っている。

「誰がそんなデマ信じるんだよ」

麗をじっと見つめる葵の瞳は、ほんの少し不安げに揺れている。

 何でそんな目で見るの。
 私の噂なんて、どうでもいいくせに。
 

 生徒会室の窓から、登校してくる生徒たちを眺めている澪は、薄い唇を引き結んだ。手元のスマホに目を落とす。真っ白のページに「404 not found」の文字が表示されている。

「全部、きれいに消してくれたわね。もう少しで、おもしろくなったのに」

トントン。

 ノックの音と共に、慌てた表情の新聞部部長が飛び込んできた。

「し、失礼します! 佐沖会長、お話が!」

振り向いた澪が微笑むと、新聞部部長は一瞬表情を緩め、すぐに顔を引き締めた。

「どうしました?」
「そ、それが、今日発行しようと思っていた新聞のデータが、消えてしまったんです! ウラアカが削除されたことと、教師が2人退職したスクープネタだったのに!」

半泣きになって訴える。

「それは困りましたね」

澪は頬に手を添えて眉を下げた。

「誰かが消したとしか思えません!」
「学院の誰かの仕業だと?」

澪の笑みが深くなる。

「い、いや、外部犯の可能性もあるかもですが」
「学院のセキュリティに問題があるということですか?」
「え、えっと、それは……」

新聞部部長はたじろぎ、目を泳がせた。

「……ネズミ、いえ、鳥のせいかしら」

澪はぽつりとこぼし、新聞部部長に背を向ける。

「ちょうどいいわ。次の段階に、進みましょうか」

薄い唇が、笑みの形を作る。
 生徒会室の空気がわずかに澱む。


 葵と晴の後に続いて麗が教室に入ると、クラスメイトたちはスマホを見ながら顔を突き合わせ、怪訝な顔をしていた。

「ウラアカ、マジで消えちゃってる」
「あーあ。町田先生と葉山先生の退職の理由、気になってたのに」
「絶対不倫のせいだって」

近くの席で話している声が耳に入ってくる。

「牧野先輩、ちゃんとやってくれたみたいだね」

晴が耳打ちをしてきた。

 よかった。牧野先輩、分かってくれたんだ。お礼言わなきゃ。学校、来てくれたらいいな。

「町田と葉山のことは、おじさんが任せとけって言ったけど、こんなに早く退職させるとはな」

葵が足を組んで頬杖をついた。

「盗撮のことも一切漏れないように処理したみたいだし。サイトも消えてた」

どうやら理事長は、町田と葉山を警察に突き出すこともせず、裏で密かに処理したらしい。盗撮の罪に問われないのは腹立たしい。不服そうな表情の麗に、晴がふっと笑みを浮かべた。

「安心して。おじさんのことだから、表で裁かれるよりもエグイ方法で始末したと思うよ」
「……あー、うん」

麗は曖昧に頷き、自分の席に座った。

 町田先生と葉山先生がどうなったのか、考えないでおこう。
 新しい担任が来るのかな。理事長は考えてあるって言ってたけど……。

 チャイムが鳴り、ざわめきが小さくなる。誰もが教室の扉に目を向けた。
 だが、5分経っても、10分経っても、誰も入ってこない。
 話し始めたり、席を立ったり、一斉に騒がしくなる。
 その時。

 ガラガラッ。

 扉の開く音がして、しんと静まり返る。全員の視線が扉に集中した。
 無精ひげを生やした中年の男が、欠伸をしながら入ってくる。
 スーツはよれて皺だらけで、ネクタイは緩んでいる。やる気のなさそうな半目で教室を見渡すと、がさついた声でぼやいた。

「散らかってんな」

気だるそうにしながら、最前列の席の前を横切る。気づけば、乱れた机が整っていた。

「前のやつに、机を合わせろ」

生徒たちはぽかんとした表情で、固まっている。
 男は寝ぐせのついたぼさぼさの頭をぼりぼり掻いて、教壇に肘をついた。

「やれ」

静かだが、低く威圧感のある声が、ビリビリと空気を震わせる。
 一斉に机を動かし、全員の姿勢が自然と伸びる。
 
 この雰囲気、堅気じゃない。組長と同じ匂いがする。
 
「今日から俺が担任な。名前は、目白だ。よろしくー」

出席簿に目を落とす。一瞬、顔を上げてからすぐに閉じる。

「全員来てるな。今日は……」

天井に目を向けて首をコキッと鳴らす。

「何するんだっけな。まあ、いいや」

首をかきながら欠伸をする。

「やる気なさすぎだろ」
「ただのやさぐれたおっさんじゃん」
「大丈夫かよ」

ひそひそと話す声がひとつ、ふたつ増えていく。

 ガタッ。

 麗の前に座る生徒が椅子を動かし、麗の机に当たった。その拍子に机が揺れ、ペンが転がる。いつの間にか目の前に来ていた目白が、床に落ちる前に、音もなくペンをすくい上げた。

「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」

ペンを受け取った時、重そうな一重まぶたの目とかち合う。
 一瞬だけ、獲物を見るように細まる。
 背筋が凍り、血の気が引く。
 チャイムが鳴り、目白はポケットに手をつっこんで教室を出て行った。

「あいつ、カタギじゃないな」

葵が、麗の持つペンを睨む。

「だろうね」

葵の後ろから顔を出した晴が、プリンススマイルを浮かべる。近くの席の女子たちから、黄色い声が上がり、晴は手を振った。

「愛想ふりまいてんじゃねえよ。キモイ」

葵は、おえっと吐く真似をする。

「ファンサだよ。ウラアカはなくなったけど、ファンサイトは残ってるからね。いつ隠し撮りされるか分かんないじゃん。プリンスキャラは守らないと」

微笑んでいるが、やっぱり目は笑っていない。

「何で、無理して笑うの?」
「え?」

晴はきょとんとした顔で、麗を見つめる。

「病気なんだよ。愛想笑いしてないと、死んじまう」

鼻で笑って、晴を小突いた。

「……うるさいな。しかめっ面しかできないくせに。その顔じゃ、本当に欲しい物は一生手に入らないよ」

鋭利な眼差しを葵に向けると、ちらちら視線を送っていた女子たちの方へ行った。

「いつまでもお袋の言うことに縛られやがって。マザコンめ」

葵は舌打ちをして腕組をする。

「どういうこと?」
「お袋が出てった時、笑顔でいろって書き置きしてあったんだよ。……忘れちまえばいいのに」

しかめっ面に影が落ちる。

「お母さんのこと、恨んでないの?」

葵はせせら笑い、麗を見下ろした。

「どうでもいい。親なんていてもいなくても一緒だ。おまえは?」
「私?」
「恨んでるのか?」

目を伏せた麗は、机の下で拳を握りしめる。
 胸の空洞の蓋が、緩む。
 どろどろとした冷たく、重い澱みが顔を覗かせる。
 こんなの、葵の前に晒したくない。
 きっと馬鹿にされる。私の過去ごと、全部。
 父のことも、母の死も、自分の口からは言いたくない。

「つまんねえやつだな。言いたいことあるなら言え」

押し黙る麗に、葵が冷ややかな視線を向ける。

「腹の中にしまってんじゃねえよ」

葵の言葉が胸を締め上げる。

「いい加減いいこぶるのやめろ」

 ガタン。
 蓋が外れる音が、した。
 
「うるさい!」

思いっきり机を叩き、立ち上がる。椅子がひっくり返る。
 教室中の視線が集まる。
 葵の瞳が揺らぐ。
 麗の目の奥に、焔のような光が宿る。

「恨んでるに決まってるでしょ! 私はあいつを絶対に許さない。必ず見つけ出してやる」

呼吸が荒れる。
 鼓動が暴れる。
 胸が苦しい。
 目の前の葵が滲む。
 頬を、冷たいものが伝った。

 葵の指が一瞬頬に触れ、すぐに離れる。
 口角を上げると、麗の頭をポンポンと叩き、薄茶色の瞳を覗き込んだ。

「良い目してんじゃん。……麗」

麗は目を丸くして葵を見上げた。
 教室のどよめきが遠くに聞こえる。

 また、名前……。
 
 鼓動が、さっきよりも早くなる。
 心臓が鷲掴みされたみたいに痛い。
 ――胸が、苦しい。
 なのに。
 嫌じゃ、ない。
 なにこれ。
 こんなの、おかしい。

 頭を抱えた麗は、前髪を撫でて目元を隠した。

 葵のせいで、午前中の授業は全く身が入らなかった。ようやく落ち着きを取り戻した頃には、お昼になっていた。
 2人と学食で昼食をとっていると、じろじろ見られたり、勝手に写真を撮られたりして、全く食事に集中できない。葵と晴は気にも止めず、黙々と食べ進めている。

「食わないならもらうぞ」

葵が麗のトンカツを口に放り込んだ。

「あっ、取っておいたのに!」

伸ばした手は空を切った。葵の口を恨めしそうに睨みつける。

「そうだ、これ。町田先生のじゃないって言ってたでしょ」

晴はポケットから、アダプタ型の小型カメラを取り出した。

「録画見たら、仕掛けた犯人が映ってるかと思ったんだけど。遠隔操作できるみたいで、データは全部消されてたんだ」
「用意周到だな」

葵は味噌汁をすすって箸を置いた。

「町田先生を後押しした黒幕が、盗撮の証拠映像を残すために仕掛けたんだろうね」

お茶を飲み干した晴は、空になったコップをお盆に置いた。

「黒幕の目的は何?」

キャベツをかき集めながら、麗は眉間にしわを寄せた。

「結局は裏切ろうとしてたんじゃない? 町田先生に恨みでもあったか。あるいは、裏切られた時の顔を見て、楽しみたかったか」

晴が三日月型の目で微笑む。麗の箸が寸の間止まった。

「おまえみたいな変態サイコドS野郎が、他にいてたまるかよ」

葵が顔を歪め、麗は頷く。

「心外だな。ぼくは変態サイコじゃないよ」

晴は頬を膨らませ、アダプタをポケットにしまうと、お盆を持って立ち上がった。

「ドSは認めんのか」

葵も立ち上がる。
 麗は急いでキャベツをかきこみ、葵の皿を片付けようと手を伸ばした。
 だが、そこには何もない。食器返却口に向かう葵の手には、皿がある。

「……何で?」

名前で呼んだり、皿を自分で運んだり、急にどうしたの? 

 麗が困惑しながら食堂を出ると、晴はアダプタを手のひらの上で転がしながら、首を捻った。

「フクロウさんにハッカーを紹介してもらって、遠隔操作をしたデバイスとユーザーを見つけてもらえば、黒幕が誰か分かると思うんだよね」
「ウラアカと盗撮事件の黒幕、同一人物じゃないかな」

ぽつりと呟く麗を、葵が横目で見た。

「何でだよ?」
「ウラアカウントで学院の評判を落とす噂を広めて、その上で、盗撮事件を起こさせたんだよ。事件が明るみになってたら、学院も理事長も危うかった」

指先が冷える。
 黒幕の影が、学院を覆っているようだ。

「証拠映像を使えば、葉山先生を脅して、牧野先輩の出席日数を改ざんできる。牧野先輩に取引を持ちかけたMisaoが、黒幕だよ」

麗はアダプタを見つめる。小さなレンズが、きらりと光った。

「ミサオ、サオ、ミオ……」

ぶつぶつ呟く晴は、はっとした顔で足を止めた。
 その時、廊下にいる生徒たちがさざめきだした。

「佐沖会長だ!」
「美人で優秀とか、完璧すぎる!」

麗たちの向かいから、澪が歩いてくる。まるでランウェイを歩くモデルのようだ。

「やっぱ、おまえと同じ匂いがする」

葵が耳打ちをすると、晴は小さく笑った。

「ぼくの方が、うまく隠してるよ」

澪と目が合い、晴は微笑む。澪の肩がわずかに動き、すっと視線をそらす。
 その先にあるのは、アダプタ型カメラ。
 晴の目元がきらりと光った。

「ごきげんよう」

澪が会釈をして通り過ぎようとする。
 アダプタ型カメラが、床に落ちる。コツン、と軽い音を立てて転がり、澪の上履きに当たった。

「あっ、すみません」

晴は眉を下げて肩をすぼめた。澪はしゃがみ込み、迷いなくそれを拾い上げ、手渡した。

「……どうぞ」
「ありがとうございます」

晴は澪から視線を外さず、受け取る。

「これ、拾ったんですけど。会長さんのじゃないですよね?」

無邪気な笑みを浮かべながら、探るような目を澪に向ける。

「……いいえ。落とし物なら、先生に届けるべきね」

晴に向かって、手のひらを差し出す。

「ちょうど職員室に行くところだから、私が持っていくわ」

澪は目元を和らげ、えくぼを浮かべる。
 2人の視線が交差する。
 どちらもお手本のような笑顔だが、麗は身がすくむ。
 晴は一瞬だけ目を細め、口角を上げた。

「そんな。悪いですよ」

首を振って、アダプタをポケットにしまう。

「ぼくが自分で持っていきます。会長さん、噂どおり優しいですね」

後光が差しそうなプリンススマイル。澪のえくぼがピクッと反応する。

「あなたも、噂通りね」

澪は長い黒髪をなびかせ、廊下の角を曲がった。

「笑顔合戦、こわい……」

腕をさすりながら麗が呟く。

「わざとらしい演技しやがって」

葵が鼻で笑う。

「なんか、怪しいんだよなあ」

晴は澪の消えた方を見ながら、ぽつりとこぼした。

 澪は唇を噛みしめ、階段を駆け上がる。
 屋上の扉に背中を預けてその場にしゃがみ込み、熱を持った頬を両手で押さえた。

「……しゃべってしまったわ」

声がかすれる。震える指先でスマホを開く。ファンサイトの画面をスクロールし、晴の画像を食い入るように見つめる。

「ハルさま……」

スマホを額に当て、長く息を吐き出した。

 ――アダプタ型カメラ。落としたのは、偶然じゃない。

「気づかれたかしら」

頬の熱がすっと引いていく。

「理事長と手を組んでいるの?」

スマホに映る晴に問いかける。

「やっぱり、私とあなたは、ロミオとジュリエットなのね」

三日月型に目を細め、晴の顔をそっと撫でる。瞳の奥に、冷たい光が宿った。


 ホームルームでの連絡事項を終えた目白は、ぼさぼさの頭をかきながら、バインダーを閉じた。

「以上だ。散会。とっとと帰れー」

目白は日直の挨拶を待たずに教壇を下りると、葵、晴、麗を指差した。

「おまえたち3人は、俺と来い」

覇気はないのに、有無を言わせない眼光で射抜かれた。
 

「入るぞ」

目白はノックもなしに理事長室に入り、ソファに腰を下ろした。

「目白さん、お疲れ様です」

理事長は目白の向かいに座ると、気さくな笑みを浮かべた。

「おじさんと目白先生って、知り合い?」

晴が尋ねると、理事長は微笑んだ。

「お義兄さんに紹介してもらったんだよ。腕の良い掃除屋さんを」

葵と晴は納得したように頷くが、麗は首をかしげた。

「掃除屋さん?」
「もちろんウラのだよ。以前から、公になるとまずい学院のあれこれを処理してもらっていたんだ。町田先生と葉山先生のこともね」

理事長の目尻の皺が深くなる。恐ろしすぎて詳細は聞きたくない。

「ついでに、君たちの担任の穴埋めをお願いしたんだよ」
「人遣いが荒い」

目白は眉間を押さえて、低く唸った。

「いやあ、すみませんね。ウラ風紀委員の顧問もお願いしてしまって」

葵、晴、麗は同時に顔をしかめ、困惑の眼差しを目白に向けた。

「は?」
「ん?」
「え?」

3人の視線を受け流し、目白はだらしなく大口を開けて欠伸をした。

「めんどくせえ」


 パソコンのキーボードを打ち鳴らす音や、早口でまくし立てる声が、生徒会室に響く。
 澪は書類から目を上げ、一定のリズムで用紙をはきだしているプリンターを、横目で見た。

「会長、できました!」

澪は用紙を受け取り、微笑んだ。

「ありがとう。ご苦労様」

立ち上がって、手を2回打ち鳴らす。

「皆さん」

しんと静まる室内に、プリンターの稼働音が響く。

「明日からのクリーン運動、宜しくお願いしますね」
「はいっ!」

生徒会役員の声が揃う。
 澪は用紙に目を落とし、「クリーン運動」の文字をなぞった。

 次の一手、あなたたちはどう打ち返すかしら。

 薄い唇から、小さな笑みがこぼれた。


 葵と晴に続いて麗が昇降口から出ると、雨がぽつぽつと降り出した。
 麗が鞄から折り畳み傘を出して開くと、右側に葵が無理やり入り込んできた。

「傘、持ってきてないの?」
「ない」
「じゃあ、ぼくも」

左側に晴も入ってきた。

「狭いんだけど」

麗は2人に挟まれてぎゅっと肩を縮め、顔をしかめた。

「我慢しろ」

そういう葵の右肩は濡れている。

「折り畳みに3人は、だいぶ無理があるよね」

晴は左肩を濡らして苦笑を浮かべた。

 分かっているなら、傘から出てほしい。
 そう思うのに、葵と晴の腕に触れている両肩が熱い。

 この距離感、嫌じゃない。
 ……どうして?
 葵も晴も、なんか変。2人のことが気になって心が乱れる。
 こんなの、復讐の邪魔になるだけなのに。

 降りしきる雨だけが、私のざわつきを知っている気がした。

 傘を弾く雨音が、次第に強くなる。まるで、嵐の前触れみたいに。
 ふと。
 雨の向こうで、誰かが静かにこちらを見ている気がした。

 ――“ウラ”はまだ、終わらない。