ピピピピ……。
アラーム音に起こされた麗は、目をこすりながらカーテンを開ける。
ウラアカウント問題も、盗撮事件も解決したのに、空はあいにくの曇り模様。
「お母さん、おはよう」
麗の肩に手を置いて笑顔で映っている母に、手を合わせる。
「……絶対、見つけてやる」
顔を塗りつぶされている父を睨みつける。
父によって空けられた胸の空洞から、穢れた感情がどろどろと流れ出る。
制服の上から胸元を押さえつけ、頑丈に蓋をする。
この感情は、知られたくない。特に、あいつには。
向かいの部屋のドアを見つめ、ふっと息を吐き出した。
「起きる時間ですよ」
ノックをしても何の反応もない。ドアに耳をつけてみるが、一切物音が聞こえない。
いつもどおり。いい加減、自分で起きてほしい。
ドアを開けると、ベッドの上で葵がお腹を出して寝ている。床に落ちている布団を畳んで、麗は溜息をついた。
「葵さま、じゃなくて……アオ」
呼び慣れない名前に、鳥肌が立つ。
猫っ毛に寝癖がついて、鳥の巣みたいな頭だ。なのに、整った凛々しい眉に、伏せられた長いまつげ、わずかに開いた唇がプラスに働いて、イケメンが損なわれない。
「起きて!」
肩を揺らそうと手を伸ばした時。
「……うるせえ」
葵が片目を開ける。手首を掴み、強く引っ張られる。
「わっ!」
態勢が崩れたところを抱きとめられ、顔が近づく。
心臓が跳ね上がり、体中の血が全速力で駆け巡る。
寝起きのくせに、中身クソガキのくせに、何でこんなに無駄にイケメンなわけ⁉
「麗」
掠れた声で名前を呼ばれる。
「……っ!」
耳も顔も、全部熱い。
今、名前呼ぶとか、反則!
まだ寝ぼけているのか、葵の目は焦点が合っていない。
「……寝言? もう、離してよ!」
手首をぶんぶん振る。
葵は目をこすり、ようやく麗の顔に焦点を当てた。徐々に瞳孔が開いていく。
「おまっ、何してんだよ!」
ぱっと手を離して、赤い顔で睨みつけてきた。
「それはこっちのセリフなんだけど。さっさと仕度して」
麗は言い捨てると、勢いよくドアを閉めた。
頬が熱を帯びている。早鐘を打つ鼓動の音がうるさい。落ち着かせるように両手を頬に当て、早足にキッチンへ向かった。
「あいつ、何なの」
フライパンに火をつけて卵を3つ落とし、水を入れてふたをする。パチパチ弾ける音に耳を傾けながら、呟いた。
『麗』
葵の声が、鼓膜の裏にこびりついて離れない。
名前を呼ばれたの、何年振り?
「おはよう、麗ちゃん。顔、赤くない?」
ふいに背後から晴の声がして、麗は慌てて振り向いた。
「びっくりした!」
「おいしそうな匂いだね」
笑みを浮かべた晴が距離を詰めてくる。
「ちょっと、近い。邪魔なんだけど」
「そう? あ、ぼくの目玉焼き、半熟がいいな」
麗の横に立って、晴がフライパンの蓋を開ける。麗は肩をすくめて火を止めた。
「……アオと何かあった?」
ドクン。
胸の奥が脈打つ。振り向くと、獲物を捕らえる獣のような目とかち合った。
「離れろ」
寝癖をつけたままの葵が、晴の襟首を掴む。
「麗ちゃんと大事な話してたのに。ねえ?」
「してない。ご飯できたから、あっちで待ってて」
犬を追い払うように手を払う。
しょぼくれた真似をして、葵とリビングへ行った。
「ねえ、アオ。麗ちゃんってさ」
定位置に座った晴が、キッチンに立つ麗の後ろ姿を眺めながら話しかける。
「手放したくなくなるよね」
「はあ?」
顔をしかめる葵に、晴は目を三日月型に細めた。
「ぼくだけのモノにしてもいい?」
葵の目をまっすぐ見据える。
「いいわけねえだろ」
青筋を立て、晴の胸倉を掴みかかった。
「ちょっと、何やってるの」
朝食を運んできた麗が2人の間に割って入った。
葵は舌打ちをして、トーストにかじりつく。手の付けられない大型犬のようだ。
「暴力的だなあ。優しい方がモテるのに。麗ちゃんもそう思うよね?」
「さあ。2人にファンがいることが信じられない」
「そう? 麗ちゃんにもファンができるかもよ」
晴が麗の前髪をさっと持ち上げる。薄茶色の瞳に、晴の意地悪そうな笑顔が映る。
麗は無言で晴の手を払い、前髪を撫でつけた。
「なわけねえだろ」
葵がせせら笑う。
「麗ちゃんの噂、拡散されてるよ。ぼくたちの妹で、美人だって」
晴がスマホを開いて、ファンサイトを見せてきた。そこには、葵と晴の間に挟まれた麗の画像が映っている。
「誰がそんなデマ信じるんだよ」
麗をじっと見つめる葵の瞳は、ほんの少し不安げに揺れている。
何でそんな目で見るの。
私の噂なんて、どうでもいいくせに。
生徒会室の窓から、登校してくる生徒たちを眺めている澪は、薄い唇を引き結んだ。手元のスマホに目を落とす。真っ白のページに「404 not found」の文字が表示されている。
「全部、きれいに消してくれたわね。もう少しで、おもしろくなったのに」
トントン。
ノックの音と共に、慌てた表情の新聞部部長が飛び込んできた。
「し、失礼します! 佐沖会長、お話が!」
振り向いた澪が微笑むと、新聞部部長は一瞬表情を緩め、すぐに顔を引き締めた。
「どうしました?」
「そ、それが、今日発行しようと思っていた新聞のデータが、消えてしまったんです! ウラアカが削除されたことと、教師が2人退職したスクープネタだったのに!」
半泣きになって訴える。
「それは困りましたね」
澪は頬に手を添えて眉を下げた。
「昨日帰るまでは絶対あったんです。それなのに、さっき見たら消えてたんですよ。誰かが消したとしか思えません!」
「消えたのではなく、消された……。学院の誰かの仕業だと?」
澪の笑みが深くなる。
「い、いや、外部犯の可能性もあるかもですが」
「学院のセキュリティに問題があるということですか?」
「え、えっと、それは……」
新聞部部長はたじろぎ、目を泳がせた。
「……ネズミ、いえ、鳥のせいかしら」
澪はぽつりとこぼし、新聞部部長に背を向ける。
「ちょうどいいわ。次の段階に、進みましょうか」
薄い唇が、笑みの形を作る。
生徒会室の空気がわずかに澱む。
葵と晴の後に続いて麗が教室に入ると、クラスメイトたちはスマホを見ながら顔を突き合わせ、怪訝な顔をしていた。
「ウラアカ、マジで消えちゃってる」
「あーあ。町田先生と葉山先生の退職の理由、気になってたのに」
「絶対不倫のせいだって」
近くの席で話している声が耳に入ってくる。
「牧野先輩、ちゃんとやってくれたみたいだね」
晴が耳打ちをしてきた。
よかった。牧野先輩、分かってくれたんだ。お礼言わなきゃ。学校、来てくれたらいいな。
「町田と葉山のことは、おじさんが任せとけって言ったけど、こんなに早く退職させるとはな」
葵が足を組んで頬杖をついた。
「盗撮のことも一切漏れないように処理したみたいだし。サイトも消えてた」
どうやら理事長は、町田と葉山を警察に突き出すこともせず、裏で密かに処理したらしい。盗撮の罪に問われないのは腹立たしい。不服そうな表情の麗に、晴がふっと笑みを浮かべた。
「安心して。おじさんのことだから、表で裁かれるよりもエグイ方法で始末したと思うよ」
「……あー、うん」
麗は曖昧に頷き、自分の席に座った。
町田先生と葉山先生がどうなったのか、考えないでおこう。
新しい担任が来るのかな。理事長は考えてあるって言ってたけど……。
チャイムが鳴り、ざわめきが小さくなる。誰もが教室の扉に目を向けた。
だが、5分経っても、10分経っても、誰も入ってこない。
話し始めたり、席を立ったり、一斉に騒がしくなる。
その時。
ガラガラッ。
扉の開く音がして、しんと静まり返る。全員の視線が扉に集中した。
無精ひげを生やした中年の男が、欠伸をしながら入ってくる。
スーツはよれて皺だらけで、ネクタイは緩んでいる。やる気のなさそうな半目で教室を見渡すと、がさついた声でぼやいた。
「散らかってんな」
気だるそうにしながら、最前列の席の前を横切る。気づけば、乱れた机が整っていた。
「前のやつに、机を合わせろ」
生徒達はぽかんとした表情で、固まっている。
男は寝ぐせのついたぼさぼさの頭をぼりぼり掻いて、教壇に肘をついた。
「やれ」
静かだが、低く威圧感のある声が、ビリビリと空気を震わせる。
一斉に机を動かし、全員の姿勢が自然と伸びる。
この雰囲気、堅気じゃない。組長と同じ匂いがする。
「今日から俺が担任な。名前は、目白だ。よろしくー」
出席簿に目を落とす。一瞬、顔を上げてからすぐに閉じる。
「全員来てるな。今日は……」
天井に目を向けて首をコキッと鳴らす。
「何するんだっけな。まあ、いいや」
首をかきながら欠伸をする。
「やる気なさすぎだろ」
「ただのやさぐれたおっさんじゃん」
「大丈夫かよ」
ひそひそと話す声がひとつ、ふたつ増えていく。
ガタッ。
麗の前に座る生徒が椅子を動かし、麗の机に当たった。その拍子に机が揺れ、ペンが転がる。いつの間にか目の前に来ていた目白が、床に落ちる前に、音もなくペンをすくい上げた。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
ペンを受け取った時、重そうな一重まぶたの目とかち合う。
一瞬だけ、獲物を見るように細まる。
背筋が凍り、血の気が引く。
チャイムが鳴り、目白はポケットに手をつっこんで教室を出て行った。
「あいつ、カタギじゃないな」
葵が、麗の持つペンを睨む。
「だろうね」
葵の後ろから顔を出した晴が、プリンススマイルを浮かべる。近くの席の女子たちから、黄色い声が上がり、晴は手を振った。
「愛想ふりまいてんじゃねえよ。キモイ」
葵は、おえっと吐く真似をする。
「ファンサだよ。ウラアカはなくなったけど、ファンサイトは残ってるからね。いつ隠し撮りされるか分かんないじゃん。プリンスキャラは守らないと」
微笑んでいるが、やっぱり目は笑っていない。
「何で、無理して笑うの?」
「え?」
晴はきょとんとした顔で、麗を見つめる。
「病気なんだよ。愛想笑いしてないと、死んじまう」
鼻で笑って、晴を小突いた。
「……うるさいな。しかめっ面しかできないくせに。その顔じゃ、本当に欲しい物は一生手に入らないよ」
鋭利な眼差しを葵に向けると、ちらちら視線を送っていた女子たちの方へ行った。
「いつまでもお袋の言うことに縛られやがって。マザコンめ」
葵は舌打ちをして腕組をする。
「どういうこと?」
「お袋が出てった時、笑顔でいろって書置きしてあったんだよ。……忘れちまえばいいのに」
しかめっ面に影が落ちる。
「お母さんのこと、恨んでないの?」
葵はせせら笑い、麗を見下ろした。
「どうでもいい。親なんていてもいなくても一緒だ。おまえは?」
「私?」
「恨んでるのか?」
目を伏せた麗は、机の下で拳を握りしめる。
胸の空洞の蓋が、緩む。
どろどろとした冷たく、重い澱みが顔を覗かせる。
こんなの、葵の前に晒したくない。
きっと馬鹿にされる。私の過去ごと、全部。
父のことも、母の死も、自分の口からは言いたくない。
「つまんねえやつだな。だからおまえは下僕なんだ」
押し黙る麗に、葵が冷ややかな視線を向ける。
ガタン。
蓋が外れる音が、した。
「うるさい!」
思いっきり机を叩き、立ち上がる。椅子がひっくり返る。
教室中の視線が集まる。
葵の瞳が揺らぐ。麗の目の奥に焔のような光が宿る。
「恨んでるに決まってるでしょ! 私はあいつを絶対に許さない。必ず見つけ出してやる」
呼吸が荒れる。
鼓動が暴れる
胸が苦しい。
目の前の葵が滲む。頬を、冷たいものが伝った。
葵の指が一瞬頬に触れ、すぐに離れる。
口角を上げると、麗の頭をポンポンと叩き、薄茶色の瞳を覗き込んだ。
「良い目してんじゃん。……麗」
麗は目を丸くして葵を見上げた。
教室のどよめきが遠くに聞こえる。
また、名前……。
鼓動が、さっきよりも早くなる。心臓が鷲掴みされたみたいに痛い。
——こんなの、知らない。
頭を抱えた麗は、前髪を撫でて目元を隠した。
葵のせいで、午前中の授業は全く身が入らなかった。ようやく落ち着きを取り戻し頃には、お昼になっていた。
2人と学食で昼食をとっていると、じろじろ見られたり、勝手に写真を撮られたりして、全く食事に集中できない。葵と晴は気にも止めず、黙々と食べ進めている。
「食わないならもらうぞ」
葵が麗のトンカツを口に放り込んだ。
「あっ、取っておいたのに!」
伸ばした手は空を切った。葵の口を恨めしそうに睨みつける。
「そうだ、これ。町田先生のじゃないって言ってたでしょ」
晴はポケットから、アダプタ型の小型カメラを取り出した。
「録画見たら、仕掛けた犯人が映ってるかと思ったんだけど。遠隔操作できるみたいで、データは全部消されてたんだ」
「用意周到だな」
葵は味噌汁をすすって箸を置いた。
「町田先生を後押しした黒幕が、盗撮の証拠映像を残すために仕掛けたんだろうね」
お茶を飲み干した晴は、空になったコップをお盆に置いた。
「黒幕の目的は何?」
キャベツをかき集めながら、麗は眉間にしわを寄せた。
「結局は裏切ろうとしてたんじゃない? 町田先生に恨みでもあったか。あるいは、裏切られた時の顔を見て、楽しみたかったか」
晴が三日月型の目で微笑む。麗の箸が寸の間止まった。
「おまえみたいな変態サイコドS野郎が、他にいてたまるかよ」
葵が顔を歪め、麗は頷く。
「心外だな。ぼくは変態サイコじゃないよ」
晴は頬を膨らませ、アダプタをポケットにしまうと、お盆を持って立ち上がった。
「ドSは認めんのか」
葵も立ち上がる。
麗は急いでキャベツをかきこみ、葵の皿を片付けようと手を伸ばした。
だが、そこには何もない。食器返却口に向かう葵の手には、皿がある。
「……何で?」
急に名前で呼んだり、自分で皿を片付けたり、どうしたの? 何か裏がありそうで怖い。いや、葵には裏がない。じゃあ、何?
じんわりと、胸の中が熱を持つ。不可解だけど、不快な感じはしなかった。
食堂を出ると、晴はアダプタを手のひらの上で転がしながら、首を捻った。
「フクロウさんにハッカーを紹介してもらって、遠隔操作をしたデバイスとユーザーを見つけてもらえば、黒幕が誰か分かると思うんだよね」
「ウラアカと盗撮事件の黒幕、同一人物じゃないかな」
ぽつりと呟く麗を、葵が横目で見た。
「何でだよ?」
「ウラアカウントで学院の評判を落とす噂を広めて、その上で、盗撮事件を起こさせたんだよ。事件が明るみになってたら、学院も理事長も危うかった」
指先が冷える。
黒幕の影が、学院を覆っているようだ。
「証拠映像を使えば、葉山先生を脅して、牧野先輩の出席日数を改ざんできる。牧野先輩に取引を持ちかけたMisaoが、黒幕だよ」
麗はアダプタを見つめる。小さなレンズが、きらりと光った。
「ミサオ、ミオ、サオ……」
ぶつぶつ呟く晴は、はっとした顔で足を止めた。
その時、廊下にいる生徒たちがさざめきだした。
「佐沖会長だ!」
「美人で優秀とか、完璧すぎる!」
麗たちの向かいから、澪が歩いてくる。まるでランウェイを歩くモデルのようだ。
「やっぱ、おまえと同じ匂いがする」
葵が耳打ちをすると、晴は小さく笑った。
「ぼくの方が、うまく隠してるよ」
澪と目が合い、晴は微笑む。澪の肩がわずかに動き、すっと視線をそらす。
その先にあるのは、アダプタ型カメラ。
晴の目元がきらりと光った。
「ごきげんよう」
澪が会釈をして通り過ぎようとする。
アダプタ型カメラが、床に落ちる。コツン、と軽い音を立てて転がり、澪の上履きに当たった。
「あっ、すみません」
晴は眉を下げて肩をすぼめた。澪はしゃがみ込み、迷いなくそれを拾い上げ、手渡した。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
晴は澪から視線を外さず、受け取る。
「これ、拾ったんですけど。会長さんのじゃないですよね?」
無邪気な笑みを浮かべながら、探るような目を澪に向ける。
「……いいえ。落とし物なら、先生に届けるべきね」
晴に向かって、手のひらを差し出す。
「ちょうど職員室に行くところだから、私が持っていくわ」
澪は目元を和らげ、えくぼを浮かべる。
2人の視線が交差する。
どちらもお手本のような笑顔だが、麗は身がすくむ。
晴は一瞬だけ目を細め、口角を上げた。
「そんな。悪いですよ」
首を振って、アダプタをポケットにしまう。
「ぼくが自分で持っていきます。会長さん、噂どおり優しいですね」
後光が差しそうなプリンススマイル。澪のえくぼがピクッと反応する。
「あなたも、噂通りね」
澪は長い黒髪をなびかせ、廊下の角を曲がった。
「笑顔合戦、こわい……」
腕をさすりながら麗が呟く。
「わざとらしい演技しやがって」
葵が鼻で笑う。
「なんか、怪しいんだよなあ」
晴は澪の消えた方を見ながら、ぽつりとこぼした。
澪は唇を噛みしめ、階段を駆け上がる。
屋上の扉に背中を預けてその場にしゃがみ込み、熱を持った頬を両手で押さえた。
「……しゃべってしまったわ」
声がかすれる。震える指先でスマホを開く。ファンサイトの画面をスクロールし、晴の画像を食い入るように見つめる。
「ハルさま……」
スマホを額に当て、長く息を吐き出した。
——アダプタ型カメラ。落としたのは、偶然じゃない。
「気づかれたかしら」
頬の熱がすっと引いていく。
「理事長と手を組んでいるの?」
スマホに映る晴に問いかける。
「やっぱり、私とあなたは、ロミオとジュリエットなのね」
三日月型に目を細め、晴の顔をそっと撫でる。瞳の奥に、冷たい光が宿った。
ホームルームでの連絡事項を終えた目白は、ぼさぼさの頭をかきながら、バインダーを閉じた。
「以上だ。散会。とっとと帰れー」
目白は日直の挨拶を待たずに教壇を下りると、葵、晴、麗を指差した。
「おまえたち3人は、俺と来い」
覇気はないのに、有無を言わせない眼光で射抜かれた。
「入るぞ」
目白はノックもなしに理事長室に入り、ソファに腰を下ろした。
「目白さん、お疲れ様です」
理事長は目白の向かいに座ると、気さくな笑みを浮かべた。
「おじさんと目白先生って、知り合い?」
晴が尋ねると、理事長は微笑んだ。
「お義兄さんに紹介してもらったんだよ。腕の良い掃除屋さんを」
葵と晴は納得したように頷くが、麗は首をかしげた。
「掃除屋さん?」
「もちろんウラのだよ。以前から、公になるとまずい学院のあれこれを処理してもらっていたんだ。町田先生と葉山先生のこともね」
理事長の目尻の皺が深くなる。恐ろしすぎて詳細は聞きたくない。
「ついでに、君たちの担任の穴埋めをお願いしたんだよ」
「人遣いが荒い」
目白は眉間を押さえて、低く唸った。
「いやあ、すみませんね。ウラ風紀委員の顧問もお願いしてしまって」
葵、晴、麗は同時に顔をしかめ、困惑の眼差しを目白に向けた。
「は?」
「ん?」
「え?」
3人の視線を受け流し、目白はだらしなく大口を開けて欠伸をした。
「めんどくせえ」
パソコンのキーボードを打ち鳴らす音や、早口でまくし立てる声が、生徒会室に響く。
澪は書類から目を上げ、一定のリズムで用紙をはきだしているプリンターを、横目で見た。
「会長、できました!」
澪は用紙を受け取り、微笑んだ。
「ありがとう。ご苦労様」
立ち上がって、手を2回打ち鳴らす。
「皆さん」
しんと静まる室内に、プリンターの稼働音が響く。
「明日からのクリーン運動、宜しくお願いしますね」
「はいっ!」
生徒会役員の声が揃う。
澪は用紙に目を落とし、「クリーン運動」の文字をなぞった。
次の一手、あなたたちはどう打ち返すかしら。
薄い唇から、小さな笑みがこぼれた。
葵と晴に続いて麗が昇降口から出ると、雨がぽつぽつと降り出した。麗は鞄から折り畳み傘を出して開く。
「傘持ってんじゃん」
右側に葵が無理やり入り込んできた。
「持ってきてないの?」
非難の目を向けるが、葵は目を合わせようとしない。
「じゃあ、ぼくも」
左側に晴も入ってきた。
「狭いんだけど」
麗は2人に挟まれてぎゅっと肩を縮め、顔をしかめた。
「我慢しろ」
そういう葵の右肩は濡れている。
「折り畳みに3人は、だいぶ無理があるよね」
晴は左肩を濡らして苦笑を浮かべた。
分かっているなら、傘から出てほしい。
そう思うのに、葵と晴の腕に触れている両肩が熱い。
この距離感、嫌じゃないと思うのはどうして?
降りしきる雨だけが、私のざわつきを知っている気がした。
傘を弾く雨音が、次第に強くなる。まるで、嵐の前触れみたいに。
ふと。
雨の向こうで、誰かが静かにこちらを見ている気がした。
——“ウラ”はまだ、終わらない。
アラーム音に起こされた麗は、目をこすりながらカーテンを開ける。
ウラアカウント問題も、盗撮事件も解決したのに、空はあいにくの曇り模様。
「お母さん、おはよう」
麗の肩に手を置いて笑顔で映っている母に、手を合わせる。
「……絶対、見つけてやる」
顔を塗りつぶされている父を睨みつける。
父によって空けられた胸の空洞から、穢れた感情がどろどろと流れ出る。
制服の上から胸元を押さえつけ、頑丈に蓋をする。
この感情は、知られたくない。特に、あいつには。
向かいの部屋のドアを見つめ、ふっと息を吐き出した。
「起きる時間ですよ」
ノックをしても何の反応もない。ドアに耳をつけてみるが、一切物音が聞こえない。
いつもどおり。いい加減、自分で起きてほしい。
ドアを開けると、ベッドの上で葵がお腹を出して寝ている。床に落ちている布団を畳んで、麗は溜息をついた。
「葵さま、じゃなくて……アオ」
呼び慣れない名前に、鳥肌が立つ。
猫っ毛に寝癖がついて、鳥の巣みたいな頭だ。なのに、整った凛々しい眉に、伏せられた長いまつげ、わずかに開いた唇がプラスに働いて、イケメンが損なわれない。
「起きて!」
肩を揺らそうと手を伸ばした時。
「……うるせえ」
葵が片目を開ける。手首を掴み、強く引っ張られる。
「わっ!」
態勢が崩れたところを抱きとめられ、顔が近づく。
心臓が跳ね上がり、体中の血が全速力で駆け巡る。
寝起きのくせに、中身クソガキのくせに、何でこんなに無駄にイケメンなわけ⁉
「麗」
掠れた声で名前を呼ばれる。
「……っ!」
耳も顔も、全部熱い。
今、名前呼ぶとか、反則!
まだ寝ぼけているのか、葵の目は焦点が合っていない。
「……寝言? もう、離してよ!」
手首をぶんぶん振る。
葵は目をこすり、ようやく麗の顔に焦点を当てた。徐々に瞳孔が開いていく。
「おまっ、何してんだよ!」
ぱっと手を離して、赤い顔で睨みつけてきた。
「それはこっちのセリフなんだけど。さっさと仕度して」
麗は言い捨てると、勢いよくドアを閉めた。
頬が熱を帯びている。早鐘を打つ鼓動の音がうるさい。落ち着かせるように両手を頬に当て、早足にキッチンへ向かった。
「あいつ、何なの」
フライパンに火をつけて卵を3つ落とし、水を入れてふたをする。パチパチ弾ける音に耳を傾けながら、呟いた。
『麗』
葵の声が、鼓膜の裏にこびりついて離れない。
名前を呼ばれたの、何年振り?
「おはよう、麗ちゃん。顔、赤くない?」
ふいに背後から晴の声がして、麗は慌てて振り向いた。
「びっくりした!」
「おいしそうな匂いだね」
笑みを浮かべた晴が距離を詰めてくる。
「ちょっと、近い。邪魔なんだけど」
「そう? あ、ぼくの目玉焼き、半熟がいいな」
麗の横に立って、晴がフライパンの蓋を開ける。麗は肩をすくめて火を止めた。
「……アオと何かあった?」
ドクン。
胸の奥が脈打つ。振り向くと、獲物を捕らえる獣のような目とかち合った。
「離れろ」
寝癖をつけたままの葵が、晴の襟首を掴む。
「麗ちゃんと大事な話してたのに。ねえ?」
「してない。ご飯できたから、あっちで待ってて」
犬を追い払うように手を払う。
しょぼくれた真似をして、葵とリビングへ行った。
「ねえ、アオ。麗ちゃんってさ」
定位置に座った晴が、キッチンに立つ麗の後ろ姿を眺めながら話しかける。
「手放したくなくなるよね」
「はあ?」
顔をしかめる葵に、晴は目を三日月型に細めた。
「ぼくだけのモノにしてもいい?」
葵の目をまっすぐ見据える。
「いいわけねえだろ」
青筋を立て、晴の胸倉を掴みかかった。
「ちょっと、何やってるの」
朝食を運んできた麗が2人の間に割って入った。
葵は舌打ちをして、トーストにかじりつく。手の付けられない大型犬のようだ。
「暴力的だなあ。優しい方がモテるのに。麗ちゃんもそう思うよね?」
「さあ。2人にファンがいることが信じられない」
「そう? 麗ちゃんにもファンができるかもよ」
晴が麗の前髪をさっと持ち上げる。薄茶色の瞳に、晴の意地悪そうな笑顔が映る。
麗は無言で晴の手を払い、前髪を撫でつけた。
「なわけねえだろ」
葵がせせら笑う。
「麗ちゃんの噂、拡散されてるよ。ぼくたちの妹で、美人だって」
晴がスマホを開いて、ファンサイトを見せてきた。そこには、葵と晴の間に挟まれた麗の画像が映っている。
「誰がそんなデマ信じるんだよ」
麗をじっと見つめる葵の瞳は、ほんの少し不安げに揺れている。
何でそんな目で見るの。
私の噂なんて、どうでもいいくせに。
生徒会室の窓から、登校してくる生徒たちを眺めている澪は、薄い唇を引き結んだ。手元のスマホに目を落とす。真っ白のページに「404 not found」の文字が表示されている。
「全部、きれいに消してくれたわね。もう少しで、おもしろくなったのに」
トントン。
ノックの音と共に、慌てた表情の新聞部部長が飛び込んできた。
「し、失礼します! 佐沖会長、お話が!」
振り向いた澪が微笑むと、新聞部部長は一瞬表情を緩め、すぐに顔を引き締めた。
「どうしました?」
「そ、それが、今日発行しようと思っていた新聞のデータが、消えてしまったんです! ウラアカが削除されたことと、教師が2人退職したスクープネタだったのに!」
半泣きになって訴える。
「それは困りましたね」
澪は頬に手を添えて眉を下げた。
「昨日帰るまでは絶対あったんです。それなのに、さっき見たら消えてたんですよ。誰かが消したとしか思えません!」
「消えたのではなく、消された……。学院の誰かの仕業だと?」
澪の笑みが深くなる。
「い、いや、外部犯の可能性もあるかもですが」
「学院のセキュリティに問題があるということですか?」
「え、えっと、それは……」
新聞部部長はたじろぎ、目を泳がせた。
「……ネズミ、いえ、鳥のせいかしら」
澪はぽつりとこぼし、新聞部部長に背を向ける。
「ちょうどいいわ。次の段階に、進みましょうか」
薄い唇が、笑みの形を作る。
生徒会室の空気がわずかに澱む。
葵と晴の後に続いて麗が教室に入ると、クラスメイトたちはスマホを見ながら顔を突き合わせ、怪訝な顔をしていた。
「ウラアカ、マジで消えちゃってる」
「あーあ。町田先生と葉山先生の退職の理由、気になってたのに」
「絶対不倫のせいだって」
近くの席で話している声が耳に入ってくる。
「牧野先輩、ちゃんとやってくれたみたいだね」
晴が耳打ちをしてきた。
よかった。牧野先輩、分かってくれたんだ。お礼言わなきゃ。学校、来てくれたらいいな。
「町田と葉山のことは、おじさんが任せとけって言ったけど、こんなに早く退職させるとはな」
葵が足を組んで頬杖をついた。
「盗撮のことも一切漏れないように処理したみたいだし。サイトも消えてた」
どうやら理事長は、町田と葉山を警察に突き出すこともせず、裏で密かに処理したらしい。盗撮の罪に問われないのは腹立たしい。不服そうな表情の麗に、晴がふっと笑みを浮かべた。
「安心して。おじさんのことだから、表で裁かれるよりもエグイ方法で始末したと思うよ」
「……あー、うん」
麗は曖昧に頷き、自分の席に座った。
町田先生と葉山先生がどうなったのか、考えないでおこう。
新しい担任が来るのかな。理事長は考えてあるって言ってたけど……。
チャイムが鳴り、ざわめきが小さくなる。誰もが教室の扉に目を向けた。
だが、5分経っても、10分経っても、誰も入ってこない。
話し始めたり、席を立ったり、一斉に騒がしくなる。
その時。
ガラガラッ。
扉の開く音がして、しんと静まり返る。全員の視線が扉に集中した。
無精ひげを生やした中年の男が、欠伸をしながら入ってくる。
スーツはよれて皺だらけで、ネクタイは緩んでいる。やる気のなさそうな半目で教室を見渡すと、がさついた声でぼやいた。
「散らかってんな」
気だるそうにしながら、最前列の席の前を横切る。気づけば、乱れた机が整っていた。
「前のやつに、机を合わせろ」
生徒達はぽかんとした表情で、固まっている。
男は寝ぐせのついたぼさぼさの頭をぼりぼり掻いて、教壇に肘をついた。
「やれ」
静かだが、低く威圧感のある声が、ビリビリと空気を震わせる。
一斉に机を動かし、全員の姿勢が自然と伸びる。
この雰囲気、堅気じゃない。組長と同じ匂いがする。
「今日から俺が担任な。名前は、目白だ。よろしくー」
出席簿に目を落とす。一瞬、顔を上げてからすぐに閉じる。
「全員来てるな。今日は……」
天井に目を向けて首をコキッと鳴らす。
「何するんだっけな。まあ、いいや」
首をかきながら欠伸をする。
「やる気なさすぎだろ」
「ただのやさぐれたおっさんじゃん」
「大丈夫かよ」
ひそひそと話す声がひとつ、ふたつ増えていく。
ガタッ。
麗の前に座る生徒が椅子を動かし、麗の机に当たった。その拍子に机が揺れ、ペンが転がる。いつの間にか目の前に来ていた目白が、床に落ちる前に、音もなくペンをすくい上げた。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
ペンを受け取った時、重そうな一重まぶたの目とかち合う。
一瞬だけ、獲物を見るように細まる。
背筋が凍り、血の気が引く。
チャイムが鳴り、目白はポケットに手をつっこんで教室を出て行った。
「あいつ、カタギじゃないな」
葵が、麗の持つペンを睨む。
「だろうね」
葵の後ろから顔を出した晴が、プリンススマイルを浮かべる。近くの席の女子たちから、黄色い声が上がり、晴は手を振った。
「愛想ふりまいてんじゃねえよ。キモイ」
葵は、おえっと吐く真似をする。
「ファンサだよ。ウラアカはなくなったけど、ファンサイトは残ってるからね。いつ隠し撮りされるか分かんないじゃん。プリンスキャラは守らないと」
微笑んでいるが、やっぱり目は笑っていない。
「何で、無理して笑うの?」
「え?」
晴はきょとんとした顔で、麗を見つめる。
「病気なんだよ。愛想笑いしてないと、死んじまう」
鼻で笑って、晴を小突いた。
「……うるさいな。しかめっ面しかできないくせに。その顔じゃ、本当に欲しい物は一生手に入らないよ」
鋭利な眼差しを葵に向けると、ちらちら視線を送っていた女子たちの方へ行った。
「いつまでもお袋の言うことに縛られやがって。マザコンめ」
葵は舌打ちをして腕組をする。
「どういうこと?」
「お袋が出てった時、笑顔でいろって書置きしてあったんだよ。……忘れちまえばいいのに」
しかめっ面に影が落ちる。
「お母さんのこと、恨んでないの?」
葵はせせら笑い、麗を見下ろした。
「どうでもいい。親なんていてもいなくても一緒だ。おまえは?」
「私?」
「恨んでるのか?」
目を伏せた麗は、机の下で拳を握りしめる。
胸の空洞の蓋が、緩む。
どろどろとした冷たく、重い澱みが顔を覗かせる。
こんなの、葵の前に晒したくない。
きっと馬鹿にされる。私の過去ごと、全部。
父のことも、母の死も、自分の口からは言いたくない。
「つまんねえやつだな。だからおまえは下僕なんだ」
押し黙る麗に、葵が冷ややかな視線を向ける。
ガタン。
蓋が外れる音が、した。
「うるさい!」
思いっきり机を叩き、立ち上がる。椅子がひっくり返る。
教室中の視線が集まる。
葵の瞳が揺らぐ。麗の目の奥に焔のような光が宿る。
「恨んでるに決まってるでしょ! 私はあいつを絶対に許さない。必ず見つけ出してやる」
呼吸が荒れる。
鼓動が暴れる
胸が苦しい。
目の前の葵が滲む。頬を、冷たいものが伝った。
葵の指が一瞬頬に触れ、すぐに離れる。
口角を上げると、麗の頭をポンポンと叩き、薄茶色の瞳を覗き込んだ。
「良い目してんじゃん。……麗」
麗は目を丸くして葵を見上げた。
教室のどよめきが遠くに聞こえる。
また、名前……。
鼓動が、さっきよりも早くなる。心臓が鷲掴みされたみたいに痛い。
——こんなの、知らない。
頭を抱えた麗は、前髪を撫でて目元を隠した。
葵のせいで、午前中の授業は全く身が入らなかった。ようやく落ち着きを取り戻し頃には、お昼になっていた。
2人と学食で昼食をとっていると、じろじろ見られたり、勝手に写真を撮られたりして、全く食事に集中できない。葵と晴は気にも止めず、黙々と食べ進めている。
「食わないならもらうぞ」
葵が麗のトンカツを口に放り込んだ。
「あっ、取っておいたのに!」
伸ばした手は空を切った。葵の口を恨めしそうに睨みつける。
「そうだ、これ。町田先生のじゃないって言ってたでしょ」
晴はポケットから、アダプタ型の小型カメラを取り出した。
「録画見たら、仕掛けた犯人が映ってるかと思ったんだけど。遠隔操作できるみたいで、データは全部消されてたんだ」
「用意周到だな」
葵は味噌汁をすすって箸を置いた。
「町田先生を後押しした黒幕が、盗撮の証拠映像を残すために仕掛けたんだろうね」
お茶を飲み干した晴は、空になったコップをお盆に置いた。
「黒幕の目的は何?」
キャベツをかき集めながら、麗は眉間にしわを寄せた。
「結局は裏切ろうとしてたんじゃない? 町田先生に恨みでもあったか。あるいは、裏切られた時の顔を見て、楽しみたかったか」
晴が三日月型の目で微笑む。麗の箸が寸の間止まった。
「おまえみたいな変態サイコドS野郎が、他にいてたまるかよ」
葵が顔を歪め、麗は頷く。
「心外だな。ぼくは変態サイコじゃないよ」
晴は頬を膨らませ、アダプタをポケットにしまうと、お盆を持って立ち上がった。
「ドSは認めんのか」
葵も立ち上がる。
麗は急いでキャベツをかきこみ、葵の皿を片付けようと手を伸ばした。
だが、そこには何もない。食器返却口に向かう葵の手には、皿がある。
「……何で?」
急に名前で呼んだり、自分で皿を片付けたり、どうしたの? 何か裏がありそうで怖い。いや、葵には裏がない。じゃあ、何?
じんわりと、胸の中が熱を持つ。不可解だけど、不快な感じはしなかった。
食堂を出ると、晴はアダプタを手のひらの上で転がしながら、首を捻った。
「フクロウさんにハッカーを紹介してもらって、遠隔操作をしたデバイスとユーザーを見つけてもらえば、黒幕が誰か分かると思うんだよね」
「ウラアカと盗撮事件の黒幕、同一人物じゃないかな」
ぽつりと呟く麗を、葵が横目で見た。
「何でだよ?」
「ウラアカウントで学院の評判を落とす噂を広めて、その上で、盗撮事件を起こさせたんだよ。事件が明るみになってたら、学院も理事長も危うかった」
指先が冷える。
黒幕の影が、学院を覆っているようだ。
「証拠映像を使えば、葉山先生を脅して、牧野先輩の出席日数を改ざんできる。牧野先輩に取引を持ちかけたMisaoが、黒幕だよ」
麗はアダプタを見つめる。小さなレンズが、きらりと光った。
「ミサオ、ミオ、サオ……」
ぶつぶつ呟く晴は、はっとした顔で足を止めた。
その時、廊下にいる生徒たちがさざめきだした。
「佐沖会長だ!」
「美人で優秀とか、完璧すぎる!」
麗たちの向かいから、澪が歩いてくる。まるでランウェイを歩くモデルのようだ。
「やっぱ、おまえと同じ匂いがする」
葵が耳打ちをすると、晴は小さく笑った。
「ぼくの方が、うまく隠してるよ」
澪と目が合い、晴は微笑む。澪の肩がわずかに動き、すっと視線をそらす。
その先にあるのは、アダプタ型カメラ。
晴の目元がきらりと光った。
「ごきげんよう」
澪が会釈をして通り過ぎようとする。
アダプタ型カメラが、床に落ちる。コツン、と軽い音を立てて転がり、澪の上履きに当たった。
「あっ、すみません」
晴は眉を下げて肩をすぼめた。澪はしゃがみ込み、迷いなくそれを拾い上げ、手渡した。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
晴は澪から視線を外さず、受け取る。
「これ、拾ったんですけど。会長さんのじゃないですよね?」
無邪気な笑みを浮かべながら、探るような目を澪に向ける。
「……いいえ。落とし物なら、先生に届けるべきね」
晴に向かって、手のひらを差し出す。
「ちょうど職員室に行くところだから、私が持っていくわ」
澪は目元を和らげ、えくぼを浮かべる。
2人の視線が交差する。
どちらもお手本のような笑顔だが、麗は身がすくむ。
晴は一瞬だけ目を細め、口角を上げた。
「そんな。悪いですよ」
首を振って、アダプタをポケットにしまう。
「ぼくが自分で持っていきます。会長さん、噂どおり優しいですね」
後光が差しそうなプリンススマイル。澪のえくぼがピクッと反応する。
「あなたも、噂通りね」
澪は長い黒髪をなびかせ、廊下の角を曲がった。
「笑顔合戦、こわい……」
腕をさすりながら麗が呟く。
「わざとらしい演技しやがって」
葵が鼻で笑う。
「なんか、怪しいんだよなあ」
晴は澪の消えた方を見ながら、ぽつりとこぼした。
澪は唇を噛みしめ、階段を駆け上がる。
屋上の扉に背中を預けてその場にしゃがみ込み、熱を持った頬を両手で押さえた。
「……しゃべってしまったわ」
声がかすれる。震える指先でスマホを開く。ファンサイトの画面をスクロールし、晴の画像を食い入るように見つめる。
「ハルさま……」
スマホを額に当て、長く息を吐き出した。
——アダプタ型カメラ。落としたのは、偶然じゃない。
「気づかれたかしら」
頬の熱がすっと引いていく。
「理事長と手を組んでいるの?」
スマホに映る晴に問いかける。
「やっぱり、私とあなたは、ロミオとジュリエットなのね」
三日月型に目を細め、晴の顔をそっと撫でる。瞳の奥に、冷たい光が宿った。
ホームルームでの連絡事項を終えた目白は、ぼさぼさの頭をかきながら、バインダーを閉じた。
「以上だ。散会。とっとと帰れー」
目白は日直の挨拶を待たずに教壇を下りると、葵、晴、麗を指差した。
「おまえたち3人は、俺と来い」
覇気はないのに、有無を言わせない眼光で射抜かれた。
「入るぞ」
目白はノックもなしに理事長室に入り、ソファに腰を下ろした。
「目白さん、お疲れ様です」
理事長は目白の向かいに座ると、気さくな笑みを浮かべた。
「おじさんと目白先生って、知り合い?」
晴が尋ねると、理事長は微笑んだ。
「お義兄さんに紹介してもらったんだよ。腕の良い掃除屋さんを」
葵と晴は納得したように頷くが、麗は首をかしげた。
「掃除屋さん?」
「もちろんウラのだよ。以前から、公になるとまずい学院のあれこれを処理してもらっていたんだ。町田先生と葉山先生のこともね」
理事長の目尻の皺が深くなる。恐ろしすぎて詳細は聞きたくない。
「ついでに、君たちの担任の穴埋めをお願いしたんだよ」
「人遣いが荒い」
目白は眉間を押さえて、低く唸った。
「いやあ、すみませんね。ウラ風紀委員の顧問もお願いしてしまって」
葵、晴、麗は同時に顔をしかめ、困惑の眼差しを目白に向けた。
「は?」
「ん?」
「え?」
3人の視線を受け流し、目白はだらしなく大口を開けて欠伸をした。
「めんどくせえ」
パソコンのキーボードを打ち鳴らす音や、早口でまくし立てる声が、生徒会室に響く。
澪は書類から目を上げ、一定のリズムで用紙をはきだしているプリンターを、横目で見た。
「会長、できました!」
澪は用紙を受け取り、微笑んだ。
「ありがとう。ご苦労様」
立ち上がって、手を2回打ち鳴らす。
「皆さん」
しんと静まる室内に、プリンターの稼働音が響く。
「明日からのクリーン運動、宜しくお願いしますね」
「はいっ!」
生徒会役員の声が揃う。
澪は用紙に目を落とし、「クリーン運動」の文字をなぞった。
次の一手、あなたたちはどう打ち返すかしら。
薄い唇から、小さな笑みがこぼれた。
葵と晴に続いて麗が昇降口から出ると、雨がぽつぽつと降り出した。麗は鞄から折り畳み傘を出して開く。
「傘持ってんじゃん」
右側に葵が無理やり入り込んできた。
「持ってきてないの?」
非難の目を向けるが、葵は目を合わせようとしない。
「じゃあ、ぼくも」
左側に晴も入ってきた。
「狭いんだけど」
麗は2人に挟まれてぎゅっと肩を縮め、顔をしかめた。
「我慢しろ」
そういう葵の右肩は濡れている。
「折り畳みに3人は、だいぶ無理があるよね」
晴は左肩を濡らして苦笑を浮かべた。
分かっているなら、傘から出てほしい。
そう思うのに、葵と晴の腕に触れている両肩が熱い。
この距離感、嫌じゃないと思うのはどうして?
降りしきる雨だけが、私のざわつきを知っている気がした。
傘を弾く雨音が、次第に強くなる。まるで、嵐の前触れみたいに。
ふと。
雨の向こうで、誰かが静かにこちらを見ている気がした。
——“ウラ”はまだ、終わらない。
