コトン。
窓から入ってきた風で、写真立てが倒れた。
「お母さん……」
笑顔で映る母の顔を撫でる。
黒く塗りつぶされた父の顔を、親指で押し潰す。
父親と生徒会長がどういう関係なのか。
生徒会長の思惑は何なのか。
まったく見当がつかない。
どんな裏があるとしても——。
しわくちゃの入園チケットをサコッシュに入れる。
選んだ。澪に会いに行くことを。
黒のキャップを目深に被り、ドアを静かに開ける。
向かいの葵と晴の部屋はしんとしている。
麗は抜き足差し足で、音を立てないよう気をつけながら家を出て行った。
「あいつ、ひとりでどこ行くんだよ」
門を出て行く麗の後ろ姿に、葵が鋭利な目線を投げかける。
「気になるよね。はい、これ」
玄関から出て来た晴が、葵にキャップを渡した。
「尾行は、顔を隠すのが定番でしょ。マスクとサングラスもあるけど、いる?」
ボディバックから、マスクとサングラスを取り出して見せた。
「尾行って……。おまえも行くのかよ」
「当たり前でしょ。ぼくも麗ちゃんのこと心配だし。多分、あの人と会うんだろうけど」
晴はマスクとサングラスをつけながら、麗の背中を目で追った。
「何話してたのか、教えてくれなかったからさ、めっちゃ気になるんだよね」
靴音を立てないよう慎重に歩き出す。だが、その出で立ちは、どこからどう見ても、怪しい。
すれ違う人々がちらちら視線を送っている。
「逆に目立ってるじゃねえか」
葵はキャップを被って、晴のサングラスをはずし、ボディバックに突っ込んだ。
後をつけられていることに気づかないまま、麗は電車を乗り継ぎ、遊園地に到着した。
スマホで時間を確認すると、11時ちょうど。
ゲートに行くと、端の方に澪の姿見えた。
白いワンピースにショールを羽織った澪が、手を振った。ポニーテールに束ねた黒髪が揺れている。
子連れの父親、彼女と手を繋いでいる彼氏、スタッフの男性など、その場にいる異性の目をすべて惹きつけている。
うわあ、目立ってる……。
麗は嫌そうな顔をしながら、澪に会釈をした。
「来てくれると思ってたわ」
ふふっとお手本のような笑顔を浮かべる。
「……ひとり、よね?」
澪がわずかに目を細める。その視線の先には、チケットを買う葵と晴がいる。
「はい。2人には、何も言わずに出てきました」
「そう。行きましょうか」
澪がカードのようなものをスタッフに見せると、驚いて頭を下げ、スタッフ専用の入口を開けた。チケットを見せることなく、そのまま通された。
生徒会長、何者? 大熊ってそんなに金持ちなの?
鹿島組もすごいけど、さすがにここまでじゃない……。
口をあんぐり開けている麗に、澪が耳打ちをした。
「この遊園地はね、母方のおじいさまがつくったの。だから私は、永遠のフリーパスを持ってるのよ」
カードをちらっと見せて、すぐにハンドバックにしまった。
「他の人には内緒よ。麗さんは、特別なお友達だもの」
品の良い笑み。突然の名前呼び。特別感。
澪の演出は、完璧だ。
でも、私には通用しない。
味方のふりをして、最終的に絶望を突きつけるドS野郎を知っているから。
「生徒会長」
麗は足を止める。
「ここは学院じゃないわ。澪って呼んで」
人を惹きつけるきれいな笑顔。だけどどこか作り物っぽい。
「じゃあ、澪さん。私の前では、無理して笑わないでいいです」
「えっ……?」
笑顔が固まる。
「私が特別だっていうなら、素顔の澪さんを見せてください」
薄茶色の瞳で、澪の笑っていない目をじっと見つめる。
「ふふふっ。まさか、あなたまでそんなことを言うなんて」
作り物の笑顔が、ほんの少し崩れる。
「そうね。麗さんもかわいいお顔をさらけ出したんですもの。私も応えないと」
澪は麗の背後に目をやる。
タコの乗り物の影に身を潜める葵と晴を見つけた。
「個室でゆっくりお話ししましょう」
「個室?」
「あれよ」
小高い場所にある観覧車を、澪が指差した。
そして、麗の腕をとってヒールをとは思えない速さで人混みの中をどんどん掻き分けて進んでいった。
葵と晴は慌てて追いかけた。だが、雑踏にのまれ、見失ってしまう。
「くそっ、気づいてやがった」
「目ざといねえ。でも、大丈夫」
晴はスマホの画面を得意げに見せた。
園内の地図の上に、赤い丸と青い丸が光っている。
「赤い丸はぼく。少しずつ動いているのが、麗ちゃんの靴の裏に貼っておいたGPS」
「こわっ」
ドン引きする葵に、晴は唇を尖らせた。
「これのおかげで麗ちゃんの場所分かるんだから、感謝してほしいぐらいだよ」
「へいへい。行くぞ」
晴のスマホを奪って、先に歩き出した。
「あっ、返してよ。……まあ、いいや。多分あそこだろうな」
晴はゆったりとした動きで回る観覧車に目を向け、葵の後を追っていった。
観覧車がだんだん近くに見えてくる。
澪の足に迷いはない。
「よく、来るんですか?」
「昔ね。小さい頃は、母としょっちゅう来ていたわ。思い出の場所、みたいなものね」
思い出の場所。
……私にも、あったのに。
「いたぞ」
観覧車の列に並ぶ、澪と麗が見えた。
「どうする? これに乘られたら、何もできないよ」
「乱入してやるか」
指の骨を鳴らし、大股で近づいていく。
それに気づいた澪が、目を光らせる。
「麗さん、こっち」
澪は麗の腕を掴み、列からそれる。先頭まで行くと、スタッフにカードを見せ、何やら囁いた。スタッフはへこへこ頭を下げると、バーを上げて澪と麗を通してくれた。葵の怒鳴り声が遠くに聞こえる。
「アオ?」
振り向こうとする麗の腕を取り、澪はさっさとゴンドラに乗り込んだ。窓の外を見ると、悔しそうな顔の葵が地団太を踏み、その隣で晴が苦笑している。
あの2人、ついてきてたの?
どうして……。
「ここなら誰にも邪魔されないわ」
澪はほくそ笑んで、カードをしまった。
「そのカード、何でもありですね」
「そうね。小さい頃は、本気で自分がお姫様だって思っていたわ。両親は、私の願いを何でも叶えてくれたから。だけど……」
遠くを見るかのように、麗の瞳を見つめる。
「私の家族は、壊されてしまったの」
澪の顔から笑みが消える。
——壊された。
私と同じ。
大切だった喫茶店も、お母さんも、全部あいつのせいで……。
ゴンドラは頂上に向けて、ゆっくりと上昇していく。
「あなたのきれいな瞳。お父さんにそっくりね」
澪の冷たい眼差しが突き刺さる。
嫌な汗が背中を流れる。
「……知ってるんですか。父のことを」
動揺を隠しきれない麗とは裏腹に、澪の声は一切ぶれずに淡々としている。
「あなたには、黙っていたんでしょうね。自分がウラ社会の人間なんて、普通、娘には言わないわよね」
父親が、ウラ社会の人間?
まさか。
そんな……。
ゴトン。
頂上にさしかかり、ゴンドラが静かに揺れる。
「モズ」
澪は長いまつげを震わせる。
「それが、ウラの名前。ウラ社会では名の知れた解体屋だったらしいわ」
解体屋……。
聞いたことがない。
澪の言うことは、本当なの?
動揺させるための嘘じゃないの?
「先代の時、大熊組はモズに解体されたわ。おかげで祖父は刑務所へ。そのあとすぐ病で亡くなった……」
澪の瞳には何の感情も見えない。
「財産も奪われ、家庭は崩壊。両親は離婚して、私は母と家を出たの。でも、おじいさまはすでに他界していて、他に頼る人は誰もいなかった」
澪は窓の外に目を向ける。景色が、徐々に下がって行く。
「母は、心の病になってしまった。今は、施設にいるわ。私は父に引き取られたの。……組を再興させる駒としてね」
自嘲気味な笑みを浮かべる。
麗の腕に、鳥肌が立つ。
「でも、安心して。駒に見せかけているだけだから。暴力で支配する父のやり方は、間違っているわ。私のやり方で、組を再興できるって証明している最中なの」
楽しそうな笑顔。
だけど、底知れない怖さがある。
「それって、学校を使ってって、ことですか?」
「……直球ね。そうよ。心を操れば、自然と動いてくれる。欲望にちょっと言葉を投げかけるだけ。あなたたちの邪魔がなければ、学院は私の手の中だったのに」
眉を八の字に下げる。
麗は膝の上で拳を握りしめた。
「身勝手すぎます。ウラアカも、クリーン運動も、文化祭だって、傷ついた人がいるんです」
「それがどうしたの? 大多数の生徒は無傷よ。それに、誰も死んでいないじゃない」
きょとんとした顔で小首を傾げる。
背中を指でなぞられたような不快感と嫌悪感が走る。
この人は、悪意で動いてない。
ただ、シミュレーションをしていただけ。
生徒をモルモットのようにして。
……ぞっとする。
「この学院を選んだのは、父なの。鹿島組と関係していることを知ってね。当てつけに、内部から壊せって言われたのよ」
「何でそんなこと」
「あら、言ってなかったかしら。モズを雇ったのは、鹿島組組長よ」
「……は?」
頭が、おいつかない。
父と組長は、繋がっていた?
全部知っていて、私を鹿島家に連れて行ったの?
“モノ”として——。
「父はね、殺し屋に頼むぐらいモズも、鹿島組組長も恨んでいるの。組長を殺すのは簡単じゃないみたいだけど、モズはどうかしら」
澪の口角が上がる。試すような目つきで麗を見た。
「父は、失踪したんです。私はずっと父を探していて……」
「お父さんのこと、恨んでいたの? 知らなかったんだから、当然よね」
同情の眼差しの奥に、嘲笑の色が見える。
「姿を消したあと、モズがどうなったのか、私も知らないの。でもね」
声を潜める。
哀れみのこもった目が、三日月型に細められた。
「消えた人間って、大体ろくな最期じゃないってことは知ってるわ」
麗の息が止まる。
想像したくないのに、勝手に残酷なイメージが浮かぶ。
「もしかしたら、鹿島組組長は、罪悪感であなたを引き取ったのかもね」
愕然と澪の顔を見つめる。
足元がぐらついて、宙に浮いているような感覚がする。
胸の奥深く、頑丈に施錠した扉が開く。
「全ての元凶は、私の父。あなたが恨むべきは、大熊よ」
——私だけが、何も知らなかった。
父に復讐するために生きてきたのに。
憎んでいれば、前に進めると思っていた。
父を恨んでいる間だけ、私は壊れずにいられた。
なのに。
その憎しみすら、見当違いだったなんて。
……かわいそう。
見当違いに恨んでいた私も、恨まれていたお父さんも。
浴室で冷たくなっていたお母さんも。
みんな、憐れで虚しい。
ゆらりと黒い影が、足元から姿を現す。
私と同じ顔。同じ声。
押し込めていたもうひとりの自分が、不気味に笑う。
「私はね、父が暴力で支配している今の大熊組を壊して、新しくしたいの。そのためには、麗さん、鹿島くんたち、鹿島組の力が必要なのよ」
澪が正しさを主張するように、純粋無垢な笑みを浮かべる。
「他の人を、巻き込むつもり? また、誰か傷付いたら……」
そんなのどうでもいいよ。
この人は、味方。
本当の敵を壊そうとしている。
一緒に復讐を遂げようよ。
目の前に揺らめくもうひとりの自分が、囁く。
「枉尺直尋(おうせきちょくじん)っていう言葉があるわ。大きなことを成功させるためには、小さな犠牲はやむを得ない。でも、勘違いしないで。命を犠牲にしてもいいとは、思っていないわ」
そんなの、おかしい。
おかしいのに……。
何もおかしくない。
正しいよ。
何かを成すためには、犠牲はつきもの。
いい加減、いい子ぶるのやめたら?
声が、鼓膜に響く。
「私は……」
違う。いい子ぶってなんかいない。
反論したいのに、言葉が続かない。
「麗さん。あなた、父に狙われているわよ」
澪が同情の眼差しを向ける。
「な、何で、私が…‥?」
「一族郎党皆殺し。恨みに憑りつかれているのよ」
殺される? 私が?
“死”。
たった一文字なのに、理性が壊れるほどの恐怖を与える。
金縛りにあったみたいに、体が動かない。
瞬きすらできない。
身体中の細胞が、怯えて動きを止めたみたいだ。
「本当の復讐相手、誰か分かるわよね」
澪の声が頭上から降ってくる。いつの間にか、目の前に立って麗を見下ろしている。
もう、笑顔の仮面は被っていない。
そこにあるのは、冷徹で氷のように滑らかな美しさ。
これが、本当の澪。
麗、気づいて。
本当に復讐したい相手。
許せない相手。
澪の隣に並ぶ黒い影。その顔に薄い笑みが浮かぶ。
「……全部を壊した原因」
大切な場所を、家族を、私の心を壊した、“全て”が憎い。
——大熊も、父も、鹿島も、私の人生を壊した全部。
「安心して。私が守ってあげる」
澪の背後から陽射しが差し込む。
守る?
そんな言葉、信じられないのに。
期待なんて、したくないのに。
少しだけ、救われた気がするのはどうして……。
「その代わり、私の手を取って」
澪は立ち上がり、手を差し出す。
やられる前に、やるしかない。
そうでしょ。
影の真っ黒な腕が伸びて、澪の白い腕と重なる。
ほら、手を取って。
いい加減、“本当の私”を受け入れなよ。
私はあなたの裏側。
——“レイ”。
呼んで。
私を。
“レイ”を呼んだら、手を取ったら、後には戻れない。
澪を見上げると、にっこりと温かい笑みを向けられた。
その隣で、レイがにんまりと笑う。
この笑顔は危険だ。
信じたら最後、深い傷を負う。
分かっている。
これは、間違いだ。
なのに。
奪われるだけは嫌だ。もう、我慢できない。
奪われた分を、私が味わった苦痛を、味わわせたい。
そして——。
「……全部、壊したい」
自分の声じゃないみたいだった。
でも、確かに自分の中から出た言葉だった。
麗は、ゆっくり手を伸ばす。
澪とレイが、同時に手を掴む。
観覧車が地上に着こうとしている。
麗は、目を閉じた。
底の見えない深淵の闇に、堕ちていく。
もう、戻れない。
それでも、いい。
自分のために、自分で選んだ。
この先に何が待っていようと、後悔はないーー。
窓から入ってきた風で、写真立てが倒れた。
「お母さん……」
笑顔で映る母の顔を撫でる。
黒く塗りつぶされた父の顔を、親指で押し潰す。
父親と生徒会長がどういう関係なのか。
生徒会長の思惑は何なのか。
まったく見当がつかない。
どんな裏があるとしても——。
しわくちゃの入園チケットをサコッシュに入れる。
選んだ。澪に会いに行くことを。
黒のキャップを目深に被り、ドアを静かに開ける。
向かいの葵と晴の部屋はしんとしている。
麗は抜き足差し足で、音を立てないよう気をつけながら家を出て行った。
「あいつ、ひとりでどこ行くんだよ」
門を出て行く麗の後ろ姿に、葵が鋭利な目線を投げかける。
「気になるよね。はい、これ」
玄関から出て来た晴が、葵にキャップを渡した。
「尾行は、顔を隠すのが定番でしょ。マスクとサングラスもあるけど、いる?」
ボディバックから、マスクとサングラスを取り出して見せた。
「尾行って……。おまえも行くのかよ」
「当たり前でしょ。ぼくも麗ちゃんのこと心配だし。多分、あの人と会うんだろうけど」
晴はマスクとサングラスをつけながら、麗の背中を目で追った。
「何話してたのか、教えてくれなかったからさ、めっちゃ気になるんだよね」
靴音を立てないよう慎重に歩き出す。だが、その出で立ちは、どこからどう見ても、怪しい。
すれ違う人々がちらちら視線を送っている。
「逆に目立ってるじゃねえか」
葵はキャップを被って、晴のサングラスをはずし、ボディバックに突っ込んだ。
後をつけられていることに気づかないまま、麗は電車を乗り継ぎ、遊園地に到着した。
スマホで時間を確認すると、11時ちょうど。
ゲートに行くと、端の方に澪の姿見えた。
白いワンピースにショールを羽織った澪が、手を振った。ポニーテールに束ねた黒髪が揺れている。
子連れの父親、彼女と手を繋いでいる彼氏、スタッフの男性など、その場にいる異性の目をすべて惹きつけている。
うわあ、目立ってる……。
麗は嫌そうな顔をしながら、澪に会釈をした。
「来てくれると思ってたわ」
ふふっとお手本のような笑顔を浮かべる。
「……ひとり、よね?」
澪がわずかに目を細める。その視線の先には、チケットを買う葵と晴がいる。
「はい。2人には、何も言わずに出てきました」
「そう。行きましょうか」
澪がカードのようなものをスタッフに見せると、驚いて頭を下げ、スタッフ専用の入口を開けた。チケットを見せることなく、そのまま通された。
生徒会長、何者? 大熊ってそんなに金持ちなの?
鹿島組もすごいけど、さすがにここまでじゃない……。
口をあんぐり開けている麗に、澪が耳打ちをした。
「この遊園地はね、母方のおじいさまがつくったの。だから私は、永遠のフリーパスを持ってるのよ」
カードをちらっと見せて、すぐにハンドバックにしまった。
「他の人には内緒よ。麗さんは、特別なお友達だもの」
品の良い笑み。突然の名前呼び。特別感。
澪の演出は、完璧だ。
でも、私には通用しない。
味方のふりをして、最終的に絶望を突きつけるドS野郎を知っているから。
「生徒会長」
麗は足を止める。
「ここは学院じゃないわ。澪って呼んで」
人を惹きつけるきれいな笑顔。だけどどこか作り物っぽい。
「じゃあ、澪さん。私の前では、無理して笑わないでいいです」
「えっ……?」
笑顔が固まる。
「私が特別だっていうなら、素顔の澪さんを見せてください」
薄茶色の瞳で、澪の笑っていない目をじっと見つめる。
「ふふふっ。まさか、あなたまでそんなことを言うなんて」
作り物の笑顔が、ほんの少し崩れる。
「そうね。麗さんもかわいいお顔をさらけ出したんですもの。私も応えないと」
澪は麗の背後に目をやる。
タコの乗り物の影に身を潜める葵と晴を見つけた。
「個室でゆっくりお話ししましょう」
「個室?」
「あれよ」
小高い場所にある観覧車を、澪が指差した。
そして、麗の腕をとってヒールをとは思えない速さで人混みの中をどんどん掻き分けて進んでいった。
葵と晴は慌てて追いかけた。だが、雑踏にのまれ、見失ってしまう。
「くそっ、気づいてやがった」
「目ざといねえ。でも、大丈夫」
晴はスマホの画面を得意げに見せた。
園内の地図の上に、赤い丸と青い丸が光っている。
「赤い丸はぼく。少しずつ動いているのが、麗ちゃんの靴の裏に貼っておいたGPS」
「こわっ」
ドン引きする葵に、晴は唇を尖らせた。
「これのおかげで麗ちゃんの場所分かるんだから、感謝してほしいぐらいだよ」
「へいへい。行くぞ」
晴のスマホを奪って、先に歩き出した。
「あっ、返してよ。……まあ、いいや。多分あそこだろうな」
晴はゆったりとした動きで回る観覧車に目を向け、葵の後を追っていった。
観覧車がだんだん近くに見えてくる。
澪の足に迷いはない。
「よく、来るんですか?」
「昔ね。小さい頃は、母としょっちゅう来ていたわ。思い出の場所、みたいなものね」
思い出の場所。
……私にも、あったのに。
「いたぞ」
観覧車の列に並ぶ、澪と麗が見えた。
「どうする? これに乘られたら、何もできないよ」
「乱入してやるか」
指の骨を鳴らし、大股で近づいていく。
それに気づいた澪が、目を光らせる。
「麗さん、こっち」
澪は麗の腕を掴み、列からそれる。先頭まで行くと、スタッフにカードを見せ、何やら囁いた。スタッフはへこへこ頭を下げると、バーを上げて澪と麗を通してくれた。葵の怒鳴り声が遠くに聞こえる。
「アオ?」
振り向こうとする麗の腕を取り、澪はさっさとゴンドラに乗り込んだ。窓の外を見ると、悔しそうな顔の葵が地団太を踏み、その隣で晴が苦笑している。
あの2人、ついてきてたの?
どうして……。
「ここなら誰にも邪魔されないわ」
澪はほくそ笑んで、カードをしまった。
「そのカード、何でもありですね」
「そうね。小さい頃は、本気で自分がお姫様だって思っていたわ。両親は、私の願いを何でも叶えてくれたから。だけど……」
遠くを見るかのように、麗の瞳を見つめる。
「私の家族は、壊されてしまったの」
澪の顔から笑みが消える。
——壊された。
私と同じ。
大切だった喫茶店も、お母さんも、全部あいつのせいで……。
ゴンドラは頂上に向けて、ゆっくりと上昇していく。
「あなたのきれいな瞳。お父さんにそっくりね」
澪の冷たい眼差しが突き刺さる。
嫌な汗が背中を流れる。
「……知ってるんですか。父のことを」
動揺を隠しきれない麗とは裏腹に、澪の声は一切ぶれずに淡々としている。
「あなたには、黙っていたんでしょうね。自分がウラ社会の人間なんて、普通、娘には言わないわよね」
父親が、ウラ社会の人間?
まさか。
そんな……。
ゴトン。
頂上にさしかかり、ゴンドラが静かに揺れる。
「モズ」
澪は長いまつげを震わせる。
「それが、ウラの名前。ウラ社会では名の知れた解体屋だったらしいわ」
解体屋……。
聞いたことがない。
澪の言うことは、本当なの?
動揺させるための嘘じゃないの?
「先代の時、大熊組はモズに解体されたわ。おかげで祖父は刑務所へ。そのあとすぐ病で亡くなった……」
澪の瞳には何の感情も見えない。
「財産も奪われ、家庭は崩壊。両親は離婚して、私は母と家を出たの。でも、おじいさまはすでに他界していて、他に頼る人は誰もいなかった」
澪は窓の外に目を向ける。景色が、徐々に下がって行く。
「母は、心の病になってしまった。今は、施設にいるわ。私は父に引き取られたの。……組を再興させる駒としてね」
自嘲気味な笑みを浮かべる。
麗の腕に、鳥肌が立つ。
「でも、安心して。駒に見せかけているだけだから。暴力で支配する父のやり方は、間違っているわ。私のやり方で、組を再興できるって証明している最中なの」
楽しそうな笑顔。
だけど、底知れない怖さがある。
「それって、学校を使ってって、ことですか?」
「……直球ね。そうよ。心を操れば、自然と動いてくれる。欲望にちょっと言葉を投げかけるだけ。あなたたちの邪魔がなければ、学院は私の手の中だったのに」
眉を八の字に下げる。
麗は膝の上で拳を握りしめた。
「身勝手すぎます。ウラアカも、クリーン運動も、文化祭だって、傷ついた人がいるんです」
「それがどうしたの? 大多数の生徒は無傷よ。それに、誰も死んでいないじゃない」
きょとんとした顔で小首を傾げる。
背中を指でなぞられたような不快感と嫌悪感が走る。
この人は、悪意で動いてない。
ただ、シミュレーションをしていただけ。
生徒をモルモットのようにして。
……ぞっとする。
「この学院を選んだのは、父なの。鹿島組と関係していることを知ってね。当てつけに、内部から壊せって言われたのよ」
「何でそんなこと」
「あら、言ってなかったかしら。モズを雇ったのは、鹿島組組長よ」
「……は?」
頭が、おいつかない。
父と組長は、繋がっていた?
全部知っていて、私を鹿島家に連れて行ったの?
“モノ”として——。
「父はね、殺し屋に頼むぐらいモズも、鹿島組組長も恨んでいるの。組長を殺すのは簡単じゃないみたいだけど、モズはどうかしら」
澪の口角が上がる。試すような目つきで麗を見た。
「父は、失踪したんです。私はずっと父を探していて……」
「お父さんのこと、恨んでいたの? 知らなかったんだから、当然よね」
同情の眼差しの奥に、嘲笑の色が見える。
「姿を消したあと、モズがどうなったのか、私も知らないの。でもね」
声を潜める。
哀れみのこもった目が、三日月型に細められた。
「消えた人間って、大体ろくな最期じゃないってことは知ってるわ」
麗の息が止まる。
想像したくないのに、勝手に残酷なイメージが浮かぶ。
「もしかしたら、鹿島組組長は、罪悪感であなたを引き取ったのかもね」
愕然と澪の顔を見つめる。
足元がぐらついて、宙に浮いているような感覚がする。
胸の奥深く、頑丈に施錠した扉が開く。
「全ての元凶は、私の父。あなたが恨むべきは、大熊よ」
——私だけが、何も知らなかった。
父に復讐するために生きてきたのに。
憎んでいれば、前に進めると思っていた。
父を恨んでいる間だけ、私は壊れずにいられた。
なのに。
その憎しみすら、見当違いだったなんて。
……かわいそう。
見当違いに恨んでいた私も、恨まれていたお父さんも。
浴室で冷たくなっていたお母さんも。
みんな、憐れで虚しい。
ゆらりと黒い影が、足元から姿を現す。
私と同じ顔。同じ声。
押し込めていたもうひとりの自分が、不気味に笑う。
「私はね、父が暴力で支配している今の大熊組を壊して、新しくしたいの。そのためには、麗さん、鹿島くんたち、鹿島組の力が必要なのよ」
澪が正しさを主張するように、純粋無垢な笑みを浮かべる。
「他の人を、巻き込むつもり? また、誰か傷付いたら……」
そんなのどうでもいいよ。
この人は、味方。
本当の敵を壊そうとしている。
一緒に復讐を遂げようよ。
目の前に揺らめくもうひとりの自分が、囁く。
「枉尺直尋(おうせきちょくじん)っていう言葉があるわ。大きなことを成功させるためには、小さな犠牲はやむを得ない。でも、勘違いしないで。命を犠牲にしてもいいとは、思っていないわ」
そんなの、おかしい。
おかしいのに……。
何もおかしくない。
正しいよ。
何かを成すためには、犠牲はつきもの。
いい加減、いい子ぶるのやめたら?
声が、鼓膜に響く。
「私は……」
違う。いい子ぶってなんかいない。
反論したいのに、言葉が続かない。
「麗さん。あなた、父に狙われているわよ」
澪が同情の眼差しを向ける。
「な、何で、私が…‥?」
「一族郎党皆殺し。恨みに憑りつかれているのよ」
殺される? 私が?
“死”。
たった一文字なのに、理性が壊れるほどの恐怖を与える。
金縛りにあったみたいに、体が動かない。
瞬きすらできない。
身体中の細胞が、怯えて動きを止めたみたいだ。
「本当の復讐相手、誰か分かるわよね」
澪の声が頭上から降ってくる。いつの間にか、目の前に立って麗を見下ろしている。
もう、笑顔の仮面は被っていない。
そこにあるのは、冷徹で氷のように滑らかな美しさ。
これが、本当の澪。
麗、気づいて。
本当に復讐したい相手。
許せない相手。
澪の隣に並ぶ黒い影。その顔に薄い笑みが浮かぶ。
「……全部を壊した原因」
大切な場所を、家族を、私の心を壊した、“全て”が憎い。
——大熊も、父も、鹿島も、私の人生を壊した全部。
「安心して。私が守ってあげる」
澪の背後から陽射しが差し込む。
守る?
そんな言葉、信じられないのに。
期待なんて、したくないのに。
少しだけ、救われた気がするのはどうして……。
「その代わり、私の手を取って」
澪は立ち上がり、手を差し出す。
やられる前に、やるしかない。
そうでしょ。
影の真っ黒な腕が伸びて、澪の白い腕と重なる。
ほら、手を取って。
いい加減、“本当の私”を受け入れなよ。
私はあなたの裏側。
——“レイ”。
呼んで。
私を。
“レイ”を呼んだら、手を取ったら、後には戻れない。
澪を見上げると、にっこりと温かい笑みを向けられた。
その隣で、レイがにんまりと笑う。
この笑顔は危険だ。
信じたら最後、深い傷を負う。
分かっている。
これは、間違いだ。
なのに。
奪われるだけは嫌だ。もう、我慢できない。
奪われた分を、私が味わった苦痛を、味わわせたい。
そして——。
「……全部、壊したい」
自分の声じゃないみたいだった。
でも、確かに自分の中から出た言葉だった。
麗は、ゆっくり手を伸ばす。
澪とレイが、同時に手を掴む。
観覧車が地上に着こうとしている。
麗は、目を閉じた。
底の見えない深淵の闇に、堕ちていく。
もう、戻れない。
それでも、いい。
自分のために、自分で選んだ。
この先に何が待っていようと、後悔はないーー。

