星が瞬く空の下、特設ステージを前に、全校生徒が集まっている。
ステージに立つ澪が、マイクを口に近づけた。
「優勝クラスを発表します。優勝は……」
生徒たちが固唾をのんで見守る。
お願い!
麗は両手を組み合わせて、祈るように目を閉じる。
「2年1組です」
うそっ……。
「やったー!」
「優勝だ‼」
ピョンピョン飛び跳ね、抱き合ったり、ハイタッチをしたり、歓喜に沸いた。
「2位は……、1年3組」
一瞬、音が消えた。
「……え?」
麗の顔から血の気が引いていく。
「そんな……」
「あんなに頑張ったのに……」
悔しい。
悔しすぎる。
放課後、みんなで居残った文化祭準備。
鬼気迫る、葵と晴とのステージ準備。
忙しなくも、クラスメイトたちと駆け回った喫茶店。
襲撃で初めて知った恐怖と、葵と晴の頼もしい姿。
緊張しながらも全力を出し切ったステージ。
そして、切った前髪。
これまでのことが早足で脳裏を駆け巡る。
——届かなかった。あと一歩で。
叫びたい。
泣きわめきたい。
感情を爆発させたい衝動がこみ上げる。
それを抑え込むように、麗は拳を震わす。
「うっ、くっ……。ごめん、ぼくがもっと、しっかりしていれば……」
「委員長のせいじゃないよ」
「泣くなよ。俺たちまで泣けてくるじゃねえか」
泣き崩れる委員長を慰めながらも、悔し涙は連鎖していく。
麗も震える唇を噛みしめ、涙を堪えた。
「おまえまで泣いてんじゃねえよ」
葵が制服の上着を麗の頭にかぶせる。
「だって……」
上着をぎゅっと握りしめ、顔を隠す。
「麗ちゃん、頑張ったもんね。前髪まで切っちゃったし」
晴が上着をどかし、ジグザグに切られた前髪に哀れな目を向けた。
「勝手なことしやがって」
不機嫌そうな顔で舌打ちをする。
「別にいいでしょ。私の前髪なんだから」
葵から顔を背けて、そっぽを向く。いつの間にか涙は引っ込んでいた。
「ぼくはいいと思うよ。……にしても、なんかにおうんだよねえ。生徒会長のクラスが優勝とか、できすぎてない?」
ステージ上で微笑む澪に、晴は鋭い視線を送る。
「それでは、優勝賞品の授与式を行います。2年1組を代表して、僭越ながら私が……」
「佐沖さん、ちょっといいかな」
マイクを片手に理事長が颯爽とステージに上がり、人の良い笑みを浮かべる。
生徒たちはどよめく。
「……理事長。どうされました?」
澪は一拍間を置いて、ふわりと微笑んだ。
「文化祭中、トラブルが発生した。怖い思いをさせてしまい、申し訳ない」
生徒に向かって、頭を下げる。
しんと静まった。
「ランキングに、教師陣の評価も加味することにした。妨害を受けた3クラスには、1ポイントずつ付与した。その結果、優勝は……」
期待と緊張の空気が場を覆う。
澪は笑みを保ったまま、マイクをぎゅっと握った。
「1年3組だ。おめでとう」
理事長の柔らかい眼差しが、麗、葵、晴に向けられた。
「うおぉぉぉぉ!」
「やったー‼」
雄叫びと歓声をあげるクラスメイトたちが、泣き笑いの顔で抱き合う。
「ゆ、優勝? 本当に?」
麗は目を見開き、口元に手を当てる。肩から葵の上着が落ちる。葵が拾い上げ、麗の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「優勝だってよ。良かったな」
「うん!」
顔いっぱいに笑みがほころぶ。
葵はその表情から目が離せない。
初めてだった。
こんな顔で笑う麗を見るのは。
ただの笑顔なのに、葵の胸の奥は妙にざわついた。
「麗ちゃんの笑顔、見惚れちゃうよね」
晴の囁きがひっかかる。
クラスメイトたちの輪の中で無邪気に笑う麗 を、葵は無意に目で追っていたことに気づいた。
心臓が締め付けられ、顔が火照る。
「……何だよ、これ」
得体の知れない感情から逃れるように、葵は集団の中から外れて暗闇に紛れた。
委員長がステージに上がり、理事長から優勝賞品の引換券を受け取った。嬉し涙を流しながら天高く掲げる。クラスメイトたちが歓声と拍手を送った。
理事長の目線が澪に移る。
「君とは一度、面談をする必要がありそうだ」
低く冷たい声。澪の表情が若干強張る。それでも笑みは絶やさない。
「私も、お聞きしたいことがあったんです。……鹿島くんたちと、理事長の関係について、とか」
三日月型に細められた澪の瞳に、怪しげな光が宿る。
「それは個人情報だ。だが、君が隠していることを全て話すなら、応えてあげよう。だが……」
優しい笑みなのに、澪は威圧感で圧し潰されそうになる。
「その場合、帰る場所はないと思いなさい」
ぞくり。
静かな恐怖が、蛇のように足元から這い上がり、うねりながら全身に巻き付く。
——普通の人間が出せる圧じゃない。
ぞくぞくする。……楽しくなってきたわね。
「肝に銘じておきます」
澪は震えそうになる口元に手を添えた。だが、その目だけは笑っていた。
理事長は小さく笑うと、ステージを下りた。
出しっぱなしのメニュー、口の縛っていないゴミ袋、雑に置かれたメイドと執事の衣装。
「きたねえな」
それらを踏まないよう気を付けながら、葵はライトに照らされている校庭を見下ろした。
窓を開けると、ポップな音楽と生徒達の笑い声と共に、乾いた風が入り込む。
火照った頬を撫でる風が、心地良い。
カタン。
物音がして振り返る。
「ここにいたんだ」
麗が小さく微笑む。
ドキッ。
葵の心臓が跳ねる。
「急にいなくなったから、帰ったかと思った」
麗が隣に立ち、窓の下を眺める。
不揃いの前髪が風に遊ばれ、乱れる。
葵の手が、前髪に伸びる。
触れる直前。
葵の手がぴたりと止まる。
誤魔化すように自分の髪をくしゃっと掴んだ。
「文化祭、うまくいったね。優勝できたし、ステージもなんとか最後までできたし」
麗が葵を見上げて満足そうな笑みを浮かべる。
「おまえにしては、よくやったんじゃねえの」
葵の小声が麗の鼓膜を震わす。
褒めた? あの葵が?
照れ臭いけど、ちょっと嬉しい。
「でもな、勝手なことしすぎなんだよ。前髪切りやがって」
「だって、あの時はああするしかなかったから」
「それだけじゃねえ。バッド持った奴に勝てるわけないだろ」
「でも、委員長が危なかったから」
「でもじゃねえよ!」
葵の低い声が静かな教室に響く。麗の肩がビクッと揺れる。
「何で自分より他人を優先すんだよ。俺が間に合わなかったからどうなってたか!」
葵の真剣な眼差しが麗の瞳を貫く。
「それは……」
麗は葵から視線を逸らし、教室を見渡した。
ひびの入った鏡に映る、麗と葵の姿が歪んで見える。
「あの時は、ただ助けなきゃって思ってたから。……でも、怖かった」
麗の脳裏に、バットを持った男たちがフラッシュバックする。
「理事長とか組長とか、怖い人いっぱい見て来たけど、全然違う怖さだった」
握りしめた手が、震える。
葵は何も言わず、半歩、麗に近づいた。
「だけど、アオが来た時、安心した。助けてくれて、ありがとう」
麗が隣に立つ葵を見上げる。思ったよりも距離が近い。
「アホ。怖いなら逃げろよ」
葵が険しい顔でじっと見つめる。
気まずい。
なのに……。
静かな眼差しから目を逸らせない。
葵は、無言で麗の視線を受け止める。
鼓動がうるさくて、落ち着かない。
それでも……。
目が離せない。
その瞳に、自分だけを映してほしい。
葵の心の底から欲求が込み上げる。
風が吹き込み、麗の髪があおられる。
葵は麗の後ろ髪を撫でつけ、不揃いの前髪に触れる。
「ガタガタじゃねえか」
「しょうがないでしょ。……怒ってる?」
呟くように問いかける。
「命令違反は、罰だ」
「私は、下僕じゃない。命令も、罰も関係ない」
麗が強い眼差しを葵に向ける。
「クソ生意気。……これ以上、離れんな」
葵の艶やかな瞳が、麗を射貫いて離さない。
命令のはずなのに、何でそんな不安そうな顔で言うの。
私のことなんてどうでもいいんじゃないの。
「麗」
葵の顔が、ゆっくり近づいてくる。
また、名前。
こんな時に、反則すぎる。
心臓が、外に飛び出そうなほど激しく脈打つ。
音が、葵に聞こえそう。
逃げられない。
——いや、違う。
……逃げたくない。
「2りっきりで、ナニしてるのかなあ?」
突然聞こえた晴の声に、葵と麗はビクッと肩を震わせ、距離を取った。
「ぼくだけ中間外れって、ひどいな。で、何しようとしてたのさ」
葵の肩に晴が肘を乗せる。その手を葵が振り払った。
「う、うるせえ。おまえには関係ねえ」
「じゃあ、僕が麗ちゃんにこんなことしても、関係ないよね?」
ポケットからハサミを取り出し、刃先を麗に向ける。シャキンと音を立てて、空を切った。
「な、何する気?」
麗の顔が強張る。
「大丈夫だよ。麗ちゃん、ちょっと目閉じてて」
「い、いや!」
麗は首を横に振って、後退りをするが、壁際に追い詰められる。
助けを求めるように葵を見る。
「サイコか」
葵はただ、呆れた顔で腕組をしている。
……助ける気、ないの⁉
「すぐだから。ね」
麗の目の前に立った晴が、ニタリと不敵な笑みを浮かべた。
麗はぎゅっと目を閉じた。
シャキシャキ。
前髪が、舞った。
えっ? 髪?
「ほら、かわいくなった」
鏡を見ると、バラバラの前髪がきれいにラウンドカットに揃えられていた。
「……最初から言ってよ」
短くなった前髪を撫で、頬を膨らませる。
「アオじゃなくて、ぼくを選びなよ」
晴は麗の耳元に顔を近づけた。
「な、何言ってんの」
麗は耳を抑え、柔らかく微笑む晴を見た。
「麗ちゃんの選択、全部受け止めてあげる。例え、復讐心で誰かを殺したとしても」
麗の瞳孔が開く。
……心の汚い部分まで、見透かされている。
私の全部を、晴は知っている。
甘い言葉が、固く閉ざされた奥底の扉にすっと入り込む。
晴の言葉なんて信じられないはずなのに、思わず耳を傾けてしまう。
蜂蜜のような甘い匂いがつんと鼻をつく。
「ぼくはずっと麗ちゃんの傍にいるよ」
晴の瞳の奥に、ほんのりと温かい色が宿る。
こんな晴、知らない。
心臓がきゅっと締め付けられる。
扉が、甘さでどろどろにとろかされそう。
これ以上近づいたら危険だって分かっているのに、晴が伸ばしてきた手を取りそうになる。
「ま、選ぶのは麗ちゃんだけどね」
にっこり笑う晴に、葵が怪訝な目を向けた。
「何の話だよ」
「アオには関係ないよ。ぼくと麗ちゃんだけのヒミツ」
「はあ? うぜえ」
麗は、じゃれあう葵と晴をぼうっと見つめる。
私が、本当に選びたいのは——。
後夜祭の終わりを告げる花火が、打ち上がった。
帰り支度を終えて、校門に向かっていると、背後から名前を呼ばれた。
「長宮さん」
振り向くと、少し離れた木の下で、澪が手を振っていた。
葵と晴が、さっと麗を後ろに隠す。
「そんなに警戒しないで。ちょっとお話ししたいだけよ。お友達として。ね、いいでしょう」
にっこりと微笑む。その目は、麗を捉えて離さない。
この人には、何かある。探らないと。
「いいですよ」
麗は2人の間から顔を出して、頷く。
「やめとけ」
葵が麗の腕を掴む。
「麗ちゃんが決めたなら、いいじゃん」
晴がその手を離した。
「大丈夫。すぐ戻るから、待ってて」
麗は澪の傍に走って行く。
葵は手を伸ばそうとする。だが、すぐに下ろして、ポケットに突っ込んだ。
「大盛況だったわね。優勝おめでとう」
澪は小さく拍手をした。
「話って、何ですか?」
なるべく落ち着いた声を出すよう心がけた。
「……あなたのお父さんのことよ」
麗の息が、一瞬止まる。
今、何て言った?
何で、この人がそんなこと……。
「それと、私の本当の目的」
麗の肩を、澪は優しく撫でた。
「明日の11時、ここで待ってるわ。来るでしょう?」
遊園地のチケットを渡すと、澪は軽い足取りで去って行った。
ぐしゃり。
強く握りしめたチケットが、しわくちゃになる。
行ってやろうじゃない。
どんな手がかりでも欲しい。
——あいつを見つけられるなら、例え罠でも飛び込む。
私はどこへでも、堕ちていける。
ステージに立つ澪が、マイクを口に近づけた。
「優勝クラスを発表します。優勝は……」
生徒たちが固唾をのんで見守る。
お願い!
麗は両手を組み合わせて、祈るように目を閉じる。
「2年1組です」
うそっ……。
「やったー!」
「優勝だ‼」
ピョンピョン飛び跳ね、抱き合ったり、ハイタッチをしたり、歓喜に沸いた。
「2位は……、1年3組」
一瞬、音が消えた。
「……え?」
麗の顔から血の気が引いていく。
「そんな……」
「あんなに頑張ったのに……」
悔しい。
悔しすぎる。
放課後、みんなで居残った文化祭準備。
鬼気迫る、葵と晴とのステージ準備。
忙しなくも、クラスメイトたちと駆け回った喫茶店。
襲撃で初めて知った恐怖と、葵と晴の頼もしい姿。
緊張しながらも全力を出し切ったステージ。
そして、切った前髪。
これまでのことが早足で脳裏を駆け巡る。
——届かなかった。あと一歩で。
叫びたい。
泣きわめきたい。
感情を爆発させたい衝動がこみ上げる。
それを抑え込むように、麗は拳を震わす。
「うっ、くっ……。ごめん、ぼくがもっと、しっかりしていれば……」
「委員長のせいじゃないよ」
「泣くなよ。俺たちまで泣けてくるじゃねえか」
泣き崩れる委員長を慰めながらも、悔し涙は連鎖していく。
麗も震える唇を噛みしめ、涙を堪えた。
「おまえまで泣いてんじゃねえよ」
葵が制服の上着を麗の頭にかぶせる。
「だって……」
上着をぎゅっと握りしめ、顔を隠す。
「麗ちゃん、頑張ったもんね。前髪まで切っちゃったし」
晴が上着をどかし、ジグザグに切られた前髪に哀れな目を向けた。
「勝手なことしやがって」
不機嫌そうな顔で舌打ちをする。
「別にいいでしょ。私の前髪なんだから」
葵から顔を背けて、そっぽを向く。いつの間にか涙は引っ込んでいた。
「ぼくはいいと思うよ。……にしても、なんかにおうんだよねえ。生徒会長のクラスが優勝とか、できすぎてない?」
ステージ上で微笑む澪に、晴は鋭い視線を送る。
「それでは、優勝賞品の授与式を行います。2年1組を代表して、僭越ながら私が……」
「佐沖さん、ちょっといいかな」
マイクを片手に理事長が颯爽とステージに上がり、人の良い笑みを浮かべる。
生徒たちはどよめく。
「……理事長。どうされました?」
澪は一拍間を置いて、ふわりと微笑んだ。
「文化祭中、トラブルが発生した。怖い思いをさせてしまい、申し訳ない」
生徒に向かって、頭を下げる。
しんと静まった。
「ランキングに、教師陣の評価も加味することにした。妨害を受けた3クラスには、1ポイントずつ付与した。その結果、優勝は……」
期待と緊張の空気が場を覆う。
澪は笑みを保ったまま、マイクをぎゅっと握った。
「1年3組だ。おめでとう」
理事長の柔らかい眼差しが、麗、葵、晴に向けられた。
「うおぉぉぉぉ!」
「やったー‼」
雄叫びと歓声をあげるクラスメイトたちが、泣き笑いの顔で抱き合う。
「ゆ、優勝? 本当に?」
麗は目を見開き、口元に手を当てる。肩から葵の上着が落ちる。葵が拾い上げ、麗の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「優勝だってよ。良かったな」
「うん!」
顔いっぱいに笑みがほころぶ。
葵はその表情から目が離せない。
初めてだった。
こんな顔で笑う麗を見るのは。
ただの笑顔なのに、葵の胸の奥は妙にざわついた。
「麗ちゃんの笑顔、見惚れちゃうよね」
晴の囁きがひっかかる。
クラスメイトたちの輪の中で無邪気に笑う麗 を、葵は無意に目で追っていたことに気づいた。
心臓が締め付けられ、顔が火照る。
「……何だよ、これ」
得体の知れない感情から逃れるように、葵は集団の中から外れて暗闇に紛れた。
委員長がステージに上がり、理事長から優勝賞品の引換券を受け取った。嬉し涙を流しながら天高く掲げる。クラスメイトたちが歓声と拍手を送った。
理事長の目線が澪に移る。
「君とは一度、面談をする必要がありそうだ」
低く冷たい声。澪の表情が若干強張る。それでも笑みは絶やさない。
「私も、お聞きしたいことがあったんです。……鹿島くんたちと、理事長の関係について、とか」
三日月型に細められた澪の瞳に、怪しげな光が宿る。
「それは個人情報だ。だが、君が隠していることを全て話すなら、応えてあげよう。だが……」
優しい笑みなのに、澪は威圧感で圧し潰されそうになる。
「その場合、帰る場所はないと思いなさい」
ぞくり。
静かな恐怖が、蛇のように足元から這い上がり、うねりながら全身に巻き付く。
——普通の人間が出せる圧じゃない。
ぞくぞくする。……楽しくなってきたわね。
「肝に銘じておきます」
澪は震えそうになる口元に手を添えた。だが、その目だけは笑っていた。
理事長は小さく笑うと、ステージを下りた。
出しっぱなしのメニュー、口の縛っていないゴミ袋、雑に置かれたメイドと執事の衣装。
「きたねえな」
それらを踏まないよう気を付けながら、葵はライトに照らされている校庭を見下ろした。
窓を開けると、ポップな音楽と生徒達の笑い声と共に、乾いた風が入り込む。
火照った頬を撫でる風が、心地良い。
カタン。
物音がして振り返る。
「ここにいたんだ」
麗が小さく微笑む。
ドキッ。
葵の心臓が跳ねる。
「急にいなくなったから、帰ったかと思った」
麗が隣に立ち、窓の下を眺める。
不揃いの前髪が風に遊ばれ、乱れる。
葵の手が、前髪に伸びる。
触れる直前。
葵の手がぴたりと止まる。
誤魔化すように自分の髪をくしゃっと掴んだ。
「文化祭、うまくいったね。優勝できたし、ステージもなんとか最後までできたし」
麗が葵を見上げて満足そうな笑みを浮かべる。
「おまえにしては、よくやったんじゃねえの」
葵の小声が麗の鼓膜を震わす。
褒めた? あの葵が?
照れ臭いけど、ちょっと嬉しい。
「でもな、勝手なことしすぎなんだよ。前髪切りやがって」
「だって、あの時はああするしかなかったから」
「それだけじゃねえ。バッド持った奴に勝てるわけないだろ」
「でも、委員長が危なかったから」
「でもじゃねえよ!」
葵の低い声が静かな教室に響く。麗の肩がビクッと揺れる。
「何で自分より他人を優先すんだよ。俺が間に合わなかったからどうなってたか!」
葵の真剣な眼差しが麗の瞳を貫く。
「それは……」
麗は葵から視線を逸らし、教室を見渡した。
ひびの入った鏡に映る、麗と葵の姿が歪んで見える。
「あの時は、ただ助けなきゃって思ってたから。……でも、怖かった」
麗の脳裏に、バットを持った男たちがフラッシュバックする。
「理事長とか組長とか、怖い人いっぱい見て来たけど、全然違う怖さだった」
握りしめた手が、震える。
葵は何も言わず、半歩、麗に近づいた。
「だけど、アオが来た時、安心した。助けてくれて、ありがとう」
麗が隣に立つ葵を見上げる。思ったよりも距離が近い。
「アホ。怖いなら逃げろよ」
葵が険しい顔でじっと見つめる。
気まずい。
なのに……。
静かな眼差しから目を逸らせない。
葵は、無言で麗の視線を受け止める。
鼓動がうるさくて、落ち着かない。
それでも……。
目が離せない。
その瞳に、自分だけを映してほしい。
葵の心の底から欲求が込み上げる。
風が吹き込み、麗の髪があおられる。
葵は麗の後ろ髪を撫でつけ、不揃いの前髪に触れる。
「ガタガタじゃねえか」
「しょうがないでしょ。……怒ってる?」
呟くように問いかける。
「命令違反は、罰だ」
「私は、下僕じゃない。命令も、罰も関係ない」
麗が強い眼差しを葵に向ける。
「クソ生意気。……これ以上、離れんな」
葵の艶やかな瞳が、麗を射貫いて離さない。
命令のはずなのに、何でそんな不安そうな顔で言うの。
私のことなんてどうでもいいんじゃないの。
「麗」
葵の顔が、ゆっくり近づいてくる。
また、名前。
こんな時に、反則すぎる。
心臓が、外に飛び出そうなほど激しく脈打つ。
音が、葵に聞こえそう。
逃げられない。
——いや、違う。
……逃げたくない。
「2りっきりで、ナニしてるのかなあ?」
突然聞こえた晴の声に、葵と麗はビクッと肩を震わせ、距離を取った。
「ぼくだけ中間外れって、ひどいな。で、何しようとしてたのさ」
葵の肩に晴が肘を乗せる。その手を葵が振り払った。
「う、うるせえ。おまえには関係ねえ」
「じゃあ、僕が麗ちゃんにこんなことしても、関係ないよね?」
ポケットからハサミを取り出し、刃先を麗に向ける。シャキンと音を立てて、空を切った。
「な、何する気?」
麗の顔が強張る。
「大丈夫だよ。麗ちゃん、ちょっと目閉じてて」
「い、いや!」
麗は首を横に振って、後退りをするが、壁際に追い詰められる。
助けを求めるように葵を見る。
「サイコか」
葵はただ、呆れた顔で腕組をしている。
……助ける気、ないの⁉
「すぐだから。ね」
麗の目の前に立った晴が、ニタリと不敵な笑みを浮かべた。
麗はぎゅっと目を閉じた。
シャキシャキ。
前髪が、舞った。
えっ? 髪?
「ほら、かわいくなった」
鏡を見ると、バラバラの前髪がきれいにラウンドカットに揃えられていた。
「……最初から言ってよ」
短くなった前髪を撫で、頬を膨らませる。
「アオじゃなくて、ぼくを選びなよ」
晴は麗の耳元に顔を近づけた。
「な、何言ってんの」
麗は耳を抑え、柔らかく微笑む晴を見た。
「麗ちゃんの選択、全部受け止めてあげる。例え、復讐心で誰かを殺したとしても」
麗の瞳孔が開く。
……心の汚い部分まで、見透かされている。
私の全部を、晴は知っている。
甘い言葉が、固く閉ざされた奥底の扉にすっと入り込む。
晴の言葉なんて信じられないはずなのに、思わず耳を傾けてしまう。
蜂蜜のような甘い匂いがつんと鼻をつく。
「ぼくはずっと麗ちゃんの傍にいるよ」
晴の瞳の奥に、ほんのりと温かい色が宿る。
こんな晴、知らない。
心臓がきゅっと締め付けられる。
扉が、甘さでどろどろにとろかされそう。
これ以上近づいたら危険だって分かっているのに、晴が伸ばしてきた手を取りそうになる。
「ま、選ぶのは麗ちゃんだけどね」
にっこり笑う晴に、葵が怪訝な目を向けた。
「何の話だよ」
「アオには関係ないよ。ぼくと麗ちゃんだけのヒミツ」
「はあ? うぜえ」
麗は、じゃれあう葵と晴をぼうっと見つめる。
私が、本当に選びたいのは——。
後夜祭の終わりを告げる花火が、打ち上がった。
帰り支度を終えて、校門に向かっていると、背後から名前を呼ばれた。
「長宮さん」
振り向くと、少し離れた木の下で、澪が手を振っていた。
葵と晴が、さっと麗を後ろに隠す。
「そんなに警戒しないで。ちょっとお話ししたいだけよ。お友達として。ね、いいでしょう」
にっこりと微笑む。その目は、麗を捉えて離さない。
この人には、何かある。探らないと。
「いいですよ」
麗は2人の間から顔を出して、頷く。
「やめとけ」
葵が麗の腕を掴む。
「麗ちゃんが決めたなら、いいじゃん」
晴がその手を離した。
「大丈夫。すぐ戻るから、待ってて」
麗は澪の傍に走って行く。
葵は手を伸ばそうとする。だが、すぐに下ろして、ポケットに突っ込んだ。
「大盛況だったわね。優勝おめでとう」
澪は小さく拍手をした。
「話って、何ですか?」
なるべく落ち着いた声を出すよう心がけた。
「……あなたのお父さんのことよ」
麗の息が、一瞬止まる。
今、何て言った?
何で、この人がそんなこと……。
「それと、私の本当の目的」
麗の肩を、澪は優しく撫でた。
「明日の11時、ここで待ってるわ。来るでしょう?」
遊園地のチケットを渡すと、澪は軽い足取りで去って行った。
ぐしゃり。
強く握りしめたチケットが、しわくちゃになる。
行ってやろうじゃない。
どんな手がかりでも欲しい。
——あいつを見つけられるなら、例え罠でも飛び込む。
私はどこへでも、堕ちていける。

