慌ただしい足音、忙しない声、明るい笑い声、注意する尖った声。
放課後になっても、各クラスが騒然としている。
「優勝目指して、頑張ってくださいね」
澪はクラスを巡回しながら、声をかける。だが、どのクラスも苦々しい表情で同じことを言うのだった。
「優勝候補は、1年3組」
澪は、決まり文句のように激励の言葉を投げかけた。
「やり方はいくらでもあります。当日も工夫次第で、ランキングをひっくり返せるかもしれませんよ」
生徒たちの顔がやる気に満ちる。
——期待しているわ。当日が楽しみね。
1年3組の教室の前で、澪は立ち止まった。
教室からは、どのクラスよりも賑やかで、ハイテンションの声が聞こえてくる。
開け放たれた扉から中を覗く。
ツインテールのウィッグにメイド服を着た晴を見た途端、澪の心拍数が跳ねあがった。
「ご主人様、おかえりなさい」
笑顔で小首を傾げる晴の髪が揺れる。
澪は口を押えて、飛び出しそうになる悲鳴を堪えた。
「麗ちゃんも言ってみてよ」
「えっ、私も?」
晴の隣に立つ執事姿の麗が、薄茶色の瞳を縮めて困惑の表情を浮かべる。
その瞳を見た瞬間、澪は息を呑んだ。
「……あの男と、同じ目」
血の気が引く。
それと同時に、口元が緩む。
「そういうことだったのね。……やっと見つけた」
澪は踵を返して、廊下の奥へと消えて行った。
「生徒会長、変な顔でおまえらのこと見てたぞ」
澪の後ろ姿を見ていた葵が、晴と麗に耳打ちをした。
「あの人黒だよ」
晴の口角が上がる。
「そうなの? 生徒会長が、何で?」
「さあ? そこまでは分かんないけど、警戒しておいた方がいい」
晴の声が、麗の耳に冷たく響く。顔が強張る。
「びびってんのか。こんなもんやめて、隠れとけよ」
嘲笑する葵が、麗のウィッグをはずして、前髪を下ろした。
「ちょっと、何すんの。返してよ」
葵の手からウィッグを奪い返す。
だが、被らずに机の上に置いた。
前髪に遮られた視界で、葵と晴を見上げる。
おかしい。……ほっとする。
前髪、邪魔なはずなのに。仕方なく命令に従っていたはずなのに。
安心するのはどうして?
……このままでもいいのかな。
麗は首を横に振り、前髪を撫でつけた。
帰り際、葵と晴と校門まで来たところで、麗はリボンがないことに気づき、教室に戻った。
誰もいないはずの室内から物音がする。
扉を開けると、澪がひとり佇んでいた。
「生徒会長? 何で、ここに?」
警戒しておいた方がいい。
晴の声を思い出し、身構える。
「教室の前で、拾ったの」
澪は手の中のエンジ色のリボンを見せた。
「ありがとう、ございます」
リボンを受け取り、会釈をする。
「男装女装喫茶、おもしろそうね。優勝候補だって言われてるわよ」
「そう、なんですか?」
「楽しみね」
柔らかい微笑なのに、麗の背筋に悪寒が走る。
「……はい。じゃあ、私はこれで」
体を反転させて、急いで廊下に出ようとする。
「長宮さん」
澪に呼び止められ、麗はおずおずと振り返った。
「私、あなたとお友達になりたいの」
夕陽に照らされ、逆光になった澪の表情が見えない。
嘘だ。何か裏がある。
けど、全く意図が読めない。
「あなたとなら、親友になれる気がするわ」
そんなわけない。根拠は何?
笑顔の圧しが強くて怖すぎる。
「……何で、私なんですか?」
「長宮さんに、シンパシーを感じているの」
親し気な笑み。
きっとこれは仮面。
裏側の表情は見当もつかない。
余計に警戒心が強くなる。
「みんなが見ているのは、生徒会長の私。誰も、本当の私を見てくれない。みんなが思っているような聖人君子じゃないのに……」
麗に近づきながら、澪は眉を下げた。くるんと持ち上がったまつげが、震える。組み合わせた手をぎゅっと握りしめる。
「長宮さん、大変な思いをしてきたんでしょう。ずっと本当の自分を押し殺してきたんじゃない?」
本当の自分……。
下僕扱いしてきた葵、心を踏みにじった晴。いつか2人に復讐を果たす。怒りを抑えてきた。
けど、今はどうだろう。気持ちが、ふらついている。
「見回りをしている時に、長宮さんの顔が見えたの。とても素敵だったわ。どうして前髪を伸ばさせていたのかしら」
澪の手が、麗の額に伸びる。
麗の肩がびくっと震える。
細い指先が優しく前髪をかきわける。
色素の薄い茶色の瞳があらわになった。
「こんなにきれいな目なのに。お父さん似かしら?」
瞳を見据え、澪は薄い唇を持ち上げた。
蛇に睨まれた蛙のように、体が強張って動かない。
「触んな」
背後に現れた葵が、澪の指を弾いた。
「後輩いびりですか? そんな人だとは思いませんでした」
晴が麗の肩を引いて、自分の後ろに隠した。
「誤解よ。お友達にそんなことしないわ。ねえ、長宮さん」
「……あ、はい」
思わず頷いてしまった。
「はあ?」
「友達?」
葵と晴に怪訝な顔を向けられた麗は、目を泳がせた。
「それじゃあ、また明日。気を付けて帰ってね」
澪は手を振ると、笑顔で去って行った。
どうして、お父さん似だなんて言ったんだろう。深い意味は、ないよね……?
遠ざかる澪の背中に、麗は険しい眼差しを向けた。
朝日を背に立つ澪は、ファイルを片手に生徒会役員たちを見回した。
「オーディションの結果も出て、各クラスの士気も上がってきました。文化祭まで残り2週間、生徒会は文化祭実行委員に徹してください」
澪はファイルから取り出した用紙を配った。
「役割配分と、今後のスケジュールです。当日、問題が起きないよう、入念に準備していきましょう」
覇気のある返事に満足そうに微笑んだ。
麗たちが教室に入ると、校内新聞を握りしめたクラスメイトたちが集まってきた。
「3人とも、ステージ出るの?!」
「理事長推薦枠って、何だよ」
そうだった。みんなに伝えるの忘れてた!
「ご、ごめん。伝えようと思ってたんだけど」
麗が手を合わせて謝る。
「さすが! 凄いよ」
「30ポイントでかい! 優勝間違いなし!」
あれ、怒ってない?
予想外の反応に麗は目を瞬かせた。
「店の準備はぼくらに任せて、3人はステージの準備に専念して」
委員長が言うと、他のクラスメイトも頷く。
それはありがたいけど、ステージの準備……?
麗は葵と晴と額を突き合わせた。
「何するの?」
「何するんだ?」
「何やる?」
口々に問いかけ合う。麗は顔が青ざめた。
「誰も考えてないの? あと2週間だよ」
「おまえが考えろよ」
葵が麗の額を小突く。
「やだよ。2人で考えて」
むっとして言うと、晴が人差し指を立てた。
「じゃあさ、放課後ファミレスで話し合おうよ」
「めんどくせえ」
葵は眉間に皺を寄せた。
「参加しないと拒否権ないからね。アオにダンスしてもらおっかな」
「いいね。そうしよう」
晴と麗がハイタッチをすると、葵はその手を引きはがし、麗を見下ろした。
「いいわけねえだろ。行きゃあいいんだろ」
不機嫌な顔で、席に座ると、鞄を机に叩きつけた。最近、学校でも家でもイライラしていて、
近寄りがたい。
普段は前髪、下ろしてるのに。
それとも、生徒会長のこと? あれから話しても、目も合わせてもいないのに。
いやいや。葵が苛ついている理由とかどうでもいいって。
命令されないし、むかつくこと言ってこないし、いいことの方が多いじゃん。
それよりも、ステージのこと考えないと。
でも、人前で何かやるとか、絶対ムリ。どうしよう……。
授業そっちのけで頭を悩ませている内に、あっという間に1日の授業が終わってしまった。
「私、やっぱり、人前に出て何かやるのは、ムリな気がする」
ファミレスでパフェを突きながら、麗は首を振った。
「はあ? おまえに拒否権ないぞ」
葵が顔をしかめながら、大口でハンバーグを口にいれた。
「分かってる。だから、考えたんだけど」
麗は豚カツを頬張る晴に目を向けた。
「ハルに映像を作ってもらうのはどうかな」
「ぼく?」
「パソコン得意でしょ。持ち時間の10分に収まる映像だったら、2週間あれば作れるよね?」
「まあ、できるけど」
豚カツを呑み込んで頷く。
「アオも映像の方がいいでしょ」
「内容考えてんのか?」
「それは、これから一緒に考えてよ」
麗はクリームとアイスをかき混ぜながら口を尖らせる。
「学院を牛耳っていい気になってるあの人に、一矢報いる内容にしたいね」
晴が麗の口の端についたクリームを指で拭って、舐めた。
「な、何するの!」
「おまえ、キモイぞ」
麗は口元に手をやり、葵は目を吊り上げた。
「それより、早く内容決めちゃおう。台本作って、撮影して、編集しないといけないんだから、2週間って結構ギリギリだよ」
何事もなかったように味噌汁を流し込む。
麗は先の見えない不安を拭うように、底にたまったコーンフレークをかきこんだ。
それからの2週間は、地獄だった。
すぐに意見がぶつかる葵と晴の板挟みにされながら、麗は寝る間も惜しんで台本を作り、撮影を行った。晴に編集を丸投げできたのが本番5日前。
晴は目の下に隈を作りながら編集作業に取り組み、前日になってようやく完成させた。
準備万端で迎えた文化祭当日。
すっかり喫茶店に変貌を遂げた教室を見回しながら、目白がぼさぼさの頭をかいた。
「……すげえな」
頬をピクピクと震わせ、メイド服に身を包んだ男子と、執事服を着た女子を見た。
「さあ、1年3組の目玉、ハルちゃんと、アオイくん、レイくんの登場だよ!」
衣装係が声を張る。麗は気恥ずかしさで、俯きながら教室に入った。葵はオールバックにヘアセットし、晴はメイクもしている。どこからどう見ても女子だ。
悔しいけど、確かにかわいい。
葵は……。
オールバックのせいで、いつもの葵とは別人に見える。組長の面影が色濃く感じられるせいか、マフィアのボスのような風格もある。
「ハルさま、可愛すぎて神!」
「でも、アオさまのカッコよさ、ハンパなくない?」
「お嬢様とか言われたら、キュン死!」
テンションが上がりすぎている女子たちにちらっと目を向ける。目が合った途端、口をつぐんで、息を呑んだ。
「やばい。レイくん、かっこいいけどかわいさもあって、最強すぎる」
「守られたいけど、守ってあげたくなる!」
「この3人、マジで無敵!」
誉めすぎ! 恥ずかしすぎる! 1日やっていけるかな……。
麗、葵、晴のスマホから同時に通知音が鳴った。
メールを開くと、案の定理事長からだった。
『大熊組の組長が来るかもしれない。鉢合わせしないよう、義兄さんを引き留めておいてくれ』
大熊組組長の顔写真が添付されている。名前にふさわしい熊みたいな巨体で、もみあげと髭がくっついている毛深い中年男性だ。
「ぼくたち、宣伝用のプラカード持って回ってるから、父さんが来たら宜しくね」
「えっ、私が?」
「しょうがねえだろ。ていうか、親父に見られるとか最悪」
「私だって嫌だよ。絶対馬鹿にされる」
唇を突き出す麗の肩を、晴が優しく叩いた。
「大丈夫。ぼくよりは馬鹿にされないよ」
「あー、うん。そうかも」
「馬鹿にされるよりも、お袋思い出して抱きつかれるかもな」
葵は冗談交じりで嘲笑うが、晴の顔は青ざめた。
「フラグ立てないでよ。……母さんの方が、美人だし」
フリルエプロンのポケットから手鏡を出して、自分の顔をまじまじと見た。
「お母さんに似てるの?」
小声で問いかけると、葵は首を捻った。
「似てんじゃね? あんまり顔覚えてねえ」
「そっか」
私は今でも忘れられない。
お母さんの顔も、父親の顔も。
備え付けの鏡に映る自分と目を合わせる。
「麗は父さん似だな。この瞳は人から愛される証だ」
人と違う自分の目が嫌いだった。
けど、そう言われて好きになった。
なのに……。
こんな目、大嫌い。
鏡から目を背ける。前髪を下ろしたい衝動にかられる。
ドン、ドーン。
外から花火が打ち上がる音が聞こえた。
麗は唇を引き結び、長い1日の始まりを覚悟した。
店が開いてからすぐ、続々と人が集まってきた。
プラカードを持って回る葵と晴の宣伝力によって、隣のクラスまで行列ができるほど人気を博した。目の回る忙しさに追われ、麗はすっかりウラ風紀委員の任務を忘れていた。
「おい、長宮」
目白に呼ばれて教室の外に出ると、そこに鹿島恒一がいた。
「あっ!」
思わず声を上げて、麗は気まずい表情を浮かべる。
「麗か?……懐かしいな」
馬鹿にされるかと思っていたが、麗の瞳を見つめて目元をわずかに緩めた。
「何でこんなに人気なんだか。くみ、じゃなくて、鹿島くんのお父さんを、優先してくれ」
気怠そうな目白に言われ、麗は教室を覗いた。どの席も埋まっていて、すぐに案内できる席がない。
「ちょっと、難しいかと」
ブブッ。
麗のポケットの中でスマホが震える。
『大熊が来ている。私は今手が離せない。義兄さんを引き留めておいてくれ』
そうだった! でも、どうしよう。満席だし……。ここは目白先生に相手をしてもらうしか。
「長宮、あとよろしく」
足早に去って行ってしまった。
恒一と2人きりにされ、麗は頭をフル回転させた。
席はないし、引き留めておかないといけないし、どうすれば……。
「葵と晴は、どこだ?」
教室を覗き込んだ恒一に聞かれ、麗はぱっと表情を明るくした。
「校内を回って、店の宣伝をしてるんです。席をすぐに案内できないので、2人を探しませんか?」
「まあ、いいだろ。あいつらも女装してんだろ。笑ってやらねえとな」
葵とそっくりな不敵な笑みを浮かべる。
これは絶好の復讐チャンス!
父親に女装姿を見せて、晴のプライドを傷つけてやる。
執事姿ですら見られるのを嫌がっていた葵にも、最悪な恥をかかせることができる。
「フフフフフ」
笑いが込み上げてくる。
自分を覆っている殻にピキッとひびが入る音がした。
形態が震える。葵からのメールだ。
『大熊いた。中央階段上ってったぞ。親父いたか?』
まずい。ここから中央階段見える。他の階段で下に降りないと。
返信する余裕もなく、麗は恒一を急いで左端の階段に案内し、下って行った。
「1年3組、女装男装喫茶やってまーす! イケメン執事と、可愛いメイドたちがいっぱいですよ」
晴が呼び込みをしながら、大熊の背中を追いかける。
「……あいつ、返事しねえで何やってんだよ」
葵は苛立った顔でスマホを見る。
「大熊、最上階まで上るつもりかな。3年生の階も過ぎてくよ」
「親父が来たらまずい」
葵が麗に電話をかけると、3回目でようやく出た。
「おい、返信しねえで何やってんだよ」
『今、校舎回りながら、引き留めてるとこ』
「親父をか?」
『うん』
「早く言えよ。大熊、4階に行こうとしてるぞ。そっちは大丈夫だろうな」
『……あー、まずいかも。切るよ』
「は? あいつ、切りやがった」
葵は顔をしかめ、スマホをポケットにしまった。
「アオ、あれって、生徒会長だよね?」
「知り合いなのか?」
生徒会室の前で立ち止まった大熊は、室内から出て来た澪と何やら話し込んでいる。
そこに注目していた2人は、麗と恒一が近くに来ていることに、気付くのが遅れた。
——少し前。
麗は恒一を下の階に連れて行ったものの、ごった返している昇降口に辟易し、階段を上って行った。
「なんだよ、この人の多さは。あいつら探すのめんどくせえから、理事長室で待つか」
「で、でも、今、理事長いないかも……」
「気にすんな。ウラの経営者は俺だ。どう使おうが俺の勝手だ」
恒一がニヒルに笑う。
さすが葵と晴の父親。もう止められる気がしない。
「あいつらに、理事長室来るよう言っとけ」
「……はい」
麗は従順に頷き、後をついていくしかなかった。
4階に登ったところで葵から電話がかかってきた。
電話を切った時には、中央階段から上ってきた大熊の姿が見えた。
「大熊、来てやがったか」
低く唸る恒一の声が辺りの空気を冷やす。
「おいおい、あれ、あいつらか?」
階段の壁際に身を隠している葵と晴に気付き、鼻で笑った。少し空気が和らぎ、麗は胸を撫で下ろした。
大熊組組長と鹿島組組長が、こんなところでぶつかったらどうなるの?
不安と興味でざわつく胸を抑え、口元を引き結んだ。
晴が廊下の向かいから歩いてくる麗と恒一に気付き、葵の肩を忙しなく叩いた。
「いる、いる!」
「何が……」
前方を見て葵もようやく気付いた。
「あいつ、しくじったな」
葵の声は聞こえなかったが、表情を見る限り、何を言っているのかなんとなく分かった。
にしても、大熊と生徒会長、どういう関係?
恒一と麗が近づくと、澪は話をやめて麗に微笑んだ。
「あら、長宮さん。……そちらは?」
「鹿島くんたちのお父さんです」
澪の背後に立つ猛獣のような鋭い目をした大熊に凝視され、麗は身を縮こまらせた。
その場の空気が、わずかに沈んだ。
「生徒会長の佐沖澪と申します。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
澪は丁寧にお辞儀をする。
「生徒会長か。できた娘さんをお持ちで」
恒一は口角を上げ、大熊に目線を移した。
「あら。よく父だと分かりましたね」
澪が微笑みながら、小首を傾げた。
「どことなく似てるからな」
どこが?! 親子だなんて、ちっとも思わなかった! 生徒会長が、大熊の娘って、どういうこと⁉
麗と同じく、葵と晴も驚いた表情で、大熊を見た。
「初めまして。大熊です」
まるで威嚇する大型犬のような、低く響く声に圧迫される。
「母とは離婚しているの。佐沖は母の旧姓なのよ。お友達だから、教えてあげるわ」
澪が麗にこっそり囁いた。
なら、大熊組とは関係がないのかな。
「もっと私のこと知りたかったら、後夜祭の後、お話ししましょう」
疑問が顔に出ていたのだろうか。
「そちらは、娘さんとはあまり似ていませんな」
大熊は麗の瞳を凝視する。
「血は繋がってませんから。愚息は無様な姿をしているので、紹介はまたの機会に」
恒一は麗を隠すように、一歩前に出た。
「お父様、そろそろ行きましょう。それでは、文化祭楽しんでください」
澪は一礼すると、大熊と一緒に左端の階段に向かった。
麗は肺に溜まった重たい空気を、一気に吐き出した。
その間に、恒一は階段を下りようとする葵と晴に近づき、呼び止めた。
「アオ、ハル。おもしろい恰好してんじゃねえか」
葵と晴は動きを止め、ぎこちない動作で振り返った。
「ハハッ。馬子にも衣裳ってか」
指を差されて笑われた葵は、顔を赤くして奥歯を噛みしめた。
怒りの眼差しは恒一ではなく、麗に向けられた。
あれ、全然怖いと思わない。むしろ笑いが込み上げてくる。
ピキピキッ。
次々と殻にひびが入る音がする。
「ハル、おまえはいつから娘になったんだよ」
晴の顔から笑顔が消えた。
「……あいつそっくりじゃねえか」
恒一が心痛の面持ちを浮かべる。途端に晴をきつく抱き締めた。
「急にいなくなりやがって。ガキと旦那より大事なもんがどこにあるってんだ」
「ちょ、やめて。マジで、気持ち悪い…‥」
晴の顔が青ざめる。
恒一が離れると、力なくその場にへたり込んだ。
「なんだよ、失礼なやつだな。ステージも見てやる。思う存分目立って来い」
そう言い残して、恒一は階段を下りていった。
ついに、2人に復讐を果たした。
胸の奥に溜まっていた黒いものが、少しずつ溶けていく。
初めて、自分で奪い返せた気がした。
「てめえ、何してんだよ! 任務失敗しやがって。親父にも見られるし、最悪じゃねえか」
葵の怒鳴り声も子犬の鳴き声程度にしか聞こえない。
なんだか気分が晴れて、すっきりしている。
パキパキッ。
殻が、割れる音がした。
「ざまあ」
階段の上から葵を見下ろし、嘲笑った。
「……なっ! 下僕のくせにっ!」
葵が目を見開いて絶句する。
その表情に、麗の気分は高揚する。
今なら、何でも言える。
「私は、下僕じゃない。モノでもない」
言えた。
6年間、心の奥底に溜め込んで、押し殺してきた言葉。
「いい気になってんじゃねえぞ」
葵が奥歯を噛みしめる。
「ふん」
腕を組んで口角を上げ、鼻を鳴らす。
……あれ?
見下して馬鹿にするのって、楽しい。
下段から麗を見上げていた葵は、ぞくっと背筋に悪寒が走った。
麗の視線は、手すりを掴んでよろよろと立ち上がった晴へ向けられる。
「手、貸してあげようか?」
晴に手を差し出す。
「ありがと」
弱々しく笑った晴が、掴もうとする。
だが、手が触れる直前、麗は手を引いた。
晴の手は空を切る。体勢を崩し、膝をついた。
「やっぱり、やーめた。ごめんね」
薄茶色の瞳を細めて、麗はニヤリとほくそ笑んだ。
呆然自失の晴の顔。
いい気味。
なんて気持ちいいんだろう。
熱を持つ頬に手を添え、小首を傾げる。
小悪魔のようないたずらっぽい麗の顔から目が離せない晴は、ぞわりと鳥肌が立つ。
徐々に口元が緩み、腹を抱えて大声で笑いだした。
「アーッハッハッハッハッ!」
どうしたの? おかしくなっちゃった? 怖すぎるんだけど。
「麗ちゃんのさっきの顔、最高。やられる側も悪くないね。麗ちゃんのこと、本気で好きになっちゃうよ」
目の端の涙を拭う。
「変態……」
「変態め」
「ひどいな、2人とも」
麗と葵の蔑む視線を、晴は満面の笑みで受け止めた。
ぞわりと、鳥肌が立つ。
それを振り払うように、床を踏みつけた。
パキン。
殻が音を立てて砕けた。
もう——
元には戻らない。
飲食の出店が両側に建ち並ぶ校庭を通って、澪は大熊を校門まで見送った。
「どうでしたか?」
「間違いない。あの目、忘れもしない。あいつの娘だ」
「お父様、長宮さんのこと、私に任せてくれないかしら」
澪の目の奥が、鋭く光る。
「……いいだろう。跡取りとしての力を見せてみろ」
「はい。文化祭、これからがおもしろくなりますよ。帰ってしまうのですか?」
「後で報告しろ」
大熊は踵を返して、巨体を揺らしながら校門の前に停まっている車に乗り込んだ。
「人の心はいくらでも操れる。暴力なんていらない。その目で見て欲しかったのに。残念ね」
薄い唇が弧を描く。
校舎を見上げた時、校内放送が鳴り響いた。
「ランキングを発表します」
澪は目を閉じて耳を傾ける。
「……3位は、2年2組、2位は、3年1組、1位は、1年3組です」
ゆっくりと目を開き、えくぼを作った。
「ここからが、本番よ。壊れる準備は、できているわ」
生ぬるい風が、澪の髪をなびかせた。
放課後になっても、各クラスが騒然としている。
「優勝目指して、頑張ってくださいね」
澪はクラスを巡回しながら、声をかける。だが、どのクラスも苦々しい表情で同じことを言うのだった。
「優勝候補は、1年3組」
澪は、決まり文句のように激励の言葉を投げかけた。
「やり方はいくらでもあります。当日も工夫次第で、ランキングをひっくり返せるかもしれませんよ」
生徒たちの顔がやる気に満ちる。
——期待しているわ。当日が楽しみね。
1年3組の教室の前で、澪は立ち止まった。
教室からは、どのクラスよりも賑やかで、ハイテンションの声が聞こえてくる。
開け放たれた扉から中を覗く。
ツインテールのウィッグにメイド服を着た晴を見た途端、澪の心拍数が跳ねあがった。
「ご主人様、おかえりなさい」
笑顔で小首を傾げる晴の髪が揺れる。
澪は口を押えて、飛び出しそうになる悲鳴を堪えた。
「麗ちゃんも言ってみてよ」
「えっ、私も?」
晴の隣に立つ執事姿の麗が、薄茶色の瞳を縮めて困惑の表情を浮かべる。
その瞳を見た瞬間、澪は息を呑んだ。
「……あの男と、同じ目」
血の気が引く。
それと同時に、口元が緩む。
「そういうことだったのね。……やっと見つけた」
澪は踵を返して、廊下の奥へと消えて行った。
「生徒会長、変な顔でおまえらのこと見てたぞ」
澪の後ろ姿を見ていた葵が、晴と麗に耳打ちをした。
「あの人黒だよ」
晴の口角が上がる。
「そうなの? 生徒会長が、何で?」
「さあ? そこまでは分かんないけど、警戒しておいた方がいい」
晴の声が、麗の耳に冷たく響く。顔が強張る。
「びびってんのか。こんなもんやめて、隠れとけよ」
嘲笑する葵が、麗のウィッグをはずして、前髪を下ろした。
「ちょっと、何すんの。返してよ」
葵の手からウィッグを奪い返す。
だが、被らずに机の上に置いた。
前髪に遮られた視界で、葵と晴を見上げる。
おかしい。……ほっとする。
前髪、邪魔なはずなのに。仕方なく命令に従っていたはずなのに。
安心するのはどうして?
……このままでもいいのかな。
麗は首を横に振り、前髪を撫でつけた。
帰り際、葵と晴と校門まで来たところで、麗はリボンがないことに気づき、教室に戻った。
誰もいないはずの室内から物音がする。
扉を開けると、澪がひとり佇んでいた。
「生徒会長? 何で、ここに?」
警戒しておいた方がいい。
晴の声を思い出し、身構える。
「教室の前で、拾ったの」
澪は手の中のエンジ色のリボンを見せた。
「ありがとう、ございます」
リボンを受け取り、会釈をする。
「男装女装喫茶、おもしろそうね。優勝候補だって言われてるわよ」
「そう、なんですか?」
「楽しみね」
柔らかい微笑なのに、麗の背筋に悪寒が走る。
「……はい。じゃあ、私はこれで」
体を反転させて、急いで廊下に出ようとする。
「長宮さん」
澪に呼び止められ、麗はおずおずと振り返った。
「私、あなたとお友達になりたいの」
夕陽に照らされ、逆光になった澪の表情が見えない。
嘘だ。何か裏がある。
けど、全く意図が読めない。
「あなたとなら、親友になれる気がするわ」
そんなわけない。根拠は何?
笑顔の圧しが強くて怖すぎる。
「……何で、私なんですか?」
「長宮さんに、シンパシーを感じているの」
親し気な笑み。
きっとこれは仮面。
裏側の表情は見当もつかない。
余計に警戒心が強くなる。
「みんなが見ているのは、生徒会長の私。誰も、本当の私を見てくれない。みんなが思っているような聖人君子じゃないのに……」
麗に近づきながら、澪は眉を下げた。くるんと持ち上がったまつげが、震える。組み合わせた手をぎゅっと握りしめる。
「長宮さん、大変な思いをしてきたんでしょう。ずっと本当の自分を押し殺してきたんじゃない?」
本当の自分……。
下僕扱いしてきた葵、心を踏みにじった晴。いつか2人に復讐を果たす。怒りを抑えてきた。
けど、今はどうだろう。気持ちが、ふらついている。
「見回りをしている時に、長宮さんの顔が見えたの。とても素敵だったわ。どうして前髪を伸ばさせていたのかしら」
澪の手が、麗の額に伸びる。
麗の肩がびくっと震える。
細い指先が優しく前髪をかきわける。
色素の薄い茶色の瞳があらわになった。
「こんなにきれいな目なのに。お父さん似かしら?」
瞳を見据え、澪は薄い唇を持ち上げた。
蛇に睨まれた蛙のように、体が強張って動かない。
「触んな」
背後に現れた葵が、澪の指を弾いた。
「後輩いびりですか? そんな人だとは思いませんでした」
晴が麗の肩を引いて、自分の後ろに隠した。
「誤解よ。お友達にそんなことしないわ。ねえ、長宮さん」
「……あ、はい」
思わず頷いてしまった。
「はあ?」
「友達?」
葵と晴に怪訝な顔を向けられた麗は、目を泳がせた。
「それじゃあ、また明日。気を付けて帰ってね」
澪は手を振ると、笑顔で去って行った。
どうして、お父さん似だなんて言ったんだろう。深い意味は、ないよね……?
遠ざかる澪の背中に、麗は険しい眼差しを向けた。
朝日を背に立つ澪は、ファイルを片手に生徒会役員たちを見回した。
「オーディションの結果も出て、各クラスの士気も上がってきました。文化祭まで残り2週間、生徒会は文化祭実行委員に徹してください」
澪はファイルから取り出した用紙を配った。
「役割配分と、今後のスケジュールです。当日、問題が起きないよう、入念に準備していきましょう」
覇気のある返事に満足そうに微笑んだ。
麗たちが教室に入ると、校内新聞を握りしめたクラスメイトたちが集まってきた。
「3人とも、ステージ出るの?!」
「理事長推薦枠って、何だよ」
そうだった。みんなに伝えるの忘れてた!
「ご、ごめん。伝えようと思ってたんだけど」
麗が手を合わせて謝る。
「さすが! 凄いよ」
「30ポイントでかい! 優勝間違いなし!」
あれ、怒ってない?
予想外の反応に麗は目を瞬かせた。
「店の準備はぼくらに任せて、3人はステージの準備に専念して」
委員長が言うと、他のクラスメイトも頷く。
それはありがたいけど、ステージの準備……?
麗は葵と晴と額を突き合わせた。
「何するの?」
「何するんだ?」
「何やる?」
口々に問いかけ合う。麗は顔が青ざめた。
「誰も考えてないの? あと2週間だよ」
「おまえが考えろよ」
葵が麗の額を小突く。
「やだよ。2人で考えて」
むっとして言うと、晴が人差し指を立てた。
「じゃあさ、放課後ファミレスで話し合おうよ」
「めんどくせえ」
葵は眉間に皺を寄せた。
「参加しないと拒否権ないからね。アオにダンスしてもらおっかな」
「いいね。そうしよう」
晴と麗がハイタッチをすると、葵はその手を引きはがし、麗を見下ろした。
「いいわけねえだろ。行きゃあいいんだろ」
不機嫌な顔で、席に座ると、鞄を机に叩きつけた。最近、学校でも家でもイライラしていて、
近寄りがたい。
普段は前髪、下ろしてるのに。
それとも、生徒会長のこと? あれから話しても、目も合わせてもいないのに。
いやいや。葵が苛ついている理由とかどうでもいいって。
命令されないし、むかつくこと言ってこないし、いいことの方が多いじゃん。
それよりも、ステージのこと考えないと。
でも、人前で何かやるとか、絶対ムリ。どうしよう……。
授業そっちのけで頭を悩ませている内に、あっという間に1日の授業が終わってしまった。
「私、やっぱり、人前に出て何かやるのは、ムリな気がする」
ファミレスでパフェを突きながら、麗は首を振った。
「はあ? おまえに拒否権ないぞ」
葵が顔をしかめながら、大口でハンバーグを口にいれた。
「分かってる。だから、考えたんだけど」
麗は豚カツを頬張る晴に目を向けた。
「ハルに映像を作ってもらうのはどうかな」
「ぼく?」
「パソコン得意でしょ。持ち時間の10分に収まる映像だったら、2週間あれば作れるよね?」
「まあ、できるけど」
豚カツを呑み込んで頷く。
「アオも映像の方がいいでしょ」
「内容考えてんのか?」
「それは、これから一緒に考えてよ」
麗はクリームとアイスをかき混ぜながら口を尖らせる。
「学院を牛耳っていい気になってるあの人に、一矢報いる内容にしたいね」
晴が麗の口の端についたクリームを指で拭って、舐めた。
「な、何するの!」
「おまえ、キモイぞ」
麗は口元に手をやり、葵は目を吊り上げた。
「それより、早く内容決めちゃおう。台本作って、撮影して、編集しないといけないんだから、2週間って結構ギリギリだよ」
何事もなかったように味噌汁を流し込む。
麗は先の見えない不安を拭うように、底にたまったコーンフレークをかきこんだ。
それからの2週間は、地獄だった。
すぐに意見がぶつかる葵と晴の板挟みにされながら、麗は寝る間も惜しんで台本を作り、撮影を行った。晴に編集を丸投げできたのが本番5日前。
晴は目の下に隈を作りながら編集作業に取り組み、前日になってようやく完成させた。
準備万端で迎えた文化祭当日。
すっかり喫茶店に変貌を遂げた教室を見回しながら、目白がぼさぼさの頭をかいた。
「……すげえな」
頬をピクピクと震わせ、メイド服に身を包んだ男子と、執事服を着た女子を見た。
「さあ、1年3組の目玉、ハルちゃんと、アオイくん、レイくんの登場だよ!」
衣装係が声を張る。麗は気恥ずかしさで、俯きながら教室に入った。葵はオールバックにヘアセットし、晴はメイクもしている。どこからどう見ても女子だ。
悔しいけど、確かにかわいい。
葵は……。
オールバックのせいで、いつもの葵とは別人に見える。組長の面影が色濃く感じられるせいか、マフィアのボスのような風格もある。
「ハルさま、可愛すぎて神!」
「でも、アオさまのカッコよさ、ハンパなくない?」
「お嬢様とか言われたら、キュン死!」
テンションが上がりすぎている女子たちにちらっと目を向ける。目が合った途端、口をつぐんで、息を呑んだ。
「やばい。レイくん、かっこいいけどかわいさもあって、最強すぎる」
「守られたいけど、守ってあげたくなる!」
「この3人、マジで無敵!」
誉めすぎ! 恥ずかしすぎる! 1日やっていけるかな……。
麗、葵、晴のスマホから同時に通知音が鳴った。
メールを開くと、案の定理事長からだった。
『大熊組の組長が来るかもしれない。鉢合わせしないよう、義兄さんを引き留めておいてくれ』
大熊組組長の顔写真が添付されている。名前にふさわしい熊みたいな巨体で、もみあげと髭がくっついている毛深い中年男性だ。
「ぼくたち、宣伝用のプラカード持って回ってるから、父さんが来たら宜しくね」
「えっ、私が?」
「しょうがねえだろ。ていうか、親父に見られるとか最悪」
「私だって嫌だよ。絶対馬鹿にされる」
唇を突き出す麗の肩を、晴が優しく叩いた。
「大丈夫。ぼくよりは馬鹿にされないよ」
「あー、うん。そうかも」
「馬鹿にされるよりも、お袋思い出して抱きつかれるかもな」
葵は冗談交じりで嘲笑うが、晴の顔は青ざめた。
「フラグ立てないでよ。……母さんの方が、美人だし」
フリルエプロンのポケットから手鏡を出して、自分の顔をまじまじと見た。
「お母さんに似てるの?」
小声で問いかけると、葵は首を捻った。
「似てんじゃね? あんまり顔覚えてねえ」
「そっか」
私は今でも忘れられない。
お母さんの顔も、父親の顔も。
備え付けの鏡に映る自分と目を合わせる。
「麗は父さん似だな。この瞳は人から愛される証だ」
人と違う自分の目が嫌いだった。
けど、そう言われて好きになった。
なのに……。
こんな目、大嫌い。
鏡から目を背ける。前髪を下ろしたい衝動にかられる。
ドン、ドーン。
外から花火が打ち上がる音が聞こえた。
麗は唇を引き結び、長い1日の始まりを覚悟した。
店が開いてからすぐ、続々と人が集まってきた。
プラカードを持って回る葵と晴の宣伝力によって、隣のクラスまで行列ができるほど人気を博した。目の回る忙しさに追われ、麗はすっかりウラ風紀委員の任務を忘れていた。
「おい、長宮」
目白に呼ばれて教室の外に出ると、そこに鹿島恒一がいた。
「あっ!」
思わず声を上げて、麗は気まずい表情を浮かべる。
「麗か?……懐かしいな」
馬鹿にされるかと思っていたが、麗の瞳を見つめて目元をわずかに緩めた。
「何でこんなに人気なんだか。くみ、じゃなくて、鹿島くんのお父さんを、優先してくれ」
気怠そうな目白に言われ、麗は教室を覗いた。どの席も埋まっていて、すぐに案内できる席がない。
「ちょっと、難しいかと」
ブブッ。
麗のポケットの中でスマホが震える。
『大熊が来ている。私は今手が離せない。義兄さんを引き留めておいてくれ』
そうだった! でも、どうしよう。満席だし……。ここは目白先生に相手をしてもらうしか。
「長宮、あとよろしく」
足早に去って行ってしまった。
恒一と2人きりにされ、麗は頭をフル回転させた。
席はないし、引き留めておかないといけないし、どうすれば……。
「葵と晴は、どこだ?」
教室を覗き込んだ恒一に聞かれ、麗はぱっと表情を明るくした。
「校内を回って、店の宣伝をしてるんです。席をすぐに案内できないので、2人を探しませんか?」
「まあ、いいだろ。あいつらも女装してんだろ。笑ってやらねえとな」
葵とそっくりな不敵な笑みを浮かべる。
これは絶好の復讐チャンス!
父親に女装姿を見せて、晴のプライドを傷つけてやる。
執事姿ですら見られるのを嫌がっていた葵にも、最悪な恥をかかせることができる。
「フフフフフ」
笑いが込み上げてくる。
自分を覆っている殻にピキッとひびが入る音がした。
形態が震える。葵からのメールだ。
『大熊いた。中央階段上ってったぞ。親父いたか?』
まずい。ここから中央階段見える。他の階段で下に降りないと。
返信する余裕もなく、麗は恒一を急いで左端の階段に案内し、下って行った。
「1年3組、女装男装喫茶やってまーす! イケメン執事と、可愛いメイドたちがいっぱいですよ」
晴が呼び込みをしながら、大熊の背中を追いかける。
「……あいつ、返事しねえで何やってんだよ」
葵は苛立った顔でスマホを見る。
「大熊、最上階まで上るつもりかな。3年生の階も過ぎてくよ」
「親父が来たらまずい」
葵が麗に電話をかけると、3回目でようやく出た。
「おい、返信しねえで何やってんだよ」
『今、校舎回りながら、引き留めてるとこ』
「親父をか?」
『うん』
「早く言えよ。大熊、4階に行こうとしてるぞ。そっちは大丈夫だろうな」
『……あー、まずいかも。切るよ』
「は? あいつ、切りやがった」
葵は顔をしかめ、スマホをポケットにしまった。
「アオ、あれって、生徒会長だよね?」
「知り合いなのか?」
生徒会室の前で立ち止まった大熊は、室内から出て来た澪と何やら話し込んでいる。
そこに注目していた2人は、麗と恒一が近くに来ていることに、気付くのが遅れた。
——少し前。
麗は恒一を下の階に連れて行ったものの、ごった返している昇降口に辟易し、階段を上って行った。
「なんだよ、この人の多さは。あいつら探すのめんどくせえから、理事長室で待つか」
「で、でも、今、理事長いないかも……」
「気にすんな。ウラの経営者は俺だ。どう使おうが俺の勝手だ」
恒一がニヒルに笑う。
さすが葵と晴の父親。もう止められる気がしない。
「あいつらに、理事長室来るよう言っとけ」
「……はい」
麗は従順に頷き、後をついていくしかなかった。
4階に登ったところで葵から電話がかかってきた。
電話を切った時には、中央階段から上ってきた大熊の姿が見えた。
「大熊、来てやがったか」
低く唸る恒一の声が辺りの空気を冷やす。
「おいおい、あれ、あいつらか?」
階段の壁際に身を隠している葵と晴に気付き、鼻で笑った。少し空気が和らぎ、麗は胸を撫で下ろした。
大熊組組長と鹿島組組長が、こんなところでぶつかったらどうなるの?
不安と興味でざわつく胸を抑え、口元を引き結んだ。
晴が廊下の向かいから歩いてくる麗と恒一に気付き、葵の肩を忙しなく叩いた。
「いる、いる!」
「何が……」
前方を見て葵もようやく気付いた。
「あいつ、しくじったな」
葵の声は聞こえなかったが、表情を見る限り、何を言っているのかなんとなく分かった。
にしても、大熊と生徒会長、どういう関係?
恒一と麗が近づくと、澪は話をやめて麗に微笑んだ。
「あら、長宮さん。……そちらは?」
「鹿島くんたちのお父さんです」
澪の背後に立つ猛獣のような鋭い目をした大熊に凝視され、麗は身を縮こまらせた。
その場の空気が、わずかに沈んだ。
「生徒会長の佐沖澪と申します。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
澪は丁寧にお辞儀をする。
「生徒会長か。できた娘さんをお持ちで」
恒一は口角を上げ、大熊に目線を移した。
「あら。よく父だと分かりましたね」
澪が微笑みながら、小首を傾げた。
「どことなく似てるからな」
どこが?! 親子だなんて、ちっとも思わなかった! 生徒会長が、大熊の娘って、どういうこと⁉
麗と同じく、葵と晴も驚いた表情で、大熊を見た。
「初めまして。大熊です」
まるで威嚇する大型犬のような、低く響く声に圧迫される。
「母とは離婚しているの。佐沖は母の旧姓なのよ。お友達だから、教えてあげるわ」
澪が麗にこっそり囁いた。
なら、大熊組とは関係がないのかな。
「もっと私のこと知りたかったら、後夜祭の後、お話ししましょう」
疑問が顔に出ていたのだろうか。
「そちらは、娘さんとはあまり似ていませんな」
大熊は麗の瞳を凝視する。
「血は繋がってませんから。愚息は無様な姿をしているので、紹介はまたの機会に」
恒一は麗を隠すように、一歩前に出た。
「お父様、そろそろ行きましょう。それでは、文化祭楽しんでください」
澪は一礼すると、大熊と一緒に左端の階段に向かった。
麗は肺に溜まった重たい空気を、一気に吐き出した。
その間に、恒一は階段を下りようとする葵と晴に近づき、呼び止めた。
「アオ、ハル。おもしろい恰好してんじゃねえか」
葵と晴は動きを止め、ぎこちない動作で振り返った。
「ハハッ。馬子にも衣裳ってか」
指を差されて笑われた葵は、顔を赤くして奥歯を噛みしめた。
怒りの眼差しは恒一ではなく、麗に向けられた。
あれ、全然怖いと思わない。むしろ笑いが込み上げてくる。
ピキピキッ。
次々と殻にひびが入る音がする。
「ハル、おまえはいつから娘になったんだよ」
晴の顔から笑顔が消えた。
「……あいつそっくりじゃねえか」
恒一が心痛の面持ちを浮かべる。途端に晴をきつく抱き締めた。
「急にいなくなりやがって。ガキと旦那より大事なもんがどこにあるってんだ」
「ちょ、やめて。マジで、気持ち悪い…‥」
晴の顔が青ざめる。
恒一が離れると、力なくその場にへたり込んだ。
「なんだよ、失礼なやつだな。ステージも見てやる。思う存分目立って来い」
そう言い残して、恒一は階段を下りていった。
ついに、2人に復讐を果たした。
胸の奥に溜まっていた黒いものが、少しずつ溶けていく。
初めて、自分で奪い返せた気がした。
「てめえ、何してんだよ! 任務失敗しやがって。親父にも見られるし、最悪じゃねえか」
葵の怒鳴り声も子犬の鳴き声程度にしか聞こえない。
なんだか気分が晴れて、すっきりしている。
パキパキッ。
殻が、割れる音がした。
「ざまあ」
階段の上から葵を見下ろし、嘲笑った。
「……なっ! 下僕のくせにっ!」
葵が目を見開いて絶句する。
その表情に、麗の気分は高揚する。
今なら、何でも言える。
「私は、下僕じゃない。モノでもない」
言えた。
6年間、心の奥底に溜め込んで、押し殺してきた言葉。
「いい気になってんじゃねえぞ」
葵が奥歯を噛みしめる。
「ふん」
腕を組んで口角を上げ、鼻を鳴らす。
……あれ?
見下して馬鹿にするのって、楽しい。
下段から麗を見上げていた葵は、ぞくっと背筋に悪寒が走った。
麗の視線は、手すりを掴んでよろよろと立ち上がった晴へ向けられる。
「手、貸してあげようか?」
晴に手を差し出す。
「ありがと」
弱々しく笑った晴が、掴もうとする。
だが、手が触れる直前、麗は手を引いた。
晴の手は空を切る。体勢を崩し、膝をついた。
「やっぱり、やーめた。ごめんね」
薄茶色の瞳を細めて、麗はニヤリとほくそ笑んだ。
呆然自失の晴の顔。
いい気味。
なんて気持ちいいんだろう。
熱を持つ頬に手を添え、小首を傾げる。
小悪魔のようないたずらっぽい麗の顔から目が離せない晴は、ぞわりと鳥肌が立つ。
徐々に口元が緩み、腹を抱えて大声で笑いだした。
「アーッハッハッハッハッ!」
どうしたの? おかしくなっちゃった? 怖すぎるんだけど。
「麗ちゃんのさっきの顔、最高。やられる側も悪くないね。麗ちゃんのこと、本気で好きになっちゃうよ」
目の端の涙を拭う。
「変態……」
「変態め」
「ひどいな、2人とも」
麗と葵の蔑む視線を、晴は満面の笑みで受け止めた。
ぞわりと、鳥肌が立つ。
それを振り払うように、床を踏みつけた。
パキン。
殻が音を立てて砕けた。
もう——
元には戻らない。
飲食の出店が両側に建ち並ぶ校庭を通って、澪は大熊を校門まで見送った。
「どうでしたか?」
「間違いない。あの目、忘れもしない。あいつの娘だ」
「お父様、長宮さんのこと、私に任せてくれないかしら」
澪の目の奥が、鋭く光る。
「……いいだろう。跡取りとしての力を見せてみろ」
「はい。文化祭、これからがおもしろくなりますよ。帰ってしまうのですか?」
「後で報告しろ」
大熊は踵を返して、巨体を揺らしながら校門の前に停まっている車に乗り込んだ。
「人の心はいくらでも操れる。暴力なんていらない。その目で見て欲しかったのに。残念ね」
薄い唇が弧を描く。
校舎を見上げた時、校内放送が鳴り響いた。
「ランキングを発表します」
澪は目を閉じて耳を傾ける。
「……3位は、2年2組、2位は、3年1組、1位は、1年3組です」
ゆっくりと目を開き、えくぼを作った。
「ここからが、本番よ。壊れる準備は、できているわ」
生ぬるい風が、澪の髪をなびかせた。
