玉響の花雫  壱

ここで働き始めてから随分と経つのに、よく考えたら、ないマスターの珈琲は一度も味わった事がない

丁寧に心を込めて豆を挽き、一杯ずつ無駄のない動きで珈琲を淹れるマスターをずっとそばで見てきた。

沢山話すこともない日々の中でも、珈琲の香りと音楽、そしてマスターが大好きだから働きたいと思えたのだ


『さあ‥‥どうぞ。』

「はい‥‥いただきます‥」

ふーっと少し息を吹きかけてからゆっくりとカップに口をつけると、香ばしい香りとは反対に初めて味わう苦味が口の中を覆っていく

彼が好んで飲む珈琲はこんなにも大人の味なんだね‥‥


いつも美味しいなんてハッキリと口には出すわけではないけれど、一口目を飲んだ後の彼の表情は穏やかで、
ホッとした顔をしているから、もっとまろやかかと思っていた。

 
「マスター‥‥私にはとても苦いです‥‥」


素直にそう伝えてから、目の前の蜂蜜を一杯スプーンですくって手元の珈琲と優しく混ぜてからまた一口飲んでみた。


「えっ!?嘘みたい‥‥すごく飲みやすいです!!」


『フッ‥そうでしょう?人はね‥‥それぞれ感じ方も
 違うし、足りないなと思った時は無理しないこと。
 それは格好悪いことじゃないし、自分の素直な
 気持ちなので、自分に合った自分らしい生き方が
 1番ですから何かを足せばいいんですよ?
 霞さんが割ってしまったカップもまた
 足せばいいだけのことです。』

マスター‥‥‥

叱ることもなく、怒った表情をみせることもなく
穏やかな話し方で珈琲をすする優しいマスターに、
目頭が熱くなり涙が溢れそうになるのを堪えてしまう


「マスター‥ありがとうございます。」

『ふふ‥‥‥はい。
 その気持ちだけでじゅうぶんです。』


静かな空間で飲んだ大人の珈琲の味を私はきっと忘れることはないと思う‥

残り少ない時間をこの素敵な空間で過ごせることに喜びを感じ、来てくださる方々にマスターのように感謝を伝えていけたらいいな‥‥


それからも私は平日はアルバイトに来て、時々訪れる彼の姿を遠くから眺めた

私が飲めなかったブラックの珈琲を美味しそうに口に含みホッとした時間をここで過ごしているのを見届ける。
それだけでじゅうぶん幸せだった。


『おや‥雨が降ってきたようですね。』


金曜日の夜、突然降り始めた土砂降りのような雨音が
店内のクラッシックジャズの音色をかき消していく。

折り畳み傘を持ってきていて良かった‥‥。帰る頃には
少しは雨足も弱まるといいけど‥‥



カランカラン

「いらっしゃいませ‥‥‥ッ」


雨の匂いと共に扉から風が店内に吹き込むのと同時に彼が現れたことに驚いてしまう


『おや、筒井さん‥‥いらっしゃいませ。
 突然の酷い雨に遭遇してしまいましたね。』


走って来たのかスーツがかなり濡れてしまっていて、
慌てて裏からふかふかのタオルを持ってくると、ハンカチで肩口をふいていた彼にそっと差し出した。


「あ、あの‥どうぞ使ってください‥風邪をひいて
 しまいますから‥」

『フッ‥‥ありがとう。助かります。』


ドクン

恥ずかしくて彼の目も見れない私は、震える手で差し出したタオルを受け取ってもらえると、赤いだろう顔を
見られたくなくて俯いていた


『霞さんタオルをありがとうございます。筒井さんも
 そこにいては寒いでしょう?こちらでも良ければ
 温かい一杯をいかがですか?』


外の看板をしまいに行く私の後ろで、カウンターに向かい座る彼に心臓がドクドクとうるさく騒いでいる