一方その頃、結衣は病室の片隅で、患者の点滴器具を外し、片付けをしていた。
終わったばかりの点滴スタンドを拭き、手元を確認する。
「よし、これで終わりっと。」
患者の枕元に置かれた小さな花瓶が目に留まった。
白いカスミソウと黄色いガーベラが、少し萎れている。
「あ……お花、替えないと。」
そうつぶやき、花瓶を持ち上げてナースステーションへ戻る。
ステーションに入る前、何人かでざわざわしている廊下の奥に立つ一人の医師の後ろ姿が目に入った。
(あれ? 見かけない先生ね。新しく入った先生かな?)
白衣の背中。
少し茶色がかった髪が、蛍光灯の光に柔らかく反射している。
立ち姿が妙に懐かしく感じて、結衣は無意識に足を止めた。
そして、その医師がゆっくりと振り返る。
視線が合った――その瞬間。
時間が止まった。
「……っ!!!」
花瓶を持つ指が震える。
白衣の襟元、整った顔立ち、そして何よりも――その目。
かつて自分の名前を一番近くで呼んでくれた瞳。
「あ、やっぱりそうだ。"結衣"、久しぶりだね。」
静かに、しかし確かに響く声。
何年も前の、夏の日のままの声だった。
世界が揺れた。
頭の中で何かが弾け、記憶の欠片が一気に蘇る。
交わした言葉。交差した視線。
あの日の雨。
別れ際にさようならとしか言えなかった、色々伝えたかった言葉の数々を思い出した。
(……どうして、ここに……?)
思考が追いつかない。
次の瞬間――
ガシャン、と高い音。
手から花瓶が滑り落ち、床に砕け散った。
「あっ……!」
割れたガラス片と水が飛び散る。
結衣は慌ててしゃがみこみ、手を伸ばした。
けれど――
「痛っ……!」
細い指先に鋭い痛み。
見ると、ガラスの欠片が赤く染まり始めていた。
「結衣!触ったらだめだっ!」
鋭い声が響いた。
早瀬が一歩で距離を詰め、結衣の腕を掴む。
その瞬間、二人の間に流れたのは、時間ではなく“過去”だった。
息を呑む距離。
触れた指先。
懐かしさと痛みが入り混じった感情が、結衣の胸をぎゅっと締め付ける。
でも――何も言えない。
心臓が激しく脈を打ち、視界が滲んでいく。
頭の中が、真っ白だった。
そんな中、別の声が飛び込んできた。
「橘さん!?」
聞き慣れた、安心する低音。
振り返ると、そこには陽向先生が駆け寄ってきていた。
額にうっすら汗を浮かべ、真剣な表情で。
「どうしたの?怪我してるじゃないか!」
瞬間、結衣の肩が支えられた。
陽向先生の手が、自分を包み込む。
その温もりに、緊張していた心が少しだけほぐれる。
「だ、大丈夫です。……わたし、ちょっと、転んじゃって……」
「無理しないで。処置室に行こう。」
その声は、穏やかでいて、どこか焦りを含んでいた。
早瀬はそのやり取りを黙って見ていた。
手の中からすり抜ける結衣の腕の体温を、名残惜しそうに指先で感じながら。
「結衣……。」
低く絞り出したような声。
けれど結衣は、それに応えられなかった。
ただ小さく会釈して、陽向先生の腕に支えられながら処置室へ向かっていった。
背後で、早瀬は静かに息を吐いた。
まるで、過去が一気に戻ってきたことを受け止めるように。



