蝶々結び

病院に着くと、いつものようにざわめきが広がっていた。
 ナースステーションの奥からは看護師たちの声、廊下の先ではカルテを抱えた医師たちの足音が響く。
 結衣はその流れの中に自然と身を溶かし込みながら、淡い笑みを浮かべた。

 「おはようございます。」

 同僚たちに声をかけながら、ナース服の袖を直す。
 その時、ふと視線の先に――彼の姿があった。

 長い白衣を翻しながら、陽向先生がカルテを片手にこちらへ歩いてくる。
 白衣の裾がふわりと揺れ、その一歩ごとに周囲の空気が少し変わる気がする。
 廊下を歩くだけで絵になる人だと、改めて思う。

 (やっぱり、ちょっと反則ですよね……)

 心臓が軽く跳ねた。
 だけど、ここは病院。
 二人の関係はまだ“秘密”――どんなに嬉しくても、仕事中はプロとしての距離を保たなければならない。

 結衣は深呼吸をして、いつも通りの声を出した。

 「おはようございます、陽向先生。」

 その声に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げる。
 柔らかな笑みを浮かべ、ほんの少しだけ――ほんの一瞬だけ、目が合った。

 「おはよう、橘さん。」

 たったそれだけのやり取り。
 でも、結衣には十分すぎるほどの“合図”だった。
 誰にも気づかれないように交わす、二人だけの秘密の朝の挨拶。
 その一瞬の目の輝きが、どんな言葉よりも甘く胸に残る。







 午前の外来はいつもより混み合っていた。
 結衣は患者の案内や処置で忙しく動き回りながらも、時折、彼の姿を無意識に探してしまう。
 ナースステーションの向こうで、真剣な顔で診察をしている横顔。
 指先でカルテをめくる仕草。
 そんな何気ない瞬間が、以前よりずっと近くに感じられた。

 けれど、近くにいればいるほど、触れられない距離が少し切なくもなる。
 “恋人”という言葉が現実になっても、職場ではまだ“看護師と医師”。
 そう思いながらも、視線が合うたびに心が跳ねるのを止められなかった。