夜。
ナースステーションに残って、結衣はひとりカルテ整理をしていた。
他のスタッフはほとんど帰り、静まり返ったフロアにパソコンの打鍵音だけが響く。
(早く帰らないと……)
そう思っても、入力漏れが気になってしまうのが性分だ。
「――お疲れさま。」
ふと背後から声がした。
驚いて振り向くと、そこにいたのは――やはり、陽向先生だった。
「陽向先生……帰ってなかったんですか?」
「帰ろうと思ったけど、なんか橘さんがまだいそうな気がして。」
「……なんですか、その“なんか”。」
「んー?勘。」
彼はいつもの調子で、悪びれもなく笑った。
そして、コンビニの袋を差し出す。
「はい、これ。疲れたでしょ?」
中には、小さなプリンとスプーン。
「糖分、今日二回目ですね。」
「うん。前のは午後、これは夜勤用。」
「陽向先生、私を太らせる気ですか?」
「え?そのほうが可愛いと思うけど?」
「……っ!」
思わずスプーンを落としそうになる。
陽向先生は素早くそれを拾い上げ、軽く笑って差し出した。
「ははっ、冗談だよ。」
「そういう冗談、やめてください。」
「うん。でも――冗談じゃないかもしれない。」
不意に声のトーンが落ちた。
笑っているようで、どこか真剣なその眼差し。
結衣の喉が、ごくりと鳴る。
「――陽向先生、ほんとに意地が悪いですね。」
「うん。橘さん限定でね。」
静かな空気が流れる。
夜のナースステーションには、時計の針の音だけが響いていた。
「……では、お疲れ様でした。」
「送ろうか?」
「いいです。一人で帰れますから。」
「そう言うと思った。」
ふっと笑う陽向先生。
その笑顔に、また心が揺れる。
廊下を歩き出すと、背後から足音がついてくる。
「ついてこないでください。」
「いや、帰る方向一緒だから。」
「……ほんとですか?」
「ほんと。」
半信半疑のまま、二人並んで病院のエントランスへ。
外は春の夜。
街灯に照らされた桜の花びらが、ふわりと風に舞っていた。
「――桜、もうすぐ散っちゃいますね。」
結衣がぽつりと呟く。
「うん。でも、散る瞬間が一番きれいだと思わない?」
「……先生って、そういう詩的なこと言うんですね。」
「意外だった?」
「はい。もっと単純に“花見したい”とか言うタイプかと。」
「……あ、それもいいね。」
「ちょっと、今の流れ台無しですよ。」
陽向先生が吹き出す。
ふと、二人の間に漂う空気がやわらかくなる。
笑い合う時間が、こんなに心地いいなんて。
気づけば、視線が自然と重なっていた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(だめ。これは仕事の関係なんだから。)
自分に言い聞かせるように、結衣は少し距離を取った。
「じゃあ、ここで。」
病院の駐車場の前で足を止める。
「気をつけて帰ってね。」
「陽向先生も。……寝落ちしないように。」
「うっ、それは痛いとこ突くね。」
二人で小さく笑い合う。
「……あの時、本気で怒ってたでしょ?」
「当たり前です。患者さんに何かあったら大変ですから。」
「でも、あの時の橘さん、すごく綺麗だった。」
「……は?」
「真剣で、まっすぐで。ちょっと怖かったけど、…綺麗だなって。」
心臓が跳ねた。
言葉が出ない。
陽向先生は少し照れたように頭を掻いて、
「ごめん、また変なこと言っちゃったね。」と笑った。
「……もう、ほんとにどういうつもりですか。」
「さあ。たぶん、俺もよくわかってない。」
その言葉が妙に素直で、結衣は思わず目を伏せた。
帰り道。
夜風が頬を撫でる。
春の匂いと、少しだけ切ない静けさ。
(まだ恋じゃない。)
そう思おうとする。
でも、胸の奥では何かが静かに動いていた。
“恋”という言葉の輪郭を、少しずつ、確かに形作っていく。
陽向先生の笑顔。
優しい声。
そして――あの一瞬の、手のぬくもり。
思い出すたびに、心臓が痛いほど鳴る。
(……どうして。)
街灯の下、結衣は足を止めて空を見上げた。
白い月が雲の合間から顔を出す。
――あの人の笑顔を、もう一度見たい。
その想いが、胸の奥でふっと灯った。
まだ恋じゃない。
けれど、恋の入口にゆっくり立っていた。
ナースステーションに残って、結衣はひとりカルテ整理をしていた。
他のスタッフはほとんど帰り、静まり返ったフロアにパソコンの打鍵音だけが響く。
(早く帰らないと……)
そう思っても、入力漏れが気になってしまうのが性分だ。
「――お疲れさま。」
ふと背後から声がした。
驚いて振り向くと、そこにいたのは――やはり、陽向先生だった。
「陽向先生……帰ってなかったんですか?」
「帰ろうと思ったけど、なんか橘さんがまだいそうな気がして。」
「……なんですか、その“なんか”。」
「んー?勘。」
彼はいつもの調子で、悪びれもなく笑った。
そして、コンビニの袋を差し出す。
「はい、これ。疲れたでしょ?」
中には、小さなプリンとスプーン。
「糖分、今日二回目ですね。」
「うん。前のは午後、これは夜勤用。」
「陽向先生、私を太らせる気ですか?」
「え?そのほうが可愛いと思うけど?」
「……っ!」
思わずスプーンを落としそうになる。
陽向先生は素早くそれを拾い上げ、軽く笑って差し出した。
「ははっ、冗談だよ。」
「そういう冗談、やめてください。」
「うん。でも――冗談じゃないかもしれない。」
不意に声のトーンが落ちた。
笑っているようで、どこか真剣なその眼差し。
結衣の喉が、ごくりと鳴る。
「――陽向先生、ほんとに意地が悪いですね。」
「うん。橘さん限定でね。」
静かな空気が流れる。
夜のナースステーションには、時計の針の音だけが響いていた。
「……では、お疲れ様でした。」
「送ろうか?」
「いいです。一人で帰れますから。」
「そう言うと思った。」
ふっと笑う陽向先生。
その笑顔に、また心が揺れる。
廊下を歩き出すと、背後から足音がついてくる。
「ついてこないでください。」
「いや、帰る方向一緒だから。」
「……ほんとですか?」
「ほんと。」
半信半疑のまま、二人並んで病院のエントランスへ。
外は春の夜。
街灯に照らされた桜の花びらが、ふわりと風に舞っていた。
「――桜、もうすぐ散っちゃいますね。」
結衣がぽつりと呟く。
「うん。でも、散る瞬間が一番きれいだと思わない?」
「……先生って、そういう詩的なこと言うんですね。」
「意外だった?」
「はい。もっと単純に“花見したい”とか言うタイプかと。」
「……あ、それもいいね。」
「ちょっと、今の流れ台無しですよ。」
陽向先生が吹き出す。
ふと、二人の間に漂う空気がやわらかくなる。
笑い合う時間が、こんなに心地いいなんて。
気づけば、視線が自然と重なっていた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(だめ。これは仕事の関係なんだから。)
自分に言い聞かせるように、結衣は少し距離を取った。
「じゃあ、ここで。」
病院の駐車場の前で足を止める。
「気をつけて帰ってね。」
「陽向先生も。……寝落ちしないように。」
「うっ、それは痛いとこ突くね。」
二人で小さく笑い合う。
「……あの時、本気で怒ってたでしょ?」
「当たり前です。患者さんに何かあったら大変ですから。」
「でも、あの時の橘さん、すごく綺麗だった。」
「……は?」
「真剣で、まっすぐで。ちょっと怖かったけど、…綺麗だなって。」
心臓が跳ねた。
言葉が出ない。
陽向先生は少し照れたように頭を掻いて、
「ごめん、また変なこと言っちゃったね。」と笑った。
「……もう、ほんとにどういうつもりですか。」
「さあ。たぶん、俺もよくわかってない。」
その言葉が妙に素直で、結衣は思わず目を伏せた。
帰り道。
夜風が頬を撫でる。
春の匂いと、少しだけ切ない静けさ。
(まだ恋じゃない。)
そう思おうとする。
でも、胸の奥では何かが静かに動いていた。
“恋”という言葉の輪郭を、少しずつ、確かに形作っていく。
陽向先生の笑顔。
優しい声。
そして――あの一瞬の、手のぬくもり。
思い出すたびに、心臓が痛いほど鳴る。
(……どうして。)
街灯の下、結衣は足を止めて空を見上げた。
白い月が雲の合間から顔を出す。
――あの人の笑顔を、もう一度見たい。
その想いが、胸の奥でふっと灯った。
まだ恋じゃない。
けれど、恋の入口にゆっくり立っていた。



