俺にとって、門真慎介は唯一無二だった。
 慎介にとって、俺が唯一無二であるように。

 放課後、俺はいつも通り美術室に向かった。
 七限の時間、ヤツから送られてきた、彩られた横長のキャンパスを見に。
【出来た】
 授業中にも関わらずスマホがバイブしたから、俺は嘆息する。時間を考えて送ってこいと言ったはずなのに、こいつは時間関係なく送ってくる。きっと俺に一番に見て欲しいのだろう。その気持ちは嬉しかった。だって俺は、こいつの一番のファンだと自負しているから。
 写真が気になって、俺は先生に隠れるようにスマホを取り出して、送られてきた写真を見た。
 瞬間、俺は走って美術室に行きたくなった。そしてヤツ、慎介を褒め称えてやりたくて仕方がなくなった。
 最高の絵だった。あいつはいつも、俺の予想を乗り越えてくる。
 そして、冒頭に戻る。
 足早に美術室へ向かう。
 油絵の具の匂いが、廊下にまで満ちてきていた。
 胸が高鳴る。
 窓が開いている──。
 つまり、今日は慎介の絵が完成している。
 俺は扉を開けると、「慎介」と呼びかけた。片手をあげて。
 すると慎介も片手をあげる。
 俺たちはハイタッチした。小気味良い音が乾いた教室によく響いた。
「やっぱりお前はすごいよ、慎介」
「結構デカい絵描いたよ」
「今年の文化祭で出すのか? だいぶデカいけど」
 横幅五十センチくらいはあるだろう。
「それはまだ検討中」
 また描くつもりなのか。昨日まではアイデアが浮かばないとずっと俺がピアノを弾く前で眉を顰めていたのに。
「お前だけずるい」
「なんでだよ」
「お前のピアノ、だっていつも楽しそうなんだもん。悩む時とかないの?」
「あるよ」
「どう言う時?」
「俺が上手く楽譜を解釈できない時とか」
 あの苦しさは、どんな時でも俺にへばりついて離れない。コンクールの課題曲はもう提示されているのに、俺は未だに、ピアノの前で苦しんでいた。何度も弾いて、何度も挫折する。その繰り返し。
 でも、この美術室には、俺を理解してくれる男がいた。男も何度も悩み、何度もキャンバスを真っ白にして、そして、筆を握りすぎて震えてしまう手で、それでも表現するのだ。自分を。
 俺たちはよく似ていた。だから、お互いが唯一無二なのだ。
「また一限からサボって絵描いてたのか?」
「今日つまらない授業ばっかりだったんだよね」
「一応出ろよ、お前、出席率最悪だぞ」
「まあね」
 俺は呆れたように息を吐く。
「留年するなよ」
「わかってるよ」
 そして俺は、絵の具に汚れ切った床に新聞紙を引いて、腰を下ろす。隣に慎介が座った。
「良い絵だ」
「ありがとう」
 慎介は嬉しそうに笑った。俺も微笑む。この男の絵は、いつも俺の心を踊らせてくれる。ピアノを弾いている時と同じ気持ちにさせてくれるのだ。二度と忘れられぬ快楽と、心臓の高鳴りと。
「ミュシャを意識したのか?」
「うん、春夏秋冬を意識して描いてみた」
「灰色一色でよくこんなに色彩を表現したな」
「まあね。ミュシャのあの曲線を意識して描くの、大変だったな。難しいんだよ」
「だろうな」
 色彩に馴染む、はっきりとした黒の線。でもそれは悪目立ちしていない。
 俺は無言になって、慎介の描いた春夏秋冬を眺めていた。美しい。たった一音で心が踊り出すように、慎介の手の一筆は俺の脳みそに突き刺さってくるのだ。
 心ゆくまでに慎介の絵を鑑賞していると、ふと、慎介が俺を見た。
「神崎、ピアノ弾いてよ」
「……いいよ。俺の好きに弾いていい?」
「うん」
 俺は立ち上がると、美術室の隅になぜか置かれている最新型の電子ピアノの前に座った。本当に、どうしてこんなところにあるのかわからないけれど、俺にとっては非常に好都合である。
 ペダルに足を置いて、鍵盤に手を添えた。
 モシュコフスキ、第五曲、愛のワルツ。軽やかで、少し気取っていて、春風がくすぐるような曲だ。
 俺は鍵盤を指で弾く。この曲はふと踊り出したくなるような、軽快な音調で作られている。だからそれを大いに表現し、しかしあまりに大袈裟に轢かないように、注意する。跳ねるような旋律が、慎介の絵の線とどこか似ていた
 ふと慎介を見れば、瞳を閉じて、俺の演奏を聴いていた。それが嬉しくて、俺は短い春の舞を表現した。
 息を止めて、ペダルから足から離した。
 指はゆっくりと止まって、膝の上に戻っていく。
「ブラヴォー!」
 慎介は目を開けると、満面の笑みで手を叩く。すると廊下からも誰かの拍手が聞こえてくる。誰かはわからないけど、聴いていたらしい。俺は教室の向こう側へ、「ありがとう」と声をかけた。すると、拍手の主が踵を返してどこかへとさっていく音がする。
 拍手の余韻が消えるころ、慎介はそっと睫毛を伏せていた。
 なぜか、その顔がすこし不満そうに見える。
「どうしたんだ?」
「俺が最初拍手したのに、真似された」
「お前なあ」
 俺は笑った。小さい嫉妬だ。俺はお前のために弾いたのに、それを自覚していないらしい。
「俺は今お前の芸術に感化されて弾いたんだ。つまり、お前の絵が無ければ弾かなかった、ってこと」
「……じゃあ、良いけど」
 慎介は曖昧に頷く。
 俺は仕方のない男だと思った。
 すると慎介は眠い目を擦る。俺はピアノ椅子から立ち上がると、汚れのない新聞紙の上に座って、慎介を手招いた。カサついた感覚。
「おら、こっち来い。お前寝てないだろ、学校開いた瞬間から今まで。夜思いついたんじゃないのか?」
「神崎って俺の毎日覗いてたりする?」
「お前の目の冴え方でわかるよ。良いから寝ろ」
 すると慎介は文句を言うことなく、大人しく俺の膝の上に頭を置いた。慎介の手は絵の具に汚れていた。もういくら洗っても落ちないらしい。
 慎介は俺の膝の上でいい塩梅のところを探すように寝返りして、結局俺の腹に抱きついた。
「神崎の膝の上って安心できるんだよね」
「ふーん。なんで?」
「わかんない」
「なんだそれ」
 俺が肩を揺らせば、慎介の肩も揺れる。
 お互い笑い合って、少ししたら、慎介から寝息が聞こえてきた。
 俺は教室正面に置かれたキャンバスに描かれた四季を楽しむ。
 本当に、この男の描く絵は素晴らしい。
 俺は飽きもせず、一時間ずっと、その絵画を眺めた。

 俺と慎介の出会いは、半年前、俺が慎介に声をかけたところから始まった。
 学校の正面玄関、春に飾られた桜を描いた一枚に、俺は心を奪われたのだ。
 絵の下に貼られたネームプレートには、門真慎介、と記載されていた。
「かどま、しんすけ」
「何」
 びっくりした。
 俺は肩を跳ねさせて、声に釣られるように後ろを向く。
 そこに居たのが、慎介だったのだ。
 俺は、笑った。出来るだけ、好印象に映るように。
「見惚れてたんだよ。良い絵だろ」
「どこら辺が?」
「桜が生きてるところ」
 すると、慎介は目を見開いた。
 俺は驚いたような慎介の顔を見て、首を傾げる。
「どうした?」
「……呼吸をしているように見える?」
「うん、舞い落ちてる花びらもいいよな。風を感じられて」
「嬉しい」
「え?」
 俺はその時目を見開いた。まさか、この男?
「門真慎介ってお前?」
「そうだよ、君の名前は?」
「神崎響」
「わかった。神崎ね」
「おう、門真」
 心打たれた絵を描く本人と仲良くなれて、俺は嬉しかった。そして門真も、俺を少ない友達の中に数えてくれていると知ったのは、少し後のことだ。
 仲良くなるのにそこまで時間はかからなくて、俺はある時、美術室に呼ばれた。
 窓が固く閉められている。
 そして、扉も他を拒絶するように、締め切られていた。油絵の具の臭いが微かにかおってくる。
 俺は入って良いのか少し迷って、結局、勇気を出して扉を開けてみる。
「門真」
 その時、門真は一つのキャンバスに向き合っていた。
 返事がなくて、やっぱり帰った方がいいのかと踵を返そうとした時、「入って」と声がかけられる。
 俺はおずおずと部屋の中に入った。門真に手招かれるまま、俺はキャンバスに近寄る。
 ツンとする臭い、この中でずっといたら慣れるものなのだろうか。ふらりと視線を彷徨わせて、俺はキョトンとする。
 この教室になぜピアノが置かれているのだろう。不思議に思いながら、門真の隣に立った。
「神崎ってさ、ピアノ弾けるんだよね?」
「うん」
「ピアノ好き?」
「俺の人生だよ」
 そう言い切った俺に、門真は「そう」と頷いた。
 そして、教室の隅のピアノを指差す、
「弾ける?」
「俺に弾いて欲しいの?」
「うん、神崎のピアノ、聴いてみたい」
「わかった」
 俺はその時、内心ドキドキしていた。だって、門真に聴かれるのだ。俺の音楽に失望されるかもしれない。そう思うと、少し怖かった、
 でも俺には俺の今までの努力がある。絶対、魅せて見せると思って、俺はピアノ椅子に座った。
 ベドルジフ・スメタナ、我が祖国、モルダウ。
 俺が一番好きな曲を、ピアノ一本で弾く。
 本当はオーケストラで聴いた方が迫力があって良いけど、俺のピアノで表現できるだけ表現する。この音楽の重厚さを、そして、素晴らしさを。
 十分程度だろうか、俺は弾き切ると、音楽の中の世界から、ふと顔を上げた。
 そこには、目を見開いて俺を見ている門真がいた。
「……どうだった」
「ねえ」
「うん?」
「恋って、こう言う気持ちなのかもしれない」
 俺は嬉しくて笑った。
 門真は、俺の音楽に対して、恋に落ちてくれたのだ。

 それから、俺たちは昼休みも放課後も、美術室を溜まり場にして、好き勝手絵を描いて、ピアノを弾いた。
 そして俺は門真のことを慎介、と呼ぶようになって、慎介は俺のことを神崎と呼び続けた。下の名前で呼ぶのは恥ずかしいらしい。慎介は今まで、友達がろくにできたことがないと言っていた。だから、この歳になって、久しぶりにできた友人との距離感を掴みかねているらしかった。俺は気にしなかった。
「慎介」
「うん?」
「俺、今ショパン国際ピアノコンクールに応募して、受かったんだよね」
「うん」
「十月から一ヶ月くらい、学校来ないと思う。ちゃんと授業受けろよ」
 八月の夏休みのこと。
 俺は相変わらず毎日美術室に入り浸って、慎介もそうだった。
 そして俺は、徐々に迫ってくる本番に向けて、ずっとピアノに向き合い続けて、嫌になったら慎介の絵を鑑賞した。
 うまく表現できなかった。俺のピアノなのに、俺の思い通りになってくれない。
 落ち込む俺に、慎介は絵を描き続けた。まるで俺を慰めるように。
 俺は嬉しかった、だから何度もピアノに向き合う。
 エチュード一曲、ノクターン一曲、ワルツ一曲、バラード一曲。全てショパンの生涯に渡り作成された曲しか弾けない。
 ワルツは良い、俺の得意分野だったから。問題はバラードだ。
 ショパンのバラード、いや、全ての曲においてそうだが、予選の全てでショパンに対する造詣の深さを試されるのだ。
 もっと奥底から、ショパンの奏でる音を弾けるようになりたい。
 そして俺は、夏休みずっと弾き続けた。
 途中から、俺は体育館のグランドピアノを借りた。
 傍には慎介がいた。慎介はずっと俺のピアノを聞いて、スケッチブックに何かを書いていた。見せて欲しいと言えば、拒否されたので、俺は慎介が一体何を描いたのか知らないままだ。
 そして俺は知るのだ、慎介が俺のために、大舞台のチケットを手放したことに。
「お前、高校美に提出するって言ってなかったか?」
 美術部の顧問の先生に、慎介が話しかけられているのを俺は陰から聞いていた。そしてトイレに入ると、すぐ高校美、という単語で調べた。高校生国際美術展と言うらしいそれは、国内でも有数のコンテストだった。
 きっと、慎介は選ばれただろう。あの腕を、あの手を、あの脳みそを使って、素晴らしい作品を作っただろう。
 その一度の可能性を捨てて、俺のそばに居てくれたのだ。
 俺は絶対、世界に名を刻む成績を残そうと思った。

 十月、俺は二次審査で終わった。
 聴衆として、三次、本選を過ごして、俺は日本に帰る。
 そして一ヶ月分の勉強をしているうちは、ちっとも美術室に行けなかった。
 でも、結果は自分の口から言いたくて、慎介に連絡は取らずに居た。
 そして、十二月、ようやく俺は美術室に向かう。
 でも足は重くて、本当は帰りたくてたまらなかった。
 だって慎介は俺のために、コンクールを見送ってくれたのに、俺は二次予選にまでしか残れなかった。
 それでだってすごい。いろんな人から言われたけど、俺はこの結果に全く納得はしていなかった。
 自分の努力不足を呪った。
 でも、ちゃんと伝えないと。
 俺は重い足を引きずって、美術室に辿り着く。
 でも扉を開けようとする手は震える。
 慎介に失望されたらどうしよう。いや、あの男が見損なったと言うことはない。だってきっと、慎介はコンクールの参加を辞退したことは、自分で決めたことだと言ってくれるから。
 でもだからこそ、良い結果を届けたかった。
 すると、目の前の扉が開く。
「神崎、遅い」
「っ、ごめん、二次予選で落ちちゃった」
 この時、俺は慎介に「それでも努力した、良い結果じゃないか」と言われたら、一生口を効かなくなるだろうなと思っていた。俺は最終まで残りたかった。その為に努力した。毎日毎日嫌でも音楽に触れ続けた。
 そして、俺を励まし続けてくれた慎介に良い結果を言いたかった。
 だからこそ、俺が俺の努力に納得していると思われたくない。
 俺は恐る恐る、少し背の高い慎介の顔を見上げた。
 慎介は淡々と言った。
「実力不足だったんでしょ」
「っ、うん」
「でも、神崎には伸び代、あると思うよ」
「……」
 そうだ。俺にはまだ伸び代がある。そう信じている。薄っぺらい励ましの言葉はいらない。俺は俺と同じくらいの熱量で何かに向かっている人間の言葉以外、要らなかったのだ。
「次も出るんでしょ?」
「うん、まあ」
「そこでかまして来なよ」
「わかった」
 慎介は笑った。その笑顔に、俺の身体から嫌な緊張が抜けていく。
「よし、じゃあ俺の絵、見てってよ。お前が来ないうちに色々描いたんだ」
「マジか、めっちゃ見たいよ」
 俺は美術室に足を踏み入れた。次は五年後だ。
 その時もまだ、慎介と友達でいられたらなと思った。

「何も思いつかない……」
 二年生になり、今度こそ慎介は高校生国際美術展に作品を応募する、と言い出した。春のことだった。
 でも、刺激が足りないらしい。慎介は最近、新学期だからと、掃除したばかりの床に大の字になっていた。
 俺はピアノを手慰みに弾きながら、色々と考えてみる。
「なんか弾くか?」
「うーん、でも今は神崎の音楽の無駄遣いになっちゃいそうだからいいや」
「別に無駄遣いされたなんて思わないけどな」
「うん、でも俺が嫌なだけ」
 長いため息を慎介が吐く。
 俺はただピアノを弾き続けた。
 サン=サーンス。彼が作曲した死の舞踏。
 俺はその曲が好きだった。死を前にして、我を忘れて踊り狂っているようで。正気と狂気の狭間を見れる、そんな音楽だと自分では思っていた。
 疾走感のある曲だと、俺は思っていた。死の舞踏という割には、暗いばかりではない。明暗の間で死神は踊るのだ。死に明るいも、暗いもないみたいに。
 フランツ・リストの独奏用編曲もあるが、俺はやはり作曲者本人がアレンジしたものが好きだ。
 でも今は審査員なんか居ないから、好きに弾いた。飛びたい時は飛んで、沈んで薄暗い時は潜めて。
 すると、慎介はこちらを向いて、じっと音に耳を澄ませている。
 何か手伝えることがあるのだろうか。俺は好き勝手弾いて、そして、ゆったりと手を止めた。
「死の舞踏って曲だよ」
「……、録音しときゃ良かった」
「動画サイトにいくらでもあるぞ」
「神崎の演奏じゃないと意味ないんだよ」
「そっか、もう一回弾くか?」
「それは違う」
 そこから慎介は、また大の字になって、ぼんやりと天井を眺める。
 もう日も暮れて、教室も閉めないといけないといけなくなった時、勢いよく慎介が起き上がった。
「これだ!」
「おいおい、もう十九時だよ。帰らないと」
「いや、描く」
 慎介は結局、先生に追い出されるまでずっとキャンバスの前でああでもないこうでもないと言い続けた。
 そして最後は俺に引っ張られて、教室を出たのだ。
 それから慎介は早かった、下書きを何枚も描いて、ずっと自分の描きたいものを追求し続けた。
 そして、筆を握りすぎて震えた出て描くのだ。キャンバスに向かって。
 時間は驚くほど早く過ぎていった。慎介は締切ギリギリまで絵を修正して、そして提出した。
 どうなるんだろう。俺はもしかしたら慎介より胸をざわつかせていたかもしれない。
 慎介の絵が、相応の評価を得られますように。
 死の舞踏に捧げる、と言う題名で提出されたそれは、七月に結果がわかるらしかった。
 俺は完成形を見た時、思わず拍手したものだ。
 慎介は絵の具まみれの服のまま、恭しく頭を下げた。
 もし今回がダメでも、きっと慎介はいつか世界に見出される。そう思ったのだ。
 
 ある日のことだった。
 慎介と買い食いをして、公園でなんでもない話をしていた。
 その時、電話がかかって来たのだ。
 母からだった。
「もしもし?」
『響、お客様が来てるの。早く帰って来れる?』
「え、あ、うん」
 電話を切って、俺は隣でアイスを食べる慎介に申し訳ないと手を合わせる。
「家になんか、客が来てるんだって、俺が居る必要があるんだと思う。先帰るわ」
「んー、わかった。また明日な」
「また明日」
 俺は出来るだけ早く家に着くように急いだ。
 そして家に着くと、急いで鍵を開ける。
「ただいま!」
 母の声がリビングから聞こえてくる。
「響、うがいと手洗いしたらリビングに来て!」
「はーい」
 俺は言われた通りすると、手と口元を拭って、リビングに入る。
 そこには、麦わら帽子を片手にした、田舎の老人、という表現が一番近いだろうか、そんな、なんの覇気もない老人が座っていた。
「おや、初めましてだね。種田五郎という。よろしく頼むよ、城崎響くん」
 手を差し出された。俺はその手を恐る恐る掴む。種田さんからはどこか、土の香りがした。
 ふと、俺は思い出す。種田五郎……、種田五郎!?
 俺はギョッとした。そして、ゆっくりと事実を確認する。
「種田さん、お間違えなければ、日本人で初、ショパン国際ピアノコンクール一位になってませんでしたか?」
「ああ、遠い昔にね」
 俺は唖然とした。そんな華々しい経歴を持つ人間が、一体なんのようだ。そしてどうしてこんな格好をしている?
「あ、あの、農業とかしてらっしゃるんですか?」
「ああ、養蜂家と小松菜育てとるよ」
「へえ……」
 本当に一体何の用だ。俺は思わず口にしそうになった。
 こんな偉大な功績を持っている人が、俺だって何度も戦争を聞いたことがある、
「突然何のようだと思っただろう」
「はあ、まあ」
「君に、私の音楽の全てを注ぎたいと思ったんだ」
「……どういうことですか?」
 老人はにっこりと、人好きする笑みを浮かべた。
「君の、師匠になりたいんだよ」
 俺はソファに座ることもなく、立ち尽くした。
 どう断ろうかと考える。
 俺は、他人に指図される音楽が大嫌いだった。
 すると、俺の内心を見透かしたように老人は微笑む。
「君は、誰かに指図されるのが嫌いなんだろう? だから今まで誰にも師事しなかった」
 見透かされている。俺は知られないように、息を吸って吐いて、頷いた。
「はい、これからも誰かに学ぼうとは思いません」
「君にはまだ伸び代がある。それをもっともっと先へ伸ばしたいとは思わんか? その伸ばし方を、わしに教えさせて欲しいんだよ」
 俺は黙った。
 最近、俺は思っていた。これ以上、どう進めば良いのだろうかと。今の自分には何が足りないのかと。
 ピアノコンクール、俺は後二歩足りなかった。じゃあ、どうしたらいい?
 ずっと悩んでいた。慎介にも言わなかった、俺の胸の蟠り。
「音は無限大だ。君の指先一つ、脳みそ一つで世界はいくらでも変えられる。表現に果てはない」
 俺はハッとして種田さんを見た。
 そうだ、表現に果てはない。音一つで世界は変わる、自分の表現したいものは変わる。もっともっと、音楽は楽しくなる。
 ふと母を見たら、心配げな視線でこちらを見ていた。別に追い出したりしないのに。
 でも俺は、ふと過去を思い出すのだ。
 最初、俺はピアノ教室に通っていた。でもそこの教師と俺は水と油だった。最終的に俺のピアノは否定され、怒鳴りつけられた。それを母に言って、ピアノ教室をやめたのだ。
 もう一度、そんな体験をしないといけなくなるのだろうか。
 俺の中に不安が滲み出る。
 するとそれを察したように、種田さんは優しい瞳を俺に向けてくる。
「わしは、君の奏でる音が好きだよ。それを広げていこう、世界に響くように」
 瞬間、俺はこの人になら、と思った。
「……よろしくお願いします」
「こちらこそ」

 それから毎週土日、俺は種田先生の家に行って、グランドピアノでいろんな曲を弾いた。種田先生の指示を聞いてみたり、反抗したり。でも、楽しかった。
 そして、平日は美術室でピアノを弾き続けた。
「なんか、変わったね」
 ある時、慎介は首を傾げた。
 そして俺を見て、また不思議そうな顔をする。
「どこが?」
「音が変わった」
「どんな風に?」
「神崎の好きに、もっと楽しく弾けてる」
 俺は慎介の言葉に嬉しくなって笑う。
「師匠ができたんだ」
「へえ、だから土日来なくなったんだ」
「うん、ごめん、連絡しといた方がよかったよな」
「良いよ別に、俺といるよりそっちの方が有益」
 俺は慎介の言葉に何か引っ掛かりを覚えたが、何も言わなかった。
 それから慎介は、美術室に来ない日ができた。もしかしたら、慎介も何かしら思うところがあるのだろうか。
 高校美の結果発表はもうすぐだ。
 もし、功績を讃えられたとして。
 今の慎介は、それを喜ぶのだろうか。
 俺は慎介が美術室に来ない日も、ずっとピアノを弾き続けた。
 それが俺の出来る事だと思ったからだ。
 そして結果が出た。
 文部科学省大臣賞に選ばれた慎介は、全校生徒の前で賞状をもらう時も、嬉しそうじゃなかった。紙切れを一枚貰うだけ、そんな風だった。
 そして、俺はそんな慎介にどう接したら良いのかわからなかった。どうしたと言うのだろう。
 俺は放課後の美術室で、何も描く事なく床に大の字になっている慎介の頭のそばに膝を折った。
「慎介、どうした」
「……何が」
「何がそんなお前の心を巣食ってる?」
「なんでもないよ」
「嘘つけ」
 俺が突き刺せば、慎介は天井を睨んで言った。
「俺には技術がない」
「……」
 どこら辺が? 俺は不思議に思ったが、言わないでおいた。
「だから、満足いく作品を描けない。神崎のピアノはどんどん成長していくのに俺はなんの成長もしてない」
 十分だろう、とは言えなかった。だって、俺だって自分の実力が足りないと持っているから種田先生に教えてもらっているわけだ。
 俺たちは思い通りに作品を作れなくて、いつも苦しんでいる。もっと力が欲しい、思い通りに弾ける、思い通りに描ける力が。芸術家は常に、己の生み出した駄作を少しでもマシに見せるために必死に飾るのだ。修正して、描いて、修正して、また違うと描いて。一流と呼ばれるピアニストになっても、コンクールの前には尻込みする。自分の奏でたい音楽がまさにその時、奏でられるかわからないからだ。
 いつも絶望に陥っている。どうしたら、描けるのだろう、奏でられるのだろう。
 でも、少しでもマシな演奏ができるように、練習するのだ。嫌になっても、ピアノに向かい続ける。そして見つけるしかない、自分の奏でたい、描きたいものを。
「誰かに教えてもらいたいとかは思うの?」
「……好きな画家はいるよ」
「弟子入りしてきたら?」
「そんな簡単に言われても」
 慎介はバカにしたように、困ったように笑った。
 でも俺は慎介の顔を覗き込んで言うのだ。
「慎介なら出来る。だってお前は自分の芸術を磨くためなら、怖くたって進んでいける人間だから」
 慎介は黙って、俺の瞳を見つめていた。
「俺の何がわかるの?」
「俺は、お前の何もわかってないのかも知れない。でももし、この飾られている沢山の“お前”ならわかるよ」
 並の努力では描けない。プロにだって通用できるレベルだと、俺は思っていた。
 俺の心を震わせてくれる。
 だから、もっともっと、慎介には高みに登ってほしかった。
 文部科学省大臣賞を貰ったことを、もっと誇ってほしかった。お前は十分に努力を発揮できたのだ。お前の努力する姿を見て、俺も努力できていたんだなと、お前が思わせてくれたんだよ。
 二次審査。
 でも、伸び代はある。確かに俺に、感じさせてくれたのは慎介だった。
 人は努力すれば、才能を掴み取れば、どこまでも舞っていけると。
「美大に行って、もっともっと、今より広々と絵が描ける世界で羽ばたけばいい。お前なら出来るよ」
「……、ずっと、響のピアノの中で絵を描いていたい」
 俺はびっくりして、慎介の顔をまじまじと見る。
 すると、慎介は恥ずかしそうにして目を逸らした。
「一緒に暮らすか?」
 俺は思い切って言ってみる。叶わないけど、俺もずっと、慎介の絵を見ていたかった。
 慎介はどう思うんだろう。ちょっと、怖い。
 まるで恋人同士みたいだ。今ならシェアハウスなんていくらでもあることだけど。どんなものかも知らないのに、でも慎介となら苦労のある生活でも良いかなと思ったのだ。
「それだ!!」
 慎介は勢いよく起き上がる。俺はびっくりして仰け反った。
「ね、響! 俺たち一緒に暮らそう!」
「だ、大学生になったらな?」
「い〜、早く大学生になれないかな」
 いつも見るよりテンションの上がっている慎介に、俺は苦笑いしながら、でも内心、喜んでいた。
 拒絶されたら? やっぱり、想像してしまうから。
 だからこんなに嬉しそうにされると、俺も嬉しくなってしまう。
「よし、大学生になったならな」
「うん、親にも言っとくよ」
「気が早すぎないか?」
「だって、絶対、俺と響は一緒にいるもん」
 俺は微笑んだ。
「そうだな」
 未来はわからない。でも、今この時の気持ちは将来も、決して嘘ではないのだ。

 それから本格的に受験時期に近づいたら、俺たちは試験勉強に本腰を入れるようになった。
 俺は筆記と、実技。慎介もそうだと言っていた。家のガレージの半分をアトリエとして使っているらしい。
「よう、生きてるか」
 そして俺たちは夜になると、互いの生存報告をしあった。忙しくて、お互いの顔を見ている暇もない。
『生きてる。でも響の音楽が足りない』
「俺の完成してない課題曲でも聴くか」
『楽しそう』
「なんも楽しくねえわ」
 俺は今回の課題曲にも手を焼いていた。別に弾けないわけじゃない、適当で良いならいくらでも弾ける。でもそれではいけない、この曲たちで、俺と言う存在を見せつけなければいけないのだ。
「ちゃんと寝てんのか」
『たまに忘れる』
「あーあー……。二日にいっぺんは寝ろよ」
『はーい。たまにガレージで寝てる』
「馬鹿野郎」
『ごめんなさ〜い』
 俺が怒ったような口調で言うと、慎介の肩をすくめる姿が想像できる。
 仕方のない男だ。
 でも今は冬だ。ちゃんとした場所でちゃんとした服で寝ないと、不潔な上病気を呼び込む。
「風邪なんかで試験落としたら終わりだぞ。お前はまず正気に戻る癖をつけろ」
『多分無理』
「どうしようもないな。じゃあ俺が電話かけてくる時間になったら無理矢理にでもアトリアから離れろ。それまで繋げててやるから」
『ずっと繋げててよ』
「それは無理」
 俺は首を横に振る。流石に練習中の音は聴かれたくない。ため息も、呻き声も。いや、十分聞かれたことはあるが。
 カーテンを開けて月がないか覗いてみたら、見えやすい方角に綺麗に輝いていた。
「もう月も昇ってるぞ、寝ろ」
『そう言えば寒くなってきた』
「おう、じゃあ、俺はシャワー浴びて寝るから。お前もちゃんと風呂入って寝ろよ。おやすみ」
『うん、おやすみ』
 電話の切れる音がする。
 俺はスマホを机に置いて、シャワーを浴びに行った。

「近所に東京藝大通ってたおじさんが居てさ、俺の絵見て、未熟だ。ってうるさいんだよね」
「どこでお前の絵、見たの?」
「ガレージの中換気してたら見られた。俺に教えさせろって煩いんだよね」
 美術室、また徹夜をしたらしい慎介を膝に乗せて、俺はぼんやりとしていた。筆記試験をあと一週間後に控えている俺たちは、実は学校に居なくても良いのだが、久しぶりに顔を合わせて話したくてここで待ち合わせしたのだ。
「どう実技は」
 慎介は自分が描いた黒板画を眺めながら、俺にそう問う。
「納得できる演奏はできるようになった、種田先生のおかげもあって」
「そっか。俺も最近は描くの面白いよ。藝大のおっさんのおかげもあって」
「え、教えてもらってんの」
 あの慎介が? 俺は驚いて慎介の顔を見た。自分でも言うのもなんだが、慎介も人から自分の芸術に口を出されたくないタイプだ。
「おっさん、上手いんだよね」
「へえ……」
「昔美大で教師してたんだってさ。ああでもないこうでもないって横からうるさい」
 俺は肩を揺らした。慎介は本当に気に入らないなら追い出すだろう。つまり、そのおじさんの意見は一理あると思っているのだ。
 俺は種田先生に教わるようになってから、ずいぶん成長したと思う。音楽に更に深みが出るようになった。
 今度は最終予選まで残ろうと言っているところだった。でも俺は俺の色を失わないままで居たい。
 だから、慎介の前でピアノを弾く。すると俺のピアノに虜にさせられた男はいつも拍手をくれるから、これで良いのだと思うのだ。俺は俺のピアノのままで居る。その底が上がって、俺にどんどん技術がついているだけ。
「そのおじさんのこと、師匠にしてみたら」
「もう師事してるようなもんじゃない? 俺色使いまで指示されてるし、でも俺の好きなように描くよ。それがもっと人に刺さる角度になるようアドバイスを貰ってるだけ」
「そうだな。お前の良いところはずっとあるもんな」
 俺は教室中に置かれたキャンバスを見た。少し、変わったように見える。でも、慎介の絵は慎介のままだ。
「俺たち、良い方向に進んでるのかな」
「そうだと良いけど」
 慎介は自信なさげだ。珍しいなと思った。
「別に」
「うん」
「藝大に受かろうがそうでなかろうが絵は描き続けるよ。でも、画家にはなりたくない。俺の絵は俺のものだ」
「そっか。でも俺だけには絵、見せてよ」
「じゃあ俺のために弾いてよ」
「もちろん」
 俺たちは顔を見合わせて、笑い合う。
 ずっと、このままでいられますように。
 俺は心の中で祈った。

 筆記試験が終わり、実技試験の日がやって来た。
 俺が狙っているのは特別入試枠だ。
 課題曲はショパンから、そして、自由曲はモーツァルトから。
「神崎響さん、どうぞ」
「はい」
 俺は立ち上がって、舞台の上へと向かった。

 すると、俺はハプニングに見舞われた。
 演奏をしている途中で、途端にベートヴェンに変えろ、と言われたのだ。
 もちろん暗譜していない訳ではないから問題はなかったけど、もしかしたら、俺の演奏に何か問題があったのかと思った。
 弾いている間、指が重い。でもそんなこと悟られたくなくて、俺はショパン国際ピアノコンクールの時を思い出した。あの時の緊張よりマシだ。大丈夫。聴衆の耳に怯えながら、審査員の視線に震えながら弾いていたあの時より、全然。
 俺は俺の音楽を奏でればいい。
 そう言い聞かせて、俺は指を動かし続けた。大丈夫、俺の音楽は、ここで落とされたって続くものだ。
 俺は俺の求める音楽の果てを見つけに行く。
 そして最後、鍵盤から手を離すと、俺は立ち上がって一礼した。
 すると、白い髭を蓄えた教授らしき人物が、口を開く。
 俺は何を言われるのかと、身を固くした。
「君は、自分の音楽が大好きなんだね」
「……はい」
 頷けば、先ほどまで無表情だったその老人は、微笑んだ。
「君に学内で会いまみえる日を、楽しみにしているよ」
「! はい」
 俺は笑顔で頷くと、今度こそ舞台を出た。
 受かったのかはわからない。でも、その一言を貰えただけで、嬉しかった。
 俺はスマホを取り出すと、種田先生の連絡先を押す。
 コール音五回目で出て来た先生に、俺は弾んだ声で報告した。
「もしかしたら下手くそって意味で止められたのかもしれないけど、学内で会える日を楽しみにしてるって」
『そうかい、手応えがあったんだね』
「はい」
『良かった、君の納得できる舞台に出来て、結果がなんであれ、君のピアノを私は愛し続けるよ』
「……ありがとうございます。種田先生のおかげです」
 俺がガラにもなく礼を言えば、種田先生が肩を揺らしている気配がわかった。
『君に感謝される日が来るとはなあ』
「俺も礼儀知らずでは無いんですよ。顔には出てたかもしれないけど」
『そうだね、顔には出ていた』
「……すいません」
 すると今度こそ種田先生は笑い出す。
『帰っておいで、今、君の家に訪れているんだ。お母様がお疲れ様の証だとケーキを買ってくれている。わしもご相伴に預かる予定なんだ』
「わかりました」
 じゃあ、と電話を切ると、今度は電話がかかって来る。
 画面には門間慎介と映っている。
 俺はすぐに通話ボタンを押した。
『どうだった?』
 みんな開口一番に俺の状態を確かめたがる。それもそうかと思った。
「途中でモーツァルトからベートーヴェンに変えられた」
『へえ、弾けたの?』
「うん」
『それは良かった』
 ほっとしたような慎介の言葉に、俺もようやく肩の力が抜けた。
「どうしようかと思ったよ」
『だろうね』
「……受かってるといいなあ」
『不安なの?』
「まあ」
『落ちたってピアノは続けるんでしょ?』
「でも、俺も誰かに認められてみたい」
 すると、沈黙が落ちる。我儘を言ったと、自分ですぐにわかった。何が足りないのだろう、慎介は俺の音楽を愛してくれてているのに。
 でも俺は、なんの功績も残せなかった。三次予選まで残れたのだからそれだけで褒められたものだと言われても、納得できないものは納得できないのだ。慎介は文部科学省大臣賞を授与された。
 それに似合うような功績を残したいと思うのは、間違えているのだろうか。
『俺が認めてるだけじゃ足りない?』
「そういう訳じゃない」
『うん、でもつまりそういうことでしょ?』
「慎介」
『わかってる。世間の評価だって大切だよね。じゃあ』
 俺は弁解する余地もないまま、電話を切られてしまう。
 俺は、誰かに評価されるために音楽をしている訳じゃない。
 でももしかしたら、本当は、俺は聴衆の拍手のために音楽をしているのではないだろうか。
 でも、結局、音楽も絵画も、人が居なければただの音とキャンバスなのだ。
 俺は重い足取りで家へと帰った。

 慎介side
 響の音楽を聴いた時、俺は心臓は初めて、高鳴った。
 心臓の中、誰かが踊っている。ステップを踏んでいるのだ、右、右、右、前、後。くるりと回って、また同じステップを踏む。
 胸が熱くなった。この男が、自分の絵を好きになってくれた、と言う事実が嬉しかった。
 そして、モルダウ、と響が言っていた曲が終わる。
「どうだった」
 響が俺の反応を窺うから、俺ははっきり言った。
「恋って、こう言う気持ちなのかもしれない」
 すると、響は一番の笑顔を見せてくれた。今思い出しても、きっとあれ以上の笑顔はない。

 それから俺だけだった美術室には、素晴らしい音楽が流れるようになった。
 響は好きに色んな曲を弾いていた。俺が絵の下書きをしているうちに第一楽章全てを弾いている時もあった。その時は流石に、疲れたと言っていたけど。
 道化師の朝の歌、ラヴェルという男が作ったらしいその曲が、僕のお気に入りになった。始まりの軽快なメロディーに確かに、道化師を見出したのだ。そしてそれから続く音色にも。
 僕の絵は響の影響を受けるようになって、響もそうらしかった。
 俺たちは一緒に居て、お互いに良い影響を与えられるもの同士らしい。
 俺はどんどん響のことが好きになった。でも決して恋愛とかじゃなくて、こんなにもお互いを高め合える人間なんて今までいなかったから、少し、依存している節はあると思った。
 そしてある時、響は、コンクールへ出ると言った。国際的な権威あるコンクールだと、ネットで調べてみたら出ていた。
 そこで、響は試されるのだなと思った。五年に一度しかない大舞台。
 俺はずっと響のそばにいた。響だけが苦しいだなんて嫌だった。俺も絵を描き続けた。
 グランドピアノの前で苦しむ響を見ることしかできない。でも俺は響の隠された努力を忘れたくなくて、ピアノを弾く響を形にして残そうと思ったのだ。
 見せて欲しいと言われたけど、俺は拒否した。ちょっと恥ずかしかったから。生きている誰かを描いたことなど一度もなかったのだ。
 そして、響はひと月の間、帰ってこなかった。
 そして、その一月分の勉強に追いつくためらしい、一切美術室に来ることはなかった。
 冬が来て、絵の具が乾きやすい季節になった。
 俺は久しぶりに水彩画を描いていた。雪上桜、雪の表現に迷いながら、桜の花びらの柔らかさを想像しながら、筆を動かす。
 すると、美術室の扉の前に誰かがやって来る。
 響だろう。
 でもなかなか入ってこないから、俺は響が帰ってしまう前に、扉を開けた。
「神崎、遅い」
「っ、ごめん、二次予選で落ちちゃった」
 響は絶望した顔でそう言った。何かに怯えているようにも見えた。
 俺はそれが何に対する恐怖だったのかは知らない。でも、響にいうことは一つ。
「実力不足だったんでしょ」
 だから落ちた。それが現実だ。
 でもきっと、響はこんなところで落ちぶれる奴じゃないから。
「でも、神崎には伸び代、あると思うよ」
 これは本当のことだと思っていた。俺が信じている事実。響には、この先の道がある。苦難の道かもしれない、でもいつか必ず、この輝きが煌めいて、多くのスポットライトに照らされる日が来るのだ。
 でも、俺は思う。
 響の良さは、僕がわかっているだけで良いのだと。
 だから、響の音楽は俺だけのものじゃないとわかって、「でも、俺も誰かに認められてみたい」という一言に現実を見せられた。
 やはり、俺一人の評価では、足りないのだ。わかっている、そんなこと。
 でも俺の存在を忘れ去られてしまったみたいで悲しかった。ここに居るのに、俺は、お前を見ているのに。
 どうして。

 それから、謝罪をしてきたのは慎介が先だった。
 俺も謝ろうとしたら、慎介は笑顔で首を横に振る。
 それから、俺は慎介にどう接したら良いのかわからなくなった。
 慎介は俺の大切な人だ。でも俺は、俺の音楽を大衆に認めて欲しいという、願望が出来た。
 いけないことではないのだろう。でも、慎介だって大切だった。
 どう言葉にしたら良いのだろう。
 お前のことも大切なんだよってこと。
 俺は美術室ではなく、体育館のグランドピアノを借りるようになった。
 最初、慎介に捧げたように、またもう一度、表現したかった。
 何度も練習して、でも結局、納得はいかなくて、俺は未完成のままの音楽を持って、美術室に入った。
 慎介は俺を見ると、手をあげる。俺もぎこちなく、手を挙げた。
「慎介」
「何」
「お前に、ピアノを聞いて欲しいんだ、お前の事を考えて、弾きたい曲。聞いてくれる?」
「うん」
 俺は部屋の隅に置かれた電子ピアノの前に座ると、慎介が目の前で、一脚だけの椅子に座る。
 俺は、深呼吸をして、慎介の瞳を一瞥すると、鍵盤に指を沈めた。
 リスト、愛の夢、第三番。
 静かに始まるその歌は、決して大きな山場があるわけではない。ただ華やかなメロディーが続くだけ。
 だから、自分なりに、決してこの曲の良いところを消す訳ではなく、しかし俺の言いたいことが伝わるような、そんなメロディーにしようとした。口で言うのは恥ずかしい、だから、音符に乗せて、慎介に向けて奏でる。
 ずっと、俺の音楽の一番のファンであって欲しくて。
 だからこそずっと、俺の音楽を楽しんでいたいと、そう思えるような演奏をしたかった。
 ゆったりした中で、確かな愛と、そこから生まれる夢を表現する。
 お前があの絵を描いた時に、俺はお前に恋をした。
 そして俺がピアノを弾いた時、お前は俺に恋をしてくれた。
 キスがしたい訳でも、セックスがしたい訳でもない。きっとしなくても、お互いの深くを知っているから。
 ペダルを踏んで、余韻を残すと、そっと足を下ろした。
 慎介の顔を見る。
 あどけない笑顔。
 俺も笑った。きっと、通じたはず。
「熱烈なラブレターって感じ」
「うん、そのつもり」
 俺は椅子から立ち上がる。俺たちは抱きしめ合った。
「俺は人から認められたいって思うようになった。でも、俺のこの音楽を始めさせてくれたのは、最初に認めてくれたのは、慎介なんだよ」
「……うん」
「だから、ずっと俺と、友達でいてくれ」
「俺も、ずっと響と友達でいたいよ」
 俺たちは、また、ハイタッチして、ぎゅっと手を握りしめた。