夏休み――それは、受験生の意志が試される魔の一ヶ月。
受験本番までに、ここまで長い自由時間を与えられる機会はこれが最後。
それを生かすも殺すも自分次第。
この一ヶ月の過ごし方は合否に甚大な影響を及ぼすだろう。
「ヒィ! 啓ちゃん脅さないで!」
「脅してねぇ……いや、ちょっと脅したけど」
期末テストを終え、いよいよ夏休みを迎えようとしている僕たち。受験生の夏は勝負の夏だぞ、とわざとらしく厳かな雰囲気を醸しながら龍に念を押すと、わざとらしく怯えられた。
「でもまあ、何も大袈裟じゃないもんな〜。夏休み、絶対無駄にしたくないわ」
「ああ。初動が遅れないように、今日は夏休みの計画を立てて確認しあおう」
「おう!」
龍は気持ちのいい返事をして、同好会ノートを取り出す。
毎週このノートを使っているわけではないが、龍はいつもお守り的な存在として持ち歩いているらしい。そのためか、程よく使用感のある見た目になってきて、なかなか味がある。
「よし、それじゃまずは、充実した勉強の基盤となる生活面のことから」
「生活面……つまり一日のスケジュール的なことね!」
「そうだ。学校がある期間のように、夏休みも日々のルーティンを確立しようってこと」
「うむうむ、決めといた方が自然と机に向かえそうだよな」
「ってことで、スケジュールを立てようと思うんだけど……日時を動かせない予定としては、学校の夏期講習があるよな。龍は俺と同じ講習しか取ってないよな?」
「うん。最難関向けコースの数学と物理ね」
うちの高校では、夏休みに夏期講習が開かれる。志望校に合わせて標準・難関・最難関の三つのレベルからコースを選択することができ、各コース最低一教科から参加可能だ。
僕や龍、吉峰はもちろん最難関コースを選択している。ただ、予備校で取っている講習や自分で進めたい演習もあるため、教科については数学と物理のみにしておいた。
「学校の夏期講習って何すんだろうね?」
「うーん、二年のときは事前にプリント解いてきて、それの解答解説をしてくれる感じだったけど……今年は特に事前課題もないし、まあ当日のお楽しみってことで」
「とりあえず今はスケジュールか」
「だな。夏期講習がある日とない日、二パターン考えよう」
同好会ノートを龍から受け取って、新しいページを開く。
「まずは例として僕の予定を書いてみる。夏期講習がある日は午前中が講習だから、昼までは普段の学校の日とあまり変わらないかな。昼からは……あ、今思ったんだけど、講習がある日はせっかくだから一緒に勉強しない?」
「する! したい!」
「よっしゃ。じゃあ昼は学校で食べて、そのまま図書室で勉強するか。夏休みって、確か午後五時まで図書室使っていいんだよな……その時間までやるってことでいいか?」
「もちろん!」
龍も快諾してくれたため、早速ノートにスケジュールを書いていく。こんな風に、一緒に勉強しようと誘える友達がいるって、本当に幸せなことだな……と改めて感じながら。
「僕はそこから予備校行って、夜までやって帰るかな。んで、夏期講習ない日だけど……」
「何もない日の方が自律するの大変だよなぁ」
「まあな。でも、丸一日自由に勉強できるって貴重だし嬉しいもんだよ」
だからと言って、毎日予定ゼロだと続かないし。
何事もバランスが大事だなぁと思う日々である。
「僕は朝型だから、予定なくても六時には起きる。そんで予備校が開くまでは、家でリスニング中心にやるかな。そっからは予備校で夜までか……まあ気分転換に図書館もアリだな」
「図書館いいよなぁ、俺も啓ちゃんとの勉強会ない日は使ってて、結構好きなんだよ」
「いいね。受験勉強は、自分が集中できる場所を見つけるのが大事だと思うよ。特に休みの日はね」
兄ちゃんも裕輔くんも、どこかしらお気に入りの場所を見つけて利用していたと言ってた。自分に合った場所はどこなのか、またどんなことが気分転換になるのかなど、そういった自分の性質を見極めるという点においても、高校二年生までの経験は重要だ。

「よし、じゃあ俺も考える!」
今度は龍にノートを渡して、その様子を見守る。
「俺は啓ちゃんほど早起きできないからなぁ。夏期講習ある日は七時半に起きて〜、講習からの啓ちゃんと勉強でしょ、そのあとは図書館行ってもすぐ閉まっちゃうから、カフェにしよっと」
「龍ってカフェで集中できるタイプなんだな」
「うん、イヤホンして、自然の音みたいなBGM聴きながらやることあるんだ。美味しいコーヒーも飲めてモチベ上がるよ」
そうこうしているうちに龍のスケジュールも完成。
僕より遅起きの龍だけどその分寝るのは遅いし、勉強時間も十分に確保できていて良い計画だと思う。

「さて、これでなんとなく夏休みの生活はイメージできたから……あとは、各科目の計画かな。龍って数学はプラチカやってんだよね?」
「うん! まだいっぱい問題残ってるけど」
「そりゃそうだ、僕だって今もやってるし。でも、終わらせりゃいいってもんじゃないからな。むしろ一問一問しっかり向き合った方がいい」
プラチカとは、河合塾が出している数学の参考書。
青チャートで基礎的な解法を網羅したあと、それをアウトプットするための深い思考力を鍛えるのに適した良問揃いの問題集である。
解答の指針が丁寧に示されており、初見の問題に対する思考プロセスを学ぶことができるし、問題数が多くないため龍のように時間のない受験生にも優しい。
「夏休みはプラチカで演習しつつ、模試の直後はしっかりその模試の復習だな」
「うんうん。受けただけで満足しない!」
「で、物理は、名問の森やり始めたくらいだよな?」
「うん。啓ちゃんはもう二周目でしょ? 早いなぁ〜」
「お前はその分陸上頑張ってたろ。何周でもいいんだよ、定着すれば」
龍は、最初こそ物理が苦手だと言っていたが、今では基本的な問題はしっかり解けるし、応用問題の演習に入る資格が十分にあると思う。周りに進みの早い奴らはたくさんいるが、龍にはどうか、自分を過小評価せずにのびのびと勉強を続けてほしい。
「化学も少し前から重要問題集始めたんだ〜。物理も化学も、夏休みはしっかり演習進めていくぜ!」
「いいと思う。僕も重要問題集やるよ」
名問の森も重要問題集も、僕らが出会ったばかりの頃に一緒に本屋まで行って買ったものだ。あのときの龍はまだ「こんなの解けるのかなぁ」と零していたのに、今ではすっかりメインの参考書として使うことができている。
「英語はさ、英作文と長文とリスニングに力入れようと思ってんだ。リスニングはキムタツの赤いやつ!」
キムタツとは、木村達哉先生によるリスニングの参考書。東大入試形式の問題が十回分も収録されており、東大受験界隈では定番の参考書として知られている。
リスニングの勉強としては、僕も龍もディクテーションと音読、そしてシャドーイングを毎日行っている。
ディクテーションとは、聞いた音声を一語一句そのまま書き取ることである。もちろん、一度聞いただけで全てをサラサラと書き取ることはできないので、聞き取れなかったところは何度も聞き直して、自分の手で文字に起こすのである。
これをすることで、聞き取れなかった単語を明確にすることができたり、単語と単語が繋がったときの英語特有の音の聞こえ方を知ることができたりと様々な収穫がある。
ディクテーションを通して理解を深めた文章を、その次は音読することで自分のものにする。ディクテーションで学んだことを定着させるのはもちろんのこと、英文のどこにアクセントが置かれているのかリズム感も意識しながら、いわゆる完コピをするつもりでじっくりと音読に取り組む。
英文を見ながらの完コピができたら、最後は何も見ずに聞こえてくる音声をほぼ同時に口に出すシャドーイングをする。シャドーイングがスムーズにできるようになる頃には、自分でもその英文や音声をマスターできたと自信を持てる。
以上のリスニング勉強法を「毎日」続けることが大切だ。
“英語の耳”は一朝一夕でつくることができるものではない。
「さて、あとは国語か」
「配点的に優先度は低いけど、啓ちゃんは何すんの?」
「そうだな、古文単語は毎日チェックするとして……問題演習としては、学校の課題と共テの過去問かな」
「共テかぁ。確かに、共テ模試の復習したとき思ったけど、問題の文章を品詞分解したり訳したりすると、結構いい勉強になるよね!」
「だよな。あと現代文に関しては、龍もやってると思うけど、『世界一わかりやすい東大の国語』を引き続きやるよ」
“世界一わかりやすい 東大の国語[現代文] 合格講座”は、その名の通り、東大現代文の記述対策に最適な参考書である。文章の読み解き方や解答の作り方をシンプルかつ論理的に示してくれており、本番の二次試験でも自信を持って解答を作成できるような力が身についていく感覚がする。
「てかさ! 共テと言えば、地理って課題やってるだけでいいのかな?」
「僕はそれでいいと思ってる。課題と授業、あと定期テストを真面目にやっておけば、受験に向けた対策は秋冬あたりからでも間に合うと考えてる。地理は共テでしか使わないからな。夏休みの優先は圧倒的に数英理だ」
「そうだよね〜、俺は特に数理を頑張らなきゃ」
「僕もまだまだだよ」
「……でも、俺たち絶対こっからどんどん伸びる! ねっ、啓ちゃん!」
相変わらず眩し〜……向日葵みたいな、太陽みたいな……。
こいつの笑顔を浴びていると、勉強漬けの夏休みもなんだか楽しみになっちゃうじゃないか。
「あったりまえだろ。伸びしろありまくりだわ」
差し出された拳に拳を合わせる。
僕らの高校最後の夏が始まるんだ――。
◇
終業式後、土日休みを挟むと、早速夏期講習が始まった。
模試までの約一週間は数学の講習が開かれる。
最難関コースの講習が行われるのは特進の教室だし、周りは見慣れた特進生ばかりだが……夏休みは龍も一緒だから、ちょっぴりテンションが上がる。
「啓ちゃんおっはよー! 隣座っていい?」
「おはよ、隣いいよ」
僕の隣に来るまでに、龍は他の特進生にも「おはよー!」と元気な挨拶をしている。たまに軽い雑談もしてるし、癖の強い特進の奴らとすっかり打ち解けていて感心する。
「よっしーもおはよっ!」
「おはよー」
吉峰も普通に挨拶を返すくらいには龍と仲良くなった。
相変わらず愛想はないけど。
「講習ってどんな感じなんかな。宿題とかなかったよね!?」
「昨夜も確認したろ。ないない」
龍がホッと胸を撫でおろしていると、まもなく担当の先生が教室に入ってきた。担当は、数学教師であり僕の担任でもある山本先生だ。日頃の授業は分かりやすいし、淡々としているけど冷たくは感じない不思議な人で、進路面談の際もストレスなく話せるのでありがたい。
「皆さんおはようございます。担当の山本です。では、数学の講習を始めますが……はじめに、進め方を説明しますね」
山本先生は「夏期講習の進め方」と題して、黒板に丁寧に授業全体の流れを書き始めた。
――――――――――――――――――――――――
夏期講習の進め方
①9:00〜9:30
配られたプリントの問題(東大などの過去問より抜粋)を一人で解いてみる
②9:30〜10:00
二人組を作り考えた方針や解答を互いに説明しあう
③10:00〜10:30
ディスカッションを踏まえて再び一人で解いてみる
④10:30〜12:00
講義(解答・解説)
――――――――――――――――――――――――
なるほど。これはなかなか面白い講習になりそうだ。
初見の難問に対して短時間でアプローチ方法を考えること、それを他人に伝わるように説明すること、そしてそれらを踏まえて思考を整理すること。
このプロセスを経てから受ける講義は、そうでないものと比較すれば、格段に意味のあるものになるだろうということは容易に想像がつく。
「――というわけで、進め方については以上です。質問は……ないようなので、早速、今日の問題を配りますね」
前から順にプリントが回ってきて、僕のもとにも今日の問いが届いた。
――――――――――――――――――――――――
東京大学 2020年度 理系数学 第2問より
平面上の点P,Q,Rが同一直線上にないとき,それらを3頂点とする三角形の面積を△PQRで表す。また,P,Q,Rが同一直線上にあるときは,△PQR=0とする。
A,B,Cを平面上の3点とし,△ABC=1とする。
この平面上の点Xが
2≦△ABX+△BCX+△CAX≦3
を満たしながら動くとき,Xの動きうる範囲の面積を求めよ。
――――――――――――――――――――――――
「それじゃ、まずは自分で解いてみてください」
さて、なになに……。
平面上のP,Q,Rが……うん、最初の二文は単にこの問題での表現を定義しているだけか。
△とアルファベットで三角形の面積を表現するよーって言ってるだけね。
そして△ABC=1で、同じ平面上にある点Xが〜……って、とりあえず図を描いてみないと分からんな。
三角形ABCと点Xを描いてみて……。
今回の条件が、
2≦△ABC +△BCX+△CAX≦3
なわけだけど、この図見たら……え、めっちゃ簡単に書き換えられるじゃん。
つまり、結局は……。

こういうこと。かなりシンプルになったな。
でも、今の図を描くときにXを適当に置いてみたけど、これ以外のパターンもあるよなぁ。
まずは、Xが三角形ABCの内部または周上にあるとき……これに関しては△ABC=1になっちゃって、今回の条件(2≦△ABC +△BCX+△CAX≦3)に合わないから考えなくてオッケー。
次……点Aの上のあたりにあるときも変わりそうだよな。
この場合もさっきと同じように書き換えると……。


よしよし、またシンプルになったぞ。
そんで……他のパターンってあるのかな?
でも今回、三角形ABCのアルファベットの順番を変えたとて、ここまでの議論に何も違いは生じない。
つまり、文字の対称性があると言えるから、これで場合分けは終わりと考えて大丈夫だろう。
それを踏まえて改めて問題の全体像を把握すると、

このように、今回の問いにおいて平面は3タイプの領域に分けることができる。②は条件に合わないため排除して、僕が今から考えなきゃいけないのは、①と③について。
先ほど出したシンプルな条件を図にすると、

こうなるわけだ〜。
つまり全体で見ると、

こうなって、今回求めるべき面積はピンクで塗られた領域の面積ってこと。
あとはもう簡単だな。△ABC=1っていう条件と三角形の高さの比を考えれば、①タイプ領域は1つのブロック面積が7/4。③タイプ領域は1つのブロック面積が3/4。それぞれブロックが3つずつあるから、最終的に求める答えは15/2……だよな。
ちょうど一旦答えが出たところで、山本先生のセットしたタイマーが鳴った。
「はい、三十分経ちました。では、二人組になって、今の時間に自分が考えたことを説明しあってください」
みんなが隣の人と話を始める中、僕も龍と机を合わせる。
「啓ちゃーん、どうだった?」
「一応、答えは出た」
「うおっ、さすがだなぁ。説明聞かせて!」
早速、タブレットのメモ画面を見せながら、自分の思考を龍に説明する。問題を見た瞬間から答えを出すまで頭の中で考えていたことを言語化するのだ。相手が龍だからある程度慣れているのだけど、やはり説明するという行為は毎度のことながら難しいもんだと実感する。
「――という感じで、最終的な答えを出した」
「ほぉ〜、やっぱり結構シンプルな議論なんだなこれ」
「だな、難しい知識がなくても解ける」
「でもさ、最初からこれでいこうって思ったの? この問題見たときに、いくつか可能性考えられるじゃん」
「そうだな……今回、僕は図を描いてたらスムーズにいけちゃったけど、座標置いたりベクトルで表したりする選択肢は思い浮かぶべきだよな。ただ、この問題は抽象性が高いっていうか……前提となる設定がかなり少ないから、座標で置くとなると文字が多くなってごちゃごちゃしそうだなって思う。ベクトルは斜交座標使えそうだし、方針としてはアリかな。でも、やっぱりこういう問題はまず図を描いてみたり、実験したりするのが大事なのかも。手を動かすうちに意外と簡単な話だって分かったり、法則が見つかったりするから」
「なるほど……うむ、めっちゃ分かりやすかったわ」
龍はうんうん、と満足そうに頷いてくれた。他の可能性やそれを避ける理由を聞かれて少しヒヤッとしたが、僕自身も自分の思考としっかり向き合う機会となり、龍に感謝する。
「龍は? どんな解答考えてた?」
「俺は〜、まさに啓ちゃんが避けたこと最初にやりかけちゃった」
龍がノートの画面を見せてくれる。
どうやら最初の第一歩では座標を置いてみたようだ。


「こんな感じで、なるべく文字が少なくなるように座標置いて、文字使っていけないかなーって思ったけど、さすがに複雑すぎてこれはダメだってなって……辺BCが共通だから高さで比較すればいけるのかーって気づいた。そんで思ったよね、これ別に文字で置かなくてもいいんじゃね? って。そこからは啓ちゃんと同じように考えていった」
「なるほどね。でも座標の取り方上手いし、早いうちに引き返す感覚と覚悟があるのは強いな」
「本番で泥沼にハマったらと思うと怖いよね」
「そこはみんな怖いと思う。だからこそ問題演習をたくさん積んで、自分の中の引き出しを増やすことが大切なんだよな」
龍との会話一つ一つが、僕の血となり肉となるように感じる。一つの問いに対しても受験勉強全体に対しても、なんとなく考えていたことを言葉にすることで、思考の輪郭がはっきりと見えてきて、それはやがて揺るぎない軸となるのだろう。
◇
数学の夏期講習期間は充実したものとなった。講習では、初日以降も最難関レベルの過去問にみんなで向き合って、思考を磨く経験をすることができたと思う。
龍や吉峰以外の生徒ともペアを組んだが、やはりみんな「熱」がある。志望は京大や慶應医学部などそれぞれだったが、みんな受験にかける情熱は同じなのだと肌で感じた。本気度が同程度の仲間とのコミュニケーションは、心地良いし本当にためになる。
講習期間を終えると、すぐに河合の東大模試の日がやってきた。前回の同日模試から半年間、毎日その日のベストを尽くしてきたという自信があったため、慣れない会場でも必要以上に緊張することなく受験することができた。
模試を終えた翌日は龍と吉峰と集まって、一緒に振り返りと自己採点を行った。記述式のため採点については大体の目安になってしまうが、各教科について三人で分析をすることで、それぞれが現状の把握と課題の発見をすることができた有意義な時間になったと思う。
その一週間後には駿台の東大模試。模試の間隔が小さく、全ての課題点をクリアして臨むことは難しかったが、時間配分やケアレスミスなど、すぐに意識して気をつけられることについてはしっかりと改善することができた。自分がしやすいミスを常に頭に留めておくことの重要性を実感したな。
駿台模試が終わったあとはお盆に突入。お盆は予備校や図書館も数日間閉校しているため、自宅で勉強することになる。家で一人、しかも数日間となると、いつもより緊張感がなくなってしまうかもしれない……ということで企画されたのが、リモート勉強会だ。
「おはよー」
「おはよ! ちょっとよっしーもカメラオンにしてよ!」
「今からするって……てかなんで駿太もいんだよ」
「俺だって受験生だもん! あ、よっしーカメラついた♡」
「お、よっしーもちょんまげだ! お揃いだね♡」
「ウザいキモい黙れ」
相変わらず賑やかな奴らだ。まもなく吉峰が龍と駿太をガン無視して勉強し始めたので、僕も静かに参考書を開いた。
ふとしたときに勉強している友の姿が目に入ると、やはり背筋が伸びるもんだ。たまに質問しあえるし、休憩とのメリハリもつけることができた。
そんな充実したリモート勉強会をお開きにしようというとき、龍が突然こんなことを言い出した。
「あの! みんな、夏休み最終日……三十分だけ! 俺に時間くれない? リモートでいいから!」
「いいけど、なんで?」
「陸上やめた頃に作り始めた曲があって……みんなのおかげでやっと完成したからさ、聴いてほしくて!」
「……! すごいな、龍。いいよ、聴かせてよ」
怪我をして絶望を味わった龍が、新しい夢を抱いて作った曲が完成したんだ。きっとこの曲を僕らが聴くことが、龍のアーティストとしての第一歩になるんだろう。
「よっしーは、聴いてくれる?」
「っ、別に、聴いてやってもいいけど……」
「へへ、二人ともありがとな」
「駿太は? さっき走りに出かけちゃったけど、このこと知ってる?」
「うん、あいつも聴きたいって言ってくれた」
春休み前まで仲違いしていたのを知っているからこそ、龍のニカッと笑う顔が輝いて見えて胸に沁みる。こんなにいい顔で笑える人がどんな歌を歌うのか……僕は純粋にすごく楽しみになった。
◇
夏休み最終日。
龍はリモートでいいと言ったけど、せっかくなら生演奏を聴きたかったので、みんなで龍の家に集合した。
玄関では、龍の他にもう一人僕らのことをお出迎えしてくれた人がいた。
「翔太朗くん! 久しぶりだね」
「啓杜さん、駿太さん、お久しぶりです……その横はどなたですか?」
「よっしーだよ、よっしー!」
「ああ、あのよっしーさん……はじめまして、弟の翔太朗です」
「……おい龍太朗、『あの』よっしーさんってなんだ。俺のこと好き勝手に言ってないだろうな」
吉峰がジトッと龍を睨むと、翔太朗くんがすかさずその疑いを晴らす。
「頭のいいよっしーさんですよね。頭が良くて、甘いスイーツが好きで、ツンデレの……あ、最後は余計ですかね」
「……」
吉峰の顔が赤くなったところで、龍は僕らを自室へと案内してくれた。初めて来たときはその広さと本格的な音楽機材に驚いたなぁ……と思い返して懐かしさを感じる。
「んじゃ、適当に座って」
翔太朗くんも含めてみんなで並んで座ると、龍もギターを持って椅子に座り、僕たち一人一人と順番に目を合わせて微笑んだ。
「みんな、今日は来てくれてありがとな。俺が最初に作った曲は、みんなに最初に聴かせたかったんだ。作詞作曲・赤城龍太朗の曲……聴いてくださいっ!」
めちゃくちゃ今更だけど、こいつなんで作詞も作曲もできるんだよ。スポーツも勉強もできるけど、音楽の才能も相当なんだよなぁ。
「曲名は……『Symphony』です」
――――――――――――――――――――――――
「Symphony」
作詞・作曲:赤城龍太朗
がむしゃらに駆けてた あの夏の風
きっと 二度と忘れない夢の匂い
憧れと希望と まっすぐな未来は
儚く 淡く 思い出の宝箱へ
泥まみれのシューズを履いて
道なき道の先で やっと見つけた
君の夢のカタチは いくつだってあって
それがいつだって 君色に
輝いてるって気づいて!
追いかけてた光は 遠くの星なんかじゃない
今もこの胸にあるってこと
信じてほしいんだよ
あの日あの場所でうずくまっていた君に……
どちらにせよ君は 確固たる君だ
変わらない 変えられない
過去だって愛おしいじゃん
抱きしめちゃって 聴こえるだろう
君だけの音がほら 明日を照らすよ
ずっと言えなかったこと
ずっと聞けなかったこと
今なら「大好き」にも 素直になれるよ
僕の夢のカタチは いくつだってあって
それがいつだって 僕色に
輝いてるって気づいた!
追いかけてる光は 遠くの星なんかじゃない
今もこの胸にあるってこと
信じているんだよ
あの日あの場所で笑っていた僕と……
一緒なら どこまでも行けるよ
――――――――――――――――――――――――
音楽で泣いたのは、何も初めてのことじゃない。
それでも、ここまで心が激しく揺さぶられ、身体が芯から震えるような感動は、生まれて初めてだった。
「……ど、どうだった? って、みんな泣いてる!?」
「龍……お前、すごいよ。すげー良かった」
現代文の単語帳もしっかり勉強してきたはずなのに、語彙力の乏しい感想しか出てこない。
「龍太朗、抱きしめてもいい? いや抱きしめるね」
「しゅ、駿太、苦しい苦しい!」
「兄ちゃん、ちゃんと歌上手いんだ……」
吉峰はくるりと背中を向けて何も言わなかったが、耳を澄ますと鼻を啜る音が聞こえた。泣き顔見せたっていいのに。
「みんな……ちょっと、マジで、ここまで感動してもらえるとは思ってなかったな、うん……やばい、すげー嬉しい……」
龍もつられて瞳を潤ませる。
男が五人で泣いてる空間も、案外悪くない。
「本当に、ありがとう。俺、みんなのこと大好きだよ」
照れくさい言葉に続けて「いつかバンド組んでデビューしたら、東京ドームでこの曲披露するから観に来てよ」と大きな夢を語る龍は、海や花火も敵わないほどの煌めきを放っていた。
受験本番までに、ここまで長い自由時間を与えられる機会はこれが最後。
それを生かすも殺すも自分次第。
この一ヶ月の過ごし方は合否に甚大な影響を及ぼすだろう。
「ヒィ! 啓ちゃん脅さないで!」
「脅してねぇ……いや、ちょっと脅したけど」
期末テストを終え、いよいよ夏休みを迎えようとしている僕たち。受験生の夏は勝負の夏だぞ、とわざとらしく厳かな雰囲気を醸しながら龍に念を押すと、わざとらしく怯えられた。
「でもまあ、何も大袈裟じゃないもんな〜。夏休み、絶対無駄にしたくないわ」
「ああ。初動が遅れないように、今日は夏休みの計画を立てて確認しあおう」
「おう!」
龍は気持ちのいい返事をして、同好会ノートを取り出す。
毎週このノートを使っているわけではないが、龍はいつもお守り的な存在として持ち歩いているらしい。そのためか、程よく使用感のある見た目になってきて、なかなか味がある。
「よし、それじゃまずは、充実した勉強の基盤となる生活面のことから」
「生活面……つまり一日のスケジュール的なことね!」
「そうだ。学校がある期間のように、夏休みも日々のルーティンを確立しようってこと」
「うむうむ、決めといた方が自然と机に向かえそうだよな」
「ってことで、スケジュールを立てようと思うんだけど……日時を動かせない予定としては、学校の夏期講習があるよな。龍は俺と同じ講習しか取ってないよな?」
「うん。最難関向けコースの数学と物理ね」
うちの高校では、夏休みに夏期講習が開かれる。志望校に合わせて標準・難関・最難関の三つのレベルからコースを選択することができ、各コース最低一教科から参加可能だ。
僕や龍、吉峰はもちろん最難関コースを選択している。ただ、予備校で取っている講習や自分で進めたい演習もあるため、教科については数学と物理のみにしておいた。
「学校の夏期講習って何すんだろうね?」
「うーん、二年のときは事前にプリント解いてきて、それの解答解説をしてくれる感じだったけど……今年は特に事前課題もないし、まあ当日のお楽しみってことで」
「とりあえず今はスケジュールか」
「だな。夏期講習がある日とない日、二パターン考えよう」
同好会ノートを龍から受け取って、新しいページを開く。
「まずは例として僕の予定を書いてみる。夏期講習がある日は午前中が講習だから、昼までは普段の学校の日とあまり変わらないかな。昼からは……あ、今思ったんだけど、講習がある日はせっかくだから一緒に勉強しない?」
「する! したい!」
「よっしゃ。じゃあ昼は学校で食べて、そのまま図書室で勉強するか。夏休みって、確か午後五時まで図書室使っていいんだよな……その時間までやるってことでいいか?」
「もちろん!」
龍も快諾してくれたため、早速ノートにスケジュールを書いていく。こんな風に、一緒に勉強しようと誘える友達がいるって、本当に幸せなことだな……と改めて感じながら。
「僕はそこから予備校行って、夜までやって帰るかな。んで、夏期講習ない日だけど……」
「何もない日の方が自律するの大変だよなぁ」
「まあな。でも、丸一日自由に勉強できるって貴重だし嬉しいもんだよ」
だからと言って、毎日予定ゼロだと続かないし。
何事もバランスが大事だなぁと思う日々である。
「僕は朝型だから、予定なくても六時には起きる。そんで予備校が開くまでは、家でリスニング中心にやるかな。そっからは予備校で夜までか……まあ気分転換に図書館もアリだな」
「図書館いいよなぁ、俺も啓ちゃんとの勉強会ない日は使ってて、結構好きなんだよ」
「いいね。受験勉強は、自分が集中できる場所を見つけるのが大事だと思うよ。特に休みの日はね」
兄ちゃんも裕輔くんも、どこかしらお気に入りの場所を見つけて利用していたと言ってた。自分に合った場所はどこなのか、またどんなことが気分転換になるのかなど、そういった自分の性質を見極めるという点においても、高校二年生までの経験は重要だ。

「よし、じゃあ俺も考える!」
今度は龍にノートを渡して、その様子を見守る。
「俺は啓ちゃんほど早起きできないからなぁ。夏期講習ある日は七時半に起きて〜、講習からの啓ちゃんと勉強でしょ、そのあとは図書館行ってもすぐ閉まっちゃうから、カフェにしよっと」
「龍ってカフェで集中できるタイプなんだな」
「うん、イヤホンして、自然の音みたいなBGM聴きながらやることあるんだ。美味しいコーヒーも飲めてモチベ上がるよ」
そうこうしているうちに龍のスケジュールも完成。
僕より遅起きの龍だけどその分寝るのは遅いし、勉強時間も十分に確保できていて良い計画だと思う。

「さて、これでなんとなく夏休みの生活はイメージできたから……あとは、各科目の計画かな。龍って数学はプラチカやってんだよね?」
「うん! まだいっぱい問題残ってるけど」
「そりゃそうだ、僕だって今もやってるし。でも、終わらせりゃいいってもんじゃないからな。むしろ一問一問しっかり向き合った方がいい」
プラチカとは、河合塾が出している数学の参考書。
青チャートで基礎的な解法を網羅したあと、それをアウトプットするための深い思考力を鍛えるのに適した良問揃いの問題集である。
解答の指針が丁寧に示されており、初見の問題に対する思考プロセスを学ぶことができるし、問題数が多くないため龍のように時間のない受験生にも優しい。
「夏休みはプラチカで演習しつつ、模試の直後はしっかりその模試の復習だな」
「うんうん。受けただけで満足しない!」
「で、物理は、名問の森やり始めたくらいだよな?」
「うん。啓ちゃんはもう二周目でしょ? 早いなぁ〜」
「お前はその分陸上頑張ってたろ。何周でもいいんだよ、定着すれば」
龍は、最初こそ物理が苦手だと言っていたが、今では基本的な問題はしっかり解けるし、応用問題の演習に入る資格が十分にあると思う。周りに進みの早い奴らはたくさんいるが、龍にはどうか、自分を過小評価せずにのびのびと勉強を続けてほしい。
「化学も少し前から重要問題集始めたんだ〜。物理も化学も、夏休みはしっかり演習進めていくぜ!」
「いいと思う。僕も重要問題集やるよ」
名問の森も重要問題集も、僕らが出会ったばかりの頃に一緒に本屋まで行って買ったものだ。あのときの龍はまだ「こんなの解けるのかなぁ」と零していたのに、今ではすっかりメインの参考書として使うことができている。
「英語はさ、英作文と長文とリスニングに力入れようと思ってんだ。リスニングはキムタツの赤いやつ!」
キムタツとは、木村達哉先生によるリスニングの参考書。東大入試形式の問題が十回分も収録されており、東大受験界隈では定番の参考書として知られている。
リスニングの勉強としては、僕も龍もディクテーションと音読、そしてシャドーイングを毎日行っている。
ディクテーションとは、聞いた音声を一語一句そのまま書き取ることである。もちろん、一度聞いただけで全てをサラサラと書き取ることはできないので、聞き取れなかったところは何度も聞き直して、自分の手で文字に起こすのである。
これをすることで、聞き取れなかった単語を明確にすることができたり、単語と単語が繋がったときの英語特有の音の聞こえ方を知ることができたりと様々な収穫がある。
ディクテーションを通して理解を深めた文章を、その次は音読することで自分のものにする。ディクテーションで学んだことを定着させるのはもちろんのこと、英文のどこにアクセントが置かれているのかリズム感も意識しながら、いわゆる完コピをするつもりでじっくりと音読に取り組む。
英文を見ながらの完コピができたら、最後は何も見ずに聞こえてくる音声をほぼ同時に口に出すシャドーイングをする。シャドーイングがスムーズにできるようになる頃には、自分でもその英文や音声をマスターできたと自信を持てる。
以上のリスニング勉強法を「毎日」続けることが大切だ。
“英語の耳”は一朝一夕でつくることができるものではない。
「さて、あとは国語か」
「配点的に優先度は低いけど、啓ちゃんは何すんの?」
「そうだな、古文単語は毎日チェックするとして……問題演習としては、学校の課題と共テの過去問かな」
「共テかぁ。確かに、共テ模試の復習したとき思ったけど、問題の文章を品詞分解したり訳したりすると、結構いい勉強になるよね!」
「だよな。あと現代文に関しては、龍もやってると思うけど、『世界一わかりやすい東大の国語』を引き続きやるよ」
“世界一わかりやすい 東大の国語[現代文] 合格講座”は、その名の通り、東大現代文の記述対策に最適な参考書である。文章の読み解き方や解答の作り方をシンプルかつ論理的に示してくれており、本番の二次試験でも自信を持って解答を作成できるような力が身についていく感覚がする。
「てかさ! 共テと言えば、地理って課題やってるだけでいいのかな?」
「僕はそれでいいと思ってる。課題と授業、あと定期テストを真面目にやっておけば、受験に向けた対策は秋冬あたりからでも間に合うと考えてる。地理は共テでしか使わないからな。夏休みの優先は圧倒的に数英理だ」
「そうだよね〜、俺は特に数理を頑張らなきゃ」
「僕もまだまだだよ」
「……でも、俺たち絶対こっからどんどん伸びる! ねっ、啓ちゃん!」
相変わらず眩し〜……向日葵みたいな、太陽みたいな……。
こいつの笑顔を浴びていると、勉強漬けの夏休みもなんだか楽しみになっちゃうじゃないか。
「あったりまえだろ。伸びしろありまくりだわ」
差し出された拳に拳を合わせる。
僕らの高校最後の夏が始まるんだ――。
◇
終業式後、土日休みを挟むと、早速夏期講習が始まった。
模試までの約一週間は数学の講習が開かれる。
最難関コースの講習が行われるのは特進の教室だし、周りは見慣れた特進生ばかりだが……夏休みは龍も一緒だから、ちょっぴりテンションが上がる。
「啓ちゃんおっはよー! 隣座っていい?」
「おはよ、隣いいよ」
僕の隣に来るまでに、龍は他の特進生にも「おはよー!」と元気な挨拶をしている。たまに軽い雑談もしてるし、癖の強い特進の奴らとすっかり打ち解けていて感心する。
「よっしーもおはよっ!」
「おはよー」
吉峰も普通に挨拶を返すくらいには龍と仲良くなった。
相変わらず愛想はないけど。
「講習ってどんな感じなんかな。宿題とかなかったよね!?」
「昨夜も確認したろ。ないない」
龍がホッと胸を撫でおろしていると、まもなく担当の先生が教室に入ってきた。担当は、数学教師であり僕の担任でもある山本先生だ。日頃の授業は分かりやすいし、淡々としているけど冷たくは感じない不思議な人で、進路面談の際もストレスなく話せるのでありがたい。
「皆さんおはようございます。担当の山本です。では、数学の講習を始めますが……はじめに、進め方を説明しますね」
山本先生は「夏期講習の進め方」と題して、黒板に丁寧に授業全体の流れを書き始めた。
――――――――――――――――――――――――
夏期講習の進め方
①9:00〜9:30
配られたプリントの問題(東大などの過去問より抜粋)を一人で解いてみる
②9:30〜10:00
二人組を作り考えた方針や解答を互いに説明しあう
③10:00〜10:30
ディスカッションを踏まえて再び一人で解いてみる
④10:30〜12:00
講義(解答・解説)
――――――――――――――――――――――――
なるほど。これはなかなか面白い講習になりそうだ。
初見の難問に対して短時間でアプローチ方法を考えること、それを他人に伝わるように説明すること、そしてそれらを踏まえて思考を整理すること。
このプロセスを経てから受ける講義は、そうでないものと比較すれば、格段に意味のあるものになるだろうということは容易に想像がつく。
「――というわけで、進め方については以上です。質問は……ないようなので、早速、今日の問題を配りますね」
前から順にプリントが回ってきて、僕のもとにも今日の問いが届いた。
――――――――――――――――――――――――
東京大学 2020年度 理系数学 第2問より
平面上の点P,Q,Rが同一直線上にないとき,それらを3頂点とする三角形の面積を△PQRで表す。また,P,Q,Rが同一直線上にあるときは,△PQR=0とする。
A,B,Cを平面上の3点とし,△ABC=1とする。
この平面上の点Xが
2≦△ABX+△BCX+△CAX≦3
を満たしながら動くとき,Xの動きうる範囲の面積を求めよ。
――――――――――――――――――――――――
「それじゃ、まずは自分で解いてみてください」
さて、なになに……。
平面上のP,Q,Rが……うん、最初の二文は単にこの問題での表現を定義しているだけか。
△とアルファベットで三角形の面積を表現するよーって言ってるだけね。
そして△ABC=1で、同じ平面上にある点Xが〜……って、とりあえず図を描いてみないと分からんな。
三角形ABCと点Xを描いてみて……。
今回の条件が、
2≦△ABC +△BCX+△CAX≦3
なわけだけど、この図見たら……え、めっちゃ簡単に書き換えられるじゃん。
つまり、結局は……。

こういうこと。かなりシンプルになったな。
でも、今の図を描くときにXを適当に置いてみたけど、これ以外のパターンもあるよなぁ。
まずは、Xが三角形ABCの内部または周上にあるとき……これに関しては△ABC=1になっちゃって、今回の条件(2≦△ABC +△BCX+△CAX≦3)に合わないから考えなくてオッケー。
次……点Aの上のあたりにあるときも変わりそうだよな。
この場合もさっきと同じように書き換えると……。


よしよし、またシンプルになったぞ。
そんで……他のパターンってあるのかな?
でも今回、三角形ABCのアルファベットの順番を変えたとて、ここまでの議論に何も違いは生じない。
つまり、文字の対称性があると言えるから、これで場合分けは終わりと考えて大丈夫だろう。
それを踏まえて改めて問題の全体像を把握すると、

このように、今回の問いにおいて平面は3タイプの領域に分けることができる。②は条件に合わないため排除して、僕が今から考えなきゃいけないのは、①と③について。
先ほど出したシンプルな条件を図にすると、

こうなるわけだ〜。
つまり全体で見ると、

こうなって、今回求めるべき面積はピンクで塗られた領域の面積ってこと。
あとはもう簡単だな。△ABC=1っていう条件と三角形の高さの比を考えれば、①タイプ領域は1つのブロック面積が7/4。③タイプ領域は1つのブロック面積が3/4。それぞれブロックが3つずつあるから、最終的に求める答えは15/2……だよな。
ちょうど一旦答えが出たところで、山本先生のセットしたタイマーが鳴った。
「はい、三十分経ちました。では、二人組になって、今の時間に自分が考えたことを説明しあってください」
みんなが隣の人と話を始める中、僕も龍と机を合わせる。
「啓ちゃーん、どうだった?」
「一応、答えは出た」
「うおっ、さすがだなぁ。説明聞かせて!」
早速、タブレットのメモ画面を見せながら、自分の思考を龍に説明する。問題を見た瞬間から答えを出すまで頭の中で考えていたことを言語化するのだ。相手が龍だからある程度慣れているのだけど、やはり説明するという行為は毎度のことながら難しいもんだと実感する。
「――という感じで、最終的な答えを出した」
「ほぉ〜、やっぱり結構シンプルな議論なんだなこれ」
「だな、難しい知識がなくても解ける」
「でもさ、最初からこれでいこうって思ったの? この問題見たときに、いくつか可能性考えられるじゃん」
「そうだな……今回、僕は図を描いてたらスムーズにいけちゃったけど、座標置いたりベクトルで表したりする選択肢は思い浮かぶべきだよな。ただ、この問題は抽象性が高いっていうか……前提となる設定がかなり少ないから、座標で置くとなると文字が多くなってごちゃごちゃしそうだなって思う。ベクトルは斜交座標使えそうだし、方針としてはアリかな。でも、やっぱりこういう問題はまず図を描いてみたり、実験したりするのが大事なのかも。手を動かすうちに意外と簡単な話だって分かったり、法則が見つかったりするから」
「なるほど……うむ、めっちゃ分かりやすかったわ」
龍はうんうん、と満足そうに頷いてくれた。他の可能性やそれを避ける理由を聞かれて少しヒヤッとしたが、僕自身も自分の思考としっかり向き合う機会となり、龍に感謝する。
「龍は? どんな解答考えてた?」
「俺は〜、まさに啓ちゃんが避けたこと最初にやりかけちゃった」
龍がノートの画面を見せてくれる。
どうやら最初の第一歩では座標を置いてみたようだ。


「こんな感じで、なるべく文字が少なくなるように座標置いて、文字使っていけないかなーって思ったけど、さすがに複雑すぎてこれはダメだってなって……辺BCが共通だから高さで比較すればいけるのかーって気づいた。そんで思ったよね、これ別に文字で置かなくてもいいんじゃね? って。そこからは啓ちゃんと同じように考えていった」
「なるほどね。でも座標の取り方上手いし、早いうちに引き返す感覚と覚悟があるのは強いな」
「本番で泥沼にハマったらと思うと怖いよね」
「そこはみんな怖いと思う。だからこそ問題演習をたくさん積んで、自分の中の引き出しを増やすことが大切なんだよな」
龍との会話一つ一つが、僕の血となり肉となるように感じる。一つの問いに対しても受験勉強全体に対しても、なんとなく考えていたことを言葉にすることで、思考の輪郭がはっきりと見えてきて、それはやがて揺るぎない軸となるのだろう。
◇
数学の夏期講習期間は充実したものとなった。講習では、初日以降も最難関レベルの過去問にみんなで向き合って、思考を磨く経験をすることができたと思う。
龍や吉峰以外の生徒ともペアを組んだが、やはりみんな「熱」がある。志望は京大や慶應医学部などそれぞれだったが、みんな受験にかける情熱は同じなのだと肌で感じた。本気度が同程度の仲間とのコミュニケーションは、心地良いし本当にためになる。
講習期間を終えると、すぐに河合の東大模試の日がやってきた。前回の同日模試から半年間、毎日その日のベストを尽くしてきたという自信があったため、慣れない会場でも必要以上に緊張することなく受験することができた。
模試を終えた翌日は龍と吉峰と集まって、一緒に振り返りと自己採点を行った。記述式のため採点については大体の目安になってしまうが、各教科について三人で分析をすることで、それぞれが現状の把握と課題の発見をすることができた有意義な時間になったと思う。
その一週間後には駿台の東大模試。模試の間隔が小さく、全ての課題点をクリアして臨むことは難しかったが、時間配分やケアレスミスなど、すぐに意識して気をつけられることについてはしっかりと改善することができた。自分がしやすいミスを常に頭に留めておくことの重要性を実感したな。
駿台模試が終わったあとはお盆に突入。お盆は予備校や図書館も数日間閉校しているため、自宅で勉強することになる。家で一人、しかも数日間となると、いつもより緊張感がなくなってしまうかもしれない……ということで企画されたのが、リモート勉強会だ。
「おはよー」
「おはよ! ちょっとよっしーもカメラオンにしてよ!」
「今からするって……てかなんで駿太もいんだよ」
「俺だって受験生だもん! あ、よっしーカメラついた♡」
「お、よっしーもちょんまげだ! お揃いだね♡」
「ウザいキモい黙れ」
相変わらず賑やかな奴らだ。まもなく吉峰が龍と駿太をガン無視して勉強し始めたので、僕も静かに参考書を開いた。
ふとしたときに勉強している友の姿が目に入ると、やはり背筋が伸びるもんだ。たまに質問しあえるし、休憩とのメリハリもつけることができた。
そんな充実したリモート勉強会をお開きにしようというとき、龍が突然こんなことを言い出した。
「あの! みんな、夏休み最終日……三十分だけ! 俺に時間くれない? リモートでいいから!」
「いいけど、なんで?」
「陸上やめた頃に作り始めた曲があって……みんなのおかげでやっと完成したからさ、聴いてほしくて!」
「……! すごいな、龍。いいよ、聴かせてよ」
怪我をして絶望を味わった龍が、新しい夢を抱いて作った曲が完成したんだ。きっとこの曲を僕らが聴くことが、龍のアーティストとしての第一歩になるんだろう。
「よっしーは、聴いてくれる?」
「っ、別に、聴いてやってもいいけど……」
「へへ、二人ともありがとな」
「駿太は? さっき走りに出かけちゃったけど、このこと知ってる?」
「うん、あいつも聴きたいって言ってくれた」
春休み前まで仲違いしていたのを知っているからこそ、龍のニカッと笑う顔が輝いて見えて胸に沁みる。こんなにいい顔で笑える人がどんな歌を歌うのか……僕は純粋にすごく楽しみになった。
◇
夏休み最終日。
龍はリモートでいいと言ったけど、せっかくなら生演奏を聴きたかったので、みんなで龍の家に集合した。
玄関では、龍の他にもう一人僕らのことをお出迎えしてくれた人がいた。
「翔太朗くん! 久しぶりだね」
「啓杜さん、駿太さん、お久しぶりです……その横はどなたですか?」
「よっしーだよ、よっしー!」
「ああ、あのよっしーさん……はじめまして、弟の翔太朗です」
「……おい龍太朗、『あの』よっしーさんってなんだ。俺のこと好き勝手に言ってないだろうな」
吉峰がジトッと龍を睨むと、翔太朗くんがすかさずその疑いを晴らす。
「頭のいいよっしーさんですよね。頭が良くて、甘いスイーツが好きで、ツンデレの……あ、最後は余計ですかね」
「……」
吉峰の顔が赤くなったところで、龍は僕らを自室へと案内してくれた。初めて来たときはその広さと本格的な音楽機材に驚いたなぁ……と思い返して懐かしさを感じる。
「んじゃ、適当に座って」
翔太朗くんも含めてみんなで並んで座ると、龍もギターを持って椅子に座り、僕たち一人一人と順番に目を合わせて微笑んだ。
「みんな、今日は来てくれてありがとな。俺が最初に作った曲は、みんなに最初に聴かせたかったんだ。作詞作曲・赤城龍太朗の曲……聴いてくださいっ!」
めちゃくちゃ今更だけど、こいつなんで作詞も作曲もできるんだよ。スポーツも勉強もできるけど、音楽の才能も相当なんだよなぁ。
「曲名は……『Symphony』です」
――――――――――――――――――――――――
「Symphony」
作詞・作曲:赤城龍太朗
がむしゃらに駆けてた あの夏の風
きっと 二度と忘れない夢の匂い
憧れと希望と まっすぐな未来は
儚く 淡く 思い出の宝箱へ
泥まみれのシューズを履いて
道なき道の先で やっと見つけた
君の夢のカタチは いくつだってあって
それがいつだって 君色に
輝いてるって気づいて!
追いかけてた光は 遠くの星なんかじゃない
今もこの胸にあるってこと
信じてほしいんだよ
あの日あの場所でうずくまっていた君に……
どちらにせよ君は 確固たる君だ
変わらない 変えられない
過去だって愛おしいじゃん
抱きしめちゃって 聴こえるだろう
君だけの音がほら 明日を照らすよ
ずっと言えなかったこと
ずっと聞けなかったこと
今なら「大好き」にも 素直になれるよ
僕の夢のカタチは いくつだってあって
それがいつだって 僕色に
輝いてるって気づいた!
追いかけてる光は 遠くの星なんかじゃない
今もこの胸にあるってこと
信じているんだよ
あの日あの場所で笑っていた僕と……
一緒なら どこまでも行けるよ
――――――――――――――――――――――――
音楽で泣いたのは、何も初めてのことじゃない。
それでも、ここまで心が激しく揺さぶられ、身体が芯から震えるような感動は、生まれて初めてだった。
「……ど、どうだった? って、みんな泣いてる!?」
「龍……お前、すごいよ。すげー良かった」
現代文の単語帳もしっかり勉強してきたはずなのに、語彙力の乏しい感想しか出てこない。
「龍太朗、抱きしめてもいい? いや抱きしめるね」
「しゅ、駿太、苦しい苦しい!」
「兄ちゃん、ちゃんと歌上手いんだ……」
吉峰はくるりと背中を向けて何も言わなかったが、耳を澄ますと鼻を啜る音が聞こえた。泣き顔見せたっていいのに。
「みんな……ちょっと、マジで、ここまで感動してもらえるとは思ってなかったな、うん……やばい、すげー嬉しい……」
龍もつられて瞳を潤ませる。
男が五人で泣いてる空間も、案外悪くない。
「本当に、ありがとう。俺、みんなのこと大好きだよ」
照れくさい言葉に続けて「いつかバンド組んでデビューしたら、東京ドームでこの曲披露するから観に来てよ」と大きな夢を語る龍は、海や花火も敵わないほどの煌めきを放っていた。



