赤門同好会!

 五月後半、もはや中間テスト期間という概念に縛られることなく勉強しなければならない僕たち。
 提出課題は既にやり込んだ基礎問題集から指定されることが多いため、基礎を確認する機会としてありがたく受け取りつつ、スピード感を持って終わらせる。
 
 ここから六月末までは、難関大向けの演習をコツコツ進めつつ、その際に基礎が怪しい部分があると感じたら、基礎レベルの参考書まで戻って不安を潰す。
 七月以降の過去問演習や模試ラッシュを有意義なものにできるよう、一問一問に緊張感を持って、基礎の最終固めと演習による経験値向上を図る超重要な一ヶ月だ。
 
 その超重要な一ヶ月に、僕らはとある学校行事に参加しなければならない。それはまさに青春の頂点とも言えるような(※ただし僕は陰の者なので陽の者と認識の齟齬があるかもしれない)、超キラキライベント……。
 
 ……その名も「体 育 祭」だ。
 
 うちの高校は体育祭にかなり力を入れている。理由はもちろん、この学校にスポーツ科という学科が存在するからだ。
 スポーツ科は全校生徒の約三割ほどで、人数的には普通科よりずっと少ない。
 しかし、かつての龍のように全国レベルで活躍する優秀な生徒も少なくないため、そりゃあもう目立つしモテる。あとはまあ、スポーツ科は普通科特進コースの対義語なので、圧倒的な陽のエネルギーを放っており……彼らが引っ張るこの体育祭という行事の盛り上がりは凄まじいのである。
 
 
 
 さて、そんなわけで、今年も中間テストが終わった直後から体育祭準備週間が始まり、校内はすっかりお祭りムードに……と言いたいところだったが、特進コースの教室にいると正直何も変化がない。
 そんな場所に陽の空気を持ってくる人間は、今日も明日もこいつだけだ。
 
「おっはよー♪」
 
(りゅう)、おはよ」
 
 龍は昨日配られた赤色のハチマキを軽く振り回しながら、特進コースの教室にやってきた。
 
「いやぁ、まさか(けい)ちゃんとよっしーと同じチームになれるとはねぇ」
 
 そう、僕らはなんと同じ赤組となった。実行委員や応援団の準備期間を設けるため、チーム発表自体は四月の段階で行われたのだが、そのときも龍は飛び跳ねて喜んでくれた。
 でも……。
 
「何度でも言うけど、僕たちほどチームに貢献できない人間もなかなかいないよ」
 
「おい門田(かどた)しれっと俺のこともディスるな」
 
吉峰(よしみね)よ、事実は受け入れろ」
 
 僕と吉峰は運動神経が悪い。
 しかし、特進みんなが運動神経が悪いというわけではない。
 実際、特進で成績トップの奴はそこそこ足が速いし、他にも球技が得意な奴や身体が柔らかい奴もいる。
 ただ、やはり運動が苦手な人が多い傾向にはある……。
 
 チーム分けは、パワーバランスが均等になるように行われている。まずはスポーツ科を男女別に赤・白・黄・青の四組に分け、そのあと同様に普通科を分けていくらしい。
 基本的な判断要素は所属する部活や体力テストの結果だろうが、リーダーシップのある生徒を各組に配置するなど、性格面でもバランスが取れるよう、先生たちが上手く分けているように思う。
 
「啓ちゃんとよっしーはどの種目選んだの?」
 
「玉入れ」
 
「玉入れ」
 
「えっ、二人とも!?」
 
 そりゃあそうだろ。玉入れは最も個人が目立たない種目なのだから。徒競走や障害物競走なんて絶対にごめんだ。
 
「龍は……その、どうなの?」
 
「なんだよ啓ちゃん、今さらそんな気遣わないで!」
 
「親しき中にも〜って言うだろ。去年まではやっぱり徒競走に出てたのか?」
 
「うん。陸上部オンリーのレースあったの、覚えてない?」
 
「えー……あー……」
 
 必死で脳内を探索したが、そもそも体育祭の記憶が全体的に薄く、龍のことも正直……。
 
「絶対覚えてないじゃん! ぴえんだよ啓ちゃん」
 
「っ、仕方ないだろ、去年はまだ龍のこと知らなかったし……で、今年は? 何出るの?」
 
「なんと今年は……騎馬戦! しかも俺が大将!」
 
「マジか、すごいな。脚の次は手で戦うのか」
 
「ふふん、そうなのだよ」
 
 龍が楽しそうで何よりだ。もう気持ちの整理がついているとはいえ、大きな怪我をしたあとの体育祭となると、思うところはあっただろうから。
 
「あ、言っとくけど、体育祭準備週間だからって少しくらい勉強時間減らしてもいいかな……とか思うなよ。東大目指してるならそんなこと思わないと思うけど」
 
「も、もちろん! そ、そんなこと思うわけないよね!」
 
「共通テストまであと何日か知ってるか? たったの二百二十八日だ。一日一日の重みは常に考えとけよ」
 
 龍に伝えることは、自分にも言い聞かせていることだ。体育祭があろうと文化祭があろうと、一日は一日。勉強しない理由をつけようと思えばいくらでもつけられるこの世界で、日々、自らを静かに奮い立たせられる人間に、最後の勝利は訪れるはずだ。
 
「まあ、メリハリつけて楽しもうってことだ」
 
「押忍!」
 
 龍はハチマキを巻いて、応援団のような返事をして教室を出て行った。時刻は午前八時十五分。
 体育祭の練習は午後からなんだけどな……。
 
 
 ◇
 
 
 中間テストが終わってから一週間、毎日四限以降の体育祭練習を乗り越え、ついに本番の日がやってきた。ギリギリ梅雨入り前の開催となり、無事に天候にも恵まれ、会場には多くの観客が集まっている。
 
「啓ちゃんの家は誰か観に来るの?」
 
「来ねーよ。玉入れと応援合戦の端っこに出るだけだし、来なくていいって毎年言ってる」
 
 今年は兄ちゃんが行きたいと言ってしつこくて、阻止するのが大変だったけど……。
 
「俺の家も一年のときだけだなぁ〜。ちなみによっしーは……ってこんなとこでも勉強してる!?」
 
 現在地は僕ら赤組の待機テントの中。吉峰は体育座りで鉄壁(※英単語帳)の単語チェックをしている。
 まあ、こんな光景は日常茶飯事だ。直近の体育祭練習のときもそうだし、たまに行われる全校集会の際も、ちょっとした休憩時間や待ち時間に勉強できるよう、参考書を持ち歩く人はちらほらいる。
 
 僕自身も持ち歩く人間の一人だが、以前は教材の選定に悩むことが多かった。荷物にならず、できれば制服のポケットに入るような……となると、毎回持ち歩くものが限られてくる。
 今日はあの教科のあれをチェックしたいのに……という風に悶々とするのが嫌だったので、少し前から自分専用の暗記メモを作った。
 この暗記メモとは、いつだか飛行機に乗った際にもらった枚数の多い小さなメモ帳に、まだ自分が覚えきれていない英単語や化学の構造式を手書きで書き込んだものだ。
 
 自分専用暗記メモのメリットは、先述した持ち歩きやすさの他にもう一点ある。
 それは、覚えていない内容「だけ」を集中的に暗記できるということだ。
 
 英単語にしても化学の暗記事項にしても、一つの参考書を継続的にやり込めば、ある程度の内容は暗記できるようになる。
 今している話は、このある程度の段階には達していることを前提としており、そもそも定着率が低い者は普通に参考書を用いて暗記に取り組めば良い。
 
 暗記がある程度できてくると、例えば英単語帳では英日翻訳がスムーズにできるようになるだろう。赤シートを持つ手もページをめくる手も、気持ちいいくらいどんどん動く。
 その最中、ふと手が止まった単語があったとき、その場で答えを確認して「あ〜これこれ!」となったとする。僕の経験上、次にそのページに訪れた際、だいたいまた同じことが起こる。
 
 暗記できた単語たちを何度眺めても意味がない。というのは語弊があり、定期的な確認は必要である。
 しかし、安定のメンバーに紛れた「実はまだ定着していない奴」を決して見逃してはならない。だから、僕はそんな奴らだけを集めた自分専用のメモ帳を作ったのだ。
 
 ただ、このメモ帳も定期的に更新しないと非常に危険だ。そいつらもいつのまにか安定メンバーになり、自身にかりそめの満足感を与えるようになるから……。
 
 ……という話を、いつだか龍にも話したな。
 
「啓ちゃん? なんでさっきからボーッとしてんの?」
 
「……自戒してた」
 
「え?」
 
「おい門田、玉入れ行くぞ」
 
「おう」
 
 吉峰は分厚い鉄壁を龍に託し、玉入れ出場者の列へと並ぶのであった。僕もまた、ハチマキをぎゅっと結び直して、本日の数少ない出番へと向かった。
 
 
 ◇
 
 
 玉入れに僅差で優勝し、応援合戦も無事に終え、昼ごはんを食べたら午後の部がスタート。
 綱引きや部活別リレーのあと、プログラムも終盤に差しかかる頃、ついに龍の出場する騎馬戦が始まる。
 
「頑張れよー」
 
「おう! さんきゅ!」
 
 龍は、終盤とは思えない元気な返事で、注目の集まるグラウンドへと入場していった。
 各組の大将騎馬が紹介され始めると、女子たちの歓声が上がる。女子という存在は僕のスクールライフに基本的に登場しないため、その歓声の大きさには驚いた。この学校、こんなに女子いたんだ……。
 
 赤組の紹介で龍の名前が呼ばれるとき、こいつもちゃんとキャーキャー言ってもらえるのかな、と少し心配したが、なんなら龍のときが一番歓声が大きかった。僕、とんでもない奴と友達になってんだな。
 龍が女の子から話しかけられるのを全然見たことがなかったのだけど、つまりはあれだ、僕や吉峰が一緒にいるから女子は近づいてこないんだ……。多分、僕ら以外といるときは、しっかりモテているんだ……。
 
「悲しい現実だな、吉峰」
 
「はぁ?」
 
 吉峰の肩にポン、と手を置いて「触んな」と振り払われたとき、グラウンドでは我らが赤組vs青組の団体戦が始まった。
 騎馬戦はくじによるトーナメント戦で、一回戦は制限時間内に残った騎馬の数を競う団体戦、二回戦=決勝戦または三位決定戦は、どちらが先に大将騎馬のハチマキを取れるかを競う大将戦だ。
 僕らが所属する赤組は一回戦で青組と当たり、まさに今、戦っている最中。龍は大将らしく積極的に敵に挑んでおり、既に二人のハチマキを奪い取っている。
 
 周りの女子たちは、そんな龍のことを目をハートにして見つめているが……ふと、とある人物が目に留まった。
 一般の観客から距離を取ったところで、グラウンドの方を眺めている男の子。おそらく僕より歳下……中学生だろうか。
 体育祭を観ているとは思えないような表情の乏しさも印象的だったが、それよりも僕の目を惹きつけた要因は――。
 
「……似てる……」
 
 双子みたいにそっくりというわけではないが、どこか重なる部分がある。一つ一つのパーツが美しく全体的な配置も整っているけれど、年齢のためか、まだまだ幼さが残る顔だ。
 
「一回戦、勝利したのは赤組っ!」
 
 男の子に気を取られていたら、いつのまにか一回戦が終わっていた。見事、赤組は勝利したので、決勝戦に進むようだ。
 しかし、その子は一回戦の結果が分かると、会場から去ろうとするではないか。
 僕は慌てて立ち上がったが、吉峰に手首を掴まれてハッとして思いとどまった。
 
「おい、急にどうしたんだよ」
 
「っ、いや……」
 
 なんの根拠もないのにいきなり話しかけるなんてどうかしてる。もしも僕の予想が外れていたときに気まずいし、当たっていたとして何を話すんだ。
 少しずつ冷静になると、やはり話しかけに行かなくて良かったと思った。
 でも、決勝戦で相手の大将のハチマキを掴み取った龍がすごくかっこよかったから……やっぱり見てほしかったな、と思ってしまった。
 
 
 ◇
 
 
「けーいちゃーん! よっし〜!」
 
 キラキラの笑顔でテントに帰ってきた龍に、先ほどのことを話すかどうか迷っていた。
 すると、吉峰が空気を読まずその話題を出してしまった。
 
「門田、さっきなんで急に立ち上がったんだよ」
 
「え゙っ」
 
「なになに? 俺がいない間になんかあった?」
 
「っ、えー、その……も、もしかしたらなんだけど、龍の弟っぽい人が観に来てたかも……?」
 
 上手く誤魔化す方法も思いつかず、結局ありのまま話してしまった……。
 
「え!? でも、なんで俺の弟だと思ったの?」
 
「なんとなく、顔の雰囲気が似てるような……あと、中学生くらいに見えたから」
 
「んー、さすがにそれだけじゃ合ってるか分かんねぇなぁ……あ、そうだ! 弟の写真見せるから比べてみてよ」
 
「その手があったか」
 
 龍はしばらくスマホ画面をスクロールすると、「これが分かりやすいかな」と一枚の写真を見せてきた。
 
「弟、翔太朗(しょうたろう)っていうんだ。これは今年の正月に撮ったやつ」
 
「っ……! やっぱり……この子だった」
 
「マジ!? あいつ観に来てくれてたのかぁ……でも、ちょっと心配だな」
 
「心配?」
 
「だって、日曜の昼間は予備校行ってるはずだし、ここって偶然通りかかる場所でもねぇし……息抜きしたくなったんかな」
 
 確かに弟くん……翔太朗くんは、おばあさんの家に住んでいるらしいし、S中付近となると、ここまで来るのに電車で一時間半くらい。こっちの方が田舎だから、買い物とかそういう用事はなさそう……。他の家族の人もいなかったし、やはり龍の体育祭を観るためだけに一人で来た可能性が高い。
 
「まあでも、来てくれたの嬉しいな〜。帰っちゃったのは寂しいけど、俺と話すの気まずいだろうし仕方ない」
 
「龍……」
 
「嫌いだったら来ねーだろ」
 
「あっ、よっしーもそう思う? ふふ、だよねだよね」
 
 僕も吉峰と同意見だ。大切な勉強時間を削って、嫌いな兄の体育祭を観に来るとは思えない。
 ただ、観戦中の表情が「無」に近くて、彼の気持ちを読み取ることはできなかった。どんな理由でここまで足を運んだのか……きっとあの子は誰にも言わないだろうな。
 
 
 ◇
 
 
 体育祭が終わってから二週間ほど経ったある日のこと。
 龍が放課後の勉強会をキャンセルしたいと言ってきたので事情を聞くと、翔太朗くんに誕生日プレゼントを渡しに行きたいとのことだった。
 以前は、誕生日には家族で外食していたらしいが、昨年から翔太朗くんが「勉強したいから行かない」と言い出したとか。
 プレゼントは郵送することもできるけど、龍としてはせっかくなら直接渡したいし、ついでに顔も見たいらしい。
 
「啓ちゃんも一緒に来てくれない? ってのは冗談だけど」
 
「えっ、いいよ」
 
「えっ、いいの!?」
 
「行き帰りの電車で勉強させてくれるなら」
 
 もしも翔太朗くんと上手く話せなかったとき、龍が一人寂しく電車に揺られて帰ってくるのを想像すると、ちょっと胸が苦しい……。それに、僕も翔太朗くんにちゃんと会ってみたかったから。
 
 
 
 そんなわけで、帰りのホームルームが終わってすぐに駅に向かい、しばらく電車に乗って龍のおばあさんの家を訪れたのだが……。
 
「翔ちゃんまだ帰ってないのよぉ」
 
「だよね〜」
 
 出迎えてくれたのは、上品で温厚そうなおばあさん。
 おばあさんの話では、翔太朗くんは毎日遅くまで予備校で勉強してから帰ってくるため、今日もまだまだ帰ってこないだろうとのこと。
 
「予備校まで行ったら、さすがに嫌われるかなぁ」
 
「うーん、てか事前に連絡入れなかったのか?」
 
「事前に来るって知ったら絶対避けられるもん」
 
「確かに……」
 
 結局、予備校に会いに行くのは強引すぎるかもという結論に至り、持ってきたプレゼントはおばあさんに頼んで渡してもらうことに。
 ちなみに、肝心のプレゼントの中身は、機能性が高いと話題のペンケースだと言っていた。翔太朗くんの欲しいものが分からなくて頭を悩ませたが、勉強に使えるものなら喜んでもらえるだろうと思ったそうだ。
 
 
「啓ちゃんごめんなぁ、せっかく来てくれたのに」
 
「僕は全然いいよ。でも残念だったな」
 
 龍はやはり少ししょんぼりしているように見えた。会えない可能性が高いことは予想していただろうけど、予想できたからといって落ち込まないわけじゃないもんな。
 
「そうだ、駅の近くに美味しいジェラート屋さんあるからさ、それ食べてから帰ろうぜ!」
 
「いつもはコンビニなのに、今日は贅沢だな」
 
「たまにはねっ」
 
 元気を出したいときは、美味しいものを食べるに限る。
 最近は湿度も高くて蒸し暑くなってきたし、ひんやりスイーツは最高のチョイスだ。
 
「そろそろ着くよ」
 
 スマホのナビ画面を見ながら駅の方面へ歩き、お目当てのジェラート屋に到着。涼しそうな店内に入るため扉を引こうとすると、ちょうど同じタイミングで中から出てくる人が――。
 
 
「は」
 
「えっ」
 
 店内から出てきたのは、まさに僕らが会いたかったその人。
 ……と、
 
「翔太朗くん、急に止まってどうしたの?」
 
 誰!?
 なんか、後ろに女の子がいるんだけど……。
 しかも、高校生? 明らかに化粧してるし大人っぽい。
 
「……なんで兄ちゃんがいんだよ」
 
 僕らの険悪なムードを察したからなのか、一緒にいた女の子は「私、もう帰るね!」と焦ってどこかへ行ってしまった。
 翔太朗くんは彼女を引き留めかけたが、諦めて「はぁ」とため息をついた。
 
「翔太朗……今の子は?」
 
「兄ちゃんに関係ないだろ。てか何しに来たの」
 
「今日、誕生日だろ、おめでとう。プレゼント渡したくてさ! ばあちゃんに預けといたから、帰ったらもらって」
 
「……わざわざ来んな。宅急便とかで送れよ」
 
 おいおい翔太朗くんよ、あんた可愛くねーな!
 兄が誕生日を祝いに来てくれたのに、その態度はどうかと思うぞ?
 でも、龍は慣れているのか、嫌な顔ひとつせず愛情に満ちた微笑みを向けている。
 
「なかなか会えないからさ。最近はどう? 悩んでることとかない?」
 
「ねーよ。てかもう行っていい?」
 
「体育祭、観に来てくれたんだろ?」
 
「っ!? な、なんで……っ、怪我して活躍できなくなって、どんなしょぼくれた顔してんのか見てやろうと思っただけだし」
 
「……心配して観に来てくれたんだろ、ありがとな。嬉しかったよ」
 
 龍が、大人すぎる。
 この反抗期真っ盛りの弟を、丸ごと包み込むような愛……お前が、そこまで偉大な兄貴だったとは。
 しかし、翔太朗くんからすると、そんな深い愛情がまた、反抗を加速させるスパイスになってしまうんだろう。
 
「マジでさ……テキトーなこと言ってんじゃねーよ。もう行くから」
 
 ふん、と顔を背けて歩き出した翔太朗くんの背中に、龍は叫ぶ。
 
「翔太朗! いつでも連絡してこいよ〜!」
 
 返事はなかった。
 それでも龍は、翔太朗くんが曲がり角を曲がるまでその背中をずっと見守っていた。
 そして僕に言った。
 
「俺の弟、可愛いでしょ?」
 
「いや可愛げゼロじゃねーか」
 
「うそーん! ツンデレで可愛いじゃん!」
 
「ツンツンツンツン尖りまくりだったな」
 
 まあ実際にこの目で見て、やっぱり本心では龍のことが好きなんだろうとは思ったけど。言葉遣いも表情も刺々しいが、きっと素直になれないだけ。ああいう態度が当たり前になって、いつのまにか引き返せなくなったんじゃないかな……。
 
「龍、ジェラート奢るよ。今月のお小遣い結構残ってるし」
 
「えっ、啓ちゃんいいの? コンビニより高いよ〜?」
 
「別に断るって言うならそれでもいいけど?」
 
「ごちそうさまです!」
 
 そのあとは一つずつジェラートを買って、食べながらゆっくり駅まで歩いた。僕はバニラ、龍はカフェラテ味。
 美味しそうにジェラートを口に運ぶ龍の瞳に、隠しきれない哀切な色が淡く滲んでいたことを、僕はきっとしばらく忘れられない。
 
 
 ◇
 
 
 放課後、龍のスマホが鳴り響いたのは、翔太朗くんの誕生日から一週間が経った頃だった。
 
「っ、な、何があったんだよ!?」
 
「翔太朗から電話……校門の近くで、この間の女子と知らない男が待ち伏せしてるって。怖くて学校から出られないらしい」
 
「い、今から行くのか?」
 
「当たり前じゃん、弟が助け求めてんだから」
 
 龍は電話を切るとすぐに、学校を飛び出していった。
 その緊迫感と勢いに圧倒されかけたが、僕も必死でそのあとを追った。
 
 これは龍と翔太朗くんの問題で、僕には関係のない話だと言う人もいるかもしれない。でも、僕にとってはもう、関係がないと割り切ることができないくらい、龍の存在は大きなものになっているんだ。
 
 
 急いで駅まで走ったが、ギリギリで電車のドアが閉まり、僕は龍の一本後の電車に乗ることになってしまった。
 ソワソワする気持ちを落ち着かせるため、移動中はいつも通り単語の確認などをして過ごした。
 そして、やっと目的の駅まで着いたら、また急いで走って翔太朗くんの通う中学校へ向かう。
 
 校門の近くまで来ると、龍が言っていたように、先週見かけた女子高生とちょっと柄の悪いガタイのいい男性がいるではないか。
 そして、龍と翔太朗くんが、まさに今その二人と向かい合っている……!
 おそらくあの男が女子高生の彼氏で、「俺の女に手ぇ出しやがったな?」と翔太朗くんを問い詰めに来たのではないかと思う。最悪、ボコボコに殴られる可能性もある……?
 
 そんな嫌な予想をしていたら、男が一歩前に出て、龍たちとの距離を詰めた。
 龍は翔太朗くんの前に出て、自分より大きな男にも怯まず、バチバチと火花が散りそうな視線を向けている。
 まさか、このままじゃ、本当に龍が殴られ――。
 
 
「心より感謝申し上げる!!」
 
 
「……え?」
 
 
 次の瞬間に僕が見たのは、龍がボコボコにされる光景ではなく……でっかい男がその頭を深〜く下げる様子だった……。
 
「先週、妹がナンパされて困ってるところを助けてくれたそうだな! 俺の可愛い妹を守ってくれたことに、兄として感謝を伝えにきた!」
 
 え? 兄? この柄の悪い男は女子高生の兄なの?
 龍も僕と同じくらい驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
 すると、翔太朗くんがひょこっと龍の後ろから出てきて、安心したようにふぅ、と息を吐いた。
 
「良かった……てっきり、僕が妹さんを誑かしたって勘違いして怒ってるのかと……」
 
「とんでもない! ちなみに妹はお礼にジェラートを奢るつもりだったらしいな! あいにくその日スマホを忘れて、現金も持っておらず、何も買えなかったと聞いている!」
 
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん、恥ずかしいからわざわざ言わないで!」
 
「そんなところも可愛いから気にするな! というわけで翔太朗くん、今から君にジェラートを奢りたい!」
 
「えっ……」
 
 もうこの場は完全にこのデカ男に支配されている。こんな漫画みたいな濃いキャラ、現実にいるんだな……と考えていたら、
 
「そこの君!」
 
「え゙」
 
 デカ男がこちらを見てきた!
 
「君も翔太朗くんのお友達か?」
 
「ぇ、あ、えー、まあ、そんな感じです……?」
 
「よし! では君も一緒にジェラート屋に行こう! 出発!」
 
 柄が悪いが悪い奴ではなさそうなデカ男に言われるまま、僕らは先週に引き続きジェラート屋を訪れ、決して安くはないジェラートをいただくことになった。
 かなり慌ただしい夕方となってしまったが、何はともあれ、龍と翔太朗くんがトラブルに巻き込まれるようなことにならなくて良かった。本当に……良かった。

 
 ◇
 
 
 個性的な兄妹と別れたあと、翔太朗くんは龍の腕を掴んで、「駅まで一緒に行く」と呟いた。
 兄弟の時間を邪魔したくないと思いつつ、流れで二人の後ろを歩くかたちになってしまい、できる限り気配を消すことしかできない……。
 
「……今日は、ありがと。あと、ごめん」
 
 溢れた言葉は、先週の彼からは想像もつかないほどに弱々しく素直なものだった。
 
「何言ってんだ、謝ることない。むしろ女の子助けてあげたなんて偉いじゃん!」
 
「っ、違う、今日だけじゃない……今まで、ごめん」
 
「んー? んー……なんで謝んのよ」
 
「……勉強のプレッシャーとかストレス、兄ちゃんにぶつけてたから。俺が勉強頑張らなきゃいけなくなったのは、兄ちゃんのせいだって思ってた」
 
「そうね〜……俺はスポーツ、翔太朗は勉強って、いつのまにか父さんも母さんも押し付けてるところあったよなぁ」
 
「……兄ちゃんが怪我してから、これからは親の期待を全部、俺が背負わなきゃいけないって勝手に思って。兄ちゃんは好きで怪我したわけじゃないのに、ちょっと羨ましかった。かと思えば、兄ちゃんまで東大目指すとか言い出すし……」
 
 翔太朗くんのありのままの気持ちが初めて見えた。
 反抗したくなるのも無理はないと思った。
 僕らもまだ子どもだけど、中学生の彼はもっと子どもだ。
 自分を取り巻く環境から感じる重圧と上手く付き合っていくのは、甚だ難しいことだろう。
 
「……兄ちゃんが中途半端な気持ちで受験勉強してないって、本当は分かってる。陸上やってたときだって……いつもすごいなって思ってた。怪我もずっと……っ、心配で……」
 
「翔太朗……もう、分かったから」
 
 龍が腕を広げると、翔太朗くんの瞳から大粒の涙が溢れ出す。
 そこから少しの間、翔太朗くんは龍の胸でわんわんと泣いていた。龍はそんな弟の頭を優しく撫でて「困った奴だなぁ」と笑っていたが、その瞳はうるうると潤んでいた。
 
 
 ◇
 
 
「いやー、あいつ啓ちゃんに泣いてるとこ見られて恥ずかしそうだったなぁ」
 
「やっぱり僕は先に帰るべきだったわ」
 
「んやんや、啓ちゃんいてくれて良かったよ、本当にね」
 
「そう?」
 
「うん……ありがとな」
 
 電車に揺られ窓の外を眺める瞳に、もう寂しげな色はない。
 
「……よし、抜き打ち英単語チェックしようぜ」
 
「お、いいぜ! でも、あんまり簡単なのだと余裕で答えちゃうよ〜?」
 
「僕、お前の痛いとこ衝く才能あるよ?」
 
「へぇ、それは楽しみですねぇ」
 
 さて、好戦的な笑みを見せる龍に、今日はどんな問題を出してやろうか。