赤門同好会!

 赤門同好会を結成してから二ヶ月ほど経ち、すっかり秋が深まった今日この頃。帰りのホームルームを終えたら、荷物をまとめて図書室へ向かう。
 特進含む二年の教室がある三階から、正面玄関へ向かう階段とは逆方向の階段を下りてすぐ、二階の端の広い部屋。落ち着いた雰囲気と豊富な本のラインナップはかなり魅力的だが、自習スペースは案外空いている。

(りゅう)、おつかれ」

「お、(けい)ちゃんおつかれ! 今日ホームルーム長引いたの?」

「ああ、先生の話がちょっと長くて」

「ほうほう。俺、もうチャート二問解いちゃったよん」

「あっそ」

 龍とは毎週火曜と木曜に、一番奥の列の一番端っこの机で一緒に勉強をしている。進度こそ違うが、その日学ぶ教科は揃えるようにしている。その方が龍に「教えて」と頼まれたとき、脳がスムーズに働いてくれるから。

 この二ヶ月の龍の成長は凄まじかった。どの教科でも基礎を着実に身につけているが、特に英語は伸びが顕著だ。二週間ほどで単語帳一冊をマスターし、すぐに次の単語帳を覚え始めた。単語がしっかり身についてくると、当然、長文を読むスピードは上がるし、リスニングもシャドーイングとの相乗効果でどんどん上手くなる。

 僕が進めた(せき)先生の授業や参考書もかなり刺さったようだ。英語に限らずだが、勉強は暗記しなきゃどうにもならない部分と、そうでない部分に分けられる。関先生はその分類を明確にしてくれるから暗記は最小限に抑えられるし、何より英語の本質が分かって面白い。龍もその面白さに魅了されたのか、授業で聞いたことを楽しそうに話してくれて嬉しい。僕は一年以上前に既に聞いたことばかりだけど。

 龍に教え始めて痛感したが、他人に何かを分かりやすく伝えるというのは非常に難しいことだ。自分が対象をきちんと理解していることは大前提だが、それだけではもちろん上手くいかない。分からない人にどう伝えたら少しでも理解が進むのか、相手の立場になって考えることが必要なのだ。
 世の中に東大や京大、その他難関大を卒業した人はたくさんいるが、生徒から大きな支持を得ている講師というのは多くないだろう。つまり、あの人たちは「伝えるプロ」なのだとつくづく思う。

 僕はそんなプロたちの言葉を借りながらも、今日も龍にされた質問に答え、自身の理解度も確認している。最初のうちは、本当に教えること=自身の成長になるのかという疑念もあったが、二ヶ月続けていれば効果も感じられるようになった。
 龍は納得できるまでしつこく質問攻めにしてくるから、僕も「分かったつもりになっているだけで実は理解が甘い部分」から目を逸らさずに済む。まさにWin-Winというやつだ。

 龍と一緒に勉強するメリットは、教える―教わる関係のみに在るわけではない。龍はON/OFFのメリハリをつけるのが上手く、息抜きが下手な僕が根を詰めていることに気づくと気分転換に誘ってくれる。校内を適当に歩いたり、自販機でココアを買ってみたり……たったそれだけのことで、胸に溜まったモヤモヤがスッと消えることも少なくない。


「……ゃん、啓ちゃん!」

「っ! ごめん、何?」

「そろそろ門閉まるよ、帰る準備しねーと」

「あ、ほんとだ。ありがと」

 龍に言われて時計を見ると、確かに最終下校時刻が近づいていた。時間を忘れるほど集中できたのは気持ちいいけど、先生に怒られるのはごめんだ。


「てかさーもう少しでテスト期間だよな」

「そうだな……明後日は一緒にテスト期間の計画立てよう」

「おう! ……でもさぁ、啓ちゃん的には学校のテストってどういう存在なん? 受験に向けた計画もあるのに、両立させるのキツくない?」

「あー……」

 下駄箱から外履きを取り出して、履き替えながら龍への返答を考える。

「受験で使う科目に関しては、むしろテストを利用して該当範囲を完璧にするつもりで固めるかな。受験で使わない科目は、赤点にならなきゃなんでもいい」

「え゙っ、いいの?」

「逆になんでダメなんだよ。指定校推薦取りたいなら話は別だが、僕たちは一般入試で戦うんだ。使わない科目で満点取っても先生によく思われても、決して合格できるわけじゃない……と言っても、東大に受かるやつは要領よくポイント押さえて、どの教科でもそれなりにいい点取るもんだよ」

「げ、結局いい点取るんかーい」

「まあ、お前は特に時間が足りないんだから、数英理を優先しろよ。どんなときも優先順位を考えて行動することが大事だ」

 龍は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、返事だけは「はいっ!」と勢いがあって立派だ。


「あ、てかコンビニ寄ってから帰ろうぜ」

「なんで? 別にいいけど」

「新発売のスイーツ買うよん♪」

 龍はスキップしながらコンビニに入っていく。たまにこうやって寄り道して帰るけど、こいつはいつも甘いものを買っている。それも、かなり胃がもたれそうなやつを。勉強で疲れた脳が糖分を欲しているのだろう……。

 龍のあとに続いて店内に入ると、ふと、左の方から視線を感じた。チラリとその方向を見ると、よく知る顔がそこにある。
 特進コース二年、吉峰(よしみね)孝明(たかあき)――僕と同じ予備校に通う優秀な男子生徒。四角い眼鏡の奥の瞳はひんやりとしていて、いつも僕のことを見下している気がする。

 吉峰は特進の中でも少し浮いているというか、意識的に人を寄せ付けない雰囲気を醸し出しているように思う。成績は常に三位から五位あたりをキープしているが、彼より順位が上の人間とも仲良くしている様子は見られない。
 まあ、元々人付き合いが嫌いなタイプなのだろうし、別に好きにすればいいと思うのだが、なぜか僕のことだけ睨むような目つきで見てくることがある。
 僕は特進の底辺だし、学力面でライバル視されているわけではないだろう。虫ケラが視界に入って邪魔……とでも思われているのか。あからさまに刺々しい視線を送られてしまうのだ。

 それは今も変わらず、吉峰は僕を冷たく一瞥したあと、すぐにコンビニから出ていった。わざわざあんな態度とることないだろ……と思いながら出入り口を眺めていると、買い物を終えた龍にほっぺをつつかれた。

「さっきのあいつ、感じ悪くね?」

「見てたのか。ま、世の中ああいう人間もいるんだよ」

「特進の奴だよね? 嫌がらせとかされてない?」

「んなことするほどあいつも暇じゃねーよ」

 龍は吉峰のようなタイプに耐性がないのだろう、眉間に皺を寄せて過剰に心配してきたから、あんなのは放っておけば良いんだよと言って聞かせておいた。自分より腹を立ててくれる人がいるということは、純粋に嬉しいと思ったけど。





 二日後の木曜日。いつものように龍と勉強するため、ホームルームを終えてすぐにみんなとは反対側の階段を下りようとしたときのことだった。

「随分と余裕があるんだな」

「っ!」

 背後から突然声をかけられ、ビクッと肩が跳ねる。
 振り返る前からそれが誰かなんて分かっていた。

「吉峰……」

 ヒョロリと高い上背と、長方形の細いフレームが特徴的な眼鏡、そしてその奥からこちらを見ているのは、やはり冷たさを感じるシュッとした瞳だった。

「東大は諦めたんだな」

「は……なに急に、諦めてないけど」

「ここんとこずっと、スポーツ科のバカとつるんでるだろ。人間ってのはな、レベルが低い奴と一緒にいるとそっちに引きずられるんだよ。お前にはそういう人生の方が身の丈に合ってるんだな」

「お前……」

 言い返したいことは色々あるが、ここで感情的になってしまったら負けだ。冷静に、かつ論理的に返さなければ。

「仮にそうだとして、お前に関係ないよな?」

「は?」

「それに、レベルの低い奴と関わると自分も落ちていくって言ってたけど……それならなぜお前は、今、わざわざ僕と関わっている? 特進で最下位の僕のことなんか放っておけばいいじゃないか」

「っ、それは……」

「言葉と行動に一貫性がないなんてお前らしくないな。まあどうでもいいけど……あ、でもこれだけは訂正しとく」

 自分から話しかけてきたくせに珍しく動揺を見せる吉峰に、はっきりと言ってやった。

「あいつは……龍は、バカじゃねーよ。お前も追いつかれないよう、せいぜい頑張れよ」

 背中を向けて階段を下り始めても、吉峰は何も言ってこなかった。僕はというと、ドキンドキンと速くうるさい鼓動を時間差で感じていた。柄にもなくカッコつけた感じで話しちゃったけど、やっぱり緊張してたんだなぁ……と、ちょっと恥ずかしくなったそのとき、

「うおっ」

「っ! や、やあ啓ちゃん」

 階段の踊り場を曲がってすぐ一段だけ下に降りたところで、龍がしゃがんでいるのを発見した。

「お前、なんでこんなところに……」

「いやぁ、啓ちゃんのこと教室まで迎えに行こっかな〜って階段上ってたら、なんか、お取り込み中だったからさ」

「ああ……嫌な思いしたろ、悪かったな」

 偶然とはいえ、元々嫌いな特進の奴に「スポーツ科のバカ」などと呼ばれているのを聞いたら、そりゃあもう腹が立って仕方がないだろう。僕と仲良くすることで、龍がこうやって不意に傷つくこともあるのだと実感する。

「いや、俺、嬉しかったよ! 俺のことバカじゃないって言ってくれて、ありがとっ」

「……!」

 当然のことを言ったまでだ。龍と一日ともに勉強すれば、きっと誰でも同じことを言う。客観的な分析に基づく事実を主張しただけで、龍は目が眩むような混じり気のない笑顔を見せてくれるのだ。

「……お前がバカじゃないのは本当のことだろ。ただし、まだまだ東大には程遠いけどな!」

「グサッ! 刺さるぅ〜!」

「ほら、さっさと図書室行こうぜ」

 吉峰に言いたいことは言ったし、龍とも話せて気分はまあまあ爽やかだった。でも、やはり引っかかるものはある。吉峰に投げかけた問いのことだ。どうして自ら僕なんかに話しかけてくるのだろう。あいつの性格を考えたら、非合理的な言動などとらないはずなのに。
 ……しかし、僕には彼の本心を明らかにしようというモチベはない。自分へ悪意を向ける人間に時間を割くような余裕はないから。





 十二月に入り、何かとストレスの溜まる長い期末テスト期間も無事に終了した。受験科目以外も短期集中の割にはよく解けたので一安心だ。あくまで体感だし、平均点もどうせ高いのだろうけど。

「け・い・ちゃーんっ! テストお疲れサマー!」

 ホームルームを終えた直後、龍は季節外れのダジャレを言いながら特進の教室に入ってきた。こんなアウェイな空間にニッコニコの笑顔で飛び込めるあたり、こいつの心臓には剛毛が何本も生えているのだと思う。

「おつかれ。先に図書室行ってて良かったのに」

 そう言った僕に対し、龍は渋い顔をした。

「え゙〜啓ちゃん、今日くらいは気分転換に遊び行こうよ」

「あーあ、定期テストの良くないところ出てるわ」

「んぬ? どゆこと」

「学校のテストが特大イベントになってちゃダメなんだよ。僕たちはテストがあろうとなかろうと、同じ熱量で勉強しているはずだ。学校のテストにまやかしの達成感と解放感を与えられているようじゃ、お前もまだまだだな」

「んげー! 啓ちゃぁん、言いたいことは分かるけどぉ、メリハリが大事だよ? 適度に息抜きしないと、あとからダメージ来るよ?」

「……いつもより早く終わればいいだろ」

「啓ちゃん……!」

 龍の言い分も分かる。一学期から夏休みにかけての僕は、ろくに人と会話もせず、登下校以外は決まった場所に引きこもってひたすら問題を解いていた。それなのに昨年に比べると成長の実感は小さくなるし、代わりに焦燥感と閉塞感が僕の足を底なしの沼に引き摺り込もうとしているように思えた。
 だから、龍と出会えたことは間違いなく希望だった。正反対だからイライラすることもあるけれど、正反対だからこそ補い合えるものもあると知った。

「よし、図書室行くぞ。今日は一つ、やりたいこともあるんだ」





 テスト最終日の図書室は案の定ガラガラだった。
 おかげで落ち着いて龍と話せそうだ。

「んで、やりたいことって何?」

 一体何を期待しているのか、龍は目をキランキラン輝かせて僕が話すのを待っている。

「これだよこれ」

「んん……? 共通テスト体験受験?」

「昨日から申し込みが始まった。お前も忘れないように今ここで申し込め」

「あ、あれか、共通テスト本番の問題を最速で解けるやつ!」

「そうだ」

 毎年一月の中旬に開催される大学入学共通テスト、通称・共通テスト。僕たちがそれを受けるのは来年度になるわけだが、今年度できることがないわけではない。
 僕ら高校二年生にできること……それは、共通テストに合わせて各予備校で行われる「共通テスト同日模試」を受験することだ。
 同日と言っても、事前に試験問題を手に入れることはもちろんできないため、試験終了後に予備校が急いでコピーをして配布するという形になる。ゆえに、試験が夜遅くまでかかることもあったが、最近は様々な事情から「同日」ではなく「一日ずらして」開催されるようになった。
 この模試が特別な理由は、本番に限りなく近い日程で、本番で出された問題を解ける点にある。僕ら受験者は自然と一年後の今頃を意識するようになるし、まさに最高のシミュレーションチャンスなのだ。

「っしゃ、申し込めたぜ。啓ちゃんと一緒だし楽しみかも♪」

「それは結構だが、ちゃんとスケジュール把握しとけよ」

「おう! スクショしとこーっと」



「てかさ、webで受験できるやつもあんだね」

「ああ、でも僕は会場で受ける派だな。なるべく本番と近い環境で体験しておきたい」

「俺も〜♡」

「おい抱きつくな真面目に聞けや」

 龍を無理やり剥がしたあとは、この先一ヶ月の計画を共に立て、予定通り勉強は早めに切り上げた。
 しかし、気分転換に遊びに行くと言っても、僕には何も案がない。流行りの場所や食べ物にも疎いし……とまあ、そんなことは龍もお見通しだったようで(少しムカつくが)、自分に任せろとドヤ顔で言ってくれた。

「自信たっぷりな感じだけど、どこ行くんだよ」

「まあまあ、それは着いてからのお楽しみ……って、啓ちゃん、あれってこの間のクソ野郎?」

「なんだ急に治安悪い発言して……あ、ほんとだ」

 龍と一緒に裏門から出ようとしたとき、門の近くに吉峰の姿を見つけた。スマホ片手に何かを話しているので、誰かと電話中だと思われる。

「誰と話してんのかな」

「さあ……」

 吉峰に気づかれないように、静かに門の裏に隠れる。盗み聞きするつもりはなかった……いや、少しはあったかもしれないが、電話中に出くわすのは向こうも気まずいだろうと思ったからだ。

「……いきなり電話してきたと思ったらそれかよ」

 吉峰の表情は険しい。声色もギスギスした印象を受ける。どうやら、あまりポジティブな話題ではないようだ。

「あーもう、分かってるから……母さんは兄ちゃんの心配だけしてろよ」

 母さん……電話の相手は吉峰の母親らしい。それに、お兄さんがいることも判明した。

「じゃあ切るよ。またな」

 電話はすぐに終わった。吉峰はスマホをポケットに入れて、駅の方向へ歩き出……さずに、しゃがんだ!?
 龍と顔を見合わせて、どうしたものかと様子を窺う。
 すると……吉峰は、泣き始めた。
 
「え、ど、どうすんだよこれ……」

「……」

 小声で龍に話しかけたが、反応がない。
 無視するなよと服の袖を引っ張ろうとしたそのとき――。

「えっ、ちょ、龍!」

 なんと、龍は突然立ち上がって、吉峰の前に姿を現した。
 僕も思わず立ってしまい、もう後戻りはできない。

「は、お前ら……!」

「ぁ、えぇっと、その、これはわざとではなくて――」

「吉峰! 俺らとゲーセン行こうぜ!」

 耳を疑った。何を言い出すのかこいつは本当に。
 てか今から行くのってゲーセンだったんかい。

「あ、はじめまして。俺、赤城(あかぎ)龍太朗(りゅうたろう)!」

「ちょ、龍、あのなぁ……」

「ほら、啓ちゃんも行くよ? よっしーも行くよ!」

「よよよょ……」

 あの吉峰に初対面で「よっしー」呼び、そして勉強とは程遠いゲーセンへの誘い……。僕は、本当に本当にとんでもない人間と友達になってしまった。

 龍はルンルンと軽快な足取りで歩き出す。僕も慌てて追いかけて、ちょっと待てよと腕を掴む。

「おい、お前なぁ、驚かせんなよ。吉峰が僕たちとゲーセンなんか行くわけないし、あとから何言われるか……」

「え? 行くみたいだけど」

「は?」

 龍が親指で後ろを指すので、まさかと思って振り向いてみると、

「え゙っ」

 まさかのまさか。信じられない光景がそこにある。
 僕らを蔑んでいたはずの吉峰孝明が、僕らのほんの二メートル後ろを歩いて着いてくるではないか。しかも真顔で。どういう感情なんだあれは。いやマジで。

「ね、よっしーも行きたいんだよ」

「えぇ……ほんとかよ……」

 カオスな状況をどうにか飲み込んで、いや、飲み込めてないけど……後ろから吉峰に背中を刺されませんように、と願いながら、ひたすら歩き続けた。





「いけるいける! 今後こそいけるっ!」

 ゆっくり下りてきたアームの動きを、固唾をのんで見守る。かなり良い位置にアームが食い込んだように見えるが……。

「うあああ〜!」

「惜しい!」

 龍の三度目のチャレンジ、残念ながら失敗。大好きなアニメキャラクターのぬいぐるみだから、三回とも本気で悔しがっている。
 吉峰はというと、ゲーセンに着いてからも真顔で背後に立っている。何も喋らないし、他のゲームをやるわけでもないし、ただ僕らを観察しているだけのようだ。

「あーもう、もう一回やるわ!」

「お前、キリないぞ」

「だって〜ここまで頑張ったのにぃ〜」

 龍より下手な僕が代わりに取れるわけでもないし、あっという間に財布がスカスカになるぞ、と説得していると、

「俺がやる」

「え」

「え」

 今の今まで石像のようだった吉峰が唐突に声を発し、スタスタと機体の前に来て百円玉を入れた。一体どういう心境の変化なのか? さっぱり分からない。

 まもなくボタンが光って、吉峰は真剣な眼差しをガラスの向こうへ向けた。周囲にピリッと緊張感が走る。吉峰の邪魔にならないよう、僕と龍は口を閉じたのだが……。

「俺は、母親に『東大は諦めた方がいいんじゃないか』と言われている」

 吉峰は何の前置きもなく話し始めた。しかし、アームの操作を中断する気配もない。

「元々、心配性で安定志向の人だった。身体の弱い兄の受験に全てを注ぎ込んで疲弊したんだ。兄は東大にギリギリで落ちて私立に行った。俺には国立で確実に受かるとこに行ってほしいらしい」

 アームはゆっくりと下りて、お目当てのぬいぐるみをがっしりと掴む。

「俺にとって東大は夢物語じゃない。現実的に十分狙えると思っている。でも、何度も『危険だ』とか『無理じゃないか』とか言われると、たまに意志が揺らぎそうになる」

 ぼふっ、とぬいぐるみは取り出し口に落下した。吉峰は淡々とそのぬいぐるみを取って龍に渡す。

「お前らは俺より成績が悪いくせに、自分が東大に入れると信じて疑わない。受験が一日、また一日と近づくほど楽しそうな顔になる。それが俺は気に食わなかった」

「よっしー……」

「じゃあな、帰る」

 僕らと目も合わせず帰ろうとする吉峰の腕を、思わず強く掴んでいた。勝手に喋りだして、勝手に帰るって……そんなの、あんまりだろ。

「……んだよ、離せよ」

「お前の成績なら、東大に入れる可能性は高い」

「知ってるけど」

「お前は東大に行きたいのか?」

「はぁ? そんなの行きたいに決まって――」

「じゃあ、もっと胸張って目指せよ!」

 いつもより少し大きな声を出したって、このゲーセンの騒がしさにはボロ負けしてしまう。でも、吉峰は目を丸くして驚いていた。

「何かを成し遂げたいと思えること、何かを成し遂げる素質があること、その素質を伸ばす環境があること。どれか一つだけでも、持ってるのが当たり前なんかじゃないだろ。自分よりたくさん持ってる奴がジメジメしてるとさ、超ムカつくし……なんか、調子狂うんだよ。僕のためにも、さっさといつものお前に戻れや!」

「あ゙ぁ? 門田(かどた)のくせに指図してんじゃねーよ」

「言っとくけど、僕の方が東大への気持ちは強いから。僕だけ両想いになっちゃうかもね」

「はぁ〜〜? 俺の方が何億倍も強いわ!」

「その何億倍とかいう表現、小学生男子みたいだな」

「てめぇ……!」

「はいはい、ストォーップ!」

 吉峰が僕の胸ぐらを掴みかけたとき、龍が間に入ってきた。体格がいい男に急に制止されるとそれなりに迫力があって、僕も吉峰もすっかり勢いをなくす。

「んじゃ、仲直り完了ってことで、フラッペでも飲んで帰りますか!」

「なっ、この茶髪、勝手に、」

「赤城龍太朗って名前、教えたよねぇ?」

「っ!」

 龍が顔をグッと近づけて微笑むと、吉峰は照れているんだか怖がっているんだか分からない顔のしかめ方をして、途端に静かになった。

 冷え込む冬の夜空の下、僕らは冷たいフラッペを飲みながら帰路についた。それは、頭を冷やすには十分すぎる寒さだった。