赤門同好会!

 赤門同好会・活動二日目。帰りのホームルームが終わってすぐに龍と待ち合わせをして、高校から電車で一駅のところにある大きな書店へやってきた。アクセスも品揃えも良いため、うちの高校の生徒はみんな、ここを利用しているのではないだろうか。

「あ、あそこにいるのうちの高校の女子じゃん」

「いつ来ても同じ高校の人ちらほら見かけるよ。学校から近くてありがたいよな」

「って待って! 俺の好きな漫画、最新巻が今日発売なんだわ!」

「おい」

 龍は「一瞬で戻ってくるから!」と漫画コーナーへ消え、最新巻を片手に宣言通りすぐに戻ってきた。漫画を漁り始めたらほったらかしにして帰ろうと思ってたけど、意外と真面目なとこあるじゃないか。


「じゃ、まずは数学と英語の参考書から見よう」

 昨日話したことを改めて確認しながら、一冊一冊、龍の参考書を選んでいく。僕が半年くらい前に使っていたものばかりだから、自分が購入したときのことを思い出して少し懐かしい。

「うへぇ、結構重い荷物になりそう」

「先人の努力の結晶だ。ありがたい重みだな」

「啓ちゃん、俺ん家まで運ぶの手伝ってくれない?」

「え、ま、まあ……いいけど……」

 誰かの家に行くなんてそうそうないから少し緊張するが、さすがに一人で持って帰らせるのは可哀想に感じる。運動不足解消だと思って手伝ってやろう。


「よし、次は理科の方を見てみよう。計画も立てながら買っていくぞ」

「おう、でも俺、物理ちょっと苦手意識あんだよなぁ。二年になってから基礎じゃないやつも始まったし」

「そうか……基本的に全体像は数学と変わらん。三年の九月以降は過去問演習をしたいから、あと一年で基礎固めと演習を段階的に難易度を上げてやってく感じだな」

「学校の問題集はどうなん?」

「基礎的な問題演習にはいいと思う。それを解き終えたら……あ、あったあった、これだよ」

 僕も毎日見ている黄緑ベースの表紙に手を伸ばす。

「どれどれ……『名問の森』? なんか、かっけー名前の本多くね?」

「これは難関向けの頻出問題が詰め込まれた問題集だ。僕も今使ってる」

「ほーん、俺も解けるようになんのかな」

「解けるようにするんだよ、当事者意識を持て」

 と言いつつ、既に苦手意識が芽生えているこいつに、このまま物理を嫌いになってほしくない。イマイチ掴めないときの不安や焦りは僕もよく知っているから、できる限りは寄り添いたいと思う。

「まあ、まずは学校で使ってる問題集を解きまくれ。それと、基礎固めの手助けとして、このあたりがオススメだ」

「えーっと、これは……漆原(うるしばら)(あきら)さん?」

「この三冊は漆原先生のシリーズだ。入門向けのやつは講義形式だし、他の二冊も解説を工夫してくれてるから、基礎と典型的な解法を楽しく身につけられるはずだ」

「え、めっちゃ良さそうじゃん! 俺、こういう講義みたいな感じの本、結構好きなんだよね」

 よし、ファーストインプレッションは上手くハマったみたいだ。相性の良い先生や参考書が見つかると勉強も楽しくなるから、龍にもどんどん自分に合うスタイルを見つけていってほしい。


「次は化学だな。龍、化学は点良かったよな?」

「ああ。化学って簡単な計算で解けるしさ、反応式とかも作るの楽しいじゃん」

「龍が今までやってきたのは理論化学の分野だ。多分、授業でもそろそろ次の分野が始まる」

「あー、えっと、無機化学と有機化学っていうやつ?」

「そう。無機や有機は暗記しなきゃいけないことも結構多いが、暗記に関しては僕よりお前の方がよっぽど得意だから、あまり心配はしてない」

 参考書を目で探しながら話していると、横から「へへ……へへ……」と気味の悪い声が聞こえてきた。僕が少し褒めたらすぐ調子乗りやがって。せっかくいい顔持ってんのに、鳥肌立つような笑い方すんなよ……。

「無機も有機も、学校のペースに合わせてたら問題演習の時間が足りなくなる。遅くとも春休みには、全範囲を一通り終えて問題演習に移れるようにしろ」

「ゔっ……でもそうしないと間に合わねーもんな……」

「ほら、化学もいい参考書があるから元気出せ」

「啓ちゃん……大好きぃ〜♡」

「やめろ離れろ」

 公共の場で猫のようにすり寄ってくる龍を剥がして、オススメの参考書を押し付ける。

「大学受験Doシリーズ。鎌田(かまた)先生と福間(ふくま)先生の講義形式で進む参考書だ。基礎から入試まで対応できる内容だし、付録でついてくる小冊子には暗記事項をまとめてくれてる」

「え、めっちゃ親切! 持ち歩きやすいのって助かる〜」

「あと問題演習は、まずは学校で使ってるやつな。それが終わったら、この重要問題集を始める。良問が揃ってるから」

「重要問題集って、名前からして重要じゃん」

「だから早く解けるように頑張れ。さ、レジ行くぞ」

 ぶっちゃけ龍ならこのくらい一人でも持てるだろうが、多いか少ないかで言えば確実に多いから、半分は僕が持ってやる。

「あれ、そういえば国語は何も買ってねぇけど」

「優先順位的には数英理が上だし、国語こそ学校で使ってる参考書を真面目にやれば十分戦えるようになる。たまに逆張り精神で学校の参考書を軽視して、なぜか実力とかけ離れた参考書を買って満足する奴もいるからな。お前はそうなるなよ」

「今まさに参考書めちゃくちゃ買おうとしてるんだけど!?」

「お前の場合は妥当な選択だ。それに、お前は買っただけで満足するような人間じゃないだろ」

「おぉ……へへ、そうか、そうだな!」

 そうじゃなきゃ、僕は今お前と買い物なんかしてない。





 龍のお年玉とバイト代は一気に飛んでいった……という表現はふさわしくないな。有意義な形へ姿を変えたのだ。
 僕はその有意義な本たちを龍と手分けして持って、電車に乗りバスに揺られ、ついに龍の家まで来てしまった。

「え……これ、お前の家?」

「え? そうだって言ってんじゃん」

「龍の家って……もしかしなくても金持ちだろ」

「あーそうかも? 父親が社長なんだよね」

 こいつ……高身長セレブイケメンって……僕はこいつの対義語か? 赤城(あかぎ)龍太朗(りゅうたろう)↔︎門田(かどた)啓杜(けいと)ってか? まあ身長と顔面はさておき、僕も予備校に通わせてもらっているし、金銭的には十分恵まれていると思うけど……こんな豪邸を見せられると桁違いの財力を感じざるを得ない。

「っ、てか、僕が急に家に来て良かったのかよ」

「もちろん! うちの親、俺に対しては放任主義っていうのかな、家にいつ帰ってきても怒られないし、友達連れてきても全然おっけー」

「そうなんだ……龍って兄妹とかいるのか?」

「弟が一人いるよ。俺と違ってめっちゃ頭いいの」

「へぇ……」

 スポーツの兄と勉強の弟……。高二になって突然、兄が東大を目指すことに対して、弟さんはどう思っているのだろう。険悪なムードになるとか、そういうのはないといいんだけど。

「啓ちゃんは? 兄妹いるの?」

「僕は兄が一人。それこそ、僕よりずっと頭がいい人だよ。歳も少し離れてるし、もはや嫉妬とかしないけどな。父さんも母さんも僕には程よく期待してない」

「へぇ?」

「よく言えばのびのび育ててくれたのかな。勉強に細かく口出しされたり管理されたり、窮屈な思いするよりはずっといいと思う」

「じゃあ、啓ちゃんは自分がやりたくて勉強頑張ってんだね」

「……まあ、最終的に決めるのはいつも自分だよな」

 勉強に限らず、子どもの選択というのは環境に大きく影響を受ける。大人と違って環境を自ら選ぶことができない僕らは、少しでも「この環境に生まれて良かった」と思いたいし、そのための選択をするよう無意識のうちに促されている気がする。

 僕は東大なんか目指さず、そこそこいい成績取って気持ち良くなって、そこそこの大学に行くことだってできる。できるのにそれを選ばないのは……勉強のできる家族のもとに生まれた以上、勉強を頑張ることより意義のある選択などないように思うからだ。

「意義がない時間を過ごすのも、別に悪くねーと思うけどな。てか、つまりは周りに選ばされてる人生ってこと?」

「それは言いすぎだな。少なくとも僕は、最終的な選択をするのは自分だと思う。子どものうちは責任の大部分を家族にも負担してもらっているから、その分だけ家族の意思も選択に作用するってこと。たとえ、家族がそれを強要しないとしても」

「なるほどねぇ」

 龍は納得したのかしていないのかよく分からない相槌を打ったあと、「さあお上がりください♪」と玄関の扉を開けた。

「ひ、広すぎるだろ……」

 僕の家の玄関より数倍広いスペースで靴を脱いで、恐る恐る廊下を歩く。壁には立派な額縁に入れられた高そうな絵が飾ってあるし、建物中に上品なアロマみたいな香りがうっすら漂っている。


 龍はスタスタと歩いて階段を上り、最短ルートで自室まで案内してくれた。正直なところ、リビングやインテリアなどをもう少しゆっくり見てみたかったが、僕にとっては新鮮な豪邸も龍にとっては見慣れた自宅なのだから仕方がない。

「ここが俺の部屋で〜す」

「っ……! これは……」

 もはや広さには驚かない。そのとき僕が思わず息を呑んでしまったのは、龍が受験の先に見ている夢がそこにあったからだ。

「あ、ギターとかキーボード珍しい? そこの一角は音楽用のスペースでさ」

「け、結構、本格的なんだな……」

「ふふ、啓ちゃん驚きすぎ。俺がバンドのボーカル目指してんの冗談だと思ってた?」

「っ、いや、冗談だとは思ってなかった……けど……」

 まさか、ここまで楽器や機材をしっかり揃えてるとは想像してなかった。こいつは、本当に……アーティストになることを認めてもらうために東大を目指しているのか……。

「勉強部屋はこっち」

「ぁ、ああ」

 デカい部屋の中にまたデカい部屋があるってどういうことやねん、とツッコみたくなる庶民をよそに、龍は購入した参考書を本棚へと並べ始め――

「って本棚いっぱいじゃねーか! ちょっとは整理しろや!」

「ひっ! 啓ちゃん声大きいって〜」

 勉強机の隣に置いてある本棚は、漫画や雑誌、プリントが大量に挟まったファイルなどに大部分を占領されている。学校で使っている教科書やワークはわずかな隙間に無理やり押し込まれ、どうしても入らないものは応急処置のように机のサイドに積み重ねられている。

「このプリントぜーんぶ去年のだろ? まとめて捨てるか、どっかに収納しとけよ」

「いやぁ、毎日やろうって思ってるんだけどねぇ」

「ったく……ほら、片付けるぞ」

「えっ、啓ちゃん手伝ってくれるの!?」

「見ちゃったからにはやるよ。僕の気持ちが落ち着かない」

 僕は綺麗好きな方だから、たとえ二度と龍の部屋に上がる機会がないとしても、今この瞬間のこの状態がどうしても耐えられないのだ。それに、せっかく二人で買ってきたピカピカの参考書たちにも失礼だし。

「ま、案外すぐ片付くだろ。とりあえずどっか収納……」

「あっ!」

「っ! な、なんだよ急に」

 僕の指先が押し入れに触れたとき、龍が突然大きな声を出した。心臓がドキンと大きく跳ねて、咄嗟に手を引っ込める。

「え、っと……悪い、勝手に開けるつもりはなかった」

「いや……俺もごめん、ビックリさせて」

 珍しい。珍しすぎる。龍の湧き出すような明るさと沸騰するようなエネルギーが、途端にその勢いを失ってしまった。周囲の温度が一度か二度下がった気さえする。

「……じゃ、ここは使わないってことで、とりあえずいらないものは――」

「待って」

「っ、え、なに」

 せっかく話題を変えようと思ったのに、龍は作業を再開しようとする僕の手首を掴んで、

「……開けていいよ」

 と言い、力なく笑うのだった。

「……開けてほしいのか? 龍の気持ち次第で決める」

「俺の……うん、開けてほしい。いずれ話そうとは思ってたから」

 その瞳にもう迷いは見えなかったので、僕も覚悟を決めることにした。ゆっくりと扉を引くと、そこには――。


「っ、す、すごい……これ、全部お前の?」

「ああ」

 金色に光る複数のトロフィー、額縁に入った大きな賞状、金銀銅のメダルの数々……少し埃をかぶっても、その輝きは美しく鮮やかなものだ。一目見ただけで感嘆してしまうこれらの功績の裏に、どれほどの見えない努力があっただろうか。

「……陸上、やってたんだな」

「うん、本気でやってたよ」

「やっぱり、その……何かあったのか?」

 いや、何かあったに決まっているけど……こんなとき、どのように会話をすればいいのか分からないな。

「ふふっ」

「っ! な、なに笑ってんだよ!」

「へへ、いや、だって、啓ちゃん分かりやすく悩んでるから」

「あ゙ぁ? そりゃ悩むわ、友達のこと傷つけたくねーし」

「俺の友達は優しいんだねぇ」

 こっちが気を遣ったらすぐ調子乗りやがって……まあ、ちょっといつもの龍が戻ってきて、僕もなんか緊張の糸が緩んだからいいけどさ。

「……俺さぁ、小学生の頃から大会で競い合ってたライバルがいたんだよね。俺が勝ったら次の大会はそいつが勝って、その次の大会はまた俺が勝って。このまま互いに高め合って、ずっと同じ場所で戦えると思ってた。でも……高校入ってから、少しずつ少しずつ、そいつに離されていくのが分かった」

「……龍……」

「焦ってたんだ。今思えば無茶な練習しまくってさ……消えない焦燥感を紛らわせようとしてたんだろうな」

 龍はふぅ、と息を吐いてベッドに腰を下ろすと、切なげな瞳で自身の膝を見つめてそっと撫でた。

「病院で診断名聞いたときは、なんか、悔しい〜とか最悪〜とか、そういう感じじゃなくて。俺は戦う前に負けたんだって、どこか冷静に認めてしまった」

「っ、でも、怪我しても復帰するアスリートもいる、よな」

「うん、そうなんだよ。そうなんだけど……どうしても、陸上を続けようと思えなくてさ。かと言って、部員のサポートを快く引き受けることもできなくて」

「そう、だったのか……」

 なんとなく予想はしていたが、いざ本人の口から事情を聞くと胸にどっしりと重たいものを感じる。カラッと晴れた青空みたいに明るくて爽やかな龍の心だって、灰色の雲に覆われた日が確かにあったのだ。

「部活を辞めて、これから俺どうなるんだろーって思ってたとき、啓ちゃんが泣いてるのを見たんだ」

「あ、この前言ってたやつ……」

「そうそう。あのときまで、啓ちゃんみたいな人はいつも冷静で、壁にぶつかっても淡々と乗り越えていけるんだろうなって、勝手にどこかで思ってた。けど、もちろんそんなことなくて、みんな何かに悩んだり迷ったりしてて、それでも前に進んでるのに……俺は何してんだろうなーって」

「そんな……あの日の僕の涙なんて、お前の怪我と比べたらちっぽけなもんだ」

 そもそも勉強はスポーツと違って物理的な制限を受けることは少ないし、精神的にも、龍みたいな大きな傷を負ったわけじゃないし。

「いや、それは違うよ」

「っ、え?」

「涙の理由が何であろうと、啓ちゃんの苦しみは啓ちゃんだけのものだよ」

「……! 龍……それ、そのまま返す」

「へ?」

「お前と同じ怪我をした人がこの世に何人いようと……お前の苦しみは、お前だけのものだろ。前を向くのに時間がかかったって、たとえもう前を向けなくなったっていい。人間は機械じゃないからな。前例も再現性もない。自分だけの道を進めばいいだろ」

 気づけば、龍に語りかける声に熱がこもっていた。鼓動がドクドク速くなって、体温も少し上がった気がする。それが不思議と気持ち良かった……けれど、やはりじわじわと恥ずかしい気持ちが襲ってくる……!

「な、なんか言えよ……っ!」

「……ふふふ、あは、啓ちゃんって最高!」

「っ、な、なんだよそれ」

「いやぁ……あの頃の俺に教えてあげたいな。啓ちゃんは俺の最高の友達になったよって」

 あ、いつもの龍だ。
 雲間からピカピカの太陽が顔を出したみたい。
 もしもまた雨が降ったときは、どちらかが傘を差せばいい。
 人生きっといいことも悪いことも続かないけど、誰かに寄り添い続けることはできるはずだ。

「……てかさ、そっからなんでアーティストに方向転換したんだ?」

「え? あー、なんか……俺もまた何かに熱くなりたいなって思って……俺が今、心の底からやりたいって思えそうなこと何かなーって考えてたとき、たまたま路上ライブってやつに遭遇したんだ。そういえば俺、音楽も結構好きだなって気づいて、一気にワクワクする気持ち湧いてきてさ!」

「やっぱすげーなお前……」

 並外れた行動力に、天性の明るさと愛嬌。どんなに眩しい人間だって、人生を変えるほどの傷跡を抱えているかもしれないってことを、これから先もずっと忘れたくないと思った。

「っしゃ! 片付けのやる気出てきた!」

「あ゙っ! お前、急に物を動かしたら埃が舞うだろうが!」

「窓開ければだいじょーぅぶえっくしょんっ!!」

「ほら! だから言ってんのに!」

 そのあとは二人で埃を纏いながら掃除と整理整頓をして、なんとか龍の学習環境を整えた。よくよく考えたら当然だが、オシャレな豪邸も掃除をサボれば汚れていくのだと実感した。というか、広いからこそ掃除も大変なのか……。



「じゃ、今日はこれで」

「啓ちゃん、ほんっとにありがとう!」

「いいから、勉強して早く僕よりいい成績とれよ。そんで僕に神授業してくれよ」

「へへ、頑張るわ!」

 龍は僕が見えなくなるまで、でっかい家の玄関前でブンブン手を大きく振ってた。掃除という予定外のイベントが発生したせいで、今日の勉強時間は減ってしまったけど……龍が陸上選手として生きてきた日々を、ほんの少しだけでも知ることができて良かった。

 帰宅した頃、龍から一枚の写真が送られてきた。



「……ふふ、なんだよあいつ」

 もしも龍が“Thank you”の綴りを間違えるようなレベルだったら、さすがの僕も突き放したかもな……と思いながら、グッドマークのスタンプを送っておいた。